ねえ、どうしてあの人は私のところへ来てくれないのかしら、と女は笑った。傍に控えていた男は静かに、は、と答えとも吐息ともつかぬような言葉を発しただけで女が望むような回答は得られなかった。男が口にしないのは自分が何を言ったところで女の満足するような回答にはならないと判っていたからだ。どのような意見を述べようとも女は自分のしたいようにするだけだし、自分はそれに従うだけだ。
 愛しい人、と女は呟く。愛し合っている自分達が自由に会えないなんて理不尽よね、と唇を尖らせる女の様子は愛らしいというべきものだったが、その次に女が取った行動は愛らしいと呼べるものではなかった。
 ぐしゃり、という擬音がぴったりする程乱暴に、女は近くに飾られていた花瓶の花を握り潰したのだった。はらはらと女の指の間から赤い花びらが零れて床に落ちていく。ねえ、おかしいわよね、と男に告げる言葉は歌うように優しいのに、それが命令の合図だと男は知っていた。
 あなたの心のままに。それだけを言って男が退室していくのを、女は満足そうに眺めていた。





FLOWER




『リヴァイさん、お元気ですか? リヴァイさんだから大丈夫だと思ってますが、この前の壁外調査では大分死傷者が出たと聞きました。オレの知ってる人達が全員ご無事だといいんですけど。オレの方は相変わらず訓練三昧の日々です。もう、最初の頃みたいにへばったりはしませんが、さすがに夜にはくたくたになって寝てしまいます。あ、この前対人格闘術の訓練で誉められました! オレの対人格闘の成績はいいんですよ。座学は苦手だけど、アルミン――前にも書きましたが、再会した幼馴染みです、あのときは本当にびっくりしたけど、嬉しかったです――は頭が良くて座学はトップなので教えてもらってます。成績は上がっているので、教官に十番以内に入れば憲兵団入り出来るから頑張れって言われました。オレが目指しているのは調査兵団なので関係ありませんが、成績が上がるのは嬉しいです。ジャンには死に急ぎ野郎とか言われてますけど』

 リヴァイは目の前の文を眼で追いながら自然に口許を綻ばせていた。歯を食いしばりながらも訓練に励み、頑張っている少年の姿が目に浮かぶようだ。

『卒業まで後半年です。もっと腕を磨いて必ず、調査兵団に、リヴァイさんの傍に行きます。待っていてください。――エレン』

 読み終わった後も、それを惜しむように読み直し、少年に触れるかのように優しく手紙を撫ぜる男に、何、にやけてくれちゃってるのかなーという声がかけられた。

「それ、エレンの手紙でしょ。いいなー、リヴァイは。エレンの愛の手紙、私達だって欲しいのにさ」
「……お前らにだって送ってるだろう、あいつは」
「私達のはまとめて皆さんへだよ。リヴァイよりぜーんぜんっ回数も少ないしさ」

 むう、と唇を尖らせる同僚――ハンジに、お前がそんな仕種して見せたって可愛さの欠片も感じられないが、と男は肩を竦めた。そして、見せるのが勿体ないとばかりに少年からの手紙を封筒にしまってしまう。

「エレンも返事くれない男にばっかり手紙送らずに私達にくれればいいのに」
「返事は書いてる」
「三回に一回くらいでしょ。薄情だなーリヴァイ」
「それはエルヴィンのやつに言え」

 元々、リヴァイは筆まめな方ではないが、それでも愛しい少年からの手紙は嬉しいし、もっと書いて送りたいのだが、男が書こうと思っているタイミングを見計らったように自分の上司はこちらに仕事を寄越すのだ。リヴァイは上層部の人間なので元々仕事量が多いし、壁外遠征があればその準備に追われ、無論、遠征中は手紙など書けるはずもない。もしかして、わざとなのか、などと思わなくもないのだが――どうやら、エレンに対しては父性愛らしきものが働く上司を恨めしく思う。

