のどかな住宅街の一角にある庭付き一戸建てのその家構えを見ても、あたしの中のノラオからは緊張感とか何かしらの感慨とか、そういったものが一切伝わってこなかった。
むしろ、隣に立つ喜多川くんの方から緊張感が漂ってきている。
もしかしたら弟かもしれないおじいちゃんちを前にしてこの動揺しなさっぶりは、やっぱり期待薄なのかなぁと諦め気味にひとつ息をついた時、インターホンに反応したおじいちゃんが玄関の引き戸を開けて、笑顔であたし達を出迎えてくれた。
「陽葵(ひまり)、よく来たなぁ! ばあちゃんと首を長くして待っとったぞ! いやいや久し振りだな、また綺麗になったんじゃないのか!?」
そう言ってあたしを歓迎してくれるおじいちゃんを目の当たりにした瞬間、それまで泰然としていたノラオの様子に異変が起こった。
それはまるで、水溜まりに小さな石が投げ込まれて、水面に波紋が広がっていくかのような、そんな変化で―――自分の中心から外側へと、徐々にさざ波が広がっていくかのような、そんな感覚が彼と感覚を共有するあたしにも伝わってきて、身体の奥深いところがざわざわとさざめき立った。
平静を装っておじいちゃんに声を返しながら、慄きにも似たその感覚に身体をざわめかせて小さく息を飲んでいると、あたしの傍らの喜多川くんに気が付いたおじいちゃんがしわしわの瞼を大きく見開いて、あたしと彼とを見比べた。
「陽葵、こっ、これか!? この人か!? お前が友達っつーてたのは!?」
あたしは意識をおじいちゃんに戻して、喜多川くんを紹介した。
「うん、そうだよ。同じクラスの喜多川蓮人くん。色々相談に乗ってもらってるんだ」
「―――初めまして、喜多川です。陽葵さんにはいつもお世話になっています。あの、今日は僕までお邪魔してすみません」
少し緊張した面持ちで挨拶をする喜多川くんが持ってくれていたお土産をあたしはおじいちゃんに手渡した。
「はい、これお土産。あたしと喜多川くんとで選んだんだよ」
「お、おぅ、わざわざすまんなぁ。ええと喜多川くん、遠いところまでご足労だったね。まあ狭苦しいところだけれども、どうぞ上がっていってくれ」
「いえ、そんな。ありがとうございます、お邪魔します」
礼儀正しく声を返した喜多川くんが玄関で靴を脱いでいる間に、少し慌てた様子のおじいちゃんは台所でお茶の支度をしていたらしいおばあちゃんのところへドタドタ足音を響かせていった。
「お、おおい! おおい、陽葵が! ボッ、ボーイフレンドを連れてきたぞおぉ!」
ちょ、おじいちゃん声が大きいー! 玄関まで聞こえちゃってるから!
しかもボーイフレンドって! 間違っちゃいないんだけど、そんな言い方されると恥ずいからー!
「なっ、何かごめんね。喜多川くんの性別伝えてなかったから、女の子だと思ってたみたいで」
事前に伝えておくべきだったと反省しながら喜多川くんを振り返ると、整ったその顔が何とも居心地悪そうにうっすら赤くなっていた。ごめんなさい!
喜多川くんを居間に案内する間にも台所からはおじいちゃんとおばあちゃんのちょっと興奮した声が漏れ聞こえていて、あたしは恥ずかしさと申し訳なさでもう一度喜多川くんに謝った。本っ当にごめんなさい!
