無事に生還を果たしたオレは志望の大学を変え、那由良の面影を追い求めるかのように登山家への道を歩んでいた。
「彪も有名になったよねー。こーんな雑誌に載るようになったなんてさ」
小洒落(こじゃれ)たカフェで登山雑誌を片手にそう言って目の前で笑うのは、もうすぐ二十六歳になるサチだ。
季節は、夏。あれからもう二十回目の夏が、今年も巡ってきている。
あの村で生き残った者は、彼女を含めわずか三名だった。まだ若く地龍のチカラに干渉されていなかった彼らは、あの地の封印が解けても、他の村人達とは違い、その命を落とすことはなかったのだ。
彼女達の存在に、オレはどれほど救われたか分からない。救えた命があるという事実は、背負う業の重さに押し潰されそうになっていたオレに生きる力を与えてくれた。
二十年前、それまでそこに存在しなかったはずの山が忽然と姿を現し、その山中で大きな村が発見され、そこから時代劇さながらの衣装を身に着けた彼らと、行方不明で生存が絶望視されていたオレが発見された時、世間は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
マスコミは連日のようにこぞって取り上げ、史上例を見ないミステリーとして、内外から大きな注目を集めた。オレは元より、事故で重傷を負ったケイタ達まで、マスコミには追いかけまわされて散々だった。
あの時のメンバー達は負傷の程度の差こそあれ、全員が無事だった。車が原形を留めないほどの大事故だったにも係わらず、一人の死者も出なかったのは奇跡だった。
検査入院を終え退院した後、オレはハルカに「ずっと好きだった」と告白された。
本気で誰かを好きになったことがなかった以前のオレだったら、友達以上の感情を抱いていなかった彼女に対して不誠実な態度を取ってしまっていたかもしれない。
けれど、人を愛するということの意味を知ったオレは、彼女に対して心からの「ありがとう」と「ごめん」を伝えることが出来た。ハルカは泣き笑いの表情で、「気持ちを伝えることが出来て良かった」と言ってくれた。
ケイタとアヤノはあの後付き合い始めたけれど、一年位して別れてしまった。他のみんながそれからどうしているのかは知らないけれど、ケイタはその後職場で知り合った女性と結婚して、今は幸せに暮らしている。
あれからずっと、オレはこうして一年に何度か、サチに会っている。
彼女に会うと、あの夏の、あの夢のような出来事が、幻ではなく、確かに現実のものであったのだということを改めて実感する。
「彪はさー、このまま結婚しないの?」
食後のデザートを口に運びながらサチが言った。
「……多分な。オレよりも、お前はどうなんだよ」
「あたし? へへー、気になっている人はいるんだけどね」
「選びすぎて婚期を逃(の)がすなよ」
コーヒーを飲みながら冗談めかしてそう言うと、サチは悪戯っぽく笑った。
結婚……か。
この二十年の間にそれを考えたことは、正直、何度かあった。
けれどその度に、自分の心に嘘はつけないのだということを、オレは知った。
―――那由良……。
あの夏。夢のようなひと時。
あまりにも鮮烈な印象を残して消えた少女のことを、オレはどうしても忘れられなかった。
「じゃ、またね、彪」
何ヵ月後かに再び会う約束を交わし、オレは手を振るサチを見送った。
夕焼けに染まる街の中、自分のアパートへ帰る途中立ち寄ったコンビニで、レジ脇に陳列されていたキャラメルにふと目が留まる。
―――いつか、一緒にキャラメルを食べようね……か。
懐かしい思いに浸りながら、オレはそれを手に取った。
コンビニを出ると、さっきまで気にならなかったはずの夕陽が何故かやたらと眩しく感じられた。
過去を思い出して、少し感傷的な気分になっているのかもしれない。
そんな自分にひとつ苦笑をこぼして、オレは再び歩き始めた。
いつになるかは、分からない。願うだけで、終わるのかもしれない。
けれど、オレは信じるよ、那由良。
今生で会えなくても、いつかどこかで、再びお前に巡り会えることを―――。
*
トクン……。
自分の細胞の奥深くに眠る何かが脈動するような気配を感じたのは、その時。
アオ―――……?
二十年前のあの時以来、ふとした瞬間に感じられるようになった不思議な感覚。けれど、それがこんなにもハッキリと感じられたのは初めてだった。
運命の扉が開いたのは、次の刹那。
アパートの前で見覚えのある雑誌を片手に佇む、白いワンピース姿の少女を見て、オレは足を止めた。
オレに気が付いた少女が、こちらを向く。
腰の辺りまで流れる艶やかな黒髪、凛とした黒の瞳―――。
言葉を失くし立ち尽くすオレに、長い黒髪をたなびかせ、少女が駆け寄ってくる。
「―――やっと、会えた……」
高校生くらいだろうか。泣きそうな声でそう呟き、オレを見上げた少女の顔は、記憶にある「彼女」のものとは違っていた。
けれど、その瞳は、その身に纏う雰囲気は、紛れもなく「彼女」のものだった。
間違えるはずがない。
「那由、良……」
二十年ぶりにその名を呼んだオレに、少しだけ不安そうな表情で彼女が尋ねる。
「あたし、遅すぎた、かな……?」
オレはゆっくりと首を振った。あまりのことに胸がいっぱいになって、なかなか次の言葉が出てこない。
「充分……間に合った、よ……」
ようやくそれだけを告げると、緊張した面持ちだった那由良の表情が緩み、そこから春の木漏れ日のような笑顔が溢れた。
「彪……!」
涙混じりにオレの名を叫んで胸の中へ飛び込んでくる彼女を、オレは震える腕で抱きしめた。確かに生きている、温かな彼女の身体。前世の記憶を留めたままの、転生した彼女の肉体。
これは、アオの起こしてくれた奇跡なのか―――。
言いようのない深い感動が胸の底から込み上げてくる。無言でそれを噛みしめるオレの腕の中で、那由良が安堵したように息を漏らした。
その少し後で、オレは知ることとなる。ついさっきコンビニで買ったばかりのあのキャラメルの箱が、彼女のバッグの中にも入っているのだということを―――。
完