天蓋付きのベッドの端に腰掛けたわたしは、骨ばった大きな手に背後から優しく獣耳を撫でられながら、その低い声音を拾っていた。
「自分の匂いってよく分からないけど、リーフィアからは日なたの匂いっていうのかな。太陽と、風と、森の息吹きと―――そういうものが融け合ったみたいな、澄んだ香りがする」
確かに自分の匂いって自分ではよく分からないし、改めてそれを語られると、何とも言えない居心地の悪さを感じるものなのね。
「……反省するわ。これからはむやみに人の匂いを語らないようにする」
「はは、ちょっと恥ずかしいよな?」
「そうね」
素直に認めたわたしに、背後のヴァルターがふと笑みを漏らす気配が感じられた。
「それと、これはちょっと心に留めておいて。さっきのは社交辞令じゃなくて、ホントに可愛いと思ったから言ったんだ」
さっきの―――というのは、わたしの笑った顔のことだろうか。
「こんなふうに雑談している時は、リーフィアのそういう顔がたくさん見られたらいいなって思う。変な意味じゃなくて、笑顔って気持ちを上げてくれるしね」
軽薄な印象が強いこの人に「可愛い」と言われても素直に嬉しいとは思えなかったけれど、その言葉にはうつろいやすい『影』の位置にいる彼の本音が表れているような気がした。
飽きもせずわたしの耳を触り続けるヴァルターを振り返ると、綺麗な空色の双眸と視線が合った。
「……何?」
赤銅色の肌をした精悍な青年はわたしの耳から手を離すことなく、やわやわと優しい力で触れながら小首を傾げる。
「どんな顔をしてそう言っているのかと思って」
「こんな顔だけど?」
へらっと笑った顔に嫌気が差したわたしは無言で前に向き直り、仏頂面で呟いた。
「何がどうしてこんなことになったのかしら……」
「言うなれば、あの瞬間『オレ』に気付いたのが運の尽きかな。もうこうなった以上、腹をくくってオレの運命に巻き込まれてよ」
何その理由、冗談じゃない。
そう言いたいところではあったけど、今や完全に巻き込まれてしまったこの状況下では、何を言っても無駄だと思えた。
ヴァルターは結局、わたしが我慢の限界を超えてブチ切れるまで、わたしの耳を触り続けていた。
*
国王付きの従者になることが決まり、これまでの大部屋から一人部屋に移動することになったわたしは、二人の同僚と数ヵ月間過ごした部屋で、そう多くはない荷物をまとめる作業をしていた。
異動の内容についてはさておき、個室に移れるのは非常にありがたかった。大部屋と違って個室なら、変に気を遣って疲れたり、下手に傷付いたりしなくて済むもの。
この部屋で二人の同僚と過ごした日々は半年に満たなかったけど、その間の精神的な疲弊は大きかった。結局上手く馴染めないままだったから、今、この場に彼女達がいないことにホッとしてしまっている。
でも……最後の挨拶くらいは面と向かってしていくべきよね? 置き手紙で済ませてしまいたいのが正直なところだけれど、仕える主が変わるとはいえ同じ城内で働くわけだし、顔を合わせることもあるだろうから、余計なしこりは残したくない。
そんなことを考えて億劫(おっくう)な気分になっていた時、慌ただしい足音と共に勢いよくドアが開いて、わたしは密かに身体を強張らせた。
「あっ、リーフィア、まだいた! 良かった!」
ドアから顔を覗かせた同室の二人が、何故か息を弾ませてわたしの姿を確認する。彼女達からそんなふうに声をかけられたことがなかったわたしは、何事かと琥珀色の双眸を見開いて二人の様子を窺った。
「間に合ったね」
「何とかね。急いで良かった」
顔を見合わせて笑みをこぼした二人は、状況が掴めず困惑するわたしの元へとやってくると、示し合わせて背後から小振りな花束を取り出した。
「はい、リーフィア。陛下直属の登用、おめでとう!」
「……。え……?」
彼女達から花束を受け取ったわたしは、意外な展開に頭が付いて行かず、ぱちくりと瞳を瞬かせた。
「あの……何か今までゴメンね。私達、感じ悪かったよね。ずっと仲良くしたかったのに、きっかけが掴めなかったんだ。まさかこんなに早くリーフィアと離れることになるとは思わなかったから、ビックリして……このままじゃ嫌だなって思って」
「うん。時間はまだたくさんあるから、そのうちそのうち……って思ってたら、何か、どんどん声をかけずらくなっちゃって。リーフィア、護衛としての実力はもちろん、仕事の覚えも早くて、上の人に臆することなく自分の意見をキチンと言えて、最初から私達とはレベルが違うっていうか、すごいなって一目置いて、そのまま距離も置いちゃっていたんだ。結果的にリーフィアを一人みたいにしちゃって……本当にゴメンね」
思いも寄らなかった言葉の羅列はわたしを心から驚かせた。
疎まれていたわけじゃなかった?
