夏空



 ああ、夏には変な奴が湧くって本当だな、とエレンは目の前に立つ男を眺めながら思った。いや、六月半ばに入った今の時期は夏というより初夏という方が合っているかもしれない。まあ、エレンは俳人ではないので夏と初夏の定義などどうでもいい。問題はそこではない。

「なあ、いいだろ? 暇そうにしてたじゃん」
「……友達と待ち合わせしてるので」
「さっきから見てたけど、来ないじゃん。何ならその友達も――」

 ああ、うぜぇとエレンは心の中で罵倒した。一発殴ってやりたいくらいだが、それは後々問題になる可能性がある。適当に会話して振り切って逃げるかとタイミングを計っているがどうにも隙がない。冷たくあしらうと燃えるタイプだったのかもしれない――エレンには迷惑この上ないが。

(ナンパすんなら女にしとけよ……って、男だと判ってて声かけてきてるんだから言っても無駄だが)

 相手が女性と間違えた、ということはない。エレンは母親似でよく中性的な顔立ちをしていると言われるが、体型からいって女性というには無理がある。ミディアムショートヘアなので後ろからならスレンダーな女性に見えた――ともならない。何故ならエレンは今現在、高校の制服を着ているからだ。何より声は男だ。男の眼が節穴で女性と間違えたのだとしても、声を聞けば一発でエレンが男子高校生だと判ったはずだ。それに実は男性に声をかけられるのはこれが初めてではなかったりする。

(ああ、最初に無視しておくんだった。……まあ、無視してもついてきた可能性高ぇけど)

 声をかけられたときはナンパだとは思わなかったのだから仕方がない。そういう手合いから声をかけられやすいのは事実だが、全員がそうではないのだから総てを無視するという訳にもいかない。そもそも、今はオンラインのやり取りがきっかけで知り合うというパターンが多いと聞くというのにリアルで直に来るなよ、チラシ配りの方が判りやすくていいな、などと思考を飛ばしていると、エレン、と大きな声で名を呼ばれた。

「エレン! エレンだろう?」

 現れたのは三十過ぎくらいに見える男性だった。真っ黒なツーブロックスタイルのショートヘアに灰青の瞳。小柄だが、鍛えられた体躯をした目つきの悪い人物――先程から名を呼ばれているが、エレンは彼に見覚えが全くなかった。正直な感想は誰だこいつ、である。これが同年代だったらまだエレンと学校が一緒だった等の可能性も考えられるが、この年代の男性にそれは当てはまらない。担任の教師ならさすがに覚えているし、親し気に名を呼ばれるような付き合いのある教師はいなかった。エレンは親戚付き合いを殆どしていないが、親戚なら顔くらいは判る。人違いというのは名を呼ばれたことからしてないだろう。つまりはこちらを一方的に知っている相手だ――まあ、本当に知り合いでエレンが忘れているだけという可能性はゼロではないが。

「オイ、おっさん、何だよ」

 急に割り込まれた男が不機嫌そうに言うと、ようやっと気付いたように相手は男を眺めた。

「……知り合いか?」
「全く知らない人です」

 あんたもだけどな、とエレンが心の中で付け足していると、絡まれていると察したのか相手は男を睨み付けた。

「――失せろ」

 たった一言、それだけであるのに、その言葉は絶対に人を従わせるような迫力があった。鋭い眼光に射抜かれ、相手は硬直していたが再び失せろ、と言われてその場から逃げ出していく。

「エレ――」

 男が言い終わる前にエレンもその場から駆け出していた。

(何か判らんがこいつ絶対にやばい奴だ)

 あの迫力は普通の人間には出せない。きっとその道を極めた人とか、海外からやって来たファミリーの一員とか、そういった類の人種に違いない。いや、そんな組織の人間に知り合いはいないけれども。何で自分の名前まで知られているのか判らないが、本能的に「こいつには勝てない」という意識が働いて、エレンの足を動かしていた。

「エレン、待て!」

 だが、何故か男はエレンを追ってきた。しかも、三十過ぎとは思えない程に速い。実はもっと若くて同世代――には無理があるが、エレンと変わりない走りを見せた。むしろ、同世代の中でも運動能力が高いエレンよりも優れているのではと思わせる走りだ。

「エレン!」
「………っ!」

 追いつかれ、腕を掴まれたエレンは反射的に足を振り上げた。相手の急所目がけて繰り出す――前に足を抑え込まれる。

「お前、それ、やっちゃダメなやつだろう。使い物にならなくなったらどうする気だ」
「痴漢、変態、強姦魔、ストーカーに慈悲なし! 一生使えなくなれ!」
「どれもやってねぇ。無実だ」
「犯罪者は皆そう言うんだよ」
「何もしていねぇって。……少し、話をさせてくれないか」
「…………」
「頼む、エレン」

 エレンはふう、と息を吐いて力を抜いた。男を信用した訳ではないが、急所蹴りは外したら二度目はまずかからない。足の速さからいってまくのは難しそうであるし、いざとなったら通報するという手段がある――余りしたくはない手だが。
 それに、先程の男のようにエレンに声をかけてくるものとは違った雰囲気が男にはある。ただの勘、としか言いようのないものではあったが、長年絡まれてきたエレンには本気でまずい人間はこれでも多少は判るつもりだ。

「……少しだけなら」

 エレンが頷くと男はホッとしたように息を吐いて、少しだけ口元を緩ませた。その様子に何だか毒気を抜かれて、エレンは男を近くのカフェに案内した。


「リヴァイ・アッカーマン?」

 渡された名刺にあった名前を読み上げると、男は頷いてみせた。自分の名前なのだということだろう。ここで他人の名刺を出されたなら本気で通報案件だ。何やらデザイン関係の仕事をしているらしい――デザインというと真っ先に服飾関係を思い浮かべてしまうが、そちらだけではなくウェブとかロゴとかパッケージとか色々あるらしい。極めた道の人ではなかったが、そうそうそういった人間に当たるものではないので、自分の過ぎた想像を反省した。

「アッカーマン、という名に聞き覚えはないか?」
「知り合いにはいねぇけど」
「……なら、ミカサ・アッカーマンは近くにはいねぇのか……」
「ミカサ? 知らねぇけど……あー、あんたの身内?」

 たまにエレンに身内が振られたと文句を言ってくる連中がいるので、男もその類かと思って訊ねたのだが、そうではないらしい。いないならそれでいい、と言われ、なら誰だよと突っ込みたくはあったが、特に興味もなかったので黙っておいた。そもそも、振った相手をエレンは把握していない。やばそうな人間なら警戒はするが、一々覚えておくときりがないからだ。言うと、自慢かよ、と悪態をつかれるだろうが、エレンは自身がモテると自覚している。
 ここで注文していたタピオカミルクティーとパンケーキが運ばれてきたので、一時会話は中断された。男の方はアイスティーを頼んでいた。

「……女が喜びそうなメニューだな」
「ここ、勧めてきたの女友達なので」

 周りは女性客か彼女連ればかりなので、男二人というのは珍しい組み合わせだ。ここで何かをしたら注目を浴びるだろうから下手なことは出来まい――相手の勧める店に入る選択肢は最初からなかった。相手のテリトリーに入る危険を冒すほど馬鹿ではないつもりだ。かといって自分がよく通ってる店に連れて行くのも嫌なので一、二度行ったくらいの店が丁度いい。
 まあ、制服から学校は割れるだろうから、周辺の店をくまなく当たれば調べられなくもないが。

「それ、好きなのか?」
「まあ、普通。おごりなら頼まないと損だし」

 ここの代金は男持ちだと言われたので遠慮なく頼ませてもらった。甘いものを嫌いなものもいるだろうが、エレンは好きな方だ。嫌いだったらいくら誘われてもこの手の店にはわざわざ入らない。デザート類は量の割には値段が高いと思っているので。

「で、あんたとは初対面のはずだけど、何でオレのこと知ってたんだ?」
「………」

 エレンがフォークでパンケーキをつつきながら訊ねると、男は押し黙った。言葉を探しているのかしばらく無言のままでいた後、ぽつりと本当に覚えてねぇんだな、と呟いた。

「イヤ、だから初対面だし」
「……そうだな、言葉にするなら一目惚れしたからだな」
「は? 何だって?」
「一目惚れだった」
「イヤ、そういうことじゃねぇんだけど」

 正直いって男がそういう趣味だったとして、エレンにはどうでもいいことだ。その手の趣味の人間に告白されるのは初めてではないし、エレンには付き合う気は更々ないのだから。
 問題は初対面であるのにエレンの名を知っていたことだ。一目惚れが事実だったとして、それで名前が判るはずがない。

「ストーカー……」
「じゃねぇよ」

 心外だ、と言わんばかりに否定されたが、犯罪者が自分は犯罪者ですと名乗るはずもいない。

「……知ってるのは名前だけだな、今のところは」

 結局、男は何故エレンの名を知っているのかは言わなかった。まあ、他校の見知らぬ人間に告白されたこともあるので、男もどこかから聞いたのかもしれない。エレンの通う高校に知り合いでもいれば名前くらいは調べられるだろう。

「で、ストーカーじゃねぇんならオレに何の用?」
「そうだな、付き合って欲しい」
「無理」
「……なら、また逢って欲しい」
「援交とかパパ活してぇなら他当たってくれ」
「そういうんじゃねぇよ」
「下心はないって?」
「それはある」
「あんのかよ!」

 確かに一目惚れしたというのだから下心がないとは言えないだろうが、エレンは思わず突っ込んでしまった。

(まあ、他の奴らとは違って嫌な感じはしねぇけど)

 だからといって信頼したというわけではないが。少なくとも隙を見て襲ってくるような輩ではないと何故か思えた。
 それでも、付き合う気がないのは決定だ。さっさと食って別れるかとエレンがミルクティーを飲んでいると、男がお前、暑くないのかと訊ねてきた。

「これ、見ての通りアイスだけど」
「そうじゃねぇ。何で長袖なのかと思ってな。今日は暑い方だろう」

 エレンは高校の制服を着ていたが、確かに長袖だった。本日は湿度が高くむしむしとした陽気だから、長袖では確かに暑いだろう。

「なら、一、日焼けしたくないから。二、冷え性なので冷房対策。三、実は腕に傷跡があって隠している。どれでも好きなのどうぞ」
「……言う気はねぇってことだな」

 エレンは澄ましてそれには答えなかった。

 食べ終わって、ご馳走様と席を立つと、男が連絡をくれと声をかけてきた。気が向いたらな、とだけ言ってその場を離れたが、男は追いかけては来なかった。しつこく食い下がることもなかったのでそれに安堵すると同時に小さな不満を感じてエレンはそんな自分に戸惑いを覚えた。



