イマジナリー兵長




 ――エレン・イェーガーには誰にも見えないお友達がいる。
 エレンにしか見えないその友人はいわゆるイマジナリーフレンドと呼ばれるものなのだと思う。色々と気になって調べた結果、それくらいしか可能性が見当たらなかったのだ。エレンがその存在を初めて認識したのは六歳の頃で、それを作り出したきっかけはおそらく世間ではありふれた両親の離婚だ。
 エレンの両親は息子の自分から見ても非常に仲睦まじい夫婦で、周囲からもいつまでも新婚さんみたいね、と微笑ましく思われていた。穏やかで腕の良い医師の父親と、明るくて気さくで社交的な母親――円満な家庭はこの先もずっと続くのだと思われていたが、父親の隠し事が発覚し、一転、大修羅場と化した。
 父には離婚歴があったのだ。更に前妻との間には男子が一人いて、毎月養育費を払い、面会もしていたらしい。
 母親は相手の離婚歴を気にする性格ではなかったが、それをずっと隠していたことが問題だった。父は母にそのことを黙ったまま結婚したうえに、結婚後も打ち明けることなく秘密にしていたのだ。何で気付かなかったのか、と言うものもいたようだが、それは母が父を心底信頼していたからに他ならない。その信頼を裏切ったのだから、母親がブチ切れるのも無理からぬことといえた。更に前妻の方は父親との復縁を希望していたのだから――子供に会うためとは言え、それを判っていながら父は前妻同伴の面会をしていた――尚更だ。
 エレンが詳しい事情を知ったのはもう少し経ってからだが、詳細を知ってからは父親がただのクソ親父にしか思えなくなった。離婚当時も原因は判らないながらも二人の様子から父親が何かやらかしたのは明白だったし、母親は自分が守らなければと、迷うことなくエレンは母親についた。
 その後、話し合いやら引っ越しやら編入やら色々あって大変だったのは幼いながらにもよく覚えている。
 母親は新しい土地で仕事を見つけ子供のためにと一生懸命に働いていた。がらりと変わった環境に中々なじめず、だが、母親を気遣ったエレンは自身の戸惑いや溜まったストレスを吐き出せなかった。今思えば、寂しかったのだろうと思う。
 そんなある日、部屋に一人で本を読んでいたエレンはふと何かの気配を感じ、そちらへ視線を向けるとそこに人が立っていることに気付いた。
 短く刈り上げた黒髪の、目つきの悪い小柄な成人男性。ジャケットに用途の判らないベルトにブーツ。何かのコスプレでもしているのかと突っ込みたくなるところだが、当時のエレンにそんな余裕はなかった。いや、今でも部屋に土足の見知らぬ男が突如現れたら突っ込むどころではないだろう。

「……兵長……?」

 泥棒だと思ったエレンは怒鳴り散らそうと思ったのだ――だが、口から洩れたのは何故かそんな言葉だった。
 それに男が眼を瞠ったのが判った。そして、一歩、こちらへ足を踏み出したとき――。

「こっち来んな! 誰だ、お前!?」

 我に返ったエレンは手にしていた本を咄嗟に男に投げつけた。けれど。
 果たして、男にぶつかるはずだった本は男を通り抜けて床にどさりと落ちた。

「はあ?」

 驚いたエレンは次々に手近にあったものを投げつけたが、どれも男を通り抜けて落下していく。何故当たらないのか、この男は何なのか、エレンは殆どパニックになっていた。

(何だ、こいつ!? お化けか? お化けなのか? 何で急に出たんだ?)

 エレンの周りからものがなくなったところで男が少年の方へと近付いてきた。投げつけるものはもうないし、そもそも通り抜けるなら何の攻撃にもならない。窓から飛び降りて逃げようかとも考えたが、ここは三階で窓の下はコンクリートだった。まず、無傷で済むわけがないし打ち所が悪ければ死ぬだろう。
 そうこうしているうちに男が更に距離を縮めてきた。元々そう広い部屋でもないのだからすぐ距離は詰められてしまい、自分へと伸ばされた手にエレンは反射的に目をつぶった。

「…………」

 ふわり、とした感触があったような気がした。よく考えればものがすり抜けるということは男も自分に触れないのだ。まあ、何らかの謎パワーを持っていて攻撃できるお化けという可能性も否定は出来ないが。
 エレンが感触の正体を知りたくて眼を開けると、間直に男がいた。エレンと目線を合わせるために屈み込み、その手がまるで怖くないと言い聞かせるように頭を撫ぜていた。勿論、通り抜けてしまうのだから、エレンにその手が直接触れることはない。だが、確かに撫ぜられているようなあたたかさが伝わってきた。

「あんた……」
「エレン、どうしたんだい?」

 物音を不審に思ったのか母親のカルラが顔を出した。そして、散乱したものを見て溜息を吐く。

「もう、こんなに散らかして。ちゃんと片付けるんだよ。本は投げて遊ぶもんじゃないんだから」

 そう言いながら、彼女は落ちていた本を一冊手に取って本棚へと戻した。――まるで、男がエレンの傍にいることなど気にしていない様子で。

「え? 母さん、見えてないのか?」
「何がだい?」

 不思議そうに首を傾げる母親の顔に嘘はない。そもそも見えていたら大声を上げるとか、警察に通報するとか、息子を不審者から守ろうと行動を起こすはずである。息子の部屋に突如現れた不審者を無視する理由がない。

(こいつ、まさか、オレにしか見えないのか?)