「でも、次の合同演習のことは絶対に書いて送りなよ。向こうでも説明はされると思うけど、リヴァイ自身から話があるかないかでは段違いだからね」

 合同演習――それは、この世界にある三つの兵団、調査兵団、駐屯兵団、憲兵団の合同で行われる訓練のことだ。お互いの情報を交換し合い、その技術を高め合うという名目の元に行われるそれは、何のことはない、上層部の腹の探り合いのための舞台だ。演習時に行われる上層部の会談が目的で後は体裁を整えるためのおまけのようなものだ。
 普段は三兵団だけで行われている合同演習だが、数年に一度、訓練兵も交えて演習を行うことがある。今回の合同演習がそれだ。現役の兵士の技術を見るだけでも勉強になるし、訓練兵にもいい刺激になるとされて考案されたことだが、将来自分達の兵団に入るであろう兵士達の物色と教官達への監査等、これにも色々な思惑が絡んでいる。
 通常なら面倒くさいと適当にやり過ごすリヴァイだが、今回は違う。何しろ、エレンが訓練兵となっているのだから。上手く時間を作れば会えるかもしれない。
 訓練兵となったエレンに面会は中々出来ないし、リヴァイも時間が作れずに会えずにいた――それでも、何度か休日をもぎ取って会いにいったのだが、エレンに最後に会ったのは一年程前だっただろうか。訓練兵になったとは思えない程、変わらずに細くてリヴァイはちゃんと食事が配給されているのか不安になったのを覚えている。


「ああ、先日手紙に書いて送っておいた。お前も行くんだろう?」
「ミケが残るからそのつもりではいるけど。詳しい人選はまだだね」

 合同演習といっても、兵士全員が出払ってしまっては通常の業務に支障を来すから、参加する人数は決められている。調査兵団の規模ならまだしも、駐屯兵団全員に出てこられても困るだけだ。名目とはいえ、技術を見せ合うのだからそれなりに腕の立つ者が選出されるだろうが――リヴァイはエルヴィンが何と言おうとも行く気満々だったが、人類最強の兵士が外されることは当然なかった――慢性的に人員の不足しがちな調査兵団では選出に頭を悩ませていることだろう。

「いつまで茶番を続ける気なんだか。今回はまあ、あいつに会えるからいいが」
「確かに面倒なだけの行事だけどね。それでも、巨人に関する情報が入ることもあるし、総てが無駄ってわけじゃないよ。まあ、上層部との折衝は団長が上手くやるだろうからその辺は任せればいいし」

 そんな会話をしながら、ハンジは思い出したように、そうだ、これ、とリヴァイに手紙の束を渡した。

「人類最強の兵士長様宛の愛の手紙だよ」
「……またか」

 調査兵団には様々な手紙がやって来る。それは兵士宛の家族からの手紙だったり、兵団に対する要望書だったり、応援や励ましの手紙、逆に嫌がらせや中傷の手紙等様々だ。リヴァイ宛に送られるそれらは退役したかつての部下や、自分の家族を助けられたというものからの感謝の手紙、単純に人類最強の兵士長に憧れて調査兵団に入りたいという少年からだったり、是非、自分の家に招待したいといった要望まで色々とある。
 リヴァイはざっと目を通しただけで、個人的な知り合い以外の手紙の処理は任せてしまうことにしている。応援の手紙にいちいち返事など書いてられないし、そんな時間が男にあるはずもなかった。
 ハンジから渡された手紙に目を通していたリヴァイは、一つの手紙を手にして眉を寄せた。小さく舌打ちした様子にハンジは興味を惹かれて覗き込むと、その内容に驚いたような感心したような声を上げた。

「うわー、また来たんだ、その手紙。よくやるね、相手も。ちゃんと検閲もあるのに毎回潜り抜けてる根性がすごいよ」

 エルヴィンやリヴァイ程有名になると、応援の他に悪戯や嫌がらせの手紙も届く。不審なものは中を改められるし、繰り返し嫌がらせの手紙を送って来るものは筆跡を覚えられていて渡す前に処分される。なので、男が嫌がらせの手紙を受け取ることは少ないし、例え受け取ったとしても彼の性格上、何とも思わないのだが。

「ここまでくると不気味だよね。何というか思いこみの激しさと執念を感じるよ」

 心当たりはないんでしょ、と言うハンジに、リヴァイは当たり前だろ、と頷いた。

『愛しいあなた。早く、私の元に来てくださることを願っています。あなたがお忙しいのは判っていますが、愛し合う私達が離れ離れなんておかしいわ。私達は結ばれるために生れてきた運命の恋人同士なのに――』

