私の体調が落ち着いてほどなく、宮廷へと戻った私達は、その足で地下牢のレムリアと対面を果たした。
私の転落現場を目撃し、精神的に不安定になっている友人を演じていた彼女は、フラムアークの命により自殺を防ぐ名目で宮廷内にある監視付きの部屋へ入れられていた為、真実を知ったフラムアークからの一報を受けた兵士達により、そのまま拘束されていたのだ。
薄暗い地下牢の格子の中から気怠げな眼差しをこちらに向けたレムリアは、第四皇子一行の中におぼつかない足取りながら自分の足で歩いている私の姿を見つけて、皮肉げに口元を歪めた。
「……本当に生きてたんだぁ。まさか、あそこから落ちて生きているなんて思わなかったなぁ―――あたし、結構思い切って押したつもりだったんだけど。ユーファのこと苦しめたくなかったから、一気に楽にしてあげたかったのに」
薄暗い微笑み。悪意を隠す気もない、見たことのない表情。
私の知らないレムリアの顔。
出来ればあなたのこんな顔を知りたくはなかった―――。
「あたしねぇ、ユーファのこと、好きだったんだよ」
ことさら優しい口調で囁かれる、虚構の言葉。
格子の向こうで冷たく微笑むレムリアに、私は震える声で尋ねた。
「レムリア―――どうして? あなた……いつからグリファスと手を組んでいたの? 最初から、ずっと私を欺いていたの……?」
私はあなたを、親友だと思っていたのに。
心を許せるかけがえのない存在だと、そう信じていたのに。
そんな私に、彼女はあっけらかんと答えた。
「最初っから、ってことはないよぉ。そうだなぁ……ユーファがフラムアーク様付きの宮廷薬師に任命されて、少し経った頃だったかなぁ。保護宮にいたあたしのところに、身分高そうな身なりをした人が秘密裏にお願いに来たんだよね―――フラムアーク様に関して知り得た情報を横流ししてほしい、って」
「その人物が……グリファス?」
「当初は偽名を使われていたけどね」
レムリアはあっさりと肯定した。
「当時のユーファはほとんどフラムアーク様のところに詰めっきりで、滅多に保護宮に帰ってくることなかったし、世間話ですらろくに出来ないような状況だったから、そんなので意味あるのかなって感じだったけど、それで構わないって言うんだよねぇ……だから受けたんだ。保護宮での生活は衣食住は保障されてても、自由がなくて息が詰まってたし、毎日同じことの繰り返しでうんざりしてたし、彼はいい男だったし? 少し後ろめたい気持ちもあったけど、自分好みの男と秘密裏にやり取りする背徳感みたいなのはたまらなかったなぁ……。宮廷中から見放されているような病弱な皇子様なら、これからも表舞台に上がってくることはないだろうし、ユーファにそう迷惑をかけることもないだろうなって、軽い気持ちだった」
つらつらと語りながら、レムリアは私の隣に立つフラムアークに視線をやって、乾いた笑みを刷(は)いた。
「それなのに、どうしてこうなっちゃったかなぁ? ―――……フラムアーク様が病弱なままなら良かったのに。病弱なまま、鳴りを潜めてくれていたら良かったのに。そしたらあたしはユーファを崖から落とす必要もなくて、今も仲のいいルームメイトのまま、穏やかな関係をずぅっと続けられていたかもしれないのにね」
その言葉に、私はカッと頬を紅潮させた。
「フラムアーク様のせいにしないで!」
彼に責任転嫁するような彼女の物言いが、許せなかった。
「この現状は、あなたの選択と行動によってもたらされた、他ならぬあなた自身によるものよ……! フラムアーク様は関係ない! だってあなたは、自分の意思でそんなにも以前から私を裏切っていたんだもの! そんなまやかしの関係が続いたって、ちっとも嬉しくないわ! 長い時間と血の滲むような努力を経て、自分で自分の道を切り拓いてきたフラムアーク様をないがしろにするような言い方をしないで!」
レムリアはそんな私を冷ややかな目で見やった。
「相変わらず手厳しいなぁ、ユーファは。ことフラムアーク様に関しては顕著だね。あたしも結構上手く立ち回ったつもりだったけど、あんたのそういうところ、なかなかに手強かったなぁ。あの手この手で押して引いてねだってみても、結局肝心なところは話してくれないし、お酒を飲ませても引くくらいザルで、酔わせてガードを崩すことも出来ないし―――情報を収集する側としては本っ当、やりにくくて仕方がなかった」
鼻の頭にしわを寄せて、レムリアは口の端を吊り上げた。
「ねえ、あたし達って、面白いくらい正反対だよね? 恋愛脳であまり深く考えずに目の前の楽しいことに夢中になるあたしと、いつもどこか一歩引いて冷静に状況を見ているユーファ。誰にでも出来る仕事を調理場で渋々やっているあたしと、自分にしか出来ない仕事を宮廷で、それも皇族に仕えて、意欲的に取り組んでいるユーファ。あたしの目にはいつもユーファが一段高いところにいて、キラキラ輝いているように見えてた……そのユーファを自分が裏で密かに出し抜いていると思うと、小気味よかったんだぁ」
うっとりと嗤うレムリアから私への悪意が伝わってきて、彼女から放たれた言葉の数々が、毒のようにじわじわと私を侵していく。
―――そんなふうに私のことを思っていたの?