「え? また絡まれたの? 大丈夫だった……って、そうじゃなきゃ困るけど」
「まあ、問題はなかった。なかったんだけどな」

 教室の席で昨日あった出来事を親友――アルミンに話すと、心配そうな顔をされた。

「その人、本当に大丈夫なの? つけられたりしてない?」
「イヤ、あの人はそういうことしねぇと思う。勘だけど。あ、そうだ、これ」

 そう言いながらエレンは男にもらった名刺を取り出した。普段なら即捨てているものだが、何故か捨てる気になれなかったのだ。

「もらった名刺。まあ、偽の肩書の名刺も作れるだろうけど、作るんならもっと他に食いつき良さそうな職業があるよな」
「…………」
「アルミン?」
「エレン、この人どんな人だった?」
「どんなって……黒髪ツーブロックの目つきの悪いおっさん。多分、三十過ぎかなぁ。すっげぇ身体鍛えてそう。迫力すげぇ」
「…………」
「アルミン?」
「あ、ごめん。アッカーマンって親戚にいたなって思って、その人じゃないか確かめたかっただけ。僕の親戚じゃなかったよ」
「そうか。あ、じゃあ、ミサカ? イヤ、ミカサ? 親戚のアッカーマンにいるか?」
「……いないけど。何で?」
「何かその名前言ってたから。アルミンの親戚と知り合いならそれで知ってたのかと思ったんだけど、違うか」

 アッカーマンというのはそれほど珍しい姓ではないので偶然だろう。親友の記憶力は確かなので親戚だったなら教えてくれるはずだ。

「……確定。ミカサがいないのがいいのか悪いのか……」

 ぼそりと呟いたアルミンにエレンが何か言ったか、と声をかけようとしたとき、エレン、と名を呼ぶ声が耳に入った。

「エレン、今日の放課後空いてる?」
「ヒストリア」

 二人の席までやって来てそう訊いたのは金色の髪の小柄な少女だった。可憐、という言葉が似合う美少女で、エレン達の同級生である彼女が校内を歩く度に、「女神」「尊い」「結婚したい」などという男子生徒の呟きがもれる。人の美醜には興味のないエレンだが、客観的に見て彼女の外見は美しいと称するに相応しいものだとは思う。女神、という言葉には異を唱えたいというか、女神は女神でも周りが思う女神とは少し違うぞ、と思っているが。

「ユミルとサシャと出かけるんだけど、一緒にどう?」
「あ、無理。今日は用事あっから」

 あっさりと断ると男子生徒からの突き刺さるような視線を感じた。女神の誘いを断りやがって、とか、ハーレム気取りかよ、とかくだらない悪口でもこそこそと叩いているのだろうが、エレンは気にしない。

「アルミン、お前は?」
「あ、僕も今日は予定あるんだ。ごめん」

 そう、じゃあ仕方ないね、とあっさり引き下がった少女は次また誘うねと言って二人から離れていった。

「……なあ、お前が断っても何も言われねぇのに、オレだと文句言われんの何でだろうな。ヒストリア達と出かけると、お前がいてもオレだけハーレムかよって言われるし」
「……それ、遠回しにけなしてる? イヤ、エレンに悪気ないってことは判ってるけど」

 明らかに「安全牌」扱いなのだが、自分から言うつもりのないアルミンはエレンは絡まれやすいからね、と返した。実際、エレンがいなければもう少しアルミンへの風当たりは強かったかもしれない。学校一の美少女と評判で、成績優秀、優しい性格で裕福な家庭育ちのお嬢様――と、属性盛りすぎじゃないかと思うヒストリアは男子生徒から絶大な人気があった。

「好きで絡まれてるわけじゃねぇんだが。後、皆ヒストリアに夢見すぎだと思う」


 エレンとヒストリアが知り合ったのは本当に偶然だった。ヒストリアは入学したときから――いや、その前から美少女として近隣では有名だったが、興味が全くないエレンはその存在を知らなかった。
 接点のなかった二人が知り合うこととなったのは校外――街中でナンパされたらしい彼女と遭遇したからだ。
 人を見かけで判断してはいけないが、いかにも遊んでますといった――世間的に「チャラい」と評されそうな若い男と、清楚という言葉が似合いそうな制服を着た女子高生の組み合わせにエレンは足を止めた。二人が楽しそうにしていたなら気にも留めなかっただろう。だが、どう見ても知らない男に無理やりに絡まれて困っている美少女の図で、この手の手合いに絡まれる面倒を知っているエレンは少女の心中を察した。声をかけるか、とエレンが彼らに近付いたとき、彼女とぴたりと視線が合った。途端、彼女の唇が動く。多分、ごめん、あわせてだったように思えた。それに目で頷いたエレンに今度は彼女は声を出した。

「キース! もう、遅いわよ」

 彼女の口から飛び出してきたのは聞いたこともない名前だった。ひょっとして誰かと勘違いしているのかとの考えが過ぎるが、先程の唇の動きから察するに自分の言うことに合わせてくれ、というのは間違いないだろう。ほっとしたような表情の彼女に合わせて、よう、悪いなと声をかけた。そして、その声につられたようにナンパしていた男が振り返る。
 と、同時にどかっという音がして、男が地面に崩れ落ちた。

「さぁ、行こうか」
「は? え?」

 呻いている男を放置して駆け出した少女に、訳が判らないままエレンも彼女について走り出した。

「ここまでくれば平気かな。ありがとう、気を引いてくれたから上手く決まったよ」
「……ああ、すっげーキレイに入ってたよな、急所に。あんたの蹴り」
「うん、自分でも褒めたいくらいに決まったわよね。これは本当に最終手段なんだけど。外したら二度目は警戒されるし、人によっては逆上して暴れまわる人もいるからよっぽどじゃない限りはやらない方がいいよ」
「……アドバイス、ありがとう。後、オレ、キースじゃねぇぞ」
「知ってるよ。エレン・イェーガーくん。あそこで本名呼んで覚えられたら厄介でしょ。キースは咄嗟に出た名前なの。……昔、お世話になった人の名前」
「オレのこと知ってんのか?」
「同じ学校でしょ?」

 制服が自分の高校のものなのでそうだとは思っていたが、エレンは彼女を知らない。同じ学校の生徒でもクラスや部活動が一緒等の接点がなければ知らないものの方が多いだろう。同学年ならば顔と名前くらいは三年間で一致するようになるかもしれないが。
 その疑問が顔に出ていたのか、彼女はエレンはちょっと有名だからね、と笑った。

「私はヒストリア・レイス。……逢えて嬉しい。よろしくね、エレン」


「あいつ、急所狙うのに躊躇いねぇし、護身術とかも習ってるから普通に男投げ飛ばせるぞ」
「ヒストリアくらい可愛いと自衛は必要だろうね。外見からは想像できないけど、知られない方がいいかな」

 強さを徹底して知らしめて挑む気をなくさせるという手はあるが、彼女の場合油断させて隙をつく方がいいだろう。一番はそんな事態にならないようにすることだし、彼女はまずそんな危機に陥らないように気を付けているのだが。

「そういや、今日、どこに行くの? エレン」
「バイトの面接」
「そっか。いいとこだといいね」
「……まぁな」

 エレンは放課後の予定を思い浮かべて溜息を一つ吐いた。



 今回は外れだな、とエレンは思った。アルバイトの面接は滞りなく終わり、待遇面も悪くなかった。当落は後程連絡すると言っていたが、感触からして合格だと思う。だが、エレンは断ることを決めていた。

(他の面接に受かってそちらに決めたので〜とかでいいか。それが本当かなんて判らねぇ訳だし)

 条件は悪くなかった。勤め先の雰囲気も悪くなかった。だが、あそこはダメだ。今までで培われた勘がダメだと言っている。

(本当、運がねぇよな――)
「エレン」

 不意に声をかけられて、エレンがそちらを向くと、つい先日遭遇した男が立っていた。

「……ストーカー……」
「違う。偶然だ。だから、その携帯電話はしまえ」
「ストーカーは相談実績作っておいた方がいいって知ってるか?」
「だから、偶然だ。……まぁ、お前の学校近くに行ったらまた逢えるんじゃねぇかと期待していたのは事実だが」

 だが、決して後をつけていたとか、付きまとっていた訳ではないと、男――リヴァイは言う。

「それはそれで気持ち悪いというか、男子高生に逢えるのを期待して学校近くを徘徊する三十路男性とか世間的にアウト案件だという自覚は?」
「あるが」
「……開き直りかよ……」
「何もしねぇから少し話さねぇか?」
「何もしねぇってわざわざ言うやつは何かする気満々だろ」
「何もしねぇよ。したいのはやまやまだが、惚れた相手に無理強いはしねぇよ」
「……援交とかパパ活ならしねぇって言ったぞ」
「そんなんじゃねぇって言ったはずだ」

 ここでじゃあ何なんだ、と問い詰めたら惚れてるからだ、と返されるのだろうな、と思う。いつどこで惚れる要素があったのか判らないが、話したこともない女生徒にいきなり告白されたこともあったから、外見が好みとかそういう話かもしれない。

「頼む、エレン」

 エレンははぁ、と溜息を吐いた。どうしてか、この男に自分は弱いらしい。肉体的な強さとかそういうことではなく――そちらも勝負したら負けそうな気がするが――この男に頼み込まれると嫌とは言い辛くなる。それに、何故か妙な安心感がある。あんな発言をしたが、男が自分が嫌がることはしないとどうしてか確信していた。

(まだ逢ったの二度目なのにな)

 結局、エレンは頭をがりがりと掻いて、男の言葉を了承したのだった。


「お前、こういうところ好きなのか?」

 男がさっと店内に視線を走らせながらそう訊ねた。前回とは別の店舗で系列店でもないが、雰囲気が似ていると思ったのだろう。女性が好みそうな小洒落た飲食店というのが共通している。

「オレの趣味じゃなくて、ヒス……友達がこういうとこ好きなんで」
「女が好きそうなとこだな」
「その友達が女なので。ああ、同じようなこと前回も言ったっけ」

 今回も前回も勧めてきた女友達というのはヒストリアのことだ。男と行くのなら、男友達お勧めの場所に行けという話だが、エレンが親しくしている男友達というと限られる。というより、アルミンしかいない。アルミンは食べ歩きとかしないタイプなので行くとしたら同じところだし、そこに連れて行く気はなかった。他に比較的しゃべる相手は二人――同級生のジャンとコニーだが、一緒に出掛けることはまずない。
 エレンは基本的に男が嫌いだ。だから、アルミン以外の親しい男友達は作る気はないし、アルミン以外だと男子生徒より女子生徒の方がよく話す。一番親しい相手はヒストリアだが、一緒に行動することの多いユミルやサシャとも話すことは多い。三人の他の女友達ともそれなりに話すから、ハーレムを作ってるなどと揶揄されるのだろう。しかし、エレンには彼女達に恋愛感情はないし、彼女達もそうだ。学校一の美少女との呼び声が高いヒストリアと仲良くしているエレンが気に入らないのだろうが、エレンは彼女と親しくするのをやめる気はなかった。恋愛感情はないが、彼女はエレンの余り多くはない友達だった。