 一見すると、恋人からの愛の手紙のように思えるが、リヴァイにこんな手紙をもらうような相手はいない。

「まあ、リヴァイは今はエレン一筋だもんね。昔付き合ってた女性とかでこんな手紙送ってきそうな人いないの?」
「いるわけねぇだろ。俺だって付き合う相手は選ぶ」
「……エレン一筋は否定しないんだね。でも、気を付けた方がいいかもよ、リヴァイ」

 ヤバそうな上に変に頭は回るみたいだから、とハンジは続けた。

「リヴァイが初めにこの手紙を受け取って無視してたら、何度も寄越すから、検閲でチェックを頼んだんでしょ。でも、また届いた――筆跡と場所が違うから引っかからなかったんだよ。毎回違う人に宛名を書かせて発送場所も変えてまで手紙を送るなんて異常だよ。手紙の内容からも思い込み激しいのが伝わるし」
「気を付けようにも手立てがないだろ。今のところ手紙送りつけてくるだけで何もしてこねぇし」
「それはそうなんだけどねぇ。今回の合同演習が終わったら、調べてみようか。毎回こんな手の込んだ真似出来るなんて、おそらくは裕福な家でないと無理だから。金持ちのお嬢様とか、人妻とかに手を出したことは?」
「あるわけねぇだろ、クソメガネ」

 ひゅっと、飛んできた蹴りを何とかハンジは避けた。冗談なのに、と肩を竦めるハンジに笑えねぇ冗談言うんじゃねぇよ、と男は不機嫌そうに眉を寄せた。

「まあ、取りあえずは演習終わってからにするか。というか、準備で忙しくて調べてる暇なさそうだしね」

 エレンに会えるのが楽しみ、と笑うハンジに男もそれは同意するというように頷いたのだった。





「アルミン、アルミン、リヴァイさんが来るんだ!」

 瞳をキラキラと輝かせて自分を見つめてくる幼馴染みを、アルミンはきょとんとして見返した。遅れてその言葉を理解し、驚いた表情に変わる。

「リヴァイさんって……リヴァイ兵士長が? 面会に来るの?」
「違う、合同演習があって、今回は訓練兵と一緒にやるから、それでここに来るんだって」

 そういえば、このところ教官達が忙しそうにしているし、午後に大事なことを発表すると言っていたからきっとそこでその話がされるのだろう。訓練兵を交えた合同演習は数年に一度で毎年行われるわけではないから当たらないものもいるわけで、今期の訓練兵は卒業する前に間近で現役の兵士の技術を見られるという機会を運よく与えられたことになる。

「そうか、良かったね、エレン」

 こくり、と頷いて笑う少年は、その仕種から実際の年齢より幼く見えて可愛らしく映る。ああ、そういう仕種はやめた方がいいって言ったのにな、とアルミンは内心で溜息を吐いた。
 エレンとアルミンが訓練兵の適性試験の場でばったりと再会したのは今から二年半程前のことだ。お互いに仰天し、その身の無事を喜び合い、その日は今までの境遇やここに来た経緯を夜通し話し合った。アルミンはシガンシナ区が巨人に襲われて壊滅する前に家族の仕事で内地に越していたので難を逃れたが、その後の無謀な奪還作戦により身内を失い開拓地で過ごし、兵士になる決意をしてこの場に臨んだのだ。エレンの方はシガンシナ区が巨人の襲撃にあった際に母親を亡くし、父親の消息は不明、その後開拓地で過ごしていたが、何と、試験を受ける前の半年間は調査兵団にいたという。
 調査兵団の上層部にいた人がエレンの父に恩があるからという理由で引き取ってくれたらしいが――詳しい理由は幼馴染みも知らないらしい――それよりも少年が親しげに呼ぶ『リヴァイさん』があのリヴァイ兵士長だったことにアルミンは驚いていた。
 すごく良くしてもらったんだ、あの人の傍で戦うためにも、オレは調査兵団に入るんだと決意を語る少年の姿は、恩人に向ける感謝というよりは―――。

(自覚ないみたいだし……というか、エレンはよく判ってないんだと思うけど)

 恋愛と親愛と友愛の違いがまだよく判っていないらしい少年に説明して判らせる自信はないし、少年自身で自覚しないと意味はないだろう。

(鈍いとこ、全然変わってないんだもんな……)

