アヤコ...15歳

「なあ!あやちゃん!あんた、4ラインの関山君しってる?」
5月、窓の外は青葉眩しい晴天の昼休み、仲良しのあきえとおしゃべりを楽しんでいると、
ベルトコンベアーの衝立ての向こう側から声をかけられた。
昼休みの職場に好んで居座っているのは、自分たちだけだと思いこんでいた私とあきえは、
飛び上がるほど驚いてしまった。キャッ!というような短い悲鳴を出し、二人とも殆ど同時に
座っていた椅子から転び落ちそうになったくらいだ。
「なにもそないにびっくりせえへんでもええやん..!」
声の主は、三年先輩のお姉さんで愛称は「ピンキー」..この先輩は真ん丸顔で、この頃の
テレビのアイドルタレントの「ピンキーとキラーズ」の「ピンキー」の髪型に似ていたので
だれかれとなく「ピンキー」と呼びはじめたらしいのだが、顔つきも結構似ていて可愛らしい。
雰囲気を持っていて、入社したての私やあきえも直ぐに親しみを持つ事が出来た。
ただ、背丈はタレントの「ピンキー」には程遠い..会社一小柄な女性なのです。
その先輩が、やっとこさ衝立ての上部から首だけ突き出して、私たちを見て笑っていた。
その格好から想像して、両足は宙に浮いているのだろう、衝立ての向こうに隠れそうになる
顔が、だんだんに赤くなっていく。
「なんなんですかあ!もう、びっくりしたあ!」先に口を尖らせたのは、あきえだった。
私はというと、びっくりしたときのままの姿で、多分、目を丸くしてポカンとしていたに違いなかった。
「そっちに行くから待ってて!!」ドデッというような鈍い音がし、イタタタ...と小さい声がしたが
直ぐに床を踏むサンダルの音に変わった。
20メートルほどのコンベアー作業のレーンを回り切って「ピンキー」先輩は、私とあきえを前にした。
相変わらず、丸顔の可愛らしい笑顔を保ったままである。
「あのな、あやちゃん、4レーンの関山君知ってるやろ!どない思う?」「どないって?」
先輩の言ってる意味が解らない私は、オーム返しに言葉を返した。
「あのな、あやちゃん..関山君、あんたが好きや言うてんねんわ!」「.....!」
私の言葉を遮るように先輩は話を続ける。
「うちらとは.付き合いそないに長ないねんけど、ごっつう良え子やいうのんは解んねん、
真面目やしな..だいぶん前からあやちゃんの事見てたみたいやのに、なんにも言わへんから
こっちゃから聞いたってんや..ほんであやちゃんの事聞き出したって訳何やねんけど..。
なああやちゃん..つきおうてやってくれへん?」
この先輩の言っている「関山君」、知らないでもなかった。
先輩には、付き合ってる彼氏が居るのだが、その彼氏と同じ仕事場のレーンに居り、私より一年先輩である。
「ピンキー」先輩の彼氏は上背がある方で、小柄な先輩とのでこぼこコンビぶりは社内で知らないものは
居なかったし、また、「関山君」含む先輩たちのグループの仲の良さも周りから見ても羨ましいほどだったから、
折りにつけ目にする事も多く、大抵は「関山君」もその中に居あわせた。
背が際立って高く、細い黒縁の眼鏡をかけていて、一見は神経質そうな雰囲気に見て取れた。
ただ、私は関心を持って見ていた訳ではなかったので、それ以上の「関山君」自身は知らないのだが。
まあ、どないに思うか?..と聞かれれば、悪い印象は持っていない..という返事になってしまうだろう。
私は、あきえの手前照れくさい気分もあって、この時は曖昧な返事をしておいた。

退社後の帰り道、あきえは待ってましたとばかりに「関山君」の話を切り出した。
「あやちゃん、うちなあ.関山君の事ちょっとやけど知ってんねん。
あの子、まえな、うちの湯屋に来てやってん。」
うちも番台に座ってた事あったから、顔見知りになるやろ..同い年くらいの男の子やから
なんか、いつも恥ずかしいてなあ..うーん..こんなん言うてええのんかなあ..。
あのな..あの子ん家福祉受けてやるん..福祉の風呂券って知ってる?
うちのお母ちゃん民生委員やってやるから、毎月風呂券渡すんやけど、
大抵は関山君が取りに来てやってんな..関山君双子のお兄ちゃんが居てんねんけど、
重度の障害あってなあ..時々人の少ない時間にお兄ちゃんを風呂に入れてはったん。
ほんまは見たらあかんねんけど、見えてしもたんしゃーないから言うねんで!いやらしい言わんとってな
ほんまにじっと見たわけやないねんで!ほんまやで!...ほんでな、関山君、ごっつう優しいねん。
見た目は痩せに見えんねんけど、お兄ちゃん抱いて風呂ん中移動しやるねん。
いやあ..たくましいなあって思うたわ。
あ~!!何その目!疑ってるやろ!ちょっとしか見てへんて!ほんまやて!」
あきえは脱線しながら「関山君」の家庭事情らしい事をのべつまく話する。
余談だが、あきえの家は下町で湯屋をしていて、末っ子のあきえは良く家業を手伝う孝行娘と
本人が自負して言うのだから可笑しい..でも、確かに湯屋の仕事はたいへんらしい。
あきえの湯屋は、燃料に薪を使っていたし、閉めた後の洗い場の掃除も手伝っていたのだから。
湯屋というのは老若男女問わない客が出入りする場所で、あきえの耳には下世話話や耳寄りな話まで
さまざまな情報となって入って来るらしく、同い年の私なんかが知らない事を面白く話して聞かせてくれる。