 それならば、母が無反応なのも納得がいく。いきなり何でこんなものが見えるようになったのかは不明だが。
 エレン、と怪訝そうに声をかけられ、少年は首を振った。

「……ごめん、何でもねぇ」

 母は納得がいかなそうな顔をしていたが、エレンが黙ったままなので、仕方なく部屋を出ていった。

「……あんた、お化けなのか?」

 母親が出ていった後、小声でエレンが問うと、男は心外だと言わんばかりに眉を寄せ、首を横に振った。では、いったい何だというのだろうか。

「なら、妖怪とか、妖精とか、宇宙人とか?」

 どれにも首を横に振る。さっきから一言も話さないところを見ると声が出せないのかもしれない。いや、声は出ているが、こちらには聞こえないという状態の可能性もある。こちらの言葉は聞こえるのか理解しているようだが、話せない相手と一体どうやって意思疎通をすればいいのだろう。

「あ、そうだ。ちょっと待ってろ」

 不意に思いついた方法を試してみるべく、エレンはペンを取り出して適当な紙に順番に平仮名を書き込んでいった。
 不思議と最初の怖さはもうなくなっていた。頭を撫ぜてきた手を何故かあたたかいと感じたからかもしれない。

「出来た! 何かで見たんだよな、これ。ほら、これを指させば言いたいこと伝わるだろ?」

 エレンが紙を広げて男に示すと、男は少年の提案通りに指で文字を示した。

「えーと、じ・が・き・た・ね・え……」

 繋げた文字の意味が頭に入り、はあぁ?とエレンは声を上げていた。字が汚い――一番初めの意思疎通がそれかよ、と後々になっても突っ込みたい案件だ。そもそも、その当時のエレンの年齢なら平仮名を全部間違えずに書けることを褒めてやって欲しい。習字の才能があるならともかく、子供の字など拙いのが当たり前である。というか、まず自己紹介というか自分が何者で何でここにいるのかから説明するべきではないだろうか。
 後にこの紙を友人に見つかって「エレン、交霊術はいけないよ!」と誤解されて返答に困ることになるのだが、エレンとイマジナリーフレンド――兵長との出逢いはこうしたものであった。



 ピピピピピッという音が響いてエレンの意識が浮上した。それが面倒臭くて初期設定から変えていないアラーム音だと認識すると、もぞりとベッドの上で動いて手を伸ばす。まだ閉じていたいと要求する瞼を押し上げて眼を開き、音の発生源を止めると、すぐ近くに男の顔があった。その唇がおはよう、エレンと動く。読唇術が出来るわけではないが、長い付き合いで大体のことは判るようになっていた。

「おはようございます、兵長」

 男にそう言ってエレンは身を起こした。傍から見れば訳の判らない独り言を呟いている危ない奴だろうが、エレン一人しかこの場にはいないのだから問題ない。思えば、幼い頃から自分の部屋があったのは幸運だった。
 軽く伸びをしてベッドから下り、洗顔を済ませキッチンへと向かう。冷蔵庫の中身を思い出しながら朝食はどうするか献立を考える。一日の始まりや成長期を考えるとしっかりしたものを摂った方がいいのだろうが――。

「面倒くせぇから、朝メシは作らなくていいかなぁ」

 栄養補助食品のゼリーでいいか、などと思ってついその考えを口に出してしまったエレンは、男にぎろりと睨まれてしまった。この迫力満点の顔を他の人間が見ることが出来たら絶対に悲鳴を上げていると思う。だが、子供が見たら泣き出しそうなその表情がエレンの身体を心配してちゃんと食べろと言っているのだと少年は知っている。

「はい、判ってます。ちゃんと食べます、食事大事!」

 エレンの言葉に男は満足そうに頷いた。見張るつもりなのか後をついてくる男にエレンは大丈夫ですよ、と苦笑した。まあ、男は一定の距離以上はエレンから離れられないようなのだが。
 ――意思疎通が取れるようになってからエレンは男に質問した。

「名前は?」
『リヴァイ』
「何でここにいる?」
『お前が呼んだからだ』
「イヤ、オレ、呼んでねぇし。とっとと成仏するか、元の場所に帰れ」
『出来ねぇ』
「はぁ?」
『俺はお前から離れられねぇみたいだ。離れるつもりもねぇが』
「はあああああ?」

 そして、その言葉通りに男はエレンの傍にずっといた。一定の距離――例えば建物の一階と二階程度なら離れられるようだが、余り遠くにはいけないようで、エレンが学校に行くときには一緒に登校したし、遠足や修学旅行にもついてきた。基本的にエレンの行動の邪魔はしないし、学校に一緒に登校するといっても姿を常に見せている訳ではなく、校舎内のどこかにいてエレンが下校するときにまた姿を見せる。
 しかし、どこで見ているのかエレンが教師に叱られたことや、起こした揉め事は全部把握している。ときには諍いの間に突如現れて宥めたり、エレンを叱ったり、相手を威嚇したりしている。――まあ、最後のは相手に姿は見えないので無駄のようにも思えるが、何かの威圧を感じるらしく総じて怯むのだから驚きだ。
 綺麗好きらしく、掃除は徹底的にさせる。触れないのだから意味はないと思うのだが、汚い場所にいるのは我慢ならないらしい。おかげで将来は清掃業者になれるんじゃないかと思われる程に掃除の腕は上達し、母親にもエレンは綺麗好きだと思われているが、それは自分ではなくこの男だと主張したい。言ったところで心の病気を疑われるだけだから実行はしないが。

(もう九年になるのか?)

 エレンは今は高校一年生だ。男が現れてからもう随分と経って、男を知らなかった時間より男と一緒にいる時間の方が長くなった。
 男の正体が何なのか本当のところはエレンには判らない。本人は幽霊ではないと言っているし、神社仏閣にも普通に入れるし、エレンの身体に害をなす訳でもない。エレン以外の人間には全く見えず、こちらの声は届くが向こうの声は聞こえず、ものには触れず、かといってポルターガイストのようなことを起こすこともない。イマジナリーフレンドと定義づけたのは他に説明がつかなかったのもあるが、そうであって欲しいと思っているからだ。

(だって、幽霊だったら成仏しちゃうかもしれねぇし)

 長い間一緒にいるうちにエレンの男に対する感情は徐々に変化していった。時間に換算すれば働いていた母親よりも長く一緒にいるかもしれない。何せ、男はエレンから離れられないのだから。一番におはようと言うのも、眠る直前におやすみを言うのも出逢ってからずっとこの男だ。
 
『エレン』

 エレンの前に座っている男の唇がそう動いた。エレンが一人で食事をしている間、男は必ず一緒にいる。それが少年が一人の食事を物寂しく思わないための配慮だということにエレンは気付いている。食事が出来るのなら彼の分まで用意するのだが、ものに触れることすら出来ない男にそれが出来るはずもない。
 とんとん、と彼が自分の口元を叩く。それで自分の口周りにおそらくは何かついているのだろう、とエレンは察した。

