jun のポルトガル旅行記


ポルトガル旅行記 (5/7)


2005年1月5日

アルファマ地区へ


今朝も早起きした。アルファマ地区へ28番のトラムに乗って1周してから、郊外のシントラへ行きたかったからである。 ホテルで朝食をとって防寒具を纏い、表に出るが、まだまだ外は夜明け前。1755年ポルトガルは大地震を受けた。6日間続いた火災で、町のほとんどは焼失、6万人もの人々が亡くなったという。 その被災地から丘を隔てていたため、影響をあまり受けなかったのがアルファマ地区である。 イスラム支配の影響を色濃く残す街並みは、リスボンの下町とも呼ばれ、迷路のような路地、白壁の家々、人々の生活を垣間見ることのできるエリアを1周するのが28番のトラムであった。

トラムの軌道と車道が共通のため、軌道上に駐車車両があると、先に進めない。狭い通りを、軒先ギリギリの急坂をぬってゴトゴトとトラムは左右に大きく揺れる。 ポルトガル人はせっかちなのか、どのトラムに、どこから乗車しても、席に座る前に即座に動き出す。その動き出す瞬間の大きき揺れることといったらハンパじゃなかった。 ポルトガルの人にとっては慣れているので、大丈夫であろうが、乗車直後の大きな揺れを予測しているものの、必ず周りの人が手を出し、支えてくれ、 満員の車内では、おじいさんが席を譲ってくれたのには、何とも申しわけなかった。それくらい親切で温かい国であった。
リスボンの下町アルファマ地区


シントラへ

世界遺産、シントラ
文化的景観が世界遺産になっているシントラへ向かう。シントラへ向かう鉄道駅、ロシオ駅に近い宿泊先を選んだはずだが、駅に着いてみると、まだドアが開いてない。 「あれ?おかしいな?この駅はまだやっていないのかな?入り口は裏からなのか?」と駅の建物を1周してみるが、どうやら他から進入できるところはない。 また元の表入り口に戻ったとき、ガードマンらしき人に尋ねると、ここは閉鎖してSete Rios駅から出ているという。そこはリスボン到着時に、空港でバスターミナルを聞いた場所でもあった。 仕方なく地下鉄Gaivota線『Restauradores』駅からPontinhaゆきに乗車で、6つ目の『Jardim Zoologico』駅に向かう。 ここで20分のロス。

駅の電光掲示板によれば、あと2分でシントラゆきの列車があることを確認して、大急ぎで切符を買い、その電光掲示板に従ってプラットホームに駆け上がると、 ちょうど列車が入ってきたところだった。間一髪間に合ったと、ほっとして間もなく車内検札があった。 電光掲示板で確認したので間違えないとは思ったが、念のため車掌に尋ねたところ、シントラには行かないと言う。 推測だが、どうやら先発の列車が遅れて着ていて、電光掲示板とは違う列車に飛び乗ってしまったらしい。 確認してよかった、と思い、双方が停車する駅を聞き、後発のシントラゆきに乗り換える。リスボンのSete Rios駅から約40分、ローカル線の終点がシントラだった。


何にも変えがたい旅の醍醐味


ここシントラは、かつてイギリスの詩人バイロンが「エデンの園」と呼んだ町であった。 緑豊かな自然と美しい街並みのため、古くから王侯貴族たちに愛されてきた。ポルトガル王室の夏の離宮として14世紀に建てられた王宮のほか、ペーナ宮殿、ムーアの城砦などがある。 私は、ムーア城砦がとても気に入った。大西洋とリスボンが見渡せる大パノラマは、ペーナ宮殿からも同様に見事であるが、廃墟になった城砦を上るときの緊張、 少しずつ視界が開けてゆく感動、長い歴史の栄華をしのばせるところで、バスやケーブルではなく、自分の足で一歩一歩登っていくというのは、何にも変えがたい旅の醍醐味を感じてならなかった。 この日もいつも通り快晴で、こと滞在中一番気温が上がり、日中は17℃まで上がったようだった。 頂上まで登り詰めたときに見た、遥か彼方に光を放つテージョ川と、真っ青な大西洋から吹き抜ける風が大変心地よかった。
ムーア城砦ムーア城砦