「関山君」の家族構成は双子の兄と両親らしいのだが、父親は病弱の上兄も重度の脳性麻痺と
いうことで生活を福祉に依存し、「関山君」一人がそれぞれの面倒を見ているという話の内容だった。
「ほんで、あやちゃん、どないするん?付きあうん?」
正直言って、私は、あきえの話を聞いているうちに気が重くなっていた。
「関山君」は別世界の人..そんな気がしたのである。

私の気持ちとは裏腹に、話は勝手に一人歩きしてしまう。

私は、どういって断ろうかと思案していたのだが、あきえや先輩は、
私は「関山君」と付合うと思っているらしく、やたらと二人きりにしたがっていた。
二人とも悪気のないお節介を楽しんでいるのである。
「あやちゃん!ちょっと屋上に行かへん?ええ天気やし付きおうてえな!」
どんなに気持ちのいい晴天日でも、日差しを嫌ってお日様から隠れてばかりいたあきえの言葉とは
思えない誘いに嫌な予感がした。
でも、お日様大好きの私としては、断る理由も見つからないから「ええよ!」と言うしかない。
(何か企んだな...。)私の怪訝な眼差しも、妙に上機嫌のあきえには何処吹く風といった具合に
無視されてしまった。
段差のある煉瓦色の階段を上がり、むわっと熱気を感じる屋上に出てみると
真っ昼間のコンクリート敷の屋上は真夏並みの暑さだ。
渇ききって白くなったコンクリートにお日様が反射して眩しさを感じる。
自然と目を細めてしまう。目の奥で赤い色が点滅しては消えて行く。
手で日差しをかざしながら、手招きしている「ピンキー」先輩と先輩の彼氏のほうに歩み寄ると
二人の後ろにもう一人の姿があった。ますます嫌~な気分である。
「関山君」は、やたらと眼鏡のフレームに触る仕草を繰り返していた。
あきえは、スキップするように先輩たちの側に走り寄り、何やらゴソゴソと耳打ちすると
「関山君!男あげやー!」「邪魔もんは消えたるからなあー!」なんて言ってる。
(このお調子もんのあほたれあきえ..。人の気も知らん取って何ゆうてくれんねん!)
困ったような、はにかんでいるような表情の「関山君」の鼻の頭には、汗が吹き出していた。
「ピンキー」先輩の彼氏が「関山君」を私の前に押し出すと、小声で「頑張りや!」
その言葉に、「関山君」は益々汗をかき、おまけに真っ赤に顔を染めてしまっていた。

しばらくは黙ってその場に居た。
たぶん、お互いに何を話そうかと考えていたと思うが、先に言葉を出したのは「関山君」だった。
「ごめんな!」「何で?」私は、酷く不機嫌な顔をしていたのだろうか、「関山君」のうつむきかげんに
すまなそうにしているのを見ると、気持ちにチクッと刺すものを感じてしまった。
「こっちが勝手に言うてるだけやし、僕みたいなん嫌やってんやろ!ごめんな!」
「関山君」は、そう言いながら、ますますうなだれていく。
私は、何か酷く悪いことをしているような気分になってしまったのである。
私は、「関山君」をどう思っているかを話す事にした。

先日、あきえに聞かされた、「関山君」の家庭事情に触れるのは避けようと考えもしたが
そのことも私の気持ちのもやもやの一つでもあったから、理由は説明できないが
不安のような、異質な感じを持ってしまったことなどを伝えたのである。
もちろん「関山君」の家庭事情を知った経緯も含めてである。
「関山君」は、少し戸惑った表情を見せはしたが、一つ一つ頷いて聞いていた。
「関山君」は、穏やかな笑みを浮かべて聞き、私の話すことの一つにも否定の意味の言葉を
出すことなく、あきえも知らない彼自身の事を話してくれたのである。
しかし、私は、話しながら、私の話の内容に意味の無さを感じていく不思議な思いにかられていく。
そして、それは、もしかしたら差別的に聞こえるかもしれない私の真意が何かを理解し、真っ直ぐに
受け止めて答える「関山君」の姿に感動し、私が好意を持ちはじめたきっかけに変わっていた。

