「ついに、来たな……」
そう呟く長身の青年の傍らで、小柄な少女が神妙な面持ちで頷く。
「うん。とうとう、たどり着いたんだね……」
二十代前半から半ばといった外見の青年は、精悍な顔立ちをしている。薄茶色の髪に、切れ長の暗い緋色の瞳。服の上からつや消しされた金属製の胸当てを身に着け、旅人用の頑丈なブーツを履き、枯草色の外套(がいとう)を羽織っている。肩からは革製の道具袋を斜めに掛け、背には大振りの剣を背負った格好だ。
一方の少女は、緩やかなくせのある、ふんわりとした背の中程まである銀の髪に、澄み切った大きなすみれ色の瞳が印象的な整った顔立ちをしている。年の頃は十四、五才といったところだろうか。
生成り色の短衣(チュニック)に旅人仕様の膝丈の茶色いブーツ、という姿の少女は、肩から淡い青色の外套を羽織り、腰には先端に宝玉の付いたロッドを装備している。左の手首から中指に通すような形で透け感のある青い布を嵌(は)め、その上から物々しい護符のついたリストバンドを着けている。胸元にかかっている鈍色(にびいろ)のペンダントは、彼女のお気に入りだ。
そんな二人の目の前にそびえ立つのは街をぐるりと覆う石造りの高い外壁―――その中央にぽっかりと口を開けた巨大な門の向こうには著名な魔法都市の整然とした街並が広がっているのが見えた。
ここへ至るまでの長い道中を思い、正門の上に刻まれた『アヴェリア』の文字にしばし見入っていた二人は、やがて顔を見合わせると軽く頷いて、第一歩を踏み出した。
*
魔法都市アヴェリアは、これまで彼らが訪れてきた幾多もの街と一線を画する独特の雰囲気を醸し出していた。
空高くそそり立つ数々の建造物にはいくつもの尖塔があり、そのひとつひとつの天辺に呪術的なオブジェが掲げられ、一番高い位置にある尖塔には翼を模したこの街のシンボルが陽を浴びて輝いている。
石畳が広がる整備が行き届いた街並には長衣(ローヴ)を着た人々が溢れ、呪術に関連する様々な品を扱う店が立ち並び、不思議な動力で動いているらしい、幌(ほろ)のついていない馬なしの馬車のような乗り物が時折道を行き交っている。
紛れもない現実世界でありながら、訪れる者達にどこか異界の地に迷い込んだような印象を与えてやまないこの街は、今は年に一度の祭りが催されている真っ最中で、祝いの空砲と楽師達が奏でる晴れやかな音楽とが街中を賑わし、道端では大道芸が行われたり各地から集まってきた商人達による露店が開かれていたりして、色とりどりの紙吹雪が舞う中、子供達が歓声を上げながら走り回っている。
「うわぁ……」
「まずは宿屋だ」
賑やかなその光景を見て思わず瞳を輝かせた連れの少女-----フユラを素早く牽制し、彼女の保護者を自負する青年ガラルドはさっさと今夜の宿を求めて歩き始めた。
「あっ、あっ、待ってよー!」
華やかな祭りの様子に目を奪われていたフユラが数歩遅れてその背中を追い、歩き出す。
「ねぇガラルド、宿が取れたらさ、今日は街を見て回ろうよ。情報収集とかじゃなくって、純粋に観光で!」
「宿が取れたらな……」
笑顔のフユラとは対照的に、ガラルドは難しい顔でそう答える。
アヴェリアの前に立ち寄った小さな町で、祭りの期間中のこの街のひどい混雑っぷりは耳にしていたのだが、その予想を上回る人出だ。どこを見ても人、人、人。こんな状態があと数日は続くのだという。
十三年もかけてようやくこの街にたどり着いたというのに、どうしてそれがよりにもよって年に一度の祭りが行われている真っ只中なのか。まったくもって運が悪いとしかいいようがない。
苦々しい思いのガラルドとは裏腹に、半歩遅れて歩くフユラは頬を紅潮させ、瞳をきらきらさせながら賑わう街並みを忙しく見渡している。
「一年に一度のお祭りの時に丁度来れるなんて、ラッキーだね!」
のん気なことを言いながらはしゃぐ少女に、ガラルドは重い溜め息を返した。
「ガキ……」
「何よー。お祭りは大人だって楽しむモンでしょ? ほら、みーんな楽しそうな顔しているよ」
頬を膨らませながらそんな反論をしていたフユラだったが、街中へ進み、増してきた人出に揉まれ始めると、次第に物見遊山の余裕もなくなってきてしまった。
肩がぶつからずに歩くのが難しいほどの人の波に飲み込まれ、思うように進むこともままならない。背の低い彼女からすると、まるで人の壁に囲まれているような錯覚を覚えた。前を行く長身のガラルドの背中や上空の青空は見えるが、周りの景色は全く目に映らない。
大きな都市での人込みは何度か経験があったが、ここまでのものは初めてだった。
