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中世 … 聖書と神話の時代 |
■ 1.聖書に生きる人々 |
繁栄を誇ったローマ帝国も、領土の拡大とともに求心力が弱まり、395年には東西に分裂しました。同じころアレクサンドリアでは、図書館がキリスト教徒に焼き討ちされ、7世紀にはイスラムに支配されたことで、ヨーロッパからギリシア文化は姿を消しました。ローマの行政と軍事システムの崩壊は、北部ヨーロッパに住んでいたゲルマン民族の侵入を許し、476年ついに西ローマ帝国が滅亡してしまいました。ゲルマン民族は文明化されていない民族の多くがそうであるように、原始的な多神教で自然崇拝の傾向が強かったのですが、ローマで公認されたキリスト教がしだいに勢力を伸ばすと、古い伝統や習慣が新しい理念に取り込まれていき、中世の宗教世界を形成していきました。厳格な宗教が科学技術を持たなかった社会と結び付くと、ギリシアの科学もローマの工学もことごとく否定され、失われていきました。
教会を中心とする中世の社会では、聖書こそが唯一絶対の真理であると考えられ、現実の世界を研究したり観察する自然科学よりも、聖書の世界から主の教えを学ぶ神学が重視されるようになり、神の国へ召されることにエネルギーを注ぐようになります。地理についても、創世の物語がそのまま信じられたため、地球球体説は否定され、ギリシア以前の円盤大地説が復活しました。そもそも地上界よりも天上界に関心が向けられていたので、大地の形など重要ではなかったのです。
科学の面から見れば中世は停滞あるいは衰退の時代であるといえます。しかしだからといって“暗黒時代”と決めつけることはできないはずです。真理を探求しようとする者にとっては息苦しい社会でしたが、多くの庶民にとっては1000年も続くおおよそ平和で安定した時代であったのも事実です。近世以降の動乱の時代と較べたとき、はたしてどちらが暮らしよい時代であるのか、一概にはいえないでしょう。かつてはサハラ砂漠以南のアフリカ大陸を“暗黒大陸”と呼んでいたこともあったように、近代西欧文明を中心とする思想ではないでしょうか。
■ 2.キリスト教の世界観 |
中世ヨーロッパでは、ほとんどの人々は領主が支配する封建的な荘園(私有の大農場)の中で一生を送っていました。騎士たちが旅をしたり十字軍に参加することはありましたが、交易や探検はほとんどおこなわれませんでした。ここではギリシア的な投影法による世界地図も、ローマ的な道路地図も必要ありませんでした。そもそも地図とは無縁の生活だったのです。しかし絵画的なタウンマップは作られていて、なかには鳥瞰図として描かれたものもありました。
このころ作られた数少ない世界図には実用的な価値(位置や道程を表わす機能)は全くなく、キリスト教の世界観を表わすための象徴的なものでした。代表的な世界図は“TO図”とよばれるものです。これは初期のギリシアの地図の影響を受けたもので、オケアノスの海に囲まれた円形の大地を表わす“O”の中に、地中海とナイル川とドン川(ロシア西部を南流し黒海に注ぐ)を表わす“T”が描かれて、大陸が3つに分けられています。上半分がアジアで、左下がヨーロッパ、右下がアフリカです。エルサレムが中心に配置され、上端である東の果てには“エデンの園”が想像されました。地名も聖書に記されている場所がいくつか書かれているだけのものです。
(画像:TO図) |
(図:TO図の基本形) |
タペストリー(壁掛け)などに描かれた世界図は“マッパムンディ”とよばれていました。“世界の布”という意味で、英語のマップの語源です。TO図よりはサイズが大きく、地形にはローマ時代の地図の影響も残っていますが、聖書や伝説に記されている空想上の事物を表わすイラストが豊富に描かれています。エデンの園をはじめ、バベルの塔やノアの箱舟などの絵で飾られ、空いた場所は人魚・一角獣・無頭人・四目人間・グリフィン(頭と翼が鷲で胴がライオン)のような、奇異な人間や動物の絵で埋められています。地図というよりは聖書の世界を表現するための絵物語というべきでしょう。羊皮紙に美しく描かれ装飾されたマッパムンディは、宝物として教会や王侯貴族が所蔵していました。イギリスのヘレフォード寺院に所蔵されている『ヘレフォード図』が代表的なもので、1.3メートル×1.6メートルの大きさがあり、1300年ごろ僧侶によって製作されています。
(画像:ヘレフォード図)