あきえは、あの時、私と「関山君」の間で密な話の有ったことなど知らない。
もっとも、お互いがどんな気持ちでいたかなどと気を遣う質でもないから、気にもしてないだろう。
そういう大雑把さと無神経さが、あきえの良いところなのである。
こういう言い方をしたからといって貶しているのではないので悪しからず。
さて、先輩たちも暫くは知ることもなかったのだが、「関山君」が想いの叶った事を報告をした時に
話したというから、後日顔をあわせた時は、何ていうか照れくさくてしかたがなかった。
そして、交際が始まっても、なかなか二人きりになれなかったのである。

仕事帰りの夕暮れ、「関山君」と私は国鉄の線路沿いを好んで歩いた。

其処は連なる工場の裏側で、一階部分ほどの高さの線路の土手に沿って、幅2メートル程の通り道が
駅近くまで続いていた。しかし、途中、駅を直ぐ前にして反対方向に曲がることになるので、駅に向かう
人がこの道を利用する事は無く、当然、仕事の終わった時間だから人に出会う事も少なかったし、
何よりも、あきえたちから離れられる唯一の方法だったのだ。

その事を「関山君」に「メモ」で知らされたのは、ほんの数日前だった。
あの屋上での日以来、私は「関山君」と昼食のテーブルを一緒にするようになったのだが
いつも決まって「ピンキー」先輩カップルとあきえ、それに何人かの先輩グループが、私たちの両側に
席を取っていたから、うるさいのなんのって..。食べてるのか喋っているのか笑っているのか
とにかくずーっとおしゃべりが絶えないものだから、私と「関山君」が会話を交わす隙もないのである。
だから、どちらからともなく急いで食べ、揃ってその場を離れようとするのだが、大抵はトランプか
バトミントンに引っ張り出されて、午後の就業のベルに追い討ちをかけられる事になってしまっていた。

そんなある日の就業中、私の居るレーンに「関山君」が顔を見せた。
「いやあ、「関山君」やわ!何の用やろなあ!箱持ってるけど何やろ!!」
あきえは、目ざとく見つけ仕事の手を休める。私も手を止め、彼を見る。
「関山君」は箱を抱えて真っ直ぐ私たちの方に来ると、にやにやしてまだ何か言いたげなあきえの
座る仕事机にそれを置くと、「その機種終わったら、此れ流すんやて班長にいわれたんや!」
「関山君」は、あきえの顔を見ないようにしているみたいに俯いたままでそう言った。
「え~っ!!うちら、4レーンの機種した事ないねんでえ!!そんなん聞いてないわあ!」
あきえは「関山君」の置いた箱の中身を覗きながら、大袈裟に声を張り上げて言った。
「僕は言われて持ってきただけやから...。」
「班長~!!谷中さ~ん!!」
あきえは関山君の何か言うのも聞かずに席を立ち、大声で私たちのレーンの責任者を呼び始めた。
「あきえ!行って聞いてきたらええやん!そないに大声ださんで!また、怒られるで!」
あきえは、何かあるたびにすっとんきょうな声をだす質で、「赤ら顔の偉いさん」に其の度に
注意を受けるのだが、少しも懲りることなく毎日のように「偉いさん」の赤い顔をもっと赤くさせていた。
そして、やっぱり何時ものように最前列の衝立ての向こう側から真っ赤になった「偉いさん」の
顔が見え、工場中に響く場内マイクに あきえは呼び出されていった。
カッコンカッコンとサンダルの音を響かせ、「偉いさん」の元に行くあきえの後を、私たちのレーンの
責任者も小走りで追って行く。
「ようクビにならんもんやと感心するわ...。あきえ、課長さんの事恐ないんやろか!」
赤ら顔の「偉いさん」は、私たち製造課の課長さんで、かなりの肥満で何時も汗で白いシャツに
汗染みを浮かせ、フーフーいいながらチョコマカと良く動く人だったが、笑っていても怒っていても
顔が赤く、女性のあきえに引けをとらないほど甲高い声をしていた。
関西出身ではなかったのか?関西弁を話さず、私たち工員を「君!」と呼ぶ。
その辺のおっちゃんの雰囲気を持っている親しみやすい社長より、威張った雰囲気を持って
いたので、「偉いさん」なのである。
話が逸れてしまった...。
あきえを見送って、私は「関山君」に視線を移した。
「関山君」は、ちょっと心配そうにあきえを見ていたが、直ぐに私の方に向き、作業着のポケットから
紙切れを出すと、「後で見てな!」そう言うと それを私に手渡し自分の仕事場へ帰っていった。
私は、直ぐにもその紙切れを見たかったのだが、先ほどの場内マイクの呼び出しを聞いた
「ピンキー」先輩が、器材箱に隠れながらこちらに来ていたのがコンベアーの衝立て越しに見えたので、
午後の休憩時間に行くトイレの中で見る事にした。たぶん、あきえが連れションでトイレまで一緒だが
個室の中までは入ってこないから、その方が安全に見る事も出来る。
散々嫌味を言われて仕事場に戻ってきたあきえだったが、「偉いさん」の小言なんてなんのその、
「偉いさん」の形態模写なんてして見せて、私を笑い転げさせてくれたのである。
声を押し殺して笑うのは、窒息しそうなほど苦しい..。
小心者の私は、笑っている所を見つかってはとハラハラドキドキしているのだが、あきえの
おおらかなひょうきんさに何時もつられてしまう..彼女が居たから、青春のひとときが輝くほどに
楽しいものになったのだと言えるだろう。

..今日、残業は30分で上がります。皆には内緒です。国鉄土手の鉄塔前で待ちます..
..遠回りになるけど、土手道があります..