「それで、今日はこの辺に何の用があったんだ?」
「バイトの面接」

 店の名前を出さなければ問題ないだろうと、運ばれてきたタルトを口に運びながらエレンはそう答えた。さくさくの生地に甘すぎないクリーム、ベリーのソースの相性が良い。ヒストリアの勧めてくるお店に外れはなくて、提供される商品はどれも美味しい。男の方は季節のフレーバーティーを注文していた。

「アルバイトを探しているのか?」
「まあ。今日のは受かっても断るけど」
「条件が悪かったのか?」
「条件はそこそこだけど……んー、まあ、言ってもいいか」
「何がだ?」
「多分、店長がそっちの人だった。セクハラされんの嫌だし」

 その言葉を聞いて男が剣呑な顔をしたので、少年は面接で何かあった訳じゃないと付け足した。

「ただのオレの勘だから、実際は違うかもしれねぇけど。まず当たるから、最初から断ろうと思って」

 店長がセクハラしそうな人だったから辞退します、なんて言えば自意識過剰だとか酷い偏見だと非難されるだろうが、エレンは自分を性的な対象として見てくるもの――特に男性――には敏感だった。――あの目。店長だという男のエレンへ向ける粘ついた熱のある視線に、中でも厄介なタイプだと判断した。関わらないですむならそれが最善である。

「同じ職場でしかも上司とか避けるの不可能だし。まあ、今回は店長で面接官だったから判りやすくて良かった方だな」
「他にも何かあったのか?」
「……まあ、色々と」

 言い淀んだエレンに男が視線で話すように促す。エレンは高校に入学してすぐにアルバイトを始めたのだが、高校二年生になった今までの一年間で、結構な頻度で職場を変えている。人間関係のどろどろなんで気分いい話ではないと伝えたが、男がそれでも構わないというのでエレンは話を続けることにした。

「バイトに入った店でシフトが一緒になった女に付き合ってくれって言われて断ったら、その店の女店員から全員無視されるようになったりとか。何か、オレが二股かけたうえにその子やり捨てにしたとか言いふらしたみたいで。面倒になってすっぱりやめた」
「誤解は解けなかったのか?」
「思い込み激しくて、ダメだった。誤解解けたとしても思い込みで嫌がらせするような奴とは仕事したくねぇしな。仕事に支障のある嫌がらせとか、お前何しに店来てんの、と思う」
「真面目だな」
「金もらってんなら当然のことだろ。後、バイト先で付き合ってるカップルがいたんだけど、その両方から告白されたな」
「……何だそりゃ」
「何だと言われても、言葉の通りとしか」

 まあ、確かに何だそりゃとなるのは判る。エレンも言われたときは何だそりゃと思った。アルバイト先では二人が付き合っていることは周知されていて、エレンから見ても仲良さそうにしていたし、二人ともエレンに親切だった。なのに、彼氏から「彼女よりお前が気になるんだ。俺のこと本気で考えてくれ」と言われ、彼女に「彼とは別れるから付き合って欲しい」と告白された。どんな地獄だよと思った。当然お断りをしたのは言うまでもないが。
 エレンにはこの話を吹聴する気はなかったが、エレンが話さなくても周りが知る可能性は否定できない。下手すればエレンがカップルの間に割り込んで滅茶苦茶にした悪者になるだろう。どう考えても修羅場になる未来しか見えなかったので、エレンは二人に告白された直後、即行で店長に辞めると伝えた。店長は薄々事態を察してくれていたようですぐに了承してくれたが、あの二人がどうなったのかエレンは知らない。
 自分の顔面偏差値がどうやら高いということ。どういうわけか同性に言い寄られること。更に女性にも自分の外見は好まれる方だということ。
 全部エレンが望んだことではないのに、そのためにトラブルに巻き込まれ、思いも寄らぬところから絡まれたりする。
 理不尽だし、面倒だし、やってられないと思うことも多い。人に言えば結局自分のルックス自慢かと反感を買いそうなので言わないが。あれだけの容姿で色々とあるはずなのに、表には出さないヒストリアは凄いな、と密かにエレンは思っている

「他にも似たようなことあって……仕事内容より人間関係の方が大変っていうか、面倒で。かといって、全く人と会わないバイトっていうのもなかなかなくて……」
「アルバイトをしないという選択は」
「それはない。オレ、金欲しいんで」
「……なら、うちでバイトしないか?」
「は?」

 男の提案にエレンは胡乱な視線を向けた。確か、男はデザイン関係の仕事をしていると言っていたが――。

「言っておくが、普通の仕事だぞ。簡単な事務整理だ。後は部屋の掃除とかそんなものだ」
「事務の人とかいるんじゃ?」
「個人でやってるからな。いつもは必要なときは知り合いから人手を借りてるんだが、やってくれると助かる」
「オレ、本格的な事務仕事なんて出来ねぇけど」
「パソコンが触れれば大丈夫だ。判らないことは教える」

 男は色々と仕事内容や条件、待遇などを伝えてきた。条件はいい。だが――。

「下心は?」
「ある」
「あんのかよ!」

 またしても前回と同じツッコミをしてしまう。今までのやり取りで一度も男はそれを否定していない。惚れている、という言葉にはそういった欲求も含まれているというのを隠す気はないようだ。それでも男に身の危険を感じないのは、エレンの嫌がることはしないという男の言葉もまた嘘ではないと感じるからだ。

「何もしねぇよ。何かしたらセクハラで訴えていい。何なら弁護士も紹介する」
「訴えられる側が紹介してどうすんだよ……」
「お前、弁護士の知り合いがいるのか?」
「いねぇけど。そうまでしてオレを雇うメリットねぇだろ……」
「あるぞ。俺が癒される」

 癒し、と聞いてエレンは怪訝な顔をした。癒しというイメージと自分とは程遠いと思っていたからだ。

「お前が傍にいてくれれば仕事がはかどる。癒しにもなる。お前も稼げる。悪くないだろう?」
「胡散臭い勧誘にしか聞こえねぇけど」
「なら、一箇月働いてくれ。それで信用出来ねぇなら辞めてもらって構わない」
「…………」

 胡散臭いことこの上ないが――男の言葉は何故か信じられる気がして、エレンは躊躇いがちに頷いたのだった。



「どうですか? リヴァイさん」
「七十点」

 差し出されたアイスティーを一口飲んでから男はそう告げた。七十点という微妙な点数にエレンの表情が渋くなる。

「微妙。反応に困る微妙な点数」
「一番最初の五点よりはいいだろう」
「今でもあれは厳しすぎたと思います!」

 エレンが了承すると男はあっという間に雇用契約書を作成し、自分の仕事場兼自宅にエレンを案内した。これって連れ込み放題では?と思い、実際に口にしたが、何もしないと言っただろう、と肩を竦められた。仕事場と自宅が一緒だとプライベートとの切り替えがやりにくくないかと訊ねてみたが、問題ないと断言された。店舗と住居が一緒になっている物件や、在宅で仕事をしている人だっているのだからそこは個人によるのだろう。
 雇用契約を交わした際にエレンは男への言葉遣いを改めた。雇用主と従業員ならきちんとけじめをつけるべきである。仕事はエレンでも出来る書類整理やメールの処理、電話応対などだったが、一番の難関は掃除と紅茶の淹れ方だった。男の掃除はとにかく徹底している。エレンは自分の家事能力は同年代の少年の中でも高い方だと自負していたが、男の要求する清掃レベルはそんなものではなかった。エレンの率直な感想は、男の清掃技術があればハウスクリーニング業者でやっていけるというか、それを本業にしたら大成功するんじゃないか、だった。
 だが、清掃はまだ良かった。やれば綺麗になるのが目に見えて判るのだから。紅茶の方がエレンには難しかった。何しろ、エレンは紅茶というものはティーバッグしか入れたことがない。そもそも紅茶は殆ど飲まないし、ポットを温めておくとか、茶葉の量とか、お湯の温度とか、蒸らす時間とかそういったこだわりなど判るはずもない。並べられた茶葉の種類を見ても紅茶は紅茶だろう、と思うだけである。
 そうして初めて淹れた紅茶の点数が五点だったのである。試験でも取ったことのない驚きの低得点である。男は何故この紅茶が五点なのかの解説もしてくれたが、多分、男のやり方を徹底したとしても違いは判らない気がエレンはした。

「まあ、最初は仕方ねぇ。とりあえず俺が一通りやってみるから覚えろ」

 そう告げて鮮やかな手つきで紅茶を淹れる男にエレンは称賛の目を向けた。紅茶にこだわる男の淹れ方は様になっていて、紅茶専門の喫茶店のマスターも出来そうだなとそんなことを思った。まあ、接客業は対人スキルも必要となるので、実際は腕だけではやっていけないかもしれないが、男が淹れ終わったときエレンは思わず拍手してしまった。

「手順は覚えたな。飲んでみろ」
「え……」

 差し出された紅茶を前に少年が固まったので、男は怪訝そうに見やった。飲み比べてみなければ味の違いは判らないだろう。手順だけ覚えても味を知らなければ再現は難しい。

「えーと、その、オレ、多分、飲めないと思います、すみません」
「……別に変なものは入れてねぇぞ」
「イヤ、そうじゃないんです。オレ、基本的に人が作ったもの食えねぇというか……」
「食ってたじゃねぇか。俺の目の前で」

 おごりなら頼まなきゃ損だと言って遠慮なく注文したのは少年も認めるところだろう。それを指摘すると、少年が困り果てています、という顔になった。

「あれはお店の人が作ったものなので。レストランとかコンビニ飯とか冷凍食品とかは平気なんですけど……何というか中途半端な感じがダメというか」
「ああ、お前、ひょっとして友達の母親の握ったおにぎりが気持ち悪くて食えないタイプか。潔癖症か」
「潔癖症ってリヴァイさんに言われたくないですけど。イヤ、それとはちょっと違うというか……えーと、例えばの話ですが、バレンタインに手作りチョコもらったとするでしょう?」
「自慢話か?」
「そうじゃなくて……その手作りチョコの中に髪の毛とか爪とか唾液とか入っていたら、もう手作りチョコもらうの嫌になったりしませんか? 入れた奴とは別人でも、もう手作りチョコ自体がダメというか」
「……えぐい話だな」

 確かにそれはトラウマになりそうな話だ。レストランや工場生産の食料品にそんなものが入っていることはないが――まあ、異物混入騒ぎがニュースになったりしているので、工場生産も絶対に安心とは言い切れないが――見知らぬ女子にそういうことをされたのなら手作りのものに警戒してしまうのも頷ける。勿論、これは目の前で淹れたのだし、リヴァイは何も入れてないがどうしても嫌悪感を感じてしまうのかもしれない。

「判った。なら――」
「なので、吐いたらすみません」

 そう言ってエレンがカップを口に運んでぐいっと飲み干したので、男は驚いた。直後、エレンが悶えるような仕草をしたので、吐くのか、と思ったのだが――。

「あっつ! 想定以上に熱かった……! もう少し冷ましてからにするんだった!」
「大丈夫か? 口の中火傷してねぇか?」
「そこまでじゃないです」
「見せてみろ」

 グイっと男は少年の顎を引っ張って口を開けさせ、中を覗き込んだ。申告通り火傷がないのを確かめて――はたと今の体勢に気付いた。距離が近すぎる。歯医者だっってもうちょっと距離を取って確認するだろう。まあ、歯医者なら口内を確認するための道具とかがある訳だが。もうちょっと顔を寄せたらキスできそうな距離だ。