■ 3.オリエンテーション |
英語の文章を左から右へ書くのと同じように、地図は北を上にすることが決まりごとのようになっています。北へ行くことを“北上”、南へ行くことを“南下”といったりもします。丸い地球には上も下もないはずなのですが、いつからどのような経緯で北が上になったのでしょうか。
プトレマイオスの『地理書』に付された地図でも北が上になっていました。これには理由があります。まず描かれていた地域が、北半球の旧大陸に限られていたので、南北に較べ東西が長かったこと。さらに地図の形状が扇形になる円錐図法を採用したため、安定感のある構図にするには、北を上にすることが左右対称を重んじるギリシアでは自然だったのです。もちろんギリシアが南半球にあったのなら南が上だったでしょう。
TO図では上から“楽園−エルサレム−俗界”と下りてくるように表わすべきと考えられたため、楽園があると考えられていた東が上にされるようになりました。方向付けや指導を意味する“オリエンテーション”は“オリエント(東洋)”から来たことばで“東へ向ける”ことが“正しい方向へ導く”ことにつながると考えられていました。しかし中世の末期に作られた海図では北が上にされるようになりました。ギリシア時代の地図が復活し、さらにコンパスを使った航海がおこなわれるようになって、方位を合わせやすくするためです。ヨーロッパにおける中世とは、東が上にされていた時代とも言えるでしょう。
いっぽう同じころ、ギリシアの合理的な科学を受け継いでさらに発展させたイスラム教世界では、プトレマイオスの地図を元に新たな知識が加えられていきました。交易を通じて西アジア、南アジア、インド洋、北アフリカの知識が増え、この部分の地図が正確になっていきました。なかでも1154年アル・イドリーシーが地理書とともに作成した世界図はその集大成といえます。しかしイスラムの地図では、方位については南を上にしていました。おそらく南を正面と考えるアジア文化に起因するものではないかと考えられています。
(画像:アル・イドリーシーの世界図)
■ 4.ポルトラノ海図 |
12世紀ころから、十字軍(キリスト教の聖地エルサレムとその周辺の土地をイスラム教徒から取り戻そうとする運動)の遠征などもあってイスラム世界との接触が増え、地中海での交易が盛んになってきました。ヨーロッパの人々は、香料・陶磁器・絹織物など東洋の産物を求めましたが、それとともに、イスラムに受け継がれていた科学も戻りはじめました。さらに交易の広がりは、古代科学の復活だけではなく現実的な必要性からも地図の進歩を促しました。地中海は目測と経験だけで航海するには広すぎます。海図が必要になってきたのです。TO図を見ても航海することはできません。13世紀には、海上交易が盛んなイタリアの都市国家ベネチアやジェノバでは、船乗りや旅行者から情報を収集し、海図を作製して船乗りに売る地図制作者が誕生しました。
“ポルトラノ”とよばれるこれらの海図では、地中海付近だけを描いていたため、投影法や経緯線は取り入れられていませんでしたが、海岸線の形状と、距離や角度は正確に描かれていました。科学的であることよりも、とにかく安全に航海できることだけを考えて作られた実用的な地図なのです。またこの海図は、一人の偉大な科学者によって作られたものではなく、プロの地図制作者が膨大な情報を収集して、地図を必要としている多くの客のために作って販売したものである点でも画期的です。
ポルトラノ海図には、航海の要衝となるいくつかの地点から、方位線とよばれる32本の直線が放射状に描かれています。出発地から目的地までの方位線を組み合せて、これに沿って航海していけば、複雑な地中海でもまちがいなく目的の港に到達することができるわけです。コンパスのおかげで、地図上の方位線に船の方位を合わせることができるようになったのです。“港を出たら東南東に進み、○○岬が左に見えたら東南に向きを変え、△△島を過ぎたら東北東に向きを変え、順風ならそのまま半日進む”こんな調子で航海をしていたのでしょう。
ポルトラノ海図は、交易の広まりとともに描かれる範囲が広がっていきました。14世紀になると、北はスカンジナビア半島、西はカナリア諸島、東はインド、南はアフリカ大陸のギニア湾岸付近まで含まれるようになっていました。北イタリアにはじまった地図製作は地中海沿岸の各地に広まり、1385年にはカタロニアのバルセロナで、アブラハム・クレスケスにより『カタロニア図』とよばれるポルトラノ型世界図が作られました。従来のポルトラノでは陸地の部分には空白か想像上のイラストが描かれていましたが、『カタロニア図』では中国の都市からサハラの黒人王国まで、当時のヨーロッパが知り得たあらゆる情報が可能な限り精密に描かれていました。マルコ・ポーロの『東方見聞録』によってもたらされたアジアに関する情報や、ユダヤの商人から得た北アフリカの情報などが元になっています。