居間にはおじいちゃんがあらかじめ用意しておいてくれたらしいアルバムが畳の上に置かれていて、それを確認したあたしと喜多川くんは顔を見合わせて頷き合った。
―――この中に、若くして亡くなったっていうおじいちゃんのお兄さんの写真が……。
もしかしたらノラオかもしれない、その人の写真が。
さっきノラオから伝わってきた鳥肌が立つような感覚を思い出して、少し鼓動が逸る。それを喜多川くんに伝えようとした時、お盆に麦茶を載せたおばあちゃんとお茶菓子を持ったおじいちゃんとが居間に入ってきた。
「いらっしゃい陽葵(ひま)ちゃん、久し振りね!」
「おばあちゃん、久し振り。元気だった?」
「元気よ〜陽葵ちゃんの花嫁姿を見るまでは死ねないわ!」
「あっは、じゃあまだまだ大丈夫だね!」
あたしとそんな会話を交わしたおばあちゃんは喜多川くんに視線を移すと、柔らかく目を細めた。
「素敵なお友達を連れてきてくれて嬉しいわ〜。まさか男の子だとは思っていなかったから、嬉しいビックリ」
「あはは……ちゃんと伝えてなくてごめん。同じクラスの喜多川蓮人くんだよ。いつもお世話になっているんだ」
おばあちゃんにも改めて喜多川くんを紹介すると、彼の正面の席に座ったおばあちゃんはにっこり微笑んで喜多川くんに挨拶した。
「陽葵(ひまり)の祖母です、いつも陽葵がお世話になっています。こんな遠いところへわざわざようこそ。どうぞ楽にして下さいね」
「ありがとうございます、お邪魔させていただいています。陽葵さんにはこちらこそお世話になっています」
いや、現実は一方的にあたしがお世話になっています。
「若いのに礼儀正しいのねー。はい、良かったらどうぞ。麦茶でいいかしら?」
「ありがとうございます、いただきます」
「ごめんなさいね。陽葵がお友達を、それも男の子を連れてきてくれるのなんて初めてで舞い上がってしまって。さっきはうるさかったでしょう?」
「あ、いいえ……」
少し困ったように視線をうつむける喜多川くんに、おばあちゃんは学校でのあたしの様子や色んな事を流れるように尋ねていく。それに答える喜多川くんとのやりとりをおじいちゃんも興味深げに聞きながら、時折あたしに質問を投げかけたりして、しばらく和やかな談笑が続いた。
「―――それでおじいちゃん、今日ここへ来た本題なんだけど」
キリのいいところを見計らってそう切り出したあたしの視線を受けて、おじいちゃんは自分の座布団の横に置いてあったアルバムを手に取るとテーブルの上に置いた。
「そうだったそうだった、これを見に来たんだったな」
年輪を重ねたおじいちゃんの指がゆっくりと年代物のアルバムのページをめくって、結婚式の集合写真の場所を開いていく。
「ずーっと押入れの奥にしまい込んだままになっとったわ。陽葵に言われて、久々に出したなぁ―――おかげで兄ちゃんの顔も久し振りに見たわ。懐かしいなぁ」
結婚式に集まった親族全員で撮影した、大きな集合写真。あたしと喜多川くんは息を凝らしてその写真に見入った。
少し色褪せた写真の真ん中には晴れの日の和装に身を包んだ若かりし日のおじいちゃんとおばあちゃんがいて、和装と洋装が半々くらいの中、おじいちゃんの斜め後ろに黒っぽいスーツ姿の、見覚えある目鼻立ちの青年が収まっているのが目に入って、思わず息を飲むあたしの前で、おじいちゃんがその人を指さして言った。
「これがじいちゃんの兄ちゃんだよ。武尊(たける)という名前だった」
―――ノラオ!!
ドッ、と鼓動が走り出して、自分のものか、リンクしたノラオのものか分からない心臓の音が耳に響く。
「岩本さん」
目で確認を取ってくる喜多川くんにぎこちなく頷き返して、あたしは震える唇を開いた。
「―――ノラオだ……喜多川くん、ノラオだよ! ウソみたい……本当に、ノラオ……! こんな……」
「これがノラオ……!? 本当に……!?」
目を見開いて写真のノラオを食い入るように見つめる喜多川くんに、あたしはもう一度頷いた。
「うん、ノラオだ……! 間違いない」
時の流れで少し色褪せた写真に映っているそれは、間違いなく生前のノラオの姿だった。
信じられない……こうしておじいちゃんのアルバムの中に、ノラオがいるなんて。
現実に生きていた人として、おじいちゃんの思い出の中に存在しているなんて―――。
何だかウソみたいだ。でもこれはウソなんかじゃなくて、夢でもなくて、まぎれもない現実で……。
そんなあたし達の様子に驚きの表情を見せていたおじいちゃんが戸惑い顔でおばあちゃんと顔を見合わせながら、ためらいがちにあたしに声をかけてきた。
「ど、どうした……? まさか本当に、お前の夢に出てくるって言っとった人が兄ちゃんだったのかい……? それと、ノラオってのは……?」
そんなおじいちゃんの顔を見た瞬間、あたしの脳裏に見たこともないはずの子ども時代のおじいちゃんの姿が一瞬よぎって、その途端、一石を投じられて波紋を描いていた水溜まりが突如ゴポリと泡立って波立って、空に巻き上げられていくかのような錯覚と共に、知らない記憶が走馬灯のように瞼の裏を駆け抜けていった。
「…………!」
声も出ないあたしの中で、呆然としたノラオの声が響く。
『―――タケ……』
リンクするように、あたしの口はそっくりそのまま同じ言葉を紡いでいた。
「タケ……」
するとおじいちゃんが敏感にそれに反応した。
「! 急に、何(なん)した?」
えっ!? あたし、今声に出していた!?