「……わざとじゃないぞ」
「……わひゃってまひゅ」

 だから出を放せ、という仕草をされたので、リヴァイはまだ掴んだままの手を放した。

「……飲めたじゃねぇか」
「……飲めましたね」
「…………」
「リヴァイさんのは飲めるみたいです」
「…………」
「今、エロいこと想像しませんでした? しましたよね?」
「……………してねぇ」
「今の間は何ですか?」
「何でもない」
「次は即答なのがあやしい」
「……エロいことくらい考えるぞ。惚れてるからな」
「…………」
「…………」
「何もしねぇから安心しろ」
「どこにも安心出来る要素が見当たらないんですが、それは」

 とは言いつつ、男が本当に手を出す気はないのは判っている。そう思う相手ではなければきっとエレンは吐いていたからだ。
 で、紅茶の味はどうだったと訊かれ、エレンは全く味わうことのないまま紅茶を飲み干してしまったことに気付いた――。


 そういった経緯があったエレンの紅茶だが、五点のときよりは大分進歩している。まずい、と断言されるレベルから可もなく不可もないというレベルにまではなったのだから。ちなみにどんな点数のときの紅茶でも男は残さずに飲んでくれたから、エレンとしても上達に気合が入ったというのがある。夏場なので、ホットだけではなくアイスティーの淹れ方も習得したのだから――まあ、男からすればまだまだの腕前ではあるが。

「ほら、お前も一緒に飲め」

 男に手招きされて、エレンは向かいのソファーに腰かけた。紅茶と一緒に茶菓子も勧められて、待遇良すぎないか、とエレンは思う。

「毎度思うんですけど、茶菓子とか用意しなくていいですよ」
「俺がお前に食わせたくてやってるんだから気にするな。餌付けだ」

 最初に茶菓子を出されたとき、エレンは断った。男は手作りではないし、買ってきたものだから大丈夫だと更に勧めてきたが、そういう問題ではない。オレは客じゃなくて従業員ですよ、職場でも茶菓子をもらって食べることはあるだろう、それにしては高いでしょう、のやり取りの後、男は甘いものは余り好きではないので残されると困る、と言い出した。言われてみれば、一緒にカフェに行ったときも男は飲み物だけしか頼んでなかったので本当に好きではないのだろう。なら、何で買って来たんだという話になるが、それは訊くまでもなくエレンのためだろう。ここでエレンが食べなければこの茶菓子は無駄になる――後で無理やりに男が食べる可能性もあるが、そこまで固辞するのもどうかと思い、エレンは折れた。
 ――それが良くなかったのだと思う。やはり、何事も最初が肝心だ。それ以降、男は必ず紅茶を飲む際に茶菓子を差し出す。それもその辺のコンビニエンスストアとかで買ったものではなく「美味しいけどお高い」と言われる類のものだ。そもそも、何でエレンまで一緒に紅茶を飲む必要があるのか、休憩が必要なら一人ですればいいだろうと男に訴えてみたのだが、これは癒し時間だで押し切られた。
 一緒にお茶を飲みながら世間話というか、特になんて事のない話をするだけで癒されるというのは謎だが。食事に誘われて行ったこともあるし――何度も誘われるので仕方なく、だ――本気で餌付けをしているらしい。

「餌付けにも程がありますよ。何か貢がせるだけ貢がせてる性悪になった気がするんですけど。お返しとか出来てないですし」
「だから、気にするな」
「あ、お返しは身体で払えってやつですか? エロい方面は却下ですが、肉体労働は可です。掃除は……してますよね、後は料理か……作れますけど、お菓子は作ったことねぇや」
「料理が作れるのか?」
「作れますよ。自分の弁当は自分で作ってますし」
「弁当って、母親は――」

 そこで言葉を途切れさせた男に、少年は今変な想像しませんでした?と溜息を吐いた。

「ちゃんと生きてますよ。仕事で忙しそうだから自分で作っているだけです」
「そうか。余計な気を回してしまったな、すまん」
「そうですよ。いないのは父親の方ですし」
「…………」
「…………」
「…………」
「えーと、そこで深刻な雰囲気になられても困るんですけど」
「……悪い。変な流れになったな」
「別にいいですよ。こっちが言ったんですし。オレが三つくらいのときに交通事故で親父が死んだっていうだけなんで」

 あっさりと言う少年は本当に気にしていないように見えた。ここであまり踏み込んでも良くないだろうと――ある程度の信頼関係は築けていると思うが、こういったデリケートな話題はタイミングも大事だろう――この話を打ち切ろうとして、ふと考えた。
 少年が高校に入学してすぐにアルバイトを始めたのは家計が苦しいからなのだろうか。しかし、それならば友達の誘いに乗って出かけることもなさそうではある。

「ああ、別にお金に困ってる訳じゃないです。富裕層ではないけど、貧困層でもないので、援交はしませんよ? お金は欲しいですけど」
「学費を貯めているのか?」
「それもありますけど……早めに家を出たいというか、一人暮らししたいので」
「遠くの大学に行くつもりなのか?」
「まだ決めてません。早く自立したいんで、進学自体もどうしようか考えてるところです」
「――なら、うちに来ればいい」

 真面目な声で言われて、エレンは男の顔をまじまじと見つめてしまった。

「うちに住み込みでバイトしながら大学に通えばいいし、そのまま就職してもいい」
「言っておきますけど、オレ、そういう関係には――」
「そういうんじゃなくて、惚れてるからだって言っただろ。惚れた相手の力になりたいのは普通の話だ。下心がないとは言わねぇが」
「…………」
「……信じられねぇか?」
「……そうじゃない、けど、そこまで好かれる理由が判りません」
「…………」
「…………」

 重たい沈黙が横たわり、男はこの提案が失敗に終わったことを悟った。元々、持久戦で行く気でいたのだが、少年が打ち解けてくれた様子を見せたのでつい先走ったことを口にしてしまった。まあ、考えておいてくれ、とでもこの場を流して、また少しずつ距離を詰めていけばいい。
 そう考えを巡らせていた男は、ふとエレンがしきりに腕を摩っていることに気付いた。初めて逢ったときと同様エレンは長袖を着用している。
 季節はもう七月に入った。日焼けを気にする女性や、仕事上長袖を着ていなければならない社会人などなら判るが、男子高校生であるエレンが長袖を着る理由が判らない。よもや、本当に腕に傷跡でもあるのだろうか。

「お前、寒いのか?」
「え?」

 先程までの空気を変えたいということもあって、男はエレンに長袖の話を振った。

「エアコンの設定温度はそれほど高くはないと思うが……寒いなら上げるぞ?」
「別に寒くはないですよ? そもそもそんなに低い温度設定じゃないですし。これからもっと暑くなったらもうちょっと下げた方がいいかもですが」
「イヤ、お前が腕摩ってたから寒いのかと思って。いつも長袖だしな」

 その言葉に一瞬動揺が見えた気がしたが、すぐに少年は澄ました顔で今は男も日焼けを気にするんですよ、と答えた。

「あ、前に傷跡を隠しているって言ったの本気にしましたか? 別に何もないですよ?」

 そう言って少年は袖をまくって男に腕を見せた。確かに傷跡はない。いつも長袖を着ているせいか、日に少しも焼けていない腕――リヴァイがこの少年の年頃には自分も同級生ももっと日に焼けていたと思うが、少年の言うように今は日焼けを気にするものも多いのかもしれない。
 それは無意識だった。傷がないか確かめたかったのかもしれないし、日に焼けていないなめらかな肌に触ってみたいという欲求があったのかもしれない。つられるように手を伸ばして少年の腕をリヴァイが掴んだ瞬間――。

「………っ! 触んな!」

 物凄い勢いで腕を振り払われた。ソファーから立ち上がり、腕を――自分自身を庇うようにして離れ、少年は男との距離を取る。足がテーブルにぶつかって、グラスが倒れたが、そのことにも気付く余裕がない。その様子にリヴァイは驚くと同時に戸惑う。確かに急に腕を掴んだのはリヴァイの非なので謝るしかないが、ここまで激しく反応されるとは思わなかった。以前、少年の顎を引っ張って火傷を確認したことがあったが、あのときの方がよっぽど距離が近かったのに、ここまでの反応はなかった。
 待てよ、と脳裏に引っかかるものがあって、男は少年と出逢ったときを思い出す。急所蹴りを食らいそうになったあのとき――男は少年の腕を掴んだのではなかったか。

(ひょっとして――腕を触られる、イヤ、掴まれることがダメなのか?)

 あのときの自分は胡散臭い奴にしか見えなかっただろうから、それ故の反応だろうと思っていたが――勿論、不審者だと思っていた部分が大きいだろう――急所蹴りを仕掛けてきたのは腕を掴んだせいかもしれない。普段から長袖を着ているのも、おそらくは腕に少しでも触られたくないからではないだろうか。日常生活を続けていれば不意の接触――通りがかりに腕に当たるとか――は勿論、あるだろうが。

「すまなかった、エレン、驚かせたな」

 どうするべきか、と男は思う。これは間違いなく少年の急所だ。先程の父親の話以上に踏み込むのには慎重にいかなければならない。少年はきっとこのことを知られたくはなかったし、触れてほしいとも思っていない。長袖を着ている理由をはぐらかした時点でそれははっきりしている。今後、二人の仲を進めたいと思うのであれば、このことは絶対に避けては通れないことなのだろう。だが、少年が話したがらない理由を強引に暴くのはしたくなかった。何でもないことのようにやり過ごそう、と男は取りあえず倒れてしまったグラスを元に戻した。
 カタン、と男がグラスを戻す音が響く。それで頭が冷えたのか、グラスと男を交互に見て、少年は俯いた。

「……すみません、急に気分が悪くなったので、今日は帰ります」

 少年が震える声で言う。おそらく、少年も自分が過剰反応したことで男にその原因が知られたことを察したのだろう。
 ばたばたと慌ただしく帰っていく少年を男は止められなかった。自分が盛大に少年の地雷を踏み抜いたことを痛感して男は深い溜息を吐くしかなかった。



 携帯電話を取り出しては眺め、眺めてはしまい、また取り出しては眺めるという動作をエレンは繰り返していた。

「そんなに気になるなら電話かけたら?」

 その様子を見て少年の親友がそう声をかけたが、エレンはそれに答えず机に突っ伏した。

「何があったのかは知らないけど、バイト、ずっと行ってないんだろ?」
「――試験期間中は休むって前もって言ってある」
「それで、今日で試験は終わるけど、どうするつもり?」
「…………」
「バイト辞めるんならそれでいいと思うけど。せめて辞める連絡くらいは入れた方がいいんじゃない?」
「…………」