「ああ、何かついてます?」

 エレンが口周りを拭っていると、すっと伸びてきた指が優しく顔をなぞった。勿論、本当に触られている訳ではないのだが、男の指先から熱が伝わってくるような錯覚に陥る。汚れてる箇所を示して離れていく指を視線で追っていくと笑う男と眼が合った。

「あ、ありがとうございます、兵長。こっちですね」

 赤面しそうになるのを必死で堪える――いや、鏡がないので確認できないが、赤くなるのを隠しきれていないかもしれない。
 汚れを落とすエレンに男の唇が不満そうに動いた。その動きから『リヴァイだ』と言っているのは判るが、エレンは男の要求には答えなかった。

「兵長は兵長なんですよ。初めて逢ったときに何故かそう思ったし、兵長も違ってはいないって言ったんですから問題ないでしょう?」

 男がその答えを聞いて眉を寄せたのが見えたが、エレンは気付かない振りをした。
 ――このやり取りは今が初めてではない。男に名前は教えてもらったものの、どうしても最初に呼んでしまった兵長が抜けなくてエレンは彼をずっとそう呼んでいたのだが、ある日、リヴァイと呼べと男に要求された。

「え、でも、兵長で慣れちゃいましたし。兵長も間違ってはいないって言いましたよね?」

 出逢った当初は彼のことを浮遊霊か何かだと思っていたエレンはその胡散臭さに乱暴な言葉使いで接していたが、男から訳の判らぬ威圧を感じて丁寧な言葉で話しかけるようになってしまった。しかし、それがしっくりくるのだから不思議だ。
 不思議なのは彼を見た瞬間に兵長と口から出たこともその一つで、何故その言葉が出てしまったのか判らないエレンに、男は『それも間違ってねぇからな』というこれまたよく判らない言葉を伝えてきたのだ。エレンは彼なりに考えた結果、あだ名とかそういうものかと納得することにした。

「えーと、リヴァイさん?」

 一応はさんをつけるべきかと思い、窺うように男の名を口にしたとき――エレンは男の顔を見なければ良かったと思った。
 以来、男に名前を呼ぶように要求されても上手くかわすようにしている。

「あ、そろそろ時間だな。もう出ないと遅刻する」

 時刻を確認し、食器を手早く片付けて登校の支度を整える。離婚した母親に楽をさせたくて家事は早くから覚えたから苦ではない。
 男はエレンのその姿をじっと見ている。きっと本当は手伝いがしたいんだな、とエレンは思う。掃除のときだって指示を出すだけなのは不本意だったに違いない。
 ――以前、うたた寝をしてしまったとき、気配を感じて目を覚ましたことがあった。開いた瞼の先にはブランケットと格闘している男の姿があった。おそらくはそれをエレンにかけたかったのだろうが、彼はものには触れない。すり抜けてしまうそれを、それでもどうにかしようとしているその姿が、どんなふうにエレンに映ったのか、どんなふうに思ったのかきっと男は知らない。
 怖い夢を見て目を覚ましたときには必ず男の顔がすぐ傍にあって、優しく頭を撫ぜてくれることや――無論、直接には触れられはしないのだが――眠れないエレンの話を眠くなるまで聞いてくれることや、落ち込んだり辛いことがあったとき、ただエレンの横に座ってずっと一緒にいてくれること。泣いているエレンを宥めるように背中を撫でてくれることや、額を合わすようにして自分の名を唇の動きで繰り返すこと。
 降り積もった思い出の数々はやがてエレンの中で一つの想いを形作った。
 不毛だなぁとエレンは思う。だって、彼がイマジナリーフレンドだとしたらこの想いは届かない。永久の片想いだ。
 イマジナリーフレンドではないとしても、彼は現実には存在しない。だって、彼の姿は変わらない。出逢ったときから姿が変わらず、自分にしか見えず、何も触ることが出来ない存在などこの世のものではないに決まっている。

「いってきます」

 エレンが玄関口でそう告げると、男の唇が『よし、行ってこい』と動く。そのまま扉を開けて鍵をかけると、男が玄関をすり抜けてついてくる。玄関をすり抜ける男と言うのは物凄くシュールな図であると思う。
 結局、離れられずについてくるのだからわざわざ見送りをする必要性はないのだが、男はエレンが高校生になってから必ずこれをするようになった。その理由はエレンが一人暮らしを始めたからである。
 小説や漫画の設定ではよくあるが、高校生の一人暮らし――あるいは親が殆ど帰宅しない――はまずないと思う。本来はないないと突っ込んでしまう状況にエレンがなった一番の原因は母親の再婚だった。
 エレンが中学生になったときに、母親から打ち明けられた再婚話を少年は反対しなかった。相手の男性は人柄も良かったし、経済力もあり、エレンにも本当の父親のように接してくれた。不満なんてあるはずもない――母親が本当に幸せそうに笑ったのだから。父と離婚してから母はエレンに不自由させないように本当に頑張ってくれた。いつだって子供のためを思い、一生懸命で――だからこそ折れてしまいそうでエレンは怖かった。
 その母が幸せそうなのだからそれでいい。文句のつけようもない良い相手で――だから、エレンは重たい何かを呑み込んだ。三人で始めた新しい家での穏やかな生活。何も不満はないはずなのに、ただどうしようもなく苦しくて家に帰れず座り込んでいると、必ず兵長がやって来て抱き締めてくれた。触れ合うことが出来ないのに、それでも体温を感じたのは、きっと男の心があたたかいからだとエレンは思った。
 ちなみに夜家を抜け出して遊びに出かけるとか、ふらふらと繁華街を歩きまわるとかそういったことはしなかった。そんなことをしようとしたら玄関で男が仁王立ちで待ち構えているのは間違いない。無論、物理的には何も出来ないのだからすり抜けることは出来る。だが、心理的にそれは出来なかった。
 その後、義父との交流もあり、エレンの心も落ち着いて普通に親子三人で暮らしていたのだが、エレンが高校生になるとき、義父の海外転勤が決まったのだ。親の希望としては一緒に海外に行ってインターナショナルスクールに通って欲しいようだったが、エレンは言葉の通じない外国に行くのは嫌だと却下した。
 その後も話し合いが続き、下宿してそこから通えばどうかとか――エレンの進学先には学生寮はなかった――高校生の一人暮らしは危険だとか、様々な提案や説得をされたのだが、エレンは一人暮らしを強行した。その代わりに連絡はマメに入れること、こちらでの保護者を立てて定期的に様子見に来てもらうこと、長期休暇には親元に来ること。などと色々と条件をつけられて、何とかエレンは一人暮らしをすることを認めてもらったのだ。まあ、何かあったら問答無用で親元に行くことは約束させられているが。