避けられていたわけじゃなかった?
てっきり、嫌われているものとばかり思っていたのに。
「やっぱりさ、出会いが鮮烈過ぎたよね」
「ねー。私達がまるで歯が立たなかったバレンツァを、颯爽(さっそう)と現れて一人で仕留めちゃうんだもん。格好良過ぎだよ」
「あの時リーフィアが来てくれなかったら、私達、今ここにいなかったかもしれない。最悪、シルフィール様を護り切れなかったかもしれない。リーフィアが男だったら惚れちゃってたね、命の恩人だもん」
「私もー。あの時点で別格だもん。一緒に働くことになった時、目標にしなくちゃって、嬉しくて本当にドキドキした」
嘘みたい。こんなふうに思ってもらえていたなんて。
わたしは胸が熱くなるのを覚えながら手元の花束に視線を落とした。
小振りな花を何種類か束ねた楚々とした可愛らしい花束だ。その中に、見覚えのある花が混じっている。
筒状の白い小花が鈴生りについた、可憐な花―――リオーラの花だ……。
「これ……」
「あ、知ってる? リオーラの花。清楚で可愛らしい感じの花だよね。あまり有名な花ではないんだけど、植物が好きで育てている友人がいて、彼女の影響で私も知ったんだ。花言葉が素敵だからぜひリーフィアに贈りたいと思って、彼女にお願いして分けてもらったの」
だから、あんなに息せき切って駆け付けてくれたのか。わたしの為に。
「リオーラの花言葉は『あなたを誇りに思う』。他にも『純潔』や『安らぎ』なんていう意味もあるみたい」
「……ありがとう。シェラハ。クラリス」
わたしは彼女達の目を真っ直ぐに見てお礼を言った。
そして、彼女達の笑顔を見て、気付く。
わたしは状況を卑屈に捉えるばかりで、自分の方から彼女達に歩み寄る努力をしてこなかったんだって。
業務外でこんなふうに彼女達の名前を呼んだのも、これが初めてだ。
新しい環境に飛び込んで全てに余裕がなかったせいもあるけど、きっと無意識のうちに、自分の方からも壁を作っていた。
そんな事実に初めて気付かされる。
シェラハとクラリスが勇気を出してぶつかって来てくれて良かった。彼女達が一歩踏み出してくれなければ、わたしは多分気付けないままだった。
それは、何てもったいないことだろう。
「あの……城内でまた顔を合わせることがあったら……話しかけても、いい?」
ためらいがちに尋ねると、「もちろん!」と即答された。
「何なら時間が空いた時に遊びに来てよ、シルフィール様も絶対に喜ぶから」
「シルフィール様、リーフィアが大好きだから、いなくなってしばらくは気を落としてしまいそうよね」
シルフィール様……。
実は陛下の直属になることが決まってから色々と立て込んでいて、わたしはまだシルフィール様にきちんと挨拶が出来ていなかった。
思えば、クリードの森でシルフィール様に偶然出会ったところから、わたしの世界は一変したんだな。
天真爛漫で、無鉄砲で、でも時々鋭くて、誰気兼ねなく優しい王妹殿下。
「うん、時々お顔を拝見しに行こうかな。二人ともシルフィール様のこと、どうか宜しくね」
シルフィール様の直属から外れることは正直とても寂しかったけれど、こうして受け入れてくれた人達がいて、時々でも会いに行けるのであれば、わたしはとても恵まれているんだと思う。
シルフィール様には心からの感謝を伝えよう。そして、わたし達の冒険に関わったラステルの努力が報われたことを報告して、共に喜びを分かち合おう。
この日、王城に来てから初めて、わたしは心から晴れやかに微笑むことが出来たのだった。
<完>