 噂には聞いているが、兵団では女性が少ないせいか同性同士でそういう関係になるものも多いという。訓練兵の場合はそれ程聞かないが――そういった眼でエレンを見ているものがいることにアルミンは気付いている。アルミンは小柄でいかにもそういったものに狙われやすそうに見えるが、実際のところそうでもない。アルミンをそういった眼でみるものは女性が好きなタイプだ。だから、一旦アルミンが男なのだと思うと眼が覚めたようにそういった眼で見なくなることが多い。
 むしろ、エレンのようなタイプが好きなものの方が危ないと思う。エレンはどちらかというと中性的な顔立ちをしているが、女性っぽさはない。男だと理解していながらもそういった視線を送ってくるものの方が危険だと判断し、アルミンは常にエレンの周りに気を配っている。エレンと親しくしている仲間の中にも気付いているものがいて、さり気なくフォローしてくれているので助かっているが、エレン自身に自覚がないから厄介なのだ。

(問題はリヴァイ兵士長がエレンをどう思っているかなんだけど)

 アルミンはかの人類最強の兵士長に会ったことはない。エレンに面会に来たこともあるようだが、アルミンはそれに同席したことはなかった。幼馴染みに誘われたこともあったが、理由を付けて断っていた。兵士長という立場上から人目を避けて会っていたようだし、滅多に会えない二人の間を邪魔したくなかったからだ。だが、今回は滞在期間も長いだろうし、これはそれとなく探りを入れてみるいい機会なのかもしれない。アルミンは心の中でそんなことを思いながら、エレンに笑顔を向けた。




 その日は、エレンは朝からそわそわしていた。今日は合同演習の初日だった――演習は一週間の日程だが、実際に合同で演習をするのは3日程で、後は交流会や講義などのその他の予定が組まれている。初日はおそらく顔合わせ程度、上層部の人間の演説などの実技とは関係ない式典のようなものしか行われないらしい。
 エレンとしてはそんな長い話を聞くよりも実技指導や実際の兵士の体験談等を聞いた方がよっぽど役に立つと思うのだが、どうも上の方の立場の人達には違うらしい。上層部には上層部の思惑が色々とあるんだと思うよ、とは幼馴染みの言葉だが、エレンには上の立場の人間のしがらみはよく判らない。

(リヴァイさんも上層部の人間ってことになるんだろうな)

 エレンの知る調査兵団の人達もそんなしがらみがあるんだろうか。

(会えたら、話したいことはいっぱいあるけど)

 アルミンに忠告されたし、リヴァイも手紙に書いていたのだが――大っぴらに親しげにしない方がいいらしい。以前に人目を避けて会ったのもエレンが調査兵団の上層部と個人的に親しくしていると思われないようにするためだ。少年の成績が悪ければまだ良かったのかもしれないが、成績上位者が特定の兵団の上層部と親しいと知られれば変な勘繰りをされかねない。調査兵団の方も孤児を引き取って強制的に兵士にするために送り込んでいる――などと噂を立てられる可能性があった。
 エレンにしてみればやましいことは何もないのだから堂々と会いたいのだが、それで男や調査兵団に迷惑がかかる可能性があると言われれば、それに従うしかない。
 少しでも会えたらいい、と思いつつ、少年は教官から言われていた集合場所へと向かった。


 退屈な演説などの儀式が終わり、一旦解散を命じられた訓練兵達は現役の兵士達に興奮している。彼らの多くが憲兵団の話を聞きたいだろうから――それ程こちらには注意を払っていない。エレンは視線でリヴァイの姿を追った。
 リヴァイも注目を集める存在ではあるが、上層部の人間には訓練兵は無闇に近付けないだろう。男と視線が合い、軽く目配せされたので、エレンは頷いて人気のない場所に足を進めた。もらった手紙でだいたいの指示はされていたが、本当に現れてくれるのか不安になってくる。
 だが、果たして――男はやって来た。

「リヴァイさん!」

 駆け寄ると、リヴァイの他にハンジやペトラもいてこちらに笑顔で手を振っていた。
 ああ、皆で来てくれたんだ――と、少年が感動するよりも早く。

「何で、俺よりもでかくなってんだ、てめぇは!」

 がつん、と頭を男に叩かれたのだった。



「酷いですよ、リヴァイさん……」

 ハンジ達は軽く近況などを少年と話してから、早々に二人を置いて去っていった。気を利かせたのと、この場に人が来ないように見張っていてくれるらしい。
 叩かれた頭をさすりながら文句を言うと、ギロリ、と男に睨まれた。