 家を出てから数分、エレンのすぐ横で乗用車が止まった。それと同時に素早く男が動いてエレンと車を遮るように立つ。両手には一体どこから出てきたのか薄い刃状の武器を携えている。見る度に巨大化したカッターみたいだな、とエレンは思っている。

「よう、エレン。学校まで送っていくぜ」
「……またあんたかよ、ジーク」

 はあ、とエレンは溜息を吐いた。男からはもはや殺気と呼べるものが渦巻いているが、相手は全く気にしていない。このジークという男はリヴァイの威圧オーラに全く反応しない唯一の相手だ。

「そう邪険にされるとお兄ちゃん泣いちゃうなぁ。一人暮らしが心配でこうして来てるってのに。俺んとこ来ればいいって前から言ってるだろ?」
「それ言ったら母さんに殴られるからな。ついでに親父にも蹴り入れるって」

 それ以前にエレンのすぐ傍の男が切りかかっているだろうが。というか、実際に初対面したときに切りにいっていた。勿論、物理的に接触は出来ないから刃も通り抜けたのだが、あのときは驚いた。音こそ聞こえなかったが忌々しそうに舌打ちしていたのが忘れられない。
 ジークは父親と前妻との間に出来た男子であり、エレンの腹違いの兄だ。エレンの存在をどこかで知ったらしく、こうして会いにやって来るのだ。無論、エレンに申し出を受ける気はない。
 結局、父親は前妻と復縁したそうだが、この異母兄は父とは折り合いが悪いらしい。理由は知らないし、エレンは別に知ろうとも思わない。母親はもう再婚して自分にも新しい父親が出来たのだし、放っておいてくれというのが父と異母兄に対する感想だ。

「お前の母親、お前にそっくりな美人なのに、気性激しいよな」
「それ、あんただけだから。離婚した相手の息子にちょっかいかけられたら普通にキレるって」

 母親とこの異母兄は一度顔を合わせている。異母兄は父親にそっくりだから顔を見ただけでその出自が判ったらしい。うちの子に何の用じゃわれぇ、という副音声が聞こえそうな戦闘モードに入り、一緒に男も威嚇するわでエレンにとっては頭の痛い状況だった。異母兄のことを知ってからは母親はエレンの一人暮らしを更に心配しているので本当に放っておいてもらいたい。

「あんたはさっさと仕事に行けよ。オレは一人で学校に行くから」

 正確にはイマジナリーフレンドと一緒に、だが、教える義理はない。

「相変わらずつれないなぁ。また会いに来るぜ、エレン」

 そう言って去っていく異母兄に一瞥をくれると、エレンは再び歩き出した。男も威嚇をやめてエレンの後に続く。
 すっと伸びてきた手がエレンの頬をなぞるように動く。その動きにエレンは足をまた止め、視線を向けると男の唇が動いた。

『殺るか?』
「…………」

 今絶対にやるって言ったよな、殺るって書いてやると読む方のやつだよな、とエレンは遠い目をした。

「……物理的に無理ですし、兵長に犯罪者になって欲しくないのでいいです」

 男がそれでも不満そうな顔をしていたので、エレンは更に付け加えた。

「仮に物理的に危害が加えられたとしても、その場合真っ先にオレが疑われると思うのでやめてください」

 渋々男が頷いたので、エレンは何でこんなに殺意むき出しなんだろうと思いながら、再び学校に向けて足を進めた。



「……兵長」

 放課後、エレンが誰もいない校舎の片隅でそう小さく呟くと男が傍らに現れた。

「今日は帰りに買い出しして帰ろうかと思います。新しい店が出来たらしいのでそこ行ってみようかと」

 ちょっと遠出しますがいいですか?と続けると男は頷いた。一人暮らしなので門限はないようなものだが、エレンは未成年が出歩いていても問題ない時間までしか出歩くことはない。何か問題が起きて親元――海外まで行くような事態になるのは御免だったし、男からも指導が入る。

(……海外になんてことになったら兵長がどうなるか判らねぇし)

 言葉の通じない海外に行くのが嫌だとか、大学はこっちに行くからどうせ三年で帰国することになるとか、友人もこちらにいるしとか色々と理由はあるけれど、その中でも気がかりなのが男のことだった。
 エレンは男がイマジナリーフレンドではないかと思っているが、そうではない場合もあるし、海外に行って大きく環境が変わったら消えてしまうのではないかと危惧している。男はどんな場所でもエレンがいるところなら現れたが、海外まで来られるとは限らないのだ。男がいるのが当たり前の状況になってしまっているエレンにとってそれは恐怖でしかない。
 それは依存と言われるかもしれないが、幼いエレンの心を支えてくれたのは思えばこの男で、更に恋情まで抱いている少年が失うのを恐れるのは当然といえた。

「兵長?」

 放課後、店に向かおうと街中を歩いていると、ピタリと男が動きを止めた。不思議に思ってエレンも足を止めると何かの気配を感じた。
 ひどく懐かしいような、ずっと知っていたような奇妙な既視感。そうして『それ』が現れたとき、エレンはその場に固まった。
 黒い短髪に金色の瞳。母親にそっくりとよく言われる顔立ち――寸分違わぬ程自分と合致している。違うのは服装くらいでジャケットにシャツにベルトにブーツという、まるで男とお揃いの格好をしていた。
 飛ぶようにやって来たそれの唇が動く。総ては読み取れなかったが、『リヴァイ』という単語を含むのは判った。
 咄嗟にエレンは傍らの男の顔を見て――また後悔した。初めて男に名前で呼びかけたときと同じように。
 あの、懐かしむような、大切なものを噛み締めるような、色々な感情が混ざり合った複雑な表情。ただ、そのときに判ったのだ。彼を『リヴァイ』と呼んでいた自分ではない誰かがいるのだ、と。きっと抱き締めるように大事にしているそれを絶対に呼んではならないと。