 親友の言葉は正論である。続けるなら続ける、辞めるなら辞めるできちんと話を通すのが筋だろう。エレンは男の前から逃げ去ってすぐに試験期間に入ったので、それを口実に――まあ、元々の予定ではあったのだが――アルバイトを休んでいる。連絡も入れてないし、何かあったら試験中なんでで押し切るつもりでいたが、期末考査も本日で終了だ。そうなれば男の元に行かない理由はなくなってしまう。

「バイト、辞めたいの?」

 この親友には男のところでアルバイトをすることは伝えてあった。エレンに惚れているという男の元に通うということに対してアルミンは反対はせず、「エレンが決めたんならそれでいいと思うよ。でも、何かあったら遠慮なく相談して」と告げた。
 アルバイトは順調だったが、相談しろと言われていたので男とのやり取りをアルミンに聞かせたら、「うん、そういうことじゃないんだよ。何かあったらの話で逐一報告しろとか言ってないからね。あの人の情報とか豆知識とか僕は別に要らないからね」と何だか生温い視線を向けられてしまった。そこまで男の話をしていた訳ではないと思うが、親友によると最近は男の話ばかりしているという。まあ、三十路男の情報なんていらないか、とそれからはセーブして話していたのだが、毎回「エレンが楽しそうで良かったよ」で締められた。

「……辞めたくはねぇ、な」

 何だかんだいっても男のところは居心地がよかったのだ。やたらと貢がれるような行動は頂けなかったが、男と話すのは楽しかった。自分に惚れているとか付き合ってくれとか言い寄ってくる男なんて最悪であるのに、エレンにとってリヴァイはそうではなかった。頑張って紅茶の淹れ方を覚えたのも、清掃を完璧にこなせるようになったのも、それが仕事だからというのは勿論だが、男に喜んで欲しかったからだ。表情筋が死んでそうな男であるが、よくよく見れば何となく機嫌とかが判るようになってきた。今回の紅茶は及第点だったかな、とか、ちょっと今は楽しそうだな、とか。そういったものを知られるのがエレンは嬉しかった。

「なら、何で行かないの?」
「……気まずいんだよ」

 あれは自分の失態だったと思っている。もっと上手く対応出来たと思うのに、思っていた以上に動揺して逃げ出してきてしまった。男におそらく他意はなかった――手は出さないと言っていたのは本心だと思うし、もしかしたら、本当に傷跡がないのか確かめたかったのかもしれない。
 エレンは自分の腕を見た。長袖を一年中着るようになってから数年が経つが、その理由を知るものは極僅かだ。母親とアルミンと、当人であるエレンくらい。たまに何で長袖を着ているのか訊いてくるものもいるが、男に並べた理由のどれかを話して適当に濁しておけば深く追及はされなかった。
 男にも適当な理由を告げて誤魔化すことは出来た。最初にはぐらかしたのだし、男にも追及する様子は見受けられなかった。だが――。

「もう嘘、吐きたくなかった」

 男はいつどこでエレンに一目惚れしたのか詳細は語らないし、何で好かれているのかさっぱり判らないが、それでもエレンに対する態度は誠実だと思う。少なくとも嘘で誤魔化したりはしていない。その男に対して適当な話をでっちあげて濁すのは不誠実であるように思えたのだ。
 だが、自分が腕を掴まれるのに拒絶反応を示すようになった原因を彼に知られたくはなかった。

「じゃあ、正直にそう言えばいいんじゃない?」
「は?」
「何があったのか僕は知らないから勝手に言うけど……嘘は吐きたくないけど、言いたくないなら、そう言えばいいよ。理由はあります、でも、言いたくはないです、納得してくださいって」
「それで納得出来んのか?」
「してもらえばいいよ。言いたくないことなんて人には色々あるし、それがプライベートなことなら言う必要ないし」
「………嫌になったり、しねぇかな」

 その言葉にアルミンは両の眼を見開いて、それから笑った。

「それくらいでエレンを嫌になる人に軽々しく惚れたとか言って欲しくないな。それに、それくらいで嫌になる人じゃないんでしょ?」

 だったら、エレンは気にしないもんね、という親友にエレンは小さく頷いた。


(行きにくい……)

 行くとは決めたものの、やっぱり気後れしてしまってらしくないな、と溜息を吐く。一応、事前連絡はしておいた方がいいと思って試験が終わったことと本日行くということは携帯電話でメッセージを送っておいた。
 男の元に着いたら何を話すのか全く決めていない。時間はあったのに考え付かなかった。とりあえず、いきなり帰ったことは謝るべきだろう。

(ここでこうしていても仕方ねぇし、行くか)

 真っ直ぐに向かう気になれず、街中をふらふらしてしまったが、こうしていても意味はない。一瞬、何か手土産で持っていくべきかとの考えが浮かんだが、男の出してくれるものを考えるとその辺で買っていくのは躊躇われた。きっと男は値段など気にしないではあろうが――そもそも、何かを持っていくこと自体、逆に気を遣わせるかもしれない。

(本当に、こんなに何ぐるぐる考えてんだろ)

 ふう、とまた溜息を吐いたとき、エレン・イェーガーくん?と声をかけられた。

「ああ、偶然だね」

 振り返った先の男が誰か判らなくて、エレンは眉を顰めたが、その顔を眺めていて相手が誰なのか思い出した。顔、というよりも粘ついた目つきに見覚えがある。リヴァイと二度目に出くわした日に受けていた面接先の店長だ。出来れば二度と会いたくないなと思っていたが、エレンはとことん運がないらしい。
 どちら様ですか、と知らない振りをしようかと思ったが、相手がこの前の面接で――と切り出してしまったので知らない振りを通すことは難しくなった。

「……よく、覚えてましたね」

 これは本当の感想だった。実際に自分が面接官だったなら、採用しなかった相手のことなどよっぽど奇抜な受け答えでもしていない限り覚えていないと思う。よしんば、覚えていたとしても街中ですれ違ったくらいで判別するのは難しいだろう。
 君は印象的だったからね、と男は笑った。意味深長な含み笑いだが、そんな笑みを向けられるような覚えはエレンにはない。

「バイトもう決まっちゃったかな? まだ決まっていないなら――イヤ、余裕あるならうちにも来てくれたら嬉しいんだけど」
「……もう、決まったので。日数増やすとキツいですし」

 しつけぇな、やらないもんはやらねぇんだよ、と心の中で悪態をつく。実際にそう言うことは可能だが、やれば面倒くさいことになり兼ねない。今のところ、特に危害を加えられた訳ではないし、暴言を吐かれたわけでもない。下手をすればエレンの方が咎められるだろう。全く知らない相手なら強行するが、面接先の相手なのでエレンの身元は知られている。勿論、勝手に個人情報を利用すれば男の方が咎められる訳だが、匿名で学校に連絡でもされたら面倒な事態になる。

(……嫌な目だな)

 エレンは自分が同性に言い寄られるのにも、欲望の対象として見られることにもどうにか慣れた。だが、それは何とか対応出来るようになった、というだけで不快感は決して消えない。まあ、この男が同性には全く興味がなくて、本当にただの親切心から言っている――もしくは本当に人手が足りなくて困っているという可能性はゼロではないが、このしつこさにはやはり、別の思惑があるんだろうと確信する。
 どうでもいい話を交えて勧誘してくる男を適当に流しながら、エレンは切り上げるタイミングを計る。携帯電話を取り出して、友人から連絡来たんでと言うか、約束してる時間がもうすぐなのでとでも言うべきか。

「ねぇ、考えてみてくれないかな? 時間ある? ゆっくり話そうよ」
「イヤ、用事あるんで、失礼しま――」

 言いかけたエレンの言葉が途切れた。いい加減切り上げようと動きかけたエレンの腕を男が掴んだからだ。
 ぞわぞわと気持ち悪さが駆け抜ける。掴まれたところから腐っていくような気がして、エレンは足を振り上げていた。

「――触んな、害獣」

 振り上げたエレンの足は男に当たるはずだった――が、奇跡的に当たらなかった。相手の身体能力が高かったから、ではなく、エレンの豹変に驚いた男が慌てて離れようとしてこけたからである。地面に尻をついた男にエレンは小さく舌打ちした。運が悪いエレンとは違って、この男は悪運が強いらしい。

「な、何だ、急に……っ、最初に誘ってきたの、お前だろうが!」
「――何、言ってやがる」
「面接のとき、誘うような目で見てきたくせに! その顔でいつも男を誘ってんだろ!」

 ――俺は悪くない! そいつが誘ってきたんだ! 誘惑してきたそいつのせいだ!
 ああ、とエレンは思う。この男も「あの男」と同じ屑だ。

「――ふざけるな、クソ野郎。お前らはいつも同じことしか言わない。全部オレのせいにして自分は悪くないって主張する。誰が、お前らなんか誘うかよ、誰が――」

 エレンに言い寄る男は口を揃えたようにエレンが誘ったと言う。誘うような顔をした、目で誘ってきた、誘ってください、というように歩いていた。
 エレンは一度だってそんなことはしていない。普通に考えたら、誰彼構わず男を誘う少年なんているはずがないだろう。
 結局は自分の勝手な妄想をエレンに押し付けているだけだ。欲望を抑えきれない獣でしかない。
 ――なら、駆除してしまっていいだろう。
 こんなものがいるからいけないのだ。悪くない、悪くない、悪くない、自分は悪くなんかない――。

「――エレン」

 不意にすぐ傍で声がした。赤く染まりかけていた思考が引き戻されて、エレンはのろのろと振り返った。

「リヴァイ、さん……」
「遅いから迎えに来た」
「なん、で……」

 本日行くとは伝えてはあったが、ピンポイントで引き当てられるなんて誰が思うだろうか。勿論、男の自宅兼事務所までのルートは男も把握しているだろうが。

「オイ、そこの豚野郎」

 リヴァイはエレンの頭をぽんと撫ぜてから、冷たい視線を男に投げつけた。

「本当なら地面にめり込ませてやりてぇが……失せろ。今後、エレンに近付いたら沈めるからな。――個人情報握ってるのがお前だけだと思うなよ? それとも、今から通報するか? イヤ、誰かもうしているかもな」

 見ると、周りがざわついてこちらを見ている。こんな街中で騒げばそれは目につくだろう。慌てたように立ち上がって逃げていく男に舌打ちを一つくれてやって、リヴァイはエレンの手を取った。腕ではなく、手を取ったのは前回のことがあったからだが、拒絶されなかったので、内心でほっと息を吐く。

「行くぞ。本当に通報されている可能性もあるし、ここに用はねぇからな」

 ――そうして、エレンは男とともに彼の自宅兼事務所へと連れてこられた。


「ほら、飲め」

 差し出された紅茶をエレンは受け取って口に運んだ。やはり、自分が淹れるより男が淹れた方が紅茶は美味しいと思う。

「ありがとう、ございます」

 向かい合わせにソファーに座った男を眺め、何から話そうかとエレンは思い悩む。先程、絡まれていたのを助けてもらったことへの感謝か、逃げ帰ったことの謝罪か、この先アルバイトを続けるかどうかの選択の話か。一番に話さなければならないのはどれだろう。