(画像:ポルトラノ海図)
左下がジブラルタル海峡、右端付近がキプロス島
■ 5.コンパス |
コンパス、方位磁石、羅針盤。いろいろな名で呼ばれ南北を指すこの便利な道具の発明者はわかっていませんが、中国人は千年以上も前から風水の占いに使っていたといわれています。11世紀末の中国の書物には、水に浮かべた磁針が北を指すことが、さらに12世紀始めのやはり中国の書物には、航海に使用されていたことが記されています。これが元帝国によって整備された海のシルクロードを通って、インド、アラビアへと伝わり、13世紀に海運国イタリアへ達したとされています。そして1310年フラボ・ジローによって、水の代わりにピボット(方位盤に立てた軸)に磁針を乗せる工夫がなされて、航海用羅針盤が発明されると、広く普及するようになりました。
しかしコンパスを手に入れただけでは航海はできません。方位がわかっても正確な地図の上で自分の位置を示せなければ、どちらへ向かえばよいのか判断できないのです。正しい地図を作るにもコンパスが必要です。港を出て沿岸を航海しながら、コンパスで進行方向を、浮きの付いたロープで距離を確認して地図上に航路を記し、海岸の形状をスケッチしていくのです。それまでの地図は曖昧な情報で描かれた概念的なものでしたが、コンパスが使われるようになって、はじめて測量に基づく地図が作られるようになりました。
当時の羅針盤は角度ではなく、地中海の船乗りに馴染のある12の風向き(例えばシリアの方角から吹く南東風をシロッコと呼んでいた)で表わされて、きれいに装飾されていたので“風のバラ(ウインドウローズ)”とも呼ばれていました。
(画像:羅針盤に描かれていた風向)
〜〜〜〜〜 コラム:磁極 〜〜〜〜〜▼ 地軸と磁極よく知られているように、コンパスは正確には北極を指してはいません。磁針の示す極を北磁極、南磁極と呼び、北磁極は現在カナダ北部の多島海にあります。18世紀はじめ、経度の測定が課題になっていた頃には、北極星とコンパスのずれ(偏角)から求めようとしたこともありましたが、ずれの要因は他にもあり明快な関係を見つけることはできませんでした。 ▼ 偏角をあらわす地図経度を求めることはできなくても、航海者にとって偏角を知ることは、正しい方位を知る上できわめて重要なことです。1698年、ハレー彗星で有名なエドモンド・ハレーは、大西洋での偏角をくまなく測定し地図にあらわしました。ここで彼は実に巧みな方法をとりました。同じ値を示す測定点を曲線で結んだのです。一目で全体像を把握し、変化の傾向を読み取ることができます。これが等値線で、当時はハレー線とよばれていました。等水深線はすでにあったものの、さまざまな事象に応用できることを示し、等圧線、等温線など主題図には欠くことのできない手法となりました。 ▼ 地球磁場コンパスが北を指すのは、誰でも知っているように地球が巨大な磁石だからです。地球内部の流体核内でのダイナモ作用によって、磁場が発生していると考えられています。その磁力は地上十数万キロにまで達し、太陽風から生物を守る大切な役割を果たしています(太陽風は生物にとって有害であるが、より有害な宇宙線が太陽系に侵入するのを防いでいる)。 ▼ 磁極の移動と逆転磁軸は地軸と一致しないばかりか、常に移動しています。北磁極は千年前にはアジア側にありました。それどころか磁極の南北はときどき逆転することがあるようなのです。過去7600万年の間に171回の逆転が確認されているそうです。逆転に要する時間はわずか数千年間と推定されています。生物にはどんな影響があるのでしょうか? 地球上の岩石は、形成されるときに地球磁場によって磁化され、以後変化することはありません。したがって岩石の磁気を測定すれば、形成されたときの磁極の方向がわかります。海洋底は海嶺から押し出されるように形成されるので、磁気テープのように過去の極性を記録していきます。これを測定していくことで、逆転が確認できるのです。 ▼ 大陸移動説もしも大陸間で相対的な位置の変化がなかったとしたら、各大陸の同じ時代の岩石が示す磁極の方向は1点に集まるはずです。しかし実際には違っていました。そこで逆に磁極を固定して、そこから大陸の相対的位置を算出してみると、各大陸が一定の方向に移動していることを示しています。これは大陸移動説の重要な根拠となっています。 |