「エレン!」

 大声で名を呼ばれ、エレンははっと引き戻された。その声に聞き覚えはなかったが、自分を知っているものだろうか。それともこの場に他にエレンという名の人間がいるのか。つられるように声のした方を視線を向けて――エレンは再び固まった。
 そこには男――エレンのイマジナリーフレンドとしか思えない人物がいた。黒髪に目つきの悪い小柄の成人男性で、違うのはスーツ姿であることと、若干、男より若く見えることだろうか。それでも兄弟というより一卵性の双子とかドッペルゲンガーといった方がしっくりくる程、二人は瓜二つだった。
 自分にそっくりな謎の少年と男にそっくりな謎の成人男性の二人にエレンの頭が容量を超えて真っ白になっていると、相手は真っ直ぐにこちらに向かって来た。それと同時に男も動く。
 兵長、と呼ぶ暇もなかった。男は現れた成人男性にすっと手を伸ばし、お互いの手が触れ合った瞬間、吸い込まれるようにその姿を消した。

「エレン、ようやっと逢えた。ずっとお前を探していた。『俺』がついているのは判ってはいたが、居場所までは判らなかったからな」

 そう言って優しく頬を撫ぜる仕種がエレンの知る男と同じでエレンの混乱は更に増した。

(何だよ、この人? 兵長はどこだ? 何で急にいなくなった?)

 いなくなったというより、目の前の男に吸い込まれるようにして消えていった、というのがより正確だ。男にこれ程までそっくりなこの男性は何なのだろうか。何故、自分の名を知っているのだろうか。一緒に現れた、まるで幽霊のような自分に瓜二つの存在はどういったものなのか。
 疑問は色々渦巻いているのに、言葉が一つも出てこない。黙ったままのエレンに尚も話しかけようとした相手は、どこからかリヴァイと呼びかけられて舌打ちした。それも男と全く同じでエレンは震えるような感覚に陥った。

「悪い、エレン。今はまだ仕事中なんだ。詳しく話してる時間は今はねぇから、後で必ずここに連絡してくれ」

 そう言って男は取り出した名刺にすらすらと何か――おそらくは個人用の連絡先だろう――を書いて、エレンに押し付けてきた。
 反射的に受け取ってしまったエレンは男性が去っていくのをただ呆然として眺め、しばらくしてから掠れた声を出した。

「……兵、長……?」

 その呼びかけに応じる姿はなかった。



「兵長、どこですか? 兵長!」

 家の中を探し回り、呼びかけてもあのイマジナリーフレンドの姿はなかった。ようやっと我に返ったエレンは雑踏の中男の姿を探したが見つからなかった。エレンから離れられないと言っていた男はその言葉通りにいつだってすぐ傍にいたというのに。
 ひょっとすると家に戻ったのかもしれない。そうではなくても、家に戻ったら姿を見せてくれるかもしれない――それを期待してエレンは帰宅したのだが家の中にも探し求めた姿はなかった。

「兵長……」

 震えるエレンの声に反応するかのように人影が現れ、エレンはそれを睨み付けた。

「何なんだよ、お前! オレはお前に用はねぇよ! 消えろ!」

 そこには自分にそっくりな少年の姿があった。エレンの言葉に少し困ったような顔をしたので、男と同様にこちらの言葉は通じているらしい。

「何なんだよ、お前……兵長はどこに行ったんだよ」

 エレンの言葉に少年はすっと手を差し出してきた。それを取れば総てが判るとでもいうかのように――だが、その手をエレンは取らなかった。この手だけは絶対に取りたくないと思った。
 ――リヴァイだ。
 そう呼べと告げてきた男。

(オレじゃないのは判ってた)

 そう呼んでいたのも、本当に呼んで欲しいのも自分ではない。そして、今日、それがはっきりと証明されただけのことだ。
 いつまでも手を取らないエレンに少年は手を引いて、今度は指で何かを指し示した。何を言いたいのか最初は判らなかったが、身振り手振りも交えての訴えにエレンは少年が何を言いたいのか察した。
 彼が指し示しているのは――あの、男に瓜二つの人物が押し付けてきた名刺だ。

(連絡を取れって言いたいのか)

 あれ程そっくりな相手が無関係であるわけがない。もしかしたら、彼に逢えば兵長とエレンが呼ぶあの存在が何なのかも判るのかもしれない。だが――。
 エレンは名刺を取り出すとぐしゃりと握り潰してゴミ箱へと放り投げた。
 少年が物凄い顔で抗議してくるのが判ったが、エレンにはどうでも良かった。

(兵長)

 ただただ、あのあたたかくて優しいイマジナリーフレンドに逢いたかった。



 男が戻らなくなって一週間が経っていた。毎日毎日男の帰りを待っていたが、男は帰ってくる気配を見せない。エレンは捨てた名刺をゴミ箱から拾い上げて悩んだが、結局連絡するまでには至らなかった。
 だが、もう一週間なのだ。このまま動かなければきっと彼は戻ってこないだろう。
 悩んだ末にエレンは連絡を入れず、名刺にあった会社に行ってみることにした。

(……でも、どうすりゃいいんだろう)

 会社まで来たものの、これからどう行動すればいいのだろうか。あの男にエレンのイマジナリーフレンドがついている可能性は高いし――何せ、吸い込まれるように消えたのだから――逢うのが本当はいいのだろう。だが、再びあの男性と逢うのがエレンは怖かった。何か取り返しのつかないことが起こるような妙な不安感があるのだ。

(それに面会したいって言っても不審がられるだろうし)