「一年前に会ったときはまだ小さかっただろ」
「ああ、あの後成長期に入ったみたいで、急に伸びたんです。関節とか痛くて大変でした」
「…………」

 不機嫌そうな男にエレンは不安になって、伸びたらいけなかったのか、と彼に訊ねた。

「あの、もう伸びちゃったから、縮むことは出来ませんけど、リヴァイさんが小さいもの好きなら、これ以上大きくならないように努力します!」
「人を変態みたいに言うな。……努力するって何すんだ、お前」
「えーと、取りあえず食事を抜くとか……?」

 取りあえず、思いついた方法を挙げる少年にリヴァイは呆れたように溜息を吐いた。

「そんな薄っぺらい身体のくせに何言ってんだ。……オイ、エレン、そこ座れ」
「はい」

 男の要望に戸惑いつつ地面に座った少年は、次には覆いかぶさるような形で男に顎を掴まれ、激しい口付けを与えられた。舌同士を絡ませ合い、口内を探られ、ぞくぞくとしたものが背筋を走る。
 男と口付けを交わすのは一年振りだ――まだ、数える程しかしていないそれにエレンは慣れなくてついていくのが精いっぱいだが、男に教えられた通りにおずおずと舌を差し出してその背中に手を回した。我慢しようとしても洩れてしまう声と、くちゃくちゃと耳に響く水音が恥ずかしい。思わずぎゅうっと背中にしがみ付くと、男は笑ったようだった。

「単純にこういうことがやりづれぇってだけだ。でかくなっても、お前はお前だからな」

 まあ、ちょっと、ムカつくのは確かだが、嫌じゃねぇから安心しろ、と男は続けた。
 貪るようにされ続けたキスによる酸欠でぼーっとしていた少年は、男の言葉は半分程度しか伝わってなかったが、次の言葉で一気に覚醒した。

「エレン、悪いが、今回はもう会えない」
「え……どうしてですか?」

 合同演習の日程は一週間だ。だから、そのうちに少しでも話す時間が作れたらと思っていたのだが、男はそれ程忙しいのだろうか。それとも、自分に割く時間が惜しいということなのか。

「……そんな捨てられた犬みたいな眼をすんな。俺だってもっと会いたいが、そうもいかなくなった。どうやら、俺は監視されているらしい」

 男の言葉にエレンは眼を丸くした。人類最強の兵士長を監視する理由がどこにあるというのだろうか。

「リヴァイさんを監視してどうするっていうんですか? 心当たりは?」
「判らん。心当たりがないわけじゃないが――」

 そもそも本当に監視されているのかの確証はない。リヴァイがそう思っただけ、という話せば人によっては勘違いだろう、の一言で済ませてしまうような話だ。だが、リヴァイは自分の感覚を軽く見てはいなかった。過信ではなく、経験からくるそれが誰かに監視されていると結論付けたのだ。
 最初に気付いたのは、この合同演習の準備で近くの街などの本部の外に出かけたときのことだった――誰かにつけられている気配がしたのだ。リヴァイはすぐさま追跡者を探し出そうとしたが、相手はそれに気付いたのか男が見つける前に気配は掻き消えてしまった。その後も何度かつけられている気配や視線を感じたのだが、リヴァイが少しでもそれを追おうとすると消えてしまうのでその正体を掴むことが出来ない。相手は非常に用心深くこちらを観察しているように感じた。
 心当たりとして真っ先に浮かんだのは、送りつけられているあの妙な手紙の主だった。リヴァイには全く心当たりがないが、ついに相手が自分の前に姿を現しにきたのかと思ったのだ。だが。
 その監視はこの訓練施設に着いた後まで続いているのだ。

「ここは一般人が入れるところじゃないし、合同演習の期間は面会も禁じられてる。演習には上層部の人間が来るから、この期間はここに入るものは食料を運ぶ業者等も総て厳しくチェックされているし、不審な人物が入る込めるわけがないんだがな」