ビックリしておじいちゃんを見つめ返すあたしに、おじいちゃんは顔色を変えながらこう言った。
「タケ、ってそりゃ……兄ちゃんが、オレを呼んでた呼び名だ―――」
*
ノラオがおじいちゃんのお兄さんだったと判明した事実を踏まえて、あたしはおじいちゃん達にこれまでの大まかな経緯と事情を改めて説明した。
ノラオの恋愛事情は伏せて、喜多川くんに似た「エージ」という友人に会えなかったことが心残りで彼が成仏出来ずにいること、あたし達はその「エージ」を探し出してノラオと会わせることで、彼の中にひとつの区切りをつけて成仏してほしいと考えていることなんかを明かした。
話を聞き終わったおじいちゃん達は現実離れした内容に呆然としながら、でも尋常でないあたし達の様子と、所々符合する事実にそれを真実だと認めざるを得ない様子で、悩ましげな吐息をついた。
「……確かに兄ちゃんが最後に住んどったアパートは、陽葵が通う高校近辺の住所だったって覚えがある。オレはその頃結婚したこともあって、そこには一度も行けずじまいだったが……。兄ちゃんはある冬の終わり、そのアパートの自分の部屋で、病死してる状態で発見されたんだ。死後一ヶ月程が経過していたと聞いたかな……。何でもインフルエンザをこじらせて肺炎になっていたとかで、そのまま誰にも気付かれずに死んじまったらしい。いわゆる孤独死ってやつだなぁ。……そんなことになる前に何で病院に行かなかったのか、それとも自力で動けんほどひどかったのか―――分からんが、電話のひとつでもよこしてくれれば、隣の県からだって駆け付けてやったってのに……。何で誰にも助けを求めねぇまま死んじまったんだって、水臭ぇじゃねぇかって、安置所で恨み言を言ったのを覚えているよ……」
無念そうな表情で、おじいちゃんはそう語った。
おじいちゃんから教えてもらったノラオの本名は、石動武尊(いするぎたける)。享年二十六歳だったそうだ。
おばあちゃんの実家、岩本家へ婿入りしたおじいちゃんとは苗字が違っていた。だから、「岩本武雄(いわもとたけお)」という現在のおじいちゃんの名前に、ノラオはピンとこなかったのかもしれない。
おじいちゃんの兄であるノラオはつまり、あたしの大伯父にあたることになる。
全く実感はわかないけれど、喜多川くんの推測通りあたしとノラオには血縁関係があったということだ。
「その……武尊、さんは―――あたしの大伯父さんは、おじいちゃんだけじゃなくて他の誰にも助けを求めなかったの? 実の両親、にも―――」
「ああ……兄ちゃんは昔から、親父と折り合いが悪くてなぁ―――顔を見ればぶつかり合って、ケンカばかりで……この頃には勘当同然に家を出ていて、実家とはほぼ縁を切った状態だったんだ。親父達は多分、当時の兄ちゃんがどこに住んどったのか、連絡先すら知らんかったと思う」
「そんな……」
あたしは集合写真のおじいちゃんの隣に映るひいおじいちゃんとおぼしき人物に目を落とした。
直接会ったことはないけれど、その顔には見覚えがある。夢の中でノラオを厳しく叱責していた人物だ―――雰囲気がどことなく、あたしのお父さんに似ている。
「二人はどうして、そこまで険悪な関係になっちゃったの……?」
「うーん……オレから見れば、当時の風潮と、親父の方に問題があったんだろうと思うがなぁ……。兄ちゃんはほれ、オレと違って髪も瞳の色も色素が薄くて、茶色っぽくて……地毛なのに染料で染めたような色合いだろう? 顔もお袋似で、線が細くて整っててなぁ……」
ノラオのあの毛色は、自前なんだ。言われてみれば確かに瞳の色も茶色がかっている。
深く考えたことがなかったけど、あたしもノラオをひと目見た時から、髪を染めているんだと漠然と思い込んでいた。
「うちは親父もお袋も黒髪で、他の兄弟も兄ちゃん以外はみんなそうだったから、親父は当初、お袋の不貞を疑ったこともあったみたいでなぁ―――オレが物心ついた頃には、親父の兄ちゃんへの風当たりは強かった。今にして思えば何てことはない遺伝の関係だったんだろうと思うんだがなぁ……陽葵の髪も兄ちゃんほどじゃないが、栗色で明るいしなぁ」
確かに、あたしの髪色も人に比べて明るい方だと思う。髪が真っ黒な子に、カラー入れてるみたいでいいなぁって羨ましがられたことが何度かある。