 名刺にあった名前はリヴァイ・アッカーマンだった。あのときリヴァイと呼びかけられていたし、どうやら名前までも一緒らしい。
 あれからずっと自分に引っ付いている自分と同じ顔が早く行けと急かしてくるが、エレンはそれを無視した。むきになっている自覚はあるが、この少年のいうことだけはききたくなかった。

「あれ? エレン? エレンじゃないか!」

 不意に背後から声をかけられ、エレンは驚いて肩を震わせた。会社の様子を窺っている不審者だと思われたのかとの考えがよぎったが、名前を呼ばれたので違うだろう、とすぐに思い直す。

「本当にいたんだね。話だけは聞いていたけど、また逢えて嬉しいよ」

 そう言って笑う女性に心当たりは全くない。黒髪をアップにまとめ眼鏡をかけた、おそらくは二十代半ばくらいのパンツスーツ姿の女性。この会社に勤務しているような感じだが、知り合いにこんな女性はいなかったはずだ。幼い頃に逢っていてエレンがそれを忘れているという可能性もあるが、それなら成長した自分を一目でそうだと断定出来るだろうか。両親関係の知り合いという可能性もなくはないが――仕事関係なら逢ったことはないし、それ以外だとやはり思い当たらない。

「えーと、どなたですか? オレ、会ったことありましたっけ?」

 エレンの言葉に女性は虚を衝かれたような顔をして、それから納得したようにああ、と頷いた。

「そうか。君は『覚えていない』方か。えーと、私はハンジ・ゾエというんだ。よろしく、エレン」

 はあ、とエレンが怪訝な声を上げている横で、少年は右手を胸に当てる妙な仕種をしていた。その礼のような仕種の意味は判らないが、こちらは相手を知っているのかもしれない。

「リヴァイに逢いに来たんだろ? 待ってて、今呼んでくるから」
「え……」

 イヤ、ちょっと待ってくださいという声を聞かずに女性は建物内に入っていってしまい、エレンはどうしようかと逡巡した。
 だが、ここで逃げ帰ったらまた振り出しに戻ってしまう。男の行方を知るには関係があると思われる人物に当たるしかないのだ。

「エレン!」

 数分もかからず、男が建物から飛び出してきた。明らかに仕事途中で抜けてきました、という姿に大丈夫なのだろうかと心配になってしまう。

「エレン、良かった。連絡がねぇからどうしようかと思った」
「あの、えーとアッカーマンさん?」
「リヴァイだ」
「え? あの、アッカーマン……」
「リヴァイだ」
「アッカ――」
「リヴァイだ」
「…………」

 どうやら妥協はしてもらないらしい。男をリヴァイと呼ばなかったのにこの男性をリヴァイと呼ぶのはどうだろうか。しかし、彼の名がリヴァイなのは本当だし、初対面の相手――正確には二度目であるが――をあんた呼ばわりするのもどうかと思う。ここはアッカーマンさんが一番妥当だと思うのだが、それでは相手が嫌らしい。
 エレンは悩んだが、ここで呼び方について揉めるのは時間の無駄だし、周囲から変な注目は浴びたくはない。

「えっと……リヴァイさん?」

 ただ名前を呼んだだけ。それだけなのに、心底嬉しそうに相手が笑うものだから。エレンは何も言えなくなり、状況を説明するという男に手を引かれるままついていった。


 男が連れてきたのは近くにあった落ち着いた雰囲気のカフェだった。常連なのか男が頼むと人目につきにくい奥の席に案内された――ひょっとすると商談などで使っているのかもしれない。
 男は紅茶を注文し、エレンにも好きなものを頼むように勧めてきた。呑気にお茶を飲んでいる場合ではないと思ったが、好意で言ってくれているのは判るのでエレンは目にとまったクリームソーダを注文した。

「炭酸が好きなのか?」
「好きっていうか……そうですね、何か初めて飲んだときにこういうのなかったよなぁって何か思って、それ以来癖で」
「甘いものは?」
「好きです、けど……」

 この会話は何なのだろう、とは思うが、相手が優しくこちらを見ているからエレンはまた何も言えなくなる。その顔は卑怯だとエレンは言いたい。男と同じ顔なのにもっと甘やかで、見ていて気恥ずかしくなってくる。
 注文したものが運ばれてきて、それを一口飲んで人心地ついたところで、リヴァイがお前についていたものだが、と切り出した。

「あれは俺だ。俺の一部というか――昔の記憶が作った分身、みたいなものだ」
「はあ?」
「お前の横にいるやつも同じものだ。ただ、それはお前の分身なんだが」
「イヤ、ちょっと待ってくださいよ。何訳の判らないこと言ってるんですか?」
「お前には記憶はねぇみたいだから、意味が判らなくなるもの無理はない。前世、というものを信じられるか?」

 そう言って男が説明した前世というのは突拍子もないものだった。人を喰う巨人がいる世界で、壁に囲まれていて、その支配から抜け出すために戦っていた調査兵団という存在があった。自分達はそこに所属する兵士で男は『人類最強』の兵士長――兵長で、自分は『人類の希望』と呼ばれた巨人化能力を持つものだったらしい。壁外の敵との戦いや仲間がたくさん死んだこと。自分達も死んだこと――前世だというのなら死んでいる前提が当然だが。自分達が恋仲と呼べるような関係であったこと。生まれ変わってからずっと自分を探していたこと。どれも荒唐無稽すぎて信じられるものではない。

「俺にはガキの頃から前世の記憶があった。俺はそれを自覚するのが早かったし、すんなりと受け入れられたんだがお前はそうじゃなかっってことだ」
「いやいやいや、何前世があった前提で話してるんですか。信じられる話じゃないでしょう」
「事実だ、受け入れろ。証拠はこいつだ」

 そう言って男が視線で示したのはあの自分にそっくりな少年である。確かにこの少年は前世の話に合致する格好をしている。思えば男がいつも攻撃用に出していたのも、立体起動装置と呼ばれるもののブレードだったのだろう。納得する部分もあるが、そもそもの根本的なところが判らない。エレンがイマジナリーフレンドと定義していた男――兵長は何故エレンの元に現れたのか。彼が男の分身だというのなら男自身のイマジナリーフレンドとして存在するものではないのか。