いったいどこをどう歩いているのか、地理も分からない街中で漠然とした不安に苛まれた時、そこから救い出してくれたのは保護者の青年の手だった。
「はぐれるな」
歩みを止めて振り返ったガラルドの大きくて力強い手に引き寄せられ、フユラの顔から安堵の笑みがこぼれる。
例えはぐれてしまったとしても、精神を集中させて気配を探れば、ガラルドには特別な関係にあるフユラの居場所が分かる。だがこの人込みでは、それが分かったとしてもそこまでたどり着くことが容易ではない。
それ故(ゆえ)のガラルドの行動だったのだが、その理由が分かっていても、フユラには差し伸べられた彼の腕がとても嬉しかった。
-----やっぱり、今日来れてラッキーだった。
人混みを抜けるまで、久々にガラルドと手を繋いで歩きながら、心の中でフユラは小さな幸せをかみしめたのだった。
*
ガラルドの懸念どおり、祭りの最中にある魔法都市で宿の空き部屋を探すのは困難を極めた。
街中を歩き回り、空が茜色に染まる頃、ある裏通りでようやく見つけることが出来た空き部屋はシングル一室のみで、それも繁忙期価格だとかで、提示された宿泊料金は思わず顔をしかめるようなものだった。
-----が、夜も迫り、四の五の言っていられる状況ではない。
仕方がなく今夜はここに腰を落ち着けることに決め、二人は宿の三階にある部屋まで足を運んだ。
シングルベッドに小さなテーブルと椅子、洗面台とシャワー室が付いた簡素な部屋だったが、掃除がきちんと行き届いており、割と小綺麗だ。
「けっこういい部屋だね」
フユラはそんな感想を述べながら窓を開け放って外の景色を眺めやり、残念そうに呟いた。
「あーあ、すっかり日も暮れちゃった。色々見て回りたかったのになぁ」
「ある意味色々見れただろ。街ん中、だいぶ歩き回ったぞ」
「宿屋巡りがしたかったわけじゃないもん」
ぷぅっと頬を膨らませるフユラに、ガラルドが荷物を置きながら溜め息混じりに返した。
「このうざったい祭り、明日も続くんだろ。明日見て回ればいいじゃねーか」
「ホント!? いいの!?」
「言っとくが、オレは行かねーぞ。あんな人間がうじゃうじゃしたトコに行く気が知れねー。行くんならお前一人で行け。ただし、メインの大通りには行くなよ。あそこは人混みが凄過ぎる」
「うん、分かった! ねぇ、気が変わったらガラルドも行こうね」
そんなことはまずないだろうと思いながらもわずかな期待を込めてそう言うと、保護者の青年は彼女に背を向けて、あからさまにその意思がないことを示した。
「ちぇっ。ガラルドはその間何してるつもり?」
口を尖らせて尋ねると、保護者の青年は背を向けたまま、部屋の備品をチェックしながらこう答えた。
「オレはひと足先に『叡智(えいち)の樹』とやらに行ってくる。見物が終わったらお前も来い」
叡智の樹とは、アヴェリアにある巨大なライブラリーのことである。そこにはアヴェリアの有史以来のあらゆる出来事が網羅され、この街で起こった様々な事件などの記録を始め、世界中の多様な情報が集められているという話だった。
そこへ行けば、この街の高位の呪術師だったらしい、名前も分からないままのフユラの母について何かが分かるかもしれない。
アヴェリアに着いたらまずそこへ行こうと、ガラルドは決めていた。
ガラルドとフユラが長い年月をかけてアヴェリアまで苛酷な旅を続けてきたのは、フユラの母親によって彼らに施された、ある呪術を解く為である。
それは、運命を繋ぐ呪術-----現在ガラルドとフユラはその呪術によって互いの生命を繋がれた状態にあり、どちらかが何らかの理由で命を落とせば、自動的にもう一人も死ぬ運命にある。ガラルドの左足首とフユラの左手首にはその証である呪紋(じゅもん)が刻印されており、彼女の左手のリストバンドはそれを隠す為のものだ。
旅の途中で得た情報によって、フユラの母親がどうやらアヴェリアの高位の呪術師だったらしいということが分かったが、ガラルドに幼いフユラを託して名も告げぬまま事切れた彼女の母が、この魔法都市でどのような立場にいたどういった人物だったのか、この街の関係者との相関図はおろか、現状ではその配偶者の存在すら定かではない。
しかしある街で聞いた話によると、彼女が姿を消した当時アヴェリアでは大変な騒ぎになっていたというから、その記録が叡智の樹には残っているはずだ。それを調べれば、これからこの街で彼らがどう行動すべきかもおのずと見えてくるはずである。
「くそ、やっぱ一人分しか置いてねーか……」