私からすれば恋愛にいつも一生懸命で、年相応の女性らしくはしゃいだり落ち込んだり、恋に忙しくしているレムリアの方がよっぽどキラキラ輝いて見えていた。私にはそんなあなたがうらやましくすらあったのに。
「……私達の仲がまやかしで、あなたが私のことを本当は嫌っていたのだとしても、私はあなたのことが好きだったし、かけがえのない親友だと思っていた。だから、あなたに突き落とされて、それが全部偽物だったと分かった時は、言葉では言い尽くせないくらいショックだったし、悲しくて、やりきれなかった。身体もものスゴく痛かったけれど、それよりも、心の方がずっとずっと痛かった……!」
今この瞬間だってそうだ。膝から崩れ落ちて泣き叫びたいくらい悲しいし、傷付いている。
「例え偽りでも、あなたがかけてくれた言葉に私はずっと救われてきたから。あなたの存在に元気づけられて、たくさんの勇気をもらえていたから……! 私にとってあなたはそういう、特別な存在だったんだよ……!」
だから私は今、この矛盾にぶつかっている。
レムリアがそんなにも以前からグリファスの手先として動いていて、私のことを嫌っていたのなら、どうして、私がスレンツェに特別な想いを寄せていたことをグリファスに報告して、攻撃材料にしなかったんだろう……?
彼女がそれを知ったのはまだ兎耳族が皇帝の庇護下にある時期で、人間と兎耳族の恋愛がタブーとされていた時節だ。
その後も言及こそしなかったけれど、レムリアは私がフラムアークとスレンツェへの想いの狭間で揺れ動いて悩んでいたことを察していたはず―――。
けれど、彼女はむしろ自分からその話を振らないようにしている気配すらあった。それどころか、誠実とすら思えるアドバイスを私にしてくれている。
現在に渡ってグリファスやフェルナンドが私達をそういう関係として捉えていないことを踏まえても、レムリアから彼らにそういった情報が行っていないと考えるのが自然だ。
―――どうして? レムリア……。
あなたが何を考えているのか、分からないよ。
感情の読めない不敵な表情を湛えたままのレムリアを見やり、私はきつく唇を結んだ。
私の言葉は、あなたの心に何も響かないの? ルームメイトとして過ごしたこの十数年は、たくさん語り合って交わしてきた数々のやり取りは、思い出は、あなたにとっては全部紛い物だった?
「―――バルトロのことは……?」
私の口からこぼれたその名に、わずかにレムリアの兎耳が反応したように見えた。
レムリアの本命がグリファスだったのならば、彼女の恋人だったはずのバルトロは、使い捨ての駒として利用されたカムフラージュだ。
彼の最期をフラムアークから聞いた時は、自分の境遇とも重なって、涙が溢れて止まらなかった。
「バルトロのことも演技で、全く愛していなかったの……? 彼は本気であなたのことが好きで、自分の命に代えてもあなたを守ろうとして、最後まで、あなたのことを案じながら逝ったと聞いたわ」
「……」
「私自身、バルトロと直接話す機会が何度かあって、はにかみながら幸せそうにあなたとのことを語る彼の姿が瞼に焼き付いている……その彼をあんなふうに騙して、逆賊に仕立て上げるような真似をして、死後も彼の名誉を傷付けるようなやり方をして、使い捨てるようにして死なせて、あなたの心は少しも痛まなかったの……!?」
「―――……バカな男だよね……」
レムリアはぽつりと呟いて、ひどく冷めた口調でバルトロを評した。
「しがないとはいえ貴族の家に生まれて、人の欲がひしめき合う宮廷に従事していたっていうのに―――そういうものに全く染まっていない変わり者だった。バカみたいに純粋で、お人好しで、疑うことを知らなくて―――危険(リスク)でしかない兎耳族(あたし)のハニートラップにあっさり引っ掛かってさ―――演技だなんて、これっぽっちも疑ってなかっただろうなぁ。あたしに愛されてるって信じたまま逝ったんだから、ある意味幸せだったんじゃない? 真実を知って、ユーファみたいに苦しむことも悲しむこともなかったんだから」
「……! レムリア、あなた―――!」
あんまりな言いように声を荒げかけた私は、次の瞬間、彼女の頬を伝う涙を見て、ハッと息を飲んだ。
「本当……バカな男―――……」
口調だけは蔑むように、大きく揺れるレムリアの瞳からは後から後から涙が溢れて、彼女の白い頬を伝い落ちていった。
レムリア―――……。
その涙を見た瞬間、私の心にある仮説が思い浮かんだ。
もしかして―――もしかして、レムリアは―――。
―――もしかしてレムリアは、私と同じだった……?