紙切れにはそう書いてあった。その日、あきえと私、「ピンキー」先輩たちは1時間の残業になっていて
「ピンキー」先輩たちのレーンに居る「関山君」も同じ時間帯の残業が組まれていたのだったが
「関山君」は何か理由を造って先に上がるつもりらしかった。
私は、いつものように あきえや先輩たちと一緒に仕事を終え駅まで行くと、いつものようにバス停に
立った。乗り場の違うあきえや先輩たちのバスが先に発車するのを見送って、私は、約束の場所へと
戻る。ぐるっと回り込んだ道を行くと土手が見え、機械工場の後ろに大きな高圧鉄塔の先が見えた。
工場の長い塀を横目に少し行くと目の前に土手が迫り、太陽が遮られて薄暗い影に入った。
塀の角に差し掛かった時、ひょこっと人影が飛び出した。
それまで見たことなかった笑顔の「関山君」が足早に近づいて来る。
「ごめんね!長い事待たせて!」私もちょっと足早に近づいた。
私と「関山君」は、並んで歩き始めた。どうしてか話が出てこない。さっきまで二人になったら
何を話そうかとわくわくしていたのに、何を話していいかわからなくなってしまったのである。
時々お互いに顔を見合わせるが、喉元まで出掛かっている声が言葉にならない。
ただ、お互いににっこりと微笑んでしまう。どうにかするとぎくしゃくとした油の切れかかったロボット
みたいな歩き方にまでなってしまいそうで、やたらと手の振りと足の動きが気にかかる。
そうすると、今度は緊張まで意識してしまうのだった。
体中にその緊張が行き渡ってしまったかと思うほど、ガチガチに力が入っているのが解かる。
..うわあ~どないしょう~!手と足が一緒になりそうやー!!..
緊張でパンクしそうな気分で、私は隣の「関山君」の足元に目を移した。
..あれ?..あ..
「関山君」の手と足は同じ側が同時に振られていたのである。
私は、堪えきれなくて笑い出してしまっていた。そして、「関山君」自身も自分の手足の振りに気が付き
バタバタッって感じの動きに合わせ、自然な足の運びにしようとするのだが、どうしても一緒になる。
顔を真っ赤にして焦りまくってしまっていた。
私は、立ち止まった。「関山君」も立ち止まった。
お互いに顔を見合わせてしまうと、堰を切ったように笑いが込み上げてき、地面に座り込んで
笑いころげてしまった。
「あやちゃん!手と足一緒になって..僕と同じや!!」
「関山君」が眼鏡を外し、笑い涙を何度も手で拭きながら言った。
私は、頷きながら声も出ないほどの笑いのつぼにはまっていて、涙が止まらない。
ひとしきり二人とも笑っていただろうか..ようやく落ち着いて呼吸も整い、その時はすっかり
気分も解れていたのである。
さっきまでが嘘のように身体が軽く動き始めていた。気分が、うきうきと弾んでいる。
隣に並んで歩く「関山君」がとても身近に感じられていく。
「関山君」も同じ気分なのだろうか..とても穏やかな笑顔に変わっていた。
私たちは、何時の間にか尽きない会話に夢中になっていった

デートなんて言葉は私たちには幼すぎたのか、ただ、純なだけだったのか


仕事が終わると、いつものお決まりのコースを歩きながら話をする..他愛の無い互いの日々の事
そして、たまに給料日の翌日には、喫茶店にも入ったし、お腹が空けばお好み焼きを食べた。
月に一度くらいかな、安い大衆中華飯店に食べに入った。見た目は殆ど普通の大衆食堂といっていい。
レストランなんて雰囲気はないが一応、メニューは中華だけだったから、やっぱり、中華料理専門店
だったのかな。関山君は中華丼、私は具のいっぱい入ったチャンポン。コースとかいろいろあったけど
私たちには、贅沢な食事メニューを選べる余裕がない。中華丼とチャンポンの両方でも金額的には
当時で800円位にはなったかな。一月の給料が13000円の時代である。
何を食べても飲んでも、お互いにおごりあうなんてこともしなかった。
関山君は、自分が払うからと言い張る事が多かったが、私も家計を支える身の上だったから関山君の好意に
甘える事に後ろめたさを感じていたのかも知れない。
私たちは、夏の日の長い午後を私の家の近くまでずっと歩き、バスに乗れば30分余りで帰れる
距離を3倍近い時間をかけても、話していたかったのである。
少しの時間でも一緒に居たい..。その頃はただそれだけで幸せ気分になれていた。