「今から九年程昔になるのか。俺の前に切羽詰まった感じのこいつが現れた。俺には前世の記憶があったから、こいつがエレン――お前だとすぐに判った」

 九年程前――それは男が突然エレンの前に現れたときでもある。それが総ての始まりだと男は続けた。

「当時のお前には精神的負荷があって、こいつを背負いきれなかった。おそらく、覚えていないだけでお前も昔から記憶があったんだ。だが、耐えきれなくなったお前は自分からこいつを切り離した。無意識にな。そうして重荷を少なくしようとしたんだろう。行き場を失くしたこいつは助けを求めて俺の前に現れた」

 そして、そのエレンに引き寄せられるようにしてリヴァイからも分離したものがあった――それが兵長だ。

「あいつは俺自身だ。俺の前世の記憶を核とした俺の分身。お前が助けを求めていたからそれに応えようとした俺が作り出したもの。どうやって出来たのかは俺にも判らん。あいつはお前の分身と入れ替わるようにお前の元に向かった。そして、戻らなかった。戻れなかったが正しいか。入れ替わることでバランスが保たれたのか、不安定なお前の精神に引っ張られたのか、理由もやはり判らねぇが」

 エレンの分身や自分の分身からエレンの情報は伝わってきたが、居場所の特定は出来なかった。エレンの母親が再婚して引っ越したこともあったし、エレンの傍にいた自分の分身からの情報は男が意図的に引き出せるものではなかったからだ。

「この前逢えたのは本当に偶然だったんだ。おかげでお前に連絡先を渡すことが出来たんだが」
「……兵長は?」

 震える声でエレンは男に訊ねた。そもそも、エレンは自分のイマジナリーフレンドがどこに行ったのか知りたくて来たのだ。前世とかそういうことが知りたかった訳ではない。あの優しい男にただ逢いたかったからだ。

「あいつは俺の中に戻った。元々俺の一部だったんだ。分離している状態の方がおかしいから、正常に戻ったということなんだろうな。どうやって離れたのか俺にも判らねぇからあいつを俺から出すことはもう出来ねぇ」
「……何だよ、それ……」

 だって、つい一週間前までは一緒にいたのだ。おはようと挨拶して一緒に学校に行ってくだらない話を聞いてもらって、おやすみと告げて眠る。それが当たり前だったのに。
 この想いは叶わないものだとは思っていた。いつか男が消えてしまうのではないかと不安だった。だが、こんなふうに突然消えてしまうなんて思ってもいなかった。
 まだ、伝えていないのに。いつもありがとうとか、ずっと一緒にいてくださいとか、あなたが大好きですとか。
 もっともっと伝えれば良かった。どんなに救われたか、どんなに感謝しているか、どんなに望んでいるか。

「……わかん、ねぇよ。兵長、返せよ! オレに兵長返せよ!」
「エレン」

 ああ、これは八つ当たりだとエレンは自覚していた。別に目の前の男が悪い訳でも相手のせいでも何でもない。ただ、エレンが勝手に依存して勝手に好きになってずっと一緒にいて欲しいと思っていただけだ。
 けれど、九年だ。九年は決して短くはない。自分の人生の半分以上、ずっと傍にいた相手だ。それが消えてしまいました、もう二度と逢えませんと言われて冷静でいられる訳がなかった。

「兵長! 兵長はオレの――」

 言いかけてエレンは口を閉じた。彼は自分の何だというのだろう。
 ふと視界にジャケットが入る。――そうだ、最初から彼は自分のものではなかった。
 ぼろぼろとエレンの瞳から雫が流れ落ちた。
 そのままカバンを引っ掴んでエレンはその場から駆け出した。自分の名を呼ぶ声が聞こえたが、エレンはそれを無視して走り続けた。


 雑踏の中を駆け抜けて、エレンは人気のない路地裏へと入り込んだ。流れ続ける涙を拭うこともせずにそこに腰を下ろす。

「兵長……」

 こうして泣いていると、いつも兵長は現れた。優しく抱き締めてエレン、と名前を呼んでくれる。本当に触れ合うことも声を聞くことも出来なかったけれどそのぬくもりは確かで、いつだってエレンは救われたのだ。 
 でも、もう二度と逢えない。

「エレン」

 ふわり、と温もりを感じた。優しく包み込まれるように抱き締められている。あたたかいその感触は現実のものだ。
 ちらりと視界にジャケットが映って、彼が連れてきたのだと判った。

「……離せよ」
「嫌だ」
「あんたは兵長じゃない。離せよ」
「嫌だ。俺がどんなにお前に逢いたかったか判るか? どれだけこの日を待っていたか判るか? もう離さねぇ」

 エレン、と額を合わせながら名を呼ぶ。その仕種も抱き締め方も全部男と全く同じで、同一人物だと証明しているようでエレンの胸は引き絞られた。あたたかい体温が伝わってくる――そのぬくもりの心地好さとこうして抱き締められる現実が喪失感を大きくする。

「エレン、俺にしろよ。俺はずっと傍にいる。この先あいつよりもずっと長くお前の傍にいる」
「……嫌だ、兵長がいい。兵長がいい……っ!」
「あいつは俺の一部なんだ。なあ、俺を受け入れてくれ。あいつよりずっと優しくするから。ずっと大事にするから」
「いやだ……兵長、兵長……っ!」
「なあ、エレン、俺を選んでくれ。俺で我慢してくれ。俺はいなくならねぇ。お前の傍にいるから」

 子供のように泣きじゃくる少年を男はただただ強く抱き締めた。



 エレンが学校に行こうと玄関を開けると、家の前に乗用車が二台停まっていた。

「おいおいおいおい、ストーカーはいい加減にしてくれないかなぁ。エレンのお兄ちゃんとして許せないんだけど」
「ストーカーはお前だろう、この豚野郎が。俺はエレンの許可を得てここにいるんだ。お前と一緒にするな」
「嫌だねぇ、ストーカーの勘違いは。とっとと会社に行かないと遅刻しちゃうんじゃない?」
「俺の会社はフレックス制だ、クソ野郎。お前こそクビになる前に仕事に行った方がいいんじゃねぇのか?」