アズレージョ梱包

購入したアズレージョ
夕方、昨日のショップに戻り、大きなパネルのまま飛行機で持ち帰る旨を伝えた。2日間通ったおかげで、その店のスタッフ全員とも仲良くなって、写真まで撮らせてもらった。 オーナーからは、他にも情報をたくさん頂き、カフェやレストランも紹介してもらった。そんな会話を楽しみながら、どうだろう1時間以上の時間を費やし、大型装飾品の大梱包が完了した。 このとき、他で購入したガラス製品も同様に梱包していただき、一人で抱えるのがギリギリくらいのパネルの他、 日本から持ってきたダンボール2箱にもタイルや陶器等のコワレモノで満載になる。行きは、空港からバスと地下鉄を乗り継いだが、 明日はホテル玄関先からタクシー以外は選択できないボリュームになっていた。明日はリスボン空港7:00発なので、今晩パッキングをしておかねばならない。 部屋に帰り、他のコワレモノを頑丈にパッキングし直す。


最後の夕食もやはりポルトガル料理


今晩が最後だが、まだ食べたいものがたくさんあると、アズレージョを購入したショップのオーナーに話す。 すると、ポルトガル人しか行かないが、美味しいレストランがあると紹介を受ける。英語メニューがないため、私が食べたいものを予め電話で予約までしてくれ、至れりつくせりだった。 しかも通常は2人分のメニューだが、一人旅ということで、ハーフサイズを用意してくれることまでオーナーは交渉してくれた。

部屋でパッキングした後、紹介されたレストランというより食堂に入ったが、こんなところに東洋人が来るのは珍しいのか、 何も説明する前に、さきほどオーナーが電話してくれた客だと分かり、すべてがスムーズだった。注文もしていないのにワインが出され、これはいらないと言ったら、最後の晩に乾杯だよ! と言って料金は要らないという。最後の晩ということまで伝えてくれていたのであった。私が食べたかった1つは、鴨の炊き込みごはんだった。 お店によって調理の違いがあるが、最後に焦げ目がつくまで表面を焼き上げるところもあるようだ。 それはともかく、食べたかった料理だけに、しかも最後の晩にふさわしいポルトガルらしい、懐かしさと古めかしさと淋しさをひっくるめた、でもそれでいて日常的で温かさの伝わる、 最高の夕食となった。

このノスタルジーを、ポルトガル人は「サウダーテ」と呼ぶらしい。 何とも説明のつかない感情だが、ポルトガルへ出かければきっと分かる、人々の温かい笑顔と出会い、ゆったりとした時間の流れ、テーブルに置かれたものは決して贅沢な料理ではなかったが、 ここ4日間のポルトガル滞在のフィナーレを飾るにはもってこいの身も心も芯から温まる最後の夜となった。
アローシュ・デ・パット


きっとまたリスボンに戻って来よう

幸運の雄鶏幸運の雄鶏
オーナーには、食べつくせなかった料理を話したら、リスボンでは美味い店はないという。そして、もう1回必ずここに来て、美味しい料理に招待するからと、温かい言葉を頂く。 私からも、日本から持参した小さなお土産(100円ショップで買った和紙柄のスプーン)をスタッフ皆に思い出に渡した。 すかさず、今度はオーナーからお店に陳列してある商品を包んで持たせてくれた。マディラ刺繍のテーブルセンター。マディラ島の女性によって作られたハンドメイドによる高価なものである。 さらにもうひとつ、雄鶏の置物。雄鶏伝説のニワトリは、ポルトガルのシンボルでもあり、幸運を呼ぶということだそうだ。今年は本当にいい年になりそうだ。

お店の人に深々とお礼をいい、オーナーは店の外まで見送りに出てくれた。別れを惜しむ瞬間であったが、このとき、きっとまたリスボンに戻って来ようと強く決意した。 遠いところであったが、本当に来てみて良かった、と心の底からそう思えた。それが私にとって、何にも変えがたいお土産であり、宝物でもある。

私が気に入ったお店(土産物屋さん)
Madeira House マディラ・ハウス (マネージャー Antonio氏)
Rua Augusta 133 TEL 21-3426813
場所:ロシオ広場からコルメシオ広場に抜けるAugusta通り、ロシオ広場から歩くと右手方向



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