大阪の千里で万国博覧会の開催された年、関山君と私は、初めて朝から一緒の時間を過ごす日を
迎えた。真夏の真っ盛りの日、うだるような暑さの中、博覧会会場の日本庭園は太陽を遮る高木樹木は
無く、整地された人工のエンジ色の遊歩道に反射する。
いくら二人っきりの時間をすごすでも、目に前が暗くなるような猛暑に、うんざりというのが本音だった
ろうか、私は、人でごった返しているパビリオンに入る事を提案。
たぶん、関山君も同じような思いがあったのだろうか、あっさりと返事が返ってきた。
「クーラー効いてるかな?」
私たちは、パビリオンの催し場へと向かった。
行ってびっくり!延々と長い列が伸びている。それでも、私たちは最後部の列に並ぶ事にした。
そこが、何のパビリオンなのかも解からなかったが、同じように若いカップルが目立って多かったことで
何となく列を離れる事も無く並び続けていた。暑さの程度は日本庭園もそこもそう変わらなかった
気もするのだが、同じ暑さの中、同胞?が居るって事が延々3時間半余りも並び続けさせたのだろうか。
カラカラに乾いた喉も、Tシャツが汗で透けてしまうほどになっていても、もう、その頃は、暑さよりも
自分たちの前後に並ぶカップルたちの仲むつまじさに、圧倒されて、手もつながないで横並びになって
いる自分たちが、場違いな所に居るような気分で、居心地悪さを感じていた。
そんな折り、いきなり列が動き始めた。私などは小走りにならないと追いつけない程早い動きだ。
もたついてる私を追い抜こうと直ぐ後ろのカップルが、私を列の横に追い出す格好に並んでしまった。
列を維持する為のロープが腰に押し付けられ痛い。その時、私の廻りの人を押しのけるようにして
関山君が私を引っ張ってくれた。
関山君が掴んでくれた手は力強くグイグイと関山君の身体に添うまで私の身体を引き寄せていた。
関山君の、汗ばんだ熱い体温が直に伝わる。
結局その形のままでパビリオンの中までいき、殆ど廻りの展示物を立ち止まって見る余裕もなく、
人の流れのままに何時の間にか、出口まで出てしまっていた。
むーんとする熱いきれの中、今でてきたパビリオンを振り返ると「ソビエト連邦..」
という文字が張り出された案内が書いてあるのが目に付いた。
「ソビエト..だったんやね!」私は、人込みから開放され、ちょっとの時間でも涼しかった館内のお陰で
汗で湿ったTシャツの背中の冷たさに気持ち良さを感じながら、独り言のように言った。
「うん!」短い返事が返された。
関山君の手は、さっきのままにしっかりと私の手を握っていたが、それに気づくと何か悪い事をしたみたいな
感じに受け取れるくらいに、パッと放した。寄り添っていた身体も離れた。
汗が引いていた関山君の額にも鼻の頭にも、また汗が吹き出し始めた。怒ったような表情になっている。
「どないしたん?..うちがとろいから怒ったん?」私の問いにその時は、関山君は返事をしなかった。
訳が分からないまま、気まずい時間が流れていく。
「あやちゃん!あのな..気い悪せんとってな!」さっきまでの関山君の怒ったような表情が今度は赤くなっている。
「手つないだら、あやちゃんの胸が僕の腕に触れるねん..だから..その.僕困るねん..。」
「.....。」
そんなつもりは無かったが、背の高い関山君と手を繋ぐと、どうしても関山君の腕が胸の前当たりにくるので、
時々、触れてしまっていたらしい。
私は、そこかしこに居るカップルの様に、関山君と手を繋いで歩いている事が嬉しかったものだから
そういう感じには全く無頓着だったのである。私は、関山君を男性と意識してなかったのかも知れない。
「ごめんね!」それしか言えなかった。何て言っていいのか言葉が浮かんでこなかった。
その後は、こじんまりした何処かの小さな島のパビリオンを幾つか見てまわったが、先ほどの
パビリオンと違って、閑古鳥がなくほど空いていたものだから、汗が完全に乾くほどゆっくりと
見てまわった。関山君とは前後になったり、横並びになったりしながら。
そうこうしていると場内アナウンスが閉館時間を放送し始めた。私たちは、バスの乗り場へと向かった。
ものすごい人だかりになっているバス乗り場には直ぐに着いたのだが、乗り場周辺は群集の
固まりのようになっていて、右往左往しなければならなかった。
メガホンを使った案内の声が、乗り切れないので待って欲しいと言っている。
次々と満席状態のバスは会場から離れていき、それでも、溢れかえった群集が残っていた。
十数分後には叉バスが来て、満席にして離れていく..
それなのに、乗り場の群集は増えるばかりで減っていく様子が無い。
とうとう、罵声を浴びせ始める男性が出始め、それをなだめようと警備員がぞろぞろと出てくる。
時々、見えない群集の向こう側で女性の悲鳴みたいな声まで聞こえ始めた。
誰かが、「このまままっとったら、千里からの電車に乗られへんのとちゃうか!」そう言った。
その声にざわざわと人の声が広がり始める。
その内に、バスが来なくなってしまった。
ただ、メガホンの叫ぶような声が「もう暫くお待ち下さい!」を繰り返してはいたが...。
パビリオンの照明が徐々に消され、暗い空間が広がりはじめた。
「ゲート開けて歩いた方が早いで!」その声に人の動きが崩れ始めた。いっせいに走り始める男女。
子供連れの家族なのか、泣き叫ぶ子供を抱いてゲートに向かって走っていく。
「うちらもゲートに行く?」
私は、騒然とした廻りの様子に、じっとしていては何かが起こるような不安を抱いた。
入場した時に通ったゲートは、やはり殺到した人で膨れ上がり、一つ叉一つと強引に開かれていく。
その中のゲートからはじき出される様にして外に出る事が出来た。
曲線を描くように道路が続いている。照明灯が点在して照らしているが、幾つかのゲートから
出てきたらしい人がバラバラと道路に出てくる。
時々車が脇を通りすぎていくが、中には、停車して歩いている人を乗せている車もいた。しかし
数台も続けてくる事も無く、期待しても無駄だろうと道のあるままに暫く歩いた。が、くねくねと
曲がりくねった道路は照明灯の明りが先細りのようになって遠くまで見え、幾ら歩いても街らしい
ネオンの一つも見えない。永遠に人里には出られないのではないかと思えるほど心細く、昼間の
暑さが嘘のように身体に当たる風が冷たく感じる。道路が交差して居る場所があった。
先を歩いていた数人が、ガードレールを乗り越え、芝生の植え込みを這い上がり始めた。
「駅やー!!あれ、駅とちゃうかあ~!」上り切った一人が指差して大声で言っていた。
私たちも植え込みを這い上がって道路に出てみた。
確かに駅舎らしい建物を明りが浮き上がらせていた。その後ろには町並みの明りが点在して見える。
「やったあ~!」「ふ~!疲れたあ..どんだけ歩いたんやろ!」様々に、ほっとした言葉が
辺りに居る人たちの口から出ていた。
「あやちゃん!大丈夫?しんどかったやろ..。」
関山君が、私の肩を軽くとんとんと叩くようにして言った。「大丈夫やって心配ないよ!」
正直言えば、座り込みたくなるほど疲れていたのだが、きらきら輝いてみえる駅舎や街の明りを
見たとたん、走り出しても平気なくらいに元気を取り戻していた。
今度は、軽い足取りになって歩いている。小走りになるくらいに早足になり、そして、走っていた。
私は、線路の見える道路に出ると後ろを振り返ってみた。
森のような暗い部分の向こうに、ボーっと青白い明りに浮き上がって太陽の塔の姿が見えた。
そして、たぶん私たちが歩いてきただろう曲線の道路の照明灯が、途切れたり繋がったりして
暗い空に点在して見えていた。