部屋の備品をチェックしていたガラルドが舌打ち混じりに呟いた。
部屋がシングルの為、寝間着もタオルも一人分ずつしか用意されていない。タオルはまだ使い回せばいいが、寝間着はそういうわけにもいかない。
宿の一階にある食堂で夕食を済ませた後、フロントにそれを借り入れに行くと、ちゃっかり追加料金を徴収された。
おかげでガラルドはご機嫌斜めである。
「まーまー。借りる部屋がひとつだった分、部屋代は安く済んでいるわけだし、ベッドで一緒に寝るなんて久々じゃない。せっかくだからこの状況を楽しもうよ」
なだめるつもりのフユラの言葉は、ガラルドの不機嫌さに拍車をかけた。
「あぁ!? 普段ならもう少しいい宿の一人部屋を楽々二つ借りれる金額だぞ! 高い金払って狭い部屋泊まって、みみっちく追加料金を取られた挙句、窮屈なベッドに寝かせられる状況を楽しめるかっ!」
「あーもう、怒りっぽいんだから。先にシャワーでも浴びてすっきりしてきなよー」
フユラにそういなされたガラルドは憤然とした面持ちのまま、ふぃっと視線をそむけた。
「お前先に行ってこい。髪を乾かす時間とかもかかるだろ」
返ってきた意外な返事にフユラは驚いた。共に旅をすること十三年、彼女が成長するにつれて、いつの頃からか宿に泊まる際は部屋を分けて宿泊するようになっていた二人は、こんなふうに同じ部屋で過ごすというのは実は何年か振りのことだった。年頃になってきた彼女に対し、ガラルドはどうやら彼なりに気を遣ってくれているらしい。
それが何だか嬉しくて、フユラは素直にガラルドの好意に甘えることにした。
「うん、じゃあお先」
着替えとタオルを持ってシャワー室に入り、狭い空間で旅の汚れを洗い落とす。一枚しかないバスタオルをあまり濡らさないようにと気を遣って身体を拭き、肌着を着て、追加料金を払って用意してもらったワンピース風の半袖の寝間着を頭からかぶり、部屋へと戻った。
「お待たせー。ゴメン、タオル結構濡れちゃった」
「別にいい」
フユラと入れ替わりにシャワーを浴びたガラルドは、身体を拭く段階になって、ふわりと香る春風のような匂いに気が付いた。
宿の安い石鹸の匂いではない。フユラの肌の香りだ。
同じタオルを使っているのだから彼女の香りが付いていて当たり前なのだが、それに気付いた瞬間何とも言えない微妙な気分になって、ガラルドはその気分をごまかすようにがしがしと頭を拭いた。
シャワー室から出ると、フユラが風の呪術を応用して長い髪を乾かしているところだった。緩やかなクセのある柔らかな銀の髪が、ふわふわと風に乗って揺れている。
「ガラルドの髪も乾かしてあげよっか?」
「いや、いい。どうせすぐ乾く」
濡れたタオルを椅子の背もたれに掛け、ガラルドは手で軽く髪を整えながらベッドの端に腰を下ろした。硬いマットレスが沈み、スプリングが軋んだ音を立てる。
標準的なシングルサイズのそれは、どう見ても二人で寝るには狭かった。大柄なガラルドが仰向けで転がると、フユラのスペースはほとんどなくなってしまう。
そんなわけで就寝時、必然とガラルドは横向きにならざるを得なかった。当初はフユラに背を向けて横たわっていたのだが、少女の猛抗議に合い、うるさいので今は彼女の方を向いている。
「へへー、こんなシチュエーション、久し振りだね。何だか懐かしい」
この狭苦しい状況の何がそんなに楽しいのか分からないが、隣に身体を横たえたフユラは純粋に嬉しそうだ。身体は大きくなってもこんなところはまだまだ子供だ、と思う。
「やっぱり二人で寝るのっていいなぁ。あったかい。昔はこれが普通だったのにね」
「今これが普通だったらおかしいだろ……」
二才の頃から彼女の面倒を見ている間柄だが、家族でも友人でもましてや恋人でもない、今は十五才になった彼女と彼との関係は、他人からしたら奇妙なものに見えるだろう。ましてや、不可抗力とはいえこんなふうにひとつのベッドで寝ているなど……。
だが、久し振りに感じる互いの体温はひどく心地が良かった。いつしか静かな寝息を立て始めていたフユラに誘われるようにしてまどろみかけていたガラルドは、微かに身じろぎしてすり寄ってきた彼女を感じ、無意識のうちに腕を伸ばしてその身体を包み込んでいた。
春風の香りにも似た少女の肌の匂いと規則正しい寝息が、そのまま彼を安らかな眠りへと誘(いざな)っていく。
互いの運命を繋ぐ呪印を解く為に、この街に来た。
けれど、今のこの奇妙な関係が変わることはない-----。
二人は何故か漠然と、その関係がこれからも続いていくことを信じて疑ってはいなかった。