「――話しにくいことは話さなくてもいいぞ」

 自身も紅茶を一口飲んで、ぼそりと男が言った。相変わらず、独特の持ち方をするな、とエレンはぼんやりと思う。あの飲み方には何か理由があるのかと、試しに同じように飲んでみたが、持ちにくいし、飲みにくいしでいいことは何もなかった。男にああすると何か味が変わるのか、こだわりがあるのかと訊ねたら単に癖だ、と返された。特に意味はないのだと知って脱力したのは記憶に新しい。男は紅茶の味にはうるさいが、飲み方や作法には特にこだわりがなかったらしく、自分の好きなように飲めばいいだろう、と言われたので、リヴァイさんと一緒の飲み方をしてみたかったんです、と言ったら固まられた。何でフリーズされたのかは未だに判らない。

「お前の話は何でも聞きたいし、知らないことを知っていくのは楽しい。だが、言いたくないことを無理に聞きたいとは思わねぇ」

 相手のことを知りたい、と思うのは相手に対して好意があるからだ、という。逆に敵の情報を掴みたい、という場合もあるだろうけれど。
 男のことを知りたいか、と問われれば知りたい、と答えるだろう。

「――ただ、言うことで重荷が軽くなるなら、話して欲しいと思う。何も言わずにいなくなられるのは……堪える」
「…………」

 一番に話さなければならないこと――一番知られたくないと思っていたこと。

「……リヴァイさん、オレの父親は三つの頃に死んだって言いましたよね?」

 唐突な話題に男は怪訝そうではあったが、エレンが言ったことを覚えていたらしく頷いた。今から話すことに全く関係ないように思えるがそうではない。父親が亡くなったときエレンは三歳児だったために余り記憶にないのだが良い父親だったと思うし、エレンに起こる出来事の責任は彼にはないのだが、彼が亡くならなければなかった話ではある。

「空とか、星とか、そういうのが好きだった記憶があります。プラネタリウムに連れて行ってもらったのが、一番よく覚えている父親との思い出です」

 だから、エレンも空を見るのが好きだった。余り読書はしないエレンだったが、空の写真や、天体に関する本などはよく読んだ。

「父さんが死んでからは母さんと二人で暮らしてたんですが、再婚したんです。オレが小学校五年生のときです」

 母親は若い時分から評判の美人で、子供を産んでからもそれは変わらなかったし、父親が亡くなってから何度も再婚話が持ち込まれているのをエレンは勘付いていた。ずっと話を断り続けていた母親がそれをする気になったのはエレンが成長して大分手がかからなくなったのも大きいが、相手の人柄が良かったからでもあろう。母親が一人で苦労しているのは知っていたし、支えてくれる人がいるならそれを祝福して受け入れようとエレンは思った。複雑な思いがなかったと言ったら嘘になるが、紹介された男性はいい人であったし、母親が幸せになれるとエレンは信じた。

「いい人、だったんですよ。オレに優しかったし、あっちの家に引っ越すオレ達のために色々と家の改装とかもしてくれて。オレが星空好きって聞いてオレの部屋の天井、明かり消すと星座が光るやつに変えたり、キッチンを母さんが使いやすくしてました」

 義父になった男は家事も妻に任せっきりとかではなく、進んでやるタイプで、新生活に不満はなかった。転校することになって親友のアルミンと離れてしまったのは残念だったが、一生の別れではないし、長期休暇には遊びに行くとの約束もしていた。
 その生活が崩壊することになったのはあの男――義父の息子、エレンの義兄になった人物の存在だった。

「大学生で、結構な有名大学に通っていて……最初は何もなかったんですよ。母さんにも気を使ってたし、オレが宿題やってると教えてくれたり、お菓子とか買ってきてくれたりして。弟、欲しかったから嬉しいって言っていて……そうだな、多分、最初はいい人なんだと思ってた」

 最初におかしいと思ったのは視線だった。彼はよくエレンを見ていた。特に彼が与えた食べ物や飲み物を飲んでいるときはその様子をじっと見つめていた。理由を訊いてみたら「美味しそうに食べるから」「ちゃんと美味しいか気になって」という答えが返ってきた。エレンは彼が時折見せるどこか粘ついた視線が苦手だった。
 それから、距離感が近かった。宿題をやっているときに覗き込んできたり、一緒にゲームをやるときにはべったりくっついてくる。親友のアルミンよりも距離感は近かったが、家族になったのだし、男兄弟がいないから判らないが、このくらいの距離感が普通なのかもしれない。あるいは、彼はパーソナルスペースが極端に狭い人間なのかもしれない。スキンシップも過剰なように感じられた。
 違和感はあった。何かが変だ、とは思っていた。だが、どれもそういうものか、で片付けて目をつむれる程度のものだったので、エレンはどうしようもないもやもやを呑み込んだ。

「相手も大学生だったし、オレに構える時間は限られていたので、なるべく接触を減らせるように時間ずらしたりして。それで、しばらくの間は平穏でした。まあ、束の間の平穏だった訳ですけど」

 決定的なことはこの後、起きたのだ。

「オレ、一度寝付くと朝までぐっすりタイプだったんです。よっぽどのことがないと起きません。――だけど、その日、ふと人の気配を感じて目を覚ましたんです」

 エレンは泥棒かと思った。同時に、寝ている間に侵入する窃盗犯は変に刺激しない方がいいと聞いていたのを思い出した。しかし、犯罪者をみすみす逃すのは――と考え、エレンは相手の動向を探った。そして、中にいるのが窃盗犯ではないとすぐに悟った。
 エレン、という小さな呟きと荒い息遣いを耳が拾ったからだ。――義兄だ。エレンのベッドのすぐ近くに義兄が立っていた。
 エレンは混乱した。何故、自分の部屋に彼がいるのか。寝ぼけてトイレに行った帰りにでも間違えて入ったのだろうか。だが、それならすぐに出ていくだろうし、部屋に留まり続ける理由も判らなかった。強い視線を感じながら、エレンは寝たふりを続けた。今、起きたら何かとんでもないことが起きる気がしていた。

「その当時は判らなかったんですけど、あいつ、オレ見ながらしてたんですよ、一人で」

 エレンの寝顔を見ながら義兄は自慰をしていたのだ。当時のエレンはまだ精通を迎えていなかったし、性知識も学校で習ったものくらいしかなかったから彼が何をしているのか判らなかったが、不穏な状況であるのはそれでも理解した。
 エレンの言葉にリヴァイは眉を顰めた。まあ、ドン引きする話だろう。何をしていたのか理解した今ではエレンもそうだ。

「終わったら帰っていきましたけど、オレは混乱してました。何だろう、どうしようって」

 母親に話すべきだろうか、しかし、エレンが何かされた訳ではないし、目をつむっていたから何をしているのか見たわけでもない。このときにきちんとした知識があったならエレンは話していただろう。義兄が何をしていたのかはっきり判らなかったこと、再婚して上手くやっている状態を壊したくなかったこと、寝顔を見られるくらいなら特に害があるとは言えないと考えたこと――それらを総合してエレンは様子見をするという選択をした。
 まあ、この時点で話していたら義兄は誤魔化していたかもしれないが――この後に起こることはなかった。
 義兄の様子を窺いながら幾日かが過ぎ、ある日の夜、男は風呂上がりのエレンに冷たい飲み物を差し出した。
 これ自体は不審なことではない。義兄はよくエレンに食べ物を差し出してきたし、風呂上がりの水分補給にと飲み物を渡されたことはあった。
 だが、この日の義兄の目が――どろどろとした何かを煮詰めたような、粘ついた嫌なものだった。今までにも何度も感じていた違和感や嫌悪感はこの日のそれとは比べ物にならなかった。だから、エレンは渡されたそれを飲まず、飲んだことにして上手く義兄を誤魔化した。
 自室のベッドに潜り込んだエレンは部屋に鍵を付けてもらおうかと考えた。その理由はどう言うべきか悩んだが、何か悪いことが起きそうな予感、というか危機感があったのだ。ただ、その時点では性的なものではなく、暴力的なものと想定していた。大人が子供に暴力をふるう――いわゆる児童虐待のようなものを考えたのだ。明日、母親に相談してみよう、とそれだけを決めてエレンは眠りについた。
 そして、深夜――。

(…………?)

 人の気配に気付いてエレンは目を覚ました。荒い息遣い――また、義兄が部屋に入って来たのだとエレンは察した。明日、母親に相談する気でいたが、ここで義兄に声をかけるべきか。それとも、また寝たふりを続けて出ていくまで待つか――。
 行動に迷うエレンの腕を、そのとき男が掴んだ。これまでになかったことにエレンは驚く。
 引っ張られた腕はそのまま何かに当てられる。湿った熱い感触があった。
 さすがに寝ている場合ではないと察したエレンは飛び起きて、腕を引っ張られた方向を見た。
 さすがに真っ暗では動きにくいと思ったのか、義兄は明かりを持ち込んでいた――うすぼんやりとしたものではあったが。その中でもはっきりと見えたのは――見てしまったのは引っ張られた腕の先にある男の屹立。グロテスクなそれに男はエレンの手を擦り付けていた。エレンの手の先でそれがぐちゅぐちゅと音を立てている。

「なに、して……」
「ああ、起きちゃったね。量が足りなかったのかな?」

 余りの状況に掠れた声を上げたエレンに、男は首を傾げた。何のことか判らず、とりあえず気持ち悪い感触から逃れたくて腕を振りほどこうとしたが、さすがに大学生と小学生では男の方に分があった。男の手から抜けない腕にエレンは焦る。

「何で逃げる? お前のせいだろう? お前がずっと誘ってきたくせに。かわいい顔して誘いをかけて、俺におねだりして、して欲しいって誘ってきたくせに何で拒絶するんだ!」
「な、に、いって――放せよ!」
「うるさいうるさいうるさい! 全部お前のせいだお前のせいで俺はおかしくなったんだお前が誘うからだ本当はこういうの好きでたまらないくせに俺にして欲しかったくせに何でもない顔して焦らして誘っていまさらいまさらいまさら!」

 本当は淫乱のくせに誰でも誘ってるんだろう俺のせいじゃないお前が悪いんだ――エレンは男の言うことが半分も判らなかったが、いや、その半分も言葉は判るが何でそんなことを言われているかの意味では判らないものだった。ただ、この先よくは判らないが酷いことをされるのだろうというのは理解した。しっかり掴まれた腕にはきっと手形がついているかもしれない。正気を失った男の力は非常に強く、もがいてももがいても振りほどけなかった。義兄は腕だけではなく、もう片方の手を伸してベッドに押さえつけようとしてきたので、エレンは自由だった手でベッドの傍に隠していたバッドを取り出して男に向かって振り下ろした。