駅舎の前のバスターミナルには、明りを消したバスが何台も止っていた。
「いや..なんでバスがあるのに来やへんかってんやろ?」歩いて駅に着いた人々は、皆、思ったに
違いなかった。
深夜11時過ぎていた。2時間近くも歩いた事になる。
幸いにも大阪駅に着いた時は、まだ終電に間に合う時間だった。
だが、私の自宅近くの私鉄の駅に降り立ったのは日付が変わった時間になってしまっていた。

関山君は、私を自宅前まで送ってくれ、私が親に叱られるのを心配しながら帰って行った。
「僕が誤った方がええんとちゃうかな!!」
関山君の気持ちは嬉しかったが、門限に遅れたのは関山君の責任ではなかったし、それよりも、男の子と
二人きりで遊びに出かけた事になっていなかったので、そうされると、反って困る事になる。
思ったとおり、数年分の小言を一時に集めたくらいに、こってりと叱られてしまった。
最初は、グループで行ったから遊びすぎて時間に遅れた...なんて誤魔化すつもりでいたのだが
どうやら、しっかり窓から私たちの姿を見ていたらしく、誤魔化しを言う前に言われてしまった。
「15の小娘が男と朝帰りするやなんて、ふしだらもええかげんにしい!!」
「そないな不良娘は、うちの子や無い!出ていきなはれ!帰ってこんでもええ!!」
「ふしだら..不良娘..ようそんなこと言うてくれるわ、遅なった理由くらい聞いてくれても
ええやんか!好きで遅うなったんとちゃうねんで!!」
しかし、怒りきった母には取りつく間もなかった。
翌日、仕事から帰ると、テレビのニュース番組で昨日の混乱の様子を話していた。
どうやら、入場者数を大幅に超えた人数を、入場制限時間前までに入れすぎていたのに
気づかなかった上に、バスの運行時間を平常時と同じで運行し、最終バスをだしたが
実際の計測人数よりも大幅に多い入場者が場内に居て、最終バスの出た後も臨時バスを出したが
待ちきれなくなった客が騒ぎ始めた事、閉館時間を忠実に守ったパビリオンの明りが消え、
取り残された人の不安をあおる結果を招いてしまった事などを解説していた。
どうやら、私たちは、博覧会開催以来、運悪く最高の人手になった日に行き、騒ぎに
のって早とちりして、勝手にしんどい長旅をやってしまったらしかった。
親を誤魔化そうとした見返りだったのかもしれない。
その後、門限に遅れた事に関しては何も言われなくなったが、
関山君との付き合いには、しつこいくらいにうるさくなった。

