(10) 下之一色 その2 |
撮影: 1969, 制作: 2015/11 |
下之一色線の続偏です。車庫があった下之一色から南へ、稲永町に至る区間をご紹介します。 この区間は築地電軌が開業した築地線ですが、一般には前編でご紹介した区間ととともに、下之一色線と呼ばれています。稲永町~明徳橋が1925年7月、明徳橋~下之一色が1926(大正15)年5月にそれぞれ開通しました。 |
下之一色の電停です。下之一色線では少数派だった、1400型と1500型が並んでいます。 電停と言うよりは駅の雰囲気があり、食料品などを売る商店がありました。今風に言えばコンビニです。 店先に籐籠製の乳母車が沢山置いてあります。これも商品のようです。 (1969/2/3) |
下之一色を出るとすぐに国道1号線をくぐります。右の写真は国道の跨線橋から南を向いて撮影しました。 下之一色~東起(ひがしおこし)五丁目 |
芦の茂る湿地帯の中を電車が進みます。 |
東起五丁目です。ここの電停には交換設備がありません。 線路左脇に勾配標識が見えます。専用敷を走る鉄道ならではの光景です。 |
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明徳橋の電停です。ここには大きな材木屋があり、木材の加工も行なっていました。 |
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明徳橋の踏切には自動信号機が付いていました。 荒子観音参詣の帰りでしょうか、寒風の中を和服の女性が歩いています。写している小生も大変寒かった記憶があります。 今では信じられないかも知れませんが、この道路が現在の東海通です。 (1969/2/3) |
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庄内川の堤防に立つと、池の向こうに専用軌道を走る市電の姿が良く見えました。上掲とは異なり、風のない日だったので、電車が鏡のように池に映っています。 明徳橋~惟信高校前 ※現在、背景の田圃はすべて住宅地になっていて、あまりの変貌ぶりに浦島太郎の世界に迷い込んだような気がします。 (1969/2/15) |
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惟信高校前の電停です。以前は西川町二丁目と言う名前でした。 惟信高校は1925年に開校した名古屋で2番目に古い旧制惟信中学です。 開校当初は東区白壁町の仮校舎でしたが、翌1926年からこの地にあります。電車の開通は通学に無くてはならないものでした。 英語で書かれた踏切の表示が、何とも時代を感じさせます。 (1969/1/27) |
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同じく惟信高校前です。交換設備のない電停で、北行きと南行きの乗り場が分かれています。こちらは北行き、尾頭橋方面の乗り場です。丁度下校時に遭遇しました。男子は詰め襟服に学生帽ですが、女子は学校指定のトッパーコートを着ています。 |
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ここは弁天裏。開運大師で知られる弁天寺が近くにあります。 この頃、電停近くの生活道路はほとんどが未舗装でした。 |
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のどかな風景が続く、弁天裏~高賀良浦です。線路の右端に、犬が遊びに来ています。 |
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多賀良浦の電停です。木製の架線柱の上部が開いていますが、手抜き工事で傾いた訳ではありません。安定的に架線を吊るための、独自の工法だそうです。 次の電停が、田圃の中にある西ノ割です。 |
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西ノ割~大宮司には、名四国道を越える鉄道橋があり、市電は築堤を走ります。 |
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この鉄道橋は名四国道が供用開始される前年、1962年12 月に造られました。 名四国道は現在の姿からは想像できないほど走行する車の数が少なく、殺風景な場所でした。道端にホットドッグ販売車が見えます。 |
鉄道橋に至る築堤を走る[70]系統です。角度を変えて、何度も撮影しました。 |
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築堤の基礎は立派な石積みになっています。築堤上はさえぎるものが無いので、美しい車両の姿を捉えることが出来ます。 |
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大宮司には大きな池があり、木製の橋が架かっていました。この付近は、 のどかな水郷地帯を走ります。 |
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上掲の南側です。おだやかな冬の日差しの中、水際を市電が走って行きます。最も下之一色線らしい、ハイライト区間です。 |
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下之一色線の[70]系統は稲永町から築地線に入り、 築地口まで乗り入れていました。写真は築地口交差点の西側で撮影しました。夕暮れの時のなかなか趣きのある思い出のひとコマです。 名古屋港へ直進するはずの[50]系統が、築地線の中で折り返しています。普段は見られない光景でした。 (1969/2/15) |
↓「津島軽便堂写真館」様にも下之一色線を走る名古屋市電の素晴らしい写真があります。ぜひご覧下さい。 http://tsushima-keibendo.a.la9.jp/nagoya-tram/n-shimonoishiki1.html |