 ハンジ曰く手紙の主は金持ちのお嬢様か、人妻だが、そう仮定するとここまで入り込むことは出来ないだろう。金で人を雇うということも考えられるが、無関係のものはまず入りこめないし、買収に成功したとしても出入りの業者程度では監視の役は務まらない。
 となると、他の線になるが――広げるとこちらはキリがない。リヴァイを煙たがったり個人的に嫌っているものは他の兵団の上層部にはかなりいるだろう。また、調査兵団をよく思わない一派が、単純に目立つリヴァイの弱みを見つけて調査兵団の支持を下げようとしているということも考えられる。
 相手の目的は判らないが、とにかく監視者を捕まえなければどうにもならない。特に実害を被ってはいないのでそれもまた逆に厄介だった。

「だから、監視者の目的がハッキリするまでは俺に近付くな」

 もしも、相手が男に個人的な恨みを持つ者だったら親しくしているものに危害を加えるということも考えられる。調査兵団の人間なら身を守る術くらいは心得ているだろうが、まだ訓練兵の少年では心許ない。真相が解明されるまでは会わない方がいいだろう。
 男がざっとその旨を告げると、少年は頷いた。

「今回は無理だが、そのうちにまたエルヴィンから休暇をもぎ取って会いに来るから」

 そう言って少年の頭を撫ぜる男は忘れていた――そんな話を聞いてしまった少年が何の行動も起こさないはずがないということを。




 その日からエレンの犯人を絶対に見つけてやる作戦が始まった。訓練以外の自由時間は全部不審人物を探すことに費やした。幸い、合同演習の期間は通常とは異なり、現役兵士の話を聞いたり質疑応答の時間が作られたり、と自由時間が与えられたので隙を見て抜け出すことも可能だった――バレれば懲罰ものだが、現役の兵士は訓練兵の顔など認識していないので、教官の眼さえ誤魔化せば何とかなった。
 休み時間の度にいなくなる少年に幼馴染みは何かあったの、と心配げに声をかけてきたが、エレンは何もないよ、と何とか誤魔化した。聡い幼馴染みを誤魔化せるか不安だったが、どうやらアルミンは暇な時間を見つけて自分がリヴァイを見に行っているのだと思っているようだ。リヴァイを付け回しているらしい人物を探しているなどと言ったら、心配されるのが判っていたから、知られなくてエレンはホッとした。いや、もしも知られてしまったら、幼馴染みの性格上、心配するだけではなく絶対に自分を止めようとするだろう――それは避けたかった。

(取りあえず、調査兵団の人は外していいと思う)

 廊下を歩きながら、エレンはそんなことを考えていた。リヴァイが視線を感じたのは本部から出たときであるから、犯人は外部の人間だと思われる。調査兵団内に犯人、もしくは協力者が入れば施設内でも監視の視線を感じただろう。

(後は訓練兵も除外かな。外に自由に出歩けないし)

 勿論、相手が複数犯とも考えられるので、合同演習が始まってから協力し出した可能性はあるが、訓練兵が調査兵団の上層部の人間に近付くことはまず出来ないし、訓練等で忙しいから不向きであると思われる。

(やっぱり、憲兵団か駐屯兵団の人かな……)

 そちらの方は全くのお手上げだ。特に憲兵団には知り合いがいないし、怪しいと思えば誰もが怪しいと思えてきてしまうからどうしようもなかった。

(あれっ……?)

 ふと、視線を廊下の先に向けると、教官と駐屯兵団の制服を着た兵士らしき男が歩いて行くのが見えた。打ち合わせか何かだろうか――そう思ってただ見送ろうとしたエレンはふと何かの違和感を感じて、無意識にその後をつけた。
 兵士の方は知らないが、教官はエレンも習ったことのある見慣れた男だ。その男が一緒にいるのだし特に不審な点はなさそうなのだが、何かが引っかかる。

(何がおかしいんだろ。別にちゃんとした制服着てるし、普通の兵士だし――)

 そこで、エレンはハッとした。そうだ、制服だ、と結論付ける。相手が着ている制服は正規のちゃんとした兵団のものだ。だが、若干服の袖が長い。制服が身体に合っていないのだ。
 兵団の制服は戦闘時に動き易いように身体にしっかりと合ったものが支給される。身体に合わない制服は動きにくく、現役の兵士がそんなことを放っておくはずがなかった。

(きっと、あれは借り物なんだ。着ているのは兵士じゃない)