博覧会事件以来、仕事帰りの時間にまでうるさく言われるようになったが、私たちの歩きながらの
楽しい会話だけのデートは、それからも数ヶ月続いた。
そんなある日の土曜日、関山君が私を自宅に誘ったのである。
翌週の日曜日に行く事になったのだが、関山君の言うには条件があった。
関山君には、身体に障害のある兄が居るのだが、その兄と自分の為に食事を作って一緒に食べて
欲しいと。ゲームをしたり、会話もして欲しいと。
私は、深くは考えなかった。
約束の日曜日、駅まで迎えに来た関山君と会い、少しの時間喫茶店で話をした。
丁度お昼前だったので、駅前で買い物をしそのまま関山君の家に向かった。
昼食のメニューはシチューとサラダのつもりで買い物をして行った。
関山君の家は、工場街の奥まった所のアパートに一階だった。
玄関脇に置いてある車椅子が目に止った。私の廻りでは見たことの無かった物である。
「あやちゃん!入って!」関山君に促され、部屋に入った。
部屋を仕切る襖や障子というものが取り外され、一つの大きな広間みたいにしてあった。
板の間の台所が、のれんごしに見えたが、とりあえず、通された場所に座っていた。
「あやちゃん!兄ちゃんがご飯食べたいっていうてるから、作ってくれる?ごめんな!」
私は、先に関山君のお兄さんに紹介されるのだろうと勝手に思っていて、どういう風に挨拶しようかと
考えていたので、いきなりの申し出にびっくりしたが、とりあえず、買った食材を手に台所に入り、
関山君に調理器具を並べてもらって支度にかかった。
「あやちゃん!兄ちゃんやねん。仲良うしてな!」
ほとんどの材料を煮始め、サラダを盛り付けしていると、後ろから関山君の声がかかった。
振り返ると、そこには、玄関に置いてあった車椅子とは違う形の車椅子に乗った関山君の兄と
関山君が、にこやかに私を見ていた。そっくりである。双子なのだから不思議は無いのだが
関山君が座って、関山君のお兄さんと同じ目線に並んで居ると、見分けが付かないくらいに似ていた。
「はじめまして!***アヤコです。お邪魔しています。」
そんな風な挨拶をすると、関山君が、車椅子を押して私の側まで関山君のお兄さんを連れてきた。
「こんにちは!兄の健一です。よろしく!こんな所に来てくれてありがとう!」
たどたどしい不自由な言葉使いだったが、そんな風に聞き取れた。
関山君のお兄さんは、私が思っていた様子とは全く違っていた。..というより、まるで知識の無かった
私は、正直なところ視線を何処に移したらいいかと思ったのである。
関山君のお兄さんは、私の様子に気が付いたのだろう、ニコニコしながら
「びっくりしてもいいよ!気持ち悪かったらそう思っていいから。」そういったのである。
私は、「ううん!!ちがうんです!そんなん思うてないです。でも、びっくりしました。」
正直な気持ちを言ったつもりだった。関山君のお兄さんは、それでも、ニコニコと笑顔で居てくれた。
昼食を食べながら、関山君に話を聞くと、関山君のお兄さんは殆ど外に出た事が無く、年に何度か
病院に検診で行くだけだと。関山君は、私の事を良く話して聞かせていたらしい。
まだ、私と親しく付合う前からの私が、どんな感じの子だとか、殆ど毎日聞いていたと言う。
私は、何か、こそばゆいみたいな変な気がしたが、関山君が私を想ってくれていたんだと思うと
少し照れくささと、嬉しさの混じった感じを受けていた。
ただ、一つだけ、気になってしまった事があった。
それは、二人が並んで、私の事を話する時、同じような視線を感じた事である。
弟の関山君とは、殆ど毎日顔を合わせ会話をし、体に触れる事は無かったが関山君の存在を
いつも身の回りに感じていた。しかし、関山君のお兄さんとは今、初めて顔を合わせたのである。
それなのに、昨日の私の服装の事から、おしゃべりした会話の中まで側で見ていたかのように知っている。