「最初の一撃は肩に当たったみたいですね。後は夢中で振り回したのでよく覚えてないですが」

 バッドは護身用に持っていたものではないが、義兄に不穏なものを感じてベッドの傍、すぐ取り出せるように隠しておいた。小学生とはいえ、死に物狂いになったエレンの攻撃は男に効いた。脱臼と骨折をしたそうだが、自業自得だと思うのでそこに罪悪感は感じていない。
 さすがにここまで暴れまわっていたら親も気付き、二人は取り押さえられた。
 男はその間もずっとエレンが悪い、自分のせいじゃない、誘われたんだ、と主張していた。
 その後、義兄の部屋で発見されたものでその主張は覆されるのだが――そもそも、十歳児が誘うわけがないし、誘われたのだとして本気で実行したらただの性犯罪者である。

「ショタコンっていうんですか? そういうののエロい漫画とかアニメ、裸の写真とか動画とか。オレの観察日記みたいのもつけてた。――後、睡眠導入剤」

 義兄は一時期ストレスで不眠症になっていたらしい。有名大学の受験には苦労したらしいし、入ったら入ったで新しい生活や人間関係で苦労してそれで眠れなくなり、病院で処方してもらったのそうだ。全部使わずに取っていたものを砕いて粉末にし、エレンの飲み物に混ぜたのだ。

「オレに食べ物とか飲み物とかよくくれたのも、それが理由で。どのくらいで効くのか何度か試してみたいです。オレは元々ぐっすりなんで、この量なら何やっても起きないだろうと確信して、その日、風呂上がりのオレに睡眠挿入剤入りの飲み物渡したみたいです。まあ、不審に思ってオレは飲まなかった訳ですけど」
「……お前が人の飲み物飲めないのはそれでか」
「ああ、バレンタインの話は嘘じゃないですよ。手作りは抵抗あったので捨てるよりはと人にやったら、そいつが気付いて……おかげで手作りチョコは全部ダメになりました」

 追い打ちかよ、とは思ったがリヴァイは言わなかった。これで少年がどうして手作りのものに拒否反応を示すのか判った。――腕を掴まれるのがダメな理由も。

「母さんは、勿論、義兄だった男を訴える気で――元義父に、土下座されたんです」

 いい人ではあったと思う。優しい人ではあったと思う。だが、彼は父親だった――エレン、ではなく義兄の。
 お願いだ、言わないでくれ。あの子の将来がなくなってしまう。いくらでも払う。もう二度とさせない。本当はいい子なんだ。ちょっとストレスでおかしくなってただけなんだ。医者に診せる、だから、だから――。
 息子の将来をつぶさないでくれ。
 怒りとかそういうものは湧かなかった。ただ、この男にとって息子はエレンではなく、義兄だけだったということだ。所詮は自分はただの母親の付属物でしかなかったのだろう。

「――義兄を放っておいて他にもやらかしたら困るし、義父の頼みは聞けなかった。色々とありましたけど、離婚してこちらには一切関わらないことが確定しました。あっちがどうなったのかは知りません、知りたくもないですから」

 それから、エレンは長袖を着るようになった。最初は掴まれた際の手の跡を隠すためだったが、腕に触られたり掴まれることに激しい嫌悪感を覚えるようになって、脱げなくなった。布一枚でも心理的効果はあった。ずっとあのときの出来事に囚われているようで嫌ではあったが、余計なトラブルを避けるためにも着用し続けた。
 それでも、トラブルは起こったのだが。成長するにつれて絡まれる率が上がったからだ。エレンは自覚がないが黙って立っていれば少し憂いがある感じの美形なのだ。外見につられて寄ってくるものは多い。そして、中身が想像と違うと文句を言うのだ。

「――オレに絡んでくるやつは皆オレが悪いっていう。オレが誘っているんだって言う。勘違いさせたオレのせいだって言う。そんなのオレは知らない。オレのせいじゃない」

 ぎゅうっと腕を握る。掴んだ指に力が入り、爪が布越しとはいえ、皮膚に食い込む。

「あいつらみんな嫌いだ。オレをそういう目で見る奴が嫌いだ。薄汚い害獣がしゃべるのが嫌いだ。みんな、みんな――」
「エレン」

 力の入るエレンの指を男はそっと外させた。優しくいたわるように指を撫ぜる。腕を掴まれるのはまだ無理だと思うが、それ以外の接触は平気になっている。こんな風に触られるのを許すのは、受け入れられるのはあの出来事以降同性では――母親は別なので――男が初めてかもしれない。

「俺はお前が好きだ」
「――――」
「お前が俺を嫌いでも俺はお前に惚れている。この先も傍にいさせてほしい」

 男の告白にエレンは戸惑ったように視線をうろつかせる。

「オレは、リヴァイさんを……嫌いじゃないです。バイト、すんのも、一緒にいんのも、楽しいし……けど」
「けど?」
「あなたに好かれる理由が判らない」
「一目惚れで不足なら好きなところを一つ一つ言うが――それでも信じられないって顔だな」
「…………」
「信じられない、か」
「信じてないとかではなくて――」

 男の言葉にはいつだって嘘がないのは知っている。エレンに言ってないことはあるかもしれないが、いつだって男は誠実だ。
 だが、自分を好きだという言葉だけは上手く呑み込めない。何度も一目惚れだったと言われて、男が嘘を言っていないと思っているのに、何かが引っかかっている。何でだろう。男が、自分を好きになるなんて――ないと思う心があるのは。
 自分の心の中を整理しようと、エレンは何故そう思うかを考え――ふっと思考が途切れた。

「………ったから」
「エレン?」
「あなたは、オレをそういう風には見られないと、言ったから」
「――――」
「あなたを、困らせたから、一緒にいるだけで満足してれば良かったのに、言って困らせた。困らせたかったんじゃなかった」
「……エレン」
「傍にいたかったのに、あなたは距離をとったから。それがあなたの答えなら、オレは。二度と言わないし、もう近付かないって――」
「エレン!」

 大きな声で呼ばれてエレンは我に返った。今、自分は何か口走ってなかっただろうか。言った気がするのに思い出せない。

「何か、言いました? オレ」
「…………」
「あれ? 何で泣いてるんだろう? わかんねぇや……」

 不意に出てきた涙にエレンは戸惑う。哀しいことはなかったはずなのに、どうして泣いているのか。自分の過去を話して気が抜けたのかもしれない。

「リヴァイさん?」

 涙を拭っていると、うなだれている男が目に入った。自分の過去話は暗くて楽しいものではなかったと思うが、うなだれてはいなかったと思うのに、と首を傾げる。

「ああ、何でもねぇ。原因が判ったからな。ちょっと過去の自分を殴りたくなっただけだ」

 はあ、と溜息を一つ吐いて男はエレンに向き直った。

「俺はお前に惚れている。信じてもらえるまで努力する。ついでにお前に寄って来る害獣は俺が始末する。というか、寄らせねぇようにする。――だから、傍にいてくれ、エレン」
「……害獣くらい自分で片付けられます」
「俺がしたいからだ。というか、今から過去に絡んできたやつ全員割り出して沈めてぇ」
「……昔のことはもう、いいです。ムカついてますけど。遭遇したらタコ殴りですけど。地獄に落としますけど」
「俺より酷いじゃねぇか」
「……オレが信じなかったらどうするんですか?」
「老衰で死ぬまでには信じてもらう」
「それじゃあ、一生じゃないですか」
「一生、一緒にいてもらう気だからな」
「……やっぱり、そこまで好かれる理由が判りません。けど――」

 そこで言葉を区切ってエレンはリヴァイを見た。この男のことをエレンはまだまだ知らない。だから、やはり知りたいと思う。

「判るまでは、一緒にいてあげます」

 その言葉に男は珍しく目を瞬かせて、それから口の端を上げた。



 試験休み明けに学校に行くと、エレンは男子生徒に声をかけられた。何、と返すと、相手は何やらにやにやと嫌な笑みを浮かべている。

「なぁ、お前、男と痴話喧嘩したってマジ?」

 エレンは眉を顰めた。このタイミングということはおそらくはあの面接先の店長に絡まれた一件を聞き及んだのかもしれない。あれのどこが痴話喧嘩なんだと思う。エレンが一方的に絡まれてリヴァイが助け出してくれただけの話だ。面白半分でエレンを煽っているいるのか、それともエレンが気に入らなくて難癖をつけたいのか、あるいは両方か。こういった手合いは相手にしない方がいいだろう。無視だと決めてエレンが踵を返すと、それが頭に来たのか、生徒は待てよ、と声を荒げた。面倒くさいな、と思いながら、エレンは最初の質問に答えた。

「痴話喧嘩はしていない。じゃあな」
「見た奴いるんだよ!」
「なら、似た他人だな」
「嘘つけ。男と付き合ってるなんて、気持ち悪――」
「エレンに変な言いがかりつけないでくれる?」

 答えたのはエレンではなくて、少女――ヒストリアだった。偶然、居合わせたのか、騒ぎを聞きつけたのか。いつ来たのか全く気付いていなかったエレンは彼女を見やった。

「エレンはちゃんと付き合っている人がいるし、変な噂立てないでよね」
「別に、そっちには関係ない――」
「あるわよ」

 ヒストリアはにっこりと笑った。誰もが見惚れるような完璧な美しい笑みだ。エレンだけはあ、これ怒っているやつだ、と思ったが。

「彼氏の変な噂立てられたら気分悪いじゃない。付き合いたてって一番楽しい時期なんだし」

 ヒストリアの言葉に相手はぽかんとし、周りはざわつきだす。ヒストリアはそんな周囲を気にもせず、じゃあ、エレン次のデートどうするか決めよう、とエレンの服の袖を引いてその場から離れていった。

「……オレ、いつからお前の彼氏になったんだ?」

 人気のない場所に移動してから溜息とともにエレンがそう零した。

「私はエレンが彼氏なんて一言もいってないわよ? エレンに付き合っている人がいたらその人は気分悪いわねって話」
「付き合い立ては楽しいって?」
「一般論よね」
「デートはどうするかは?」
「私とのデートとは言ってないじゃない」
「……お前の信者に刺される未来しか見えないんだが」

 大丈夫よ、とヒストリアは笑う。

「もう夏休みに入るんだし、夏休み明けには皆忘れてるわよ」
「忘れてなかったら?」
「夏休みの間に別れたってことにすれば?」
「どっちにしろ、殺されそうな気がするな」

 頭を押さえるエレンにヒストリアはふふふっと笑った。

「そのときはどうするかちゃんと考えるよ。私はすごく悪い子だから、悪だくみの一つや二つ任せて」
「イヤ、お前やアルミンの悪だくみは陰湿そうだからしなくていい。……まあ、助かったけど。助けてくれてありがとうな」

 ヒストリアの意図は変な噂を立てられる前に自分との噂を流してしまえ、ということだったのだろう。元々、一緒に出掛けたりしているし、あやふやな目撃証言よりはよっぽど信憑性が高いから、流れるとしたらそちらになるに違いない。