 こっそりとつけていくと、男達は余り使われていない倉庫になっている部屋へと入っていった。戸に耳を当てたが中の音は聞こえてこない。戸を開ければ聞こえるかもしれないが、男達がどの位置にいるか判らないと戸を開けるのは危険かもしれない――いや、それ以前に密談をしているなら用心して鍵をかけているだろう。エレンは足音を立てぬように外側に回り、気付かれぬように注意しながら窓から中を覗いてみた。
 男達が立っている場所は入り口からは離れてはいたが、戸が開けば判るところにあり、この窓も開ければ絶対に気付かれそうだ。それにやはりというか窓には鍵がかかっていて、開けるなら割るしかないが、それでは自分の存在を男達に知らしめることになるだろう。
 エレンは姿勢を低くして身を隠しながら他に出入り口がないか探していると、男達からは死角になっている場所に小窓があるのを発見した。換気か、もしくは光を入れるために設置されたもののようで、大きさ的にそこから中に入ることは出来ないが、開ければ中の話が聞けるかもしれない。
 エレンは這いずるように進み、小窓に手を伸ばすと、幸いにも窓に鍵はかかっていなかった。管理の杜撰さを怒るべきかもしれないが、今はそれに感謝した。音を立てぬように慎重に窓を少しだけ開けると、中の声が僅かに洩れてきてエレンは必死に耳を欹てた。

「さすがに無理ではないのか?」
「無理でも何でもやってもらいます」
「だが、相手は人類最強の兵士長だ」
「判っています。だから、薬を使えばいいといったでしょう。人類最強でも眠らせてしまえば、無防備になる」
「食事の場には大勢の人間がいる。そこで薬を混ぜるのは難しいと思うんだが」
「なら、差し入れといって訓練兵に飲み物でも渡させればいいでしょう。買収が必要なら金は用意します。直接注射でも出来ればいいんですが、隙がないですからね」
「そうだ、どうにも用心深い男のようだな」
「だから、訓練兵を使った方がいいでしょう。子供なら油断もするはず」
「しかし、大丈夫なんだろうな。人類最強の兵士を拉致するなんてことしても」
「何とかします。それに、彼は元々は地下街のゴロツキなんでしょう。そこを利用して自ら失踪したように見せかけます。もみ消すように圧力を上からかけてもらうようにすれば――」

 エレンは息を呑んだ。どうやら、何の目的かは知らないが、男達はリヴァイをどこかに拉致して彼の意志で失踪したことにしたいらしい。

(リヴァイさんに知らせないと)

 兵士の格好をした男には見覚えはないが、教官の方は知っている。教官の方から辿れば男の身元も割れるかもしれない。そうエレンが思い、窓から離れようとしたとき――。
 ガツン、と頭に衝撃が走った。

「――――っ!」

 その場に崩れ落ちた少年の眼に映ったのはブーツ。薄れていく視界に駐屯兵団の制服が過った。

(そうか、協力者がまだいたのか……しくじった…)

 男が兵団の制服を着ていたということはそれを渡した人間がいるということで。まだ他にも協力者がいると用心しなければならなかったのに、それを怠ってしまった。

(リヴァイさん、ごめんなさい……)

 少年の意識はそこで完全に途絶えた。




 誰かに頬を撫でられていた。細くて柔らかな指は顔の線を辿り、その形を確かめるように鼻や唇を滑っていく。その手が首筋を辿り、胸元、腹へと下りていって、そのくすぐったさにエレンは身を捩った。

「身体は貧弱なのね。兵士なんでしょう?」
「彼はまだ訓練兵のようですから、仕方ないでしょう」
「でも、顔は可愛いわ。首から下は要らないけど」

 先程から言われているのは自分のことだろうか、エレンはハッキリしないまま瞳を開けると見知らぬ天井が映った。どうやら自分はベッドの上に寝かされているらしいが――ここはどこだろうか。ベッドは訓練兵の兵舎と比べ物にならないくらい柔らく、天蓋付きの豪奢なもので寝心地は抜群に良いが、今は寝ている場合ではない。