グリファスとバルトロ、どちらにも心惹かれていて―――私と同じように迷い、悩んでいた……?
「……フラムアーク様。少し、レムリアと二人で話をさせてもらえませんか……? 本当に少しの間でいいので……」
隣に立つ彼にそう申し出ると、それまで黙って私達のやり取りを見守っていたフラムアークは迷う素振りを見せた。
「でもユーファ、君はまだ体調が万全じゃないだろう。何かあっては……」
「少しの間ですから、大丈夫です」
私の強い意思を感じ取ってくれたんだろう。背後のスレンツェとエレオラに相談するような視線を送ったフラムアークは、ややしてから頷いた。
「……分かった。くれぐれも無理をしないで、牢には近付き過ぎないように。すぐ近くで待機しているから、何かあったら呼んでくれ」
「分かりました」
フラムアーク達が席を外し、二人きりになった空間で、格子の向こうから私をにらみつけたレムリアは挑発的な物言いをした。
「……人払いまでして何? 涙を見て、同情でもした? お優しい言葉でもかけてくれるつもりならいらないんだけど―――ここから出してくれるって言うんなら大歓迎だけどね?」
私は小さく首を振った。
「……ただ、確かめたくて。あなたは昔から自分は恋愛脳で、『恋の為に生きて恋の為に死にたい』って言ってたわよね。そして、『いつか運命の人と大恋愛するんだ』って―――。
……その通りに生きれたのかと、そう思って」
「……。何かと思えば、そんなこと? 心配しなくても、自分の気持ちに後悔するような生き方はしてないよぉ。その結果がこのザマだけどね」
自嘲するレムリアへ、私は尋ねた。
「恋に対しては、誠実に生きられたということ?」
「……。まあね」
それを聞いて、うっすらと悟った。
きっと―――バルトロの一途な熱情はきっと、いつしか演技の枠を超えて、確かにレムリアの心に届いていたんだろう。
その熱にほだされて溶かされかけながらも、レムリアは悩んだ末、当初から想い続けていたグリファスの手を取った。
愛してくれる男性(ひと)よりも、愛する男性(ひと)の手を取ることを選んだ。
だけど、恋愛脳で、女として恋する気持ちを何よりも大切にするレムリアは、その信念だけは何物にも譲らなかった。
疎ましく感じていた私に対してすら、それを守った。
―――それが、この結果なんだ。
「そう……」
瞳を伏せて頷いた私はゆっくりとレムリアの元へ歩み寄り、衣服を掴まれたりしないよう、牢から少し距離を置いた場所で立ち止まると、彼女に告げた。
「―――私の心は私のものだし、あなたの心はあなたのもの。第三者がとやかく言うことではないけれど、その結果、他者を不当に貶めて傷付けたことは許されるべきではないし、償わなければならないことよ。然(しか)るべき裁きを受けて、バルトロに、彼の家族に心からの謝罪をしてちょうだい」
「……わぁ。優等生的な、それでいて嫌味ったらしい言い方〜。以前人が言った言葉を焼き直して持ち出すなんて、性格悪ーい」
「あなたに言われて、ハッとさせられた言葉よ」
『あたしの心はあたしのものだし、ユーファの心はユーファのもの。心は他の誰でもないその人のものなんだから、その結果を第三者にとやかく言われる筋合いはない! ってね』
以前、フラムアークとスレンツェの間で揺れ動いて思い悩んでいた時、レムリアからかけられた言葉―――私にとっては心が救われた思いがした、大切な言葉だ。
「あなたからは他にもたくさんの言葉をもらったわ。今の私に根付いている、忘れられない言葉をたくさん。偽りでもまやかしでも気まぐれでも、それでも過去の私を救って、今の私へと導いてくれた言葉―――無邪気で前向きで明るいあなたはずっと私の憧れで、輝きだった。もう戻れはしないけれど、あなたからもらったもの、学んだことは忘れないわ。私はずっとあなたとの思い出を背負って、これからも生きていく」
「……。ユーファ……」
牢の中からこちらを見つめる大きなトルマリン色の瞳を見つめ返して、私は言った。
「さようなら、レムリア」
踵(きびす)を返して牢に背を向けると、堪えきれない涙が後から後から、頬を伝い落ちていった。
近くで待機していたフラムアーク達を呼び、エレオラに支えられるようにして地上へと戻った私は、彼女の胸を借りて泣いた。
フラムアークとスレンツェは私に気遣わしげな眼差しを向けながら、レムリアを尋問する為に再び地下へと潜っていった。
レムリア―――レムリア。
きっとあなたは不本意ながら、誰よりも私の心を理解して寄り添うことが出来ていたんだね。
そして、いいか悪いかは別にして、自分の信念に最後まで従った。
さようなら、大好きだった人。かけがえのない親友だと思っていた人。
例え偽りであったとしても、あなたの隣は温かで穏やかで賑やかで、落ち込んでいても元気をもらえる、私にとっては特別な、大切な場所だったよ―――。