私は、話を他に逸らせて、ゲームなどをするように持って行った。
関山君がトランプを持ってきて、暫くはそれで時間を費やした。
関山君のお兄さんは、良く笑った。そして関山君も笑った。
私も楽しくはあったが、関山君と二人の時のような
遠慮の無い笑いかたは出来なかった。
その場では、出来るだけ取り繕った笑顔で居た。

時間が過ぎて、私は関山君の家を後にした。
酷く芯が疲れたような気分の重さがあった。

其の日からも、いつものように関山君との付き合いは続いていた。
相変わらず、あきえや先輩たちに冷やかされたりしながらも、少しの時間も会話を楽しんでいた。
いつものように、線路沿いのコースを歩いていた時である。
関山君が、叉、家に来て欲しいと切り出したのである。私は、戸惑いを感じた。
前回に行った時の事が頭を過ぎっていた。
関山君は、多分、あれからも私の事を一部始終話して聞かせているのだろうか。
思い切って、関山君に聞いてみた。
「お兄さんには、どんなことまで私の事を話してるの?だってね、話の中にいつも
にいちゃんがね...っていうてるんよ。私は、お兄さんの話の種なん?」
「え..ああ..兄ちゃんな、あやちゃんの事話すのん、すごい喜ぶねん。だからみーんな
話して聞かしてやってるねん。兄ちゃん、誰とも話せえへんし、誰ともあわへんし、僕が話して
聞かす事だけが楽しみやから..あやちゃん、僕と同じくらいに兄ちゃんとも友達になってくれるやろ!」
私は、答えに詰まった。
何て言ったらいいのか..関山君のお兄さんは私にとっては、ただ関山君のお兄さんというだけのことであって
まだ、友達とかそういう感じには思えていなかったし、何よりも、日々会ってもいないのに
会っているかのように、会話の中身まで知られている事が、気分的に嫌だったのかも知れない。
私は、都合が悪いからと断ってしまっていた。

関山君は、数日ごとに、家に来て欲しいと言うようになった。
「兄ちゃんが会いたがってるから..。」私は、関山君と話をする時間を苦痛に感じるようになって行った。
私は、意図的に関山君と話すきっかけを逃すようにしていったのである。
仕事中、離れたラインの向こう側から私の方を見ている関山君の姿が見られるようになった時
私は、あきえに言った。「うちな..会社やめるねん。」
素っ頓狂なあきえの声がまたもや、大きく響いた。
休憩時間になるのを待って、あきえを屋上に連れ出した。
以前と違って真冬の屋上は、ふきっさらしで体の芯まで冷えあがりそうなほど寒かったが
寒いこの時期に屋上に上がってくる社員は居ないので、内緒の話をするには丁度いいのである。
「家の都合で、止める事にしてん。もっと給料のあるとこにいかなあかんねん。」
私は、関山君とのことを話さないことに決めていた。
親友でも、理由を話さない方がいいと考えたのだ。関山君は、あきえとも友達なのだから。
あきえは、関山君が可哀相やとしきりに言ったが、いつでも、会おう思うたら逢えるんやからと
言葉を繕った。お喋りのあきえが、私より先に先輩たちにも話してくれるだろう。

其の日の帰り道、関山君と待ち合わせて久しぶりに並んで歩いた。
関山君は、機嫌良い顔で居たので、話するのを躊躇ったが会社を辞める事を切り出した。
関山君は、酷く驚いていた...どうして?なんで?を繰り返して聞く。
何日も自分を避けていた事に気が付いていた筈だから、私の退社の理由が家の事情で無い
くらいは察していたようだった。
私は、家の事情で辞めるんだと言い続けたが、関山君が、それなら日を決めて会おうよ..僕が
迎えに行くから..と。
私は、もう、会わない事を口にした。
かれは、怒りからか顔を真っ赤にしていたが、そのうちポロポロと涙を流していた。
私も哀しかった。
出来る事なら関山君に関係ない理由で、関山君から離れられたら、思いっきり悲しめたのにと。
沈黙のまま、家の近くまでただ並んで歩いていた。
私鉄沿線の踏み切りの音が鳴り始め、曇っていた空から大粒の雨まで降り始めた。
関山君も私も傘を持っていない。瞬く間にびしょぬれになっていく。
通りすがりのおばちゃんが怪訝そうな顔をして私たちを振り返っていく。
「さよなら..。」私は、踏み切りの上がるのと同時にそういって駆け出していた。
上がりきった踏み切りの向こう側に、じっと立ったままの関山君の姿を一度っきり振り返って見た。

色んな思い出が頭を過ぎっては消えた。
博覧会、お好み焼き、あんみつ、かき氷、中華丼、チャンポン、遊園地のジェットコースター、
夕焼けの須磨浦公園。そして、わざと居残った残業でのアンパン。
たった一年ほどの思い出は、別れの時には、こんなに楽しかったと思えるものなのかな..。
アパートの屋上で大粒の雨と同じくらいの涙を流しました。
翌日、退職願いを出しました。
事務所から、工場が遠くに見えました。57番のタイムカード。
**年11月5日、退社時間PM2:25 ....。


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アヤコ・其れから