「親父は良くも悪くも昔の日本男児だったから、兄ちゃんの容姿をからかってくるような奴になめられてたまるかって部分もあったんだろうと思う。長男だからって余計に厳しくしつけている部分もあったろうし、口を開けば何かにつけて男らしくあれ、って言ってたなぁ。心も身体も強くならなきゃいかんって、兄弟みんな柔道やら剣道やらに通わせられたし、家ん中では親父の意にそぐわんものは認められなくて、兄ちゃんはそれを嫌がっていた。男としての在り方や生き方を押し付ける親父に反発するみてぇに、わざと軟派なことや、ヤンチャをやったりしてなぁ。大学を卒業した後は、大きいところで手堅い職に就くことを望んでいた親父に当て付けるみてぇに、小さなデザイン会社に就職してデザイナーをやるって言い捨てて、親父とひでぇ大ゲンカになってそのままドロンだ。親父はもう怒り心頭で、二度と家の敷居はまたがせんって騒ぎよるし、あん時はほんに火消しが大変だった……」
おじいちゃんはどこか懐かしむような表情で苦笑いして、でもな、と続けた。
「兄ちゃんには伝わらんかったんだろうけど、親父は親父で、何だかんだ兄ちゃんのことを気にかけていたとじいちゃんは思うんだよ。しょうもないくらい不器用だったけどな。……でなかったら、あんなふうにこっそり泣かんと思うし―――オレも親になってから分かったけどな、手塩にかけて育てた子どもに先立たれるなんて、あれほど不幸なことはないぞ……」
ノラオは沈黙していたけれど、愛情を持っていたのにすれ違ったまま失われてしまった関係があるのだとしたら、それはとても悲しいことだと思った。
「―――あの」
しんみりとした空気の中、喜多川くんが控え目な声を上げて発言を求めた。
「話を戻して申し訳ないんですが……武尊さんが亡くなっているのを最初に発見したのは、どなたになるんでしょうか? ご家族と疎遠になっていたなら、アパートの管理人の方とか……?」
おじいちゃんは記憶を思い起こすように顎をなでながら言った。
「ああ、それは確か……兄ちゃんと連絡が取れんって、兄ちゃんの友達がアパートの管理人さんのとこへ行って、その二人が合鍵を使って部屋へ入って、それで冷たくなっとる兄ちゃんを発見したって聞いたな……」
「その友人の方の名前って分かりますか? その人がエージって名前だったかどうか……」
! そうか、確かにその可能性あるよね!
「いや、ちょっと名前までは覚えとらんな……確か葬式に来てくれたとは記憶しとるが、顔も名前も思い出せん」
「喜多川くんに似ていたかどうかも分からない?」
そう問うと、改めて喜多川くんの顔を見たおじいちゃんは首を振った。
「いや、悪いが分からん。ばあちゃん、分かるか?」
「いやー……わたしもちょっと、記憶が確かじゃないわねぇ。お役に立てなくてごめんなさいね、陽葵ちゃん」
「ううん、ずいぶん昔のことだもん。仕方がないよ」
幼い頃からの友人ならまだしも、何十年も前にお葬式で見ただけの兄弟の大学時代の友人の顔や名前なんて、普通は覚えていないよね。
そう思いながらも肩を落としてしまうあたしに、おじいちゃんが言った。
「けどその人は確か、葬式だけでなく法要にも何度か来てくれとったはずだから、もしかしたら実家の方に名簿が残っているかもしれん。何なら実家にいる姉ちゃんに聞いてみようか?」
「! お願い出来る!?」
「ああ、いいよ。他でもない孫と―――兄ちゃんの為だ。だが、期待はせんでくれよ」
「うん! ありがとう、おじいちゃん!」
ダメ元でも、何でもいい。わずかでも、エージの手掛かりに繋がる可能性があるのなら。
「……兄ちゃんはその、本当に今もそこに―――陽葵(ひまり)の中に、いるのかい?」
神妙な面持ちでそう尋ねてくるおじいちゃんにあたしが小さく頷くと、その瞳の奥が揺れた。
「……! なら、兄ちゃんと話すことは、出来るんか? オレの声は、兄ちゃんに届いとるんか?」
「おじいちゃんの声は聞こえているし、姿も見えているはずだよ。……ただ、今は自分の名前やおじいちゃんのこと、急に色々思い出したことが多過ぎて、混乱しているみたいで……ちょっと、難しそう」
身体の深いところでざわざわと不規則に波立つようなノラオの感情の乱れを感じながらそう伝えると、おじいちゃんはぎゅうっとしわだらけの口元を引き結んだ。
「……っ。そうか……」
薄曇りだった空にはいつしか黒く厚い雲が垂れ込めていて、暗くなった空から、地上にポツポツと大粒の雨が降り始めていた。