 家の前で火花を散らす二人にエレンは溜息を吐いた。

「家の前で喧嘩すんな。というか、家の前で違法駐車されるのは迷惑なんだけど」

 エレンの声に二人が同時にそちらへと顔を向ける。

「エレン、学校まで送っていく」
「エレン、お前はお兄ちゃんに送ってもらいたいよな?」
「……取りあえず、学校は一人で行けるし、家の前での口論は普通に迷惑だし、さっさと会社に行け」

 また来るよと言って去っていく異母兄に一瞥をやり、しょんぼりしている男にエレンは話しかけた。

「……折角なんで、送ってもらえますか?」

 その答えに顔を明るくした男にエレンは笑って助手席に乗り込んだ。

「今日は来るって言いませんでしたよね? どうしたんですか?」
「朝から嫌な予感がしたんで来たんだ。ここに着いたらあいつがいたから、来て正解だった」
「…………」

 何でこの二人は相性が悪いのだろう、とエレンは溜息を吐く。理由を訊いたのだが、男は教えてくれなかった。異母兄の方は何となく気に入らないし、お前のストーカーだからという返事だった。
 ――あれから、宣言通りに男は出来得る限りエレンの傍にいてくれた。時間があれば連絡してくるし――いや、なくてもしてくるし、週末に時間を作ってはエレンを連れ出した。エレンの好みはすぐに把握されたし、ちゃんと話せて触れ合える分エレンが兵長と呼んでいた男よりも押しが強い。
 何でここまでするのだと訊ねてみたら、真顔で惚れているからに決まっているだろう、と返され、エレンは言葉に詰まった。
 何で、傍にいてくれるのだろう。何で、優しくしてくれるのだろう。何で、こんなに大事にしてくれるのだろう。
 それはきっと『彼』にも訊きたかったことだ。

「……リヴァイさんは何でオレを好きなんですか?」

 エレンの言葉に深刻さを感じたのか、男は車を停車出来る場所まで移動させた。このまま話していたら遅刻するかもしれないが、この機会を逃したら話せなくなるかもしれない。今は話さなければならないと直感が語っていた。

「それはどこが好きかという意味か? それなら全部としか言い様がねぇが」
「そうじゃなくて――こいつがいたから。オレがこいつだったからじゃないんですか?」

 そう言って、エレンが自分にそっくりな少年を示すと男は違うと首を横に振った。

「確かに前世で俺はこいつを愛していたし、きっかけは前世の記憶があったからだが。お前を探したのも前世での記憶が故だ――それは否定しねぇ。だが、俺はお前自身に惚れている。それは疑うな」
「何で、ですか? オレには前世の記憶はねぇし、リヴァイさんは今のオレのこと逢うまで知らなかったでしょう?」

 九年間、傍にいてくれたのは『兵長』であって目の前の男ではない。彼が好きなのは結局は前世の自分で、ただの器としてしか見ていないのではないか――その疑念が男の言動を信じられなくしていた。

「知っている」

 きっぱりと男は言い切った。その言葉にエレンが困惑していると、全部ではねぇが、と男が続けた。

「お前があいつといた九年間を俺は知っている。お前がどんなやつか、どんなふうに泣くのか、俺は知っている。だから、早く逢いたかった。……遅くなったな、すまない」

 知っているとはどういうことだろうか。確かに『兵長』と『リヴァイ』は同一人物だろうが、別の存在でもあった。自分達が一緒にいた九年をどうして知り得たというのだろうか。あのとき、一瞬で『兵長』は消えてしまったからエレンのことを聞いている時間はなかったはずだ。男の言葉を信じるならあれ以来分離は出来ていないだろうし、戻ったときに情報が伝達されるという仕組みにでもなっているのか。
 そんな考えを巡らせていると、自分そっくりの少年と眼が合った。少年はまるで取れというように手を差し伸べてきて――エレンは逡巡したが、今度はその手を取った。
 瞬間、言葉が、想いが流れ込んでくる。それは、この少年のものではなく――。

『エレン、どこにいるんだ?』
『喧嘩はやめろ。怪我をさせるな。止めろ』
『眠れねぇのか? 話を聞いてやれ』
『泣いている……抱き締めてやりてぇ』
『大丈夫だ。母親はお前が要らなくなった訳じゃねぇ』
『俺がついている』
『こんなところで寝ていたら風邪をひく』
『一人暮らしか。充分に警戒しろ』
『行ってらっしゃいは言ってやれ』
『栄養は偏らせるな』
『エレン、俺のエレン』
『逢いたい』
『傍にいたい』
『エレン、エレン、エレン――』

 感情の渦は確かに目の前の男のものだった。情報はある程度得ていたと言っていたが――こんな風に繋がっていたとは知らなかった。『兵長』がしたかったことは、してくれたことは、目の前の男がしたいと思ったことと同じなのだ。そして、自分の前世であるという少年はそれをずっと伝えたかったのだろう。満足したように笑うと吸い込まれるようにエレンの中に消えていった。

「……リヴァイさん、オレは多分、あなたのことが好きです」

 ぼろぼろと大粒の涙が金色から零れた。

「でも、この九年、オレの傍にいてくれたのは『兵長』です。あなたは兵長だけど、兵長じゃない。九年をなかったことには出来ない。一番は兵長なんです。この先もそれは変わらないかもしれない。それでも、いいですか?」

 勝手な言い草だとエレンは思ったが、男は仕方がないなとでもいうように笑った。

「二番目の男か。別にそれも悪くない」
「リヴァイさん」
「一番を目指せるからな。それに、俺の方が触れるし話せる分、有利だろう?」

 だから、俺にしておけ、と言いながら涙を拭う男にエレンは泣きながら頷いた。




《完》


2019.6.17up


 思い付いたから書いておこう作品。説明に転生パロって入れようか悩んだんですが、入れるとオチが読めそうだったのでやめておきました。ジークを初めて書いたので口調が怪しいです(汗)。カルラの言葉遣いは現代とは合わない気がするので現パロのときは若干変えたりするのですが、今回はそのままにしました。そして、また似たような展開になりました……orz



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