「それと、お前、別に悪い奴じゃねぇだろう。みんなのいう女神でもねぇ。普通の奴だし、オレはそっちのがいいけど」
「――――」
「まあ、別れたって言うならお前がふったことにしてくれよ。オレだと面倒なことになるから」
「それだと私がエレンのファンに睨まれちゃうな」
「いねぇよ」

 断言するエレンにヒストリアは苦笑した。まあ、自覚がないのがエレンだから仕方がない。

「今日、バイトに行くの? エレン」
「ああ、行くけど」
「じゃあ、エレンを泣かしたら私が女王様の一撃を食らわせに行くって、あの人に伝えておいて」

 そう言ってひらひらと手を振りながら去っていくヒストリアに、女王様ってなんだ、そもそもバイトに行っていることは知っていてもリヴァイさんのことは知らないはず……と、エレンは首を傾げた。



「何か、僕もエレンと君の仲どうなってるのか訊かれたんだけど」
「アルミンにも訊きに行ったの? じゃあ、こうしてるの浮気って言われるかな」
「怖いこと言わないでくれる? 僕は安全牌でいいから」

 カフェの一角、注文した抹茶ミルクを飲みながらそう言うと、ヒストリアは冗談よ、と笑った。

「それで、あの人とエレンはどう?」
「うーん、順調って言っていいのかな? エレンには記憶ないから一から関係作ってるみたいだけど。まあ、何かあったら殴りに行こうか」
「うん。私も殴りに行くって言っておいてって頼んだ」
「ミカサがいたら心強かったんだけど」
「そうだね。まあ、いたとしても記憶があるとは限らないし。ある人とない人の法則性もないんだよね。性別、年齢、亡くなった時期とか関係ないし」

 二人にはいわゆる「前世」と呼ばれるものの記憶がある。それは巨大な壁に囲まれた世界で、壁の外には人を捕食する巨人が存在した。更には巨人にならる能力を持った人間が現れ、壁の外に飛び出し、世界の存亡をかけた戦いに身を投じていくことになっていったのだが。
 二人はかなりはっきりと記憶を持っていた。勿論、前世の記憶総てを思い出せるといったらそうではないが、幼い頃から思い出し、それを上手く消化して生きることが出来た。同級生の中ではっきりと記憶を持っているのは二人の他にはジャンのみ。ユミルとサシャは全く覚えていないし、コニーはぼんやりとした記憶はあるようだが、たまに変な夢見るくらいの認識だそうだ。ジャンは別の学校に通っているマルコと友達らしいが――二人はマルコと逢ったことがない――、彼にも記憶はないそうだ。どうもジャンはマルコには記憶を取り戻して欲しくないらしく、彼については紹介しないと言っていた。ジャンがエレンに前世のように喧嘩を吹っ掛けないのもエレンの記憶がないからのようだ。

「エレンは記憶を取り戻しそう?」
「どうかな? 今まで思い出していないし、この先も思い出さない可能性は高いと思う。あの人もそれで構わないと言っていたし、僕も思い出さないでいいと思ってる」

 あの人――前世で二人の上官であったリヴァイも、記憶をはっきりと持っている。彼がエレンに近付くのに思うところはあったのだが――エレンの支えに彼ならなれるかもしれない、と判断した。あのとき、エレンに見せてもらった名刺で連絡先を素早く記憶したアルミンはすぐに男と連絡を取った。一番最初の二人の出逢いは確かに偶然だったが、その後の邂逅にはアルミンが絡んでいる。面接に行ったときも、リヴァイに逢いに行くと言っていた日もアルミンはさりげなくエレンに連絡を入れて、男にその居場所を教えていた。でなければいくら何でもピンポイントで居場所が判るはずがない。
 勿論、エレンの意思が最優先なので、彼がリヴァイと一緒にいることを選ばなかったら協力を続けるつもりはなかった。エレンの情報も必要以上には渡していない――特に過去のことはエレン自身が話さなければ意味がないのだから。

「……ヒストリアはいいの?」
「ユミルのこと? ……そうね、私もアルミンと同じ、彼女が思い出さないのならそれでいいと思ってる」

 ユミルは前世のようにヒストリアに固執していない。今の彼女にはその理由がないのだろう。今は仲のいい友達。それでいい。
 サシャも、たまに見かける同期も、覚えていないならそれでいい。

「エレンにも、最初は近付こうとは思ってなかったんだよ。前世のこと、全然覚えてないみたいだったから。だけど、何ていうか……危なっかしいというか、見ててほっておけなかったというか」

 ヒストリアが近付いたときの彼は誰も自分に近寄るなオーラに溢れていた。そのくせ、どこか隙があるというか、危うげな雰囲気を持っていた。

「何か、美人になったなぁって感じだった」
「いうことそれ?」
「中身は余り変わってなかったけどね。警戒心ばりばりの野生動物だけど、なつくと犬っぽいというか、ツンとデレの差が激しいというか」
「結構酷い評価だね」
「……後は、幸せになって欲しいな、って思った。私はエレンやたくさんの人達に助けられて「私」になったから、みんな幸せに生きてくれたらって思う」
「……うん、僕もエレンには幸せになって欲しいと思う」
「だから、エレンを泣かせたら二人で殴りに行こう!」
「うん、殴ろう」

 そう言って顔を見合わせて二人は笑った。



「行きたいところですか?」
「そうだ。夏休みだろう?」

 首を傾げるエレンに男は夏休みに入ったらどこでも好きな場所に連れて行ってくれるという。

「じゃあ、海外旅行って言ったら連れて行ってくれるんですか?」
「勿論。行きたい国はあるのか?」
「イヤ、冗談ですし、ないです。それにオレ、バイトで来てるんですよ。遊びに来てるんじゃないんですから」

 掃除したり、紅茶淹れたり、一緒に休憩したり――余り仕事をしている感がない。勿論、事務仕事も手伝っているし、男は清掃には厳しいのでそれもちゃんとした仕事ではあるのだが、夏休みになるのならきっちりアルバイトして稼ぎたいという気持ちがある。
 その旨を伝えると男は気遣うような視線をエレンに向けた。

「……家に居づらいのか?」
「そういうんじゃ、ないです。母さんのことは変わらず好きです。ただ――」

 言うのを迷う、というよりどう言ったら上手く伝えられるのか判らない、という顔をエレンはした。エレンは特に瞳に感情が表れるのだが、今生で初めて逢ったときより格段に素直にそれを出してくれるようになったので、男はその変化を喜んでいる。

「うちの母さんは今も昔も美人なんです」
「そうか。お前、母親似か?」
「まあ。よく似てるとは言われますけど」
「なら、凄い美人なんだろうな」
「……そういう話じゃないんですけど」

 むう、と唇を尖らせるエレンはそんな顔をすると雰囲気が幼くなる。いや、むしろこの方が本来の年齢に近いだろう。

「だから、再婚話は今でもあるんです。まあ、顔がいいからってだけで話がきてるんじゃなくて、人柄とか人徳とかそういうのがあるからですけど。でも、母さん絶対に受けなくて――男の人に誘われても全部断ってるみたいだし。前以上に仕事も家のことも力入れてるし、何ていうか……」

 無理させてるのかなって……オレのせいで、と小さくエレンは続けた。
 母親が再婚も交際もしないのは、再婚した先でエレンが義兄にされたことの責任を感じているのだろう。再婚相手が連れ子を虐待する事件が起こると、虐待した相手だけではなく、その相手と結婚した親も一緒に責める風潮がある。何故、もっと相手を調べなかったのかとか、そんな相手と何で結婚したのかとか。母親の場合は相手ではなくその子供だった訳だが、自分がろくでもない息子のいる相手と再婚したせいでエレンが酷い目にあったのだと、負い目を感じているのだと思う。
 そんな必要はないのだとエレンは言いたい。自分がいなければ――少なくとも家を出れば母親は楽になれるのではないか。罪悪感を感じずに好きなことを出来るのではないか。だとしたら、自分は早く家を出るべきなのだ。

「そうじゃねぇよ。お前のせいじゃなくて、お前のために一生懸命なだけだろう」

 ぽん、と男はエレンの頭に手を置いてそのまま撫ぜてやった。エレンがこれを嫌がらないということに気付いたので、隙があれば撫ぜることにしている。
 前世では、男はエレンを甘やかせてやることは出来なかった。むしろ、厳しい選択ばかりさせていた。人類の運命まで少年に背負わせた。
 だが、そんな男をエレンは慕った。一途に真っ直ぐに向けられる恋情――それををリヴァイは受け入れなかった。
 一目惚れをしたのは本当だった。エレンの気持ちを受け入れなかったのはリヴァイなりの考えや状況や色々とあった訳だが、それが全部なくなった現世で出逢うことがあったら自分の気持ちを素直に受け入れようと思っていた。そして、出逢ったあの日、やはりエレンにリヴァイは一目惚れしたのだ。

「そもそも、再婚しないのはいい相手がいないだけかもしれねぇだろ。何でもかんでも一人で決めて暴走してんじゃねぇよ。悪い癖だ」
「…………」
「未成年のうちは甘えとけ。母親よりは俺に甘えてくれると嬉しいが」
「リヴァイさんは、オレを甘やかしすぎだと思います」
「可愛いからな」
「そういうこと高校生男子には言わないと思います」
「惚れた相手は可愛く見えるもんだろう?」
「…………オレには、リヴァイさんは可愛いよりは格好よく見えます」

 褒められたのだと気付いて返そうとして――その返答の意味をよく考えて男は固まった。

「…………」
「…………」
「……エレン、それは俺に都合のいい解釈をしていいのか」
「…………」
「エレン」
「オレは、好きとか惚れたとか、よく、判りません。ただ――一緒にいたいとは思います」

 恋愛感情を知る前に欲望をぶつけられてしまったエレンは、そういったものに対する嫌悪感が募って恋愛方面の情緒が上手く育たなかった。エレンにも自覚はある。親愛、友愛、敬愛、これらはきちんと判るのだが、欲望も含む恋愛はどうしても止まっている。

「今はそれでいい。一緒にいてくれるのなら。とりあえず、まずは夏休みに出掛けることが目標だな」
「結局、それに戻るんですか。……そう、ですね。なら、空が見たいです」
「空?」
「空とか、星とか、天体とか……一緒に見られたらいいです。好きだったんですけど、プラネタリウムは苦手になっちゃって」

 何故苦手になったのかは言われなくとも判る。室内で暗くして天井を眺めるプラネタリウムは、事件のあった部屋を思い出させるのだろう。

「夏の空か。判った。見に行こう。綺麗に見えるところ、探しておく」
「はい」

 嬉しそうに微笑む想い人の顔を眺めて、男は目を細めた。




《完》



2020.10.15up




 思いついたので書いてみましたが、当初想定してたよりも長くなった話です。エレンもこんなに病んでる感じじゃなかったのですが(汗)。一応、転生設定ですが、どうにかして決着つきましたくらいのふわっと設定です。転生要素が薄いのでそれにした意味あるのと言われそうですが、その方が都合がよかったのです。リヴァイのデザイン関係の仕事もふわっとなのでご了承くださいませ〜。



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