■ 6.ルネサンス |
中世のヨーロッパは、内部ではのんびりした時代でしたが、周辺部では外敵におびえる時代でもありました。ヘレニズム文化を受け継いだイスラム教国やアジアの遊牧騎馬民族は、文化・科学・軍事力のいずれにおいても、ヨーロッパをはるかにしのぎ、脅かす存在になりはじめていました。8世紀にはイベリア半島がイスラム教徒のサラセン人に征服されています。マッパムンディに描かれている怪物などの奇怪なイラストは、伝説や空想だけでなく、異民族に対する恐怖を象徴している場合もあるのです。
宗教的情熱に燃える教皇や騎士たちは、1096年以来1291年まで、8回にわたって十字軍を結成し、聖地エルサレムをイスラムから奪還しようと遠征しましたが、結局失敗しました。しかしこの結果、イスラム文化との接触がおき、海上と陸上の交通の発達し、ジェノバやベネチアなど交易都市国家が繁栄した結果、教皇の権威がしだいに低下し、教会を中心とする封建社会に大きな刺激を与えることになりました。またアラビア商人を経由してもたらされるようになった東洋の香料は、肉食文化のヨーロッパ人に大きな需要を引き起こしました(肉の腐敗を防ぎ、臭みを消すために)。
12世紀、不思議な伝説がヨーロッパ中に広まりました。プレスター・ジョン(プレステ・ジョアン)とよばれる国王が治める豊かなキリスト教国がアジアにあるというのです。イスラム教徒の大国であるペルシアを倒したモンゴル軍の大汗にプレスター・ジョンの姿を重ねる噂もありました。十字軍の成果が上がらない中、この国と同盟を結めばイスラムを倒せるかもしれないと、考えられるようになり、教皇や国王たちは相次いでアジアに使者を派遣しました。1145年には修道士カルピニ、1253年には同じく修道士リュブリュキがアジアへ向かいました。彼らはカタイ(中国北部)までたどり着くことはできませんでしたが、その旅行記はヨーロッパにアジアの情報を伝えることになりました。こうして大汗がプレスター・ジョンではないことはわかってきたのですが、地図製作者たちはまだ希望を捨てることができず、1459年フラ・マウロの世界図では、キリスト教徒がいると伝えられていたアフリカのアビシニア(現エチオピア)が、プレスター・ジョンの国であると記しています。
1271年ベネチアのマルコ・ポーロが、商人の父と叔父に連れられて、モンゴルの都カンバルク(北京)へ向かいました。モンゴルが中国からペルシアまでの広大な領土を支配していたからこそ可能な旅でした。フビライ汗の信任を得た3人は17年間仕え、各地で重要な任務に就いたり、商売に励んだりしました。95年にようやく海路で帰国するのですが、ジェノバとの戦争で捕虜になり、獄中で作家のルスティケロに旅の様子を話して書かかせたのが『東方見聞録』です。16世紀にポルトガルが中国へ進出するまで、唯一の中国情報として重宝されました。
こうして少しづつアジアの様子が伝わりはじめると、地図にも変化が現われてきました。イスラムの地図から陸地の形を取り入れ、アジア・アラブ・北アフリカの地名が記され、『東方見聞録』から想像されるイラストが描かれるようになり、その分宗教的あるいは伝説上の産物は減っていきます。さらに商業活動の活発化にともない地図の需要が高まってくると、ポルトラノ海図をはじめ、実用になる地図が数多く作られるようになりました。
人・物・金、そして情報が動きはじめたとき、人々はゆっくり聖書の夢から目覚め、現実の世界に関心を持つようになりました。これに加えて1338年にはじまった英仏の百年戦争やペストの流行により、閉鎖的な荘園社会はしだいに崩れていきました。交易を通じて豊かになったイタリアの市民は、進んだイスラム文化とアジア文化に衝撃を受けるとともに、その中にかつて自分達の先祖が持っていたヘレニズム文化(ギリシャ風の文化)の影響があることに気付き、ギリシア・ローマ時代の文化を見直そうとする気運が起こりました。ルネサンスのはじまりです。1445年ドイツでグーテンベルクが活字印刷術を発明すると、『東方見聞録』や1406年にヤコブス・アンゲルスによりラテン語訳されたプトレマイオスの『地理学』が出版されて多くの人に読まれるようになり、世界観が変わっていったのです。