「あら、起きたのね」

 声がして、エレンが視線を向けると、若い女がこちらを覗きこんでいた。年の頃は自分より、三、四歳上くらい――二十歳はいってはいないだろうか。くるくるとウェーブを描く長い金髪の巻き毛に、日焼けなどとは無縁の透き通るような白い肌。灰青の瞳に目鼻立ちのくっきりとした、陶磁器人形を思わせるような美しい女性だった。白と青を基調とした淡い色合いのドレスは光の加減で手の込んだ刺繍がされていることが判る、見るからに高級そうなものだった。

「まあ、見て、ルイ。この子の瞳金色よ、すごく綺麗。抉りとって飾っておきたいくらい綺麗だわ」
「…………!?」

 いま、さらりと物凄いことを言われたような気がするけれど、気のせいだろうか。状況が掴めず、混乱しながらも起き上がったエレンはズキズキと痛む頭を手で押さえた――すると、じゃらり、と手首から音がする。その音に視線を走らせれば手には手枷がはめられ、長い鎖が壁へと続いていた。壁は石壁でそこに鎖はしっかりと固定されていて、少年が引っ張ったところで外れそうになかった。

「まだ、起き上がらない方がいいですよ。頭を殴られたんですから」

 女とは反対の方から声がして、そちらを見ると、そこには二十代前半くらいの男が立っていた。青みがかった銀髪に紫色の瞳のこちらも整った顔立ちの持ち主だった。
 少年はその姿と声に覚えがあった。この男はあのとき教官と一緒にいた、駐屯兵団の制服を着ていた男だ。では、ここはリヴァイを拉致しようとしていた一味の隠れ家なのだろうか。だが、隠れ家にしては置いてあるものが豪華だし、この女性の言動もおかしなものばかりだ。

「でも、顔も可愛いから、やっぱり顔と瞳で保存しておきたいわ。どうしたらいいかしらね、ルイ」
「………っ! あんたら、何言ってんだよ。さっきから判んねぇことばっかり言いやがって! ここどこだよ!」

 混乱しながら、エレンが叫ぶと、女はきょとり、と首を傾げた。

「あなたこそ、何を言ってるのかしら? 邪魔したのはあなたでしょう? リヴァイ様と私の仲を引き裂こうとしたのでしょう? 私達は愛し合ってる恋人同士なのに、どうして邪魔をするのかしら?」

 女の言葉にエレンはぽかんとしてしまった。今、この女性は自分がリヴァイの恋人だと言った。いや、そんなはずはない。リヴァイには恋人などいないはずだ。そんな話は一度も彼から聞かされていないし、訓練兵へ志願するときに彼は自分を好きだと、三年後を楽しみに待っていると言ってくれたのだ。彼に渡した四葉のクローバーがその証だ。その後も、彼は自分の卒業を待っていると言ってくれた。

(でも、こんなに綺麗な人なら―――)

 きっと、恋人にしたいのではないだろうか。リヴァイだって同性ではなく女性の方が本当はいいに決まってる。あのとき、自分に告げた言葉に嘘はなくとも、二年半も経てば心が変わっていてもおかしくはないだろう。

(リヴァイさんの傍にはもう行けない……?)

 嫌だ、と思った。あの人の傍にいたい。あの人の傍に立てる人間でありたい。これから先もずっとあの人の隣に在りたいのだ。

「私に相応しいのはあの人だけだもの。人類最強の兵士。顔も素敵だし、背が低いのが減点だけど、他がいいから許せるわ」

 女の言葉にエレンは固まった。女は今、何と言ったのか。

「あんた、何言ってんだ……」
「あら、あんたじゃないわ、アリーシャよ。アリーって呼ばれることが多いけど」
「あんたの名前なんか、どうでもいい! 自分に相応しいとか、許せるとか、本気で言ってんのか、それ!」
「何言ってるの? 私の傍に置いてあげるんだもの。強くて格好いい人じゃないとダメでしょう? それこそ人類最強くらいじゃないと釣り合わないじゃない?」

 こてん、と首を傾げる女は確かに可憐で美しいが――その言葉にエレンはぷちんと切れるのを感じた。

「ふざけんな! リヴァイさんはものじゃない! 許せるとか傍に置いてあげるとか、何様のつもりだよ! あの人がどれだけ凄い人なのか、あんたは判ってるのか! あの人の上辺だけであの人を語るな! あんたはあの人の傍にいるための努力をしたことがあるのかよ!」

 少年がリヴァイとともにいたのはたったの半年だ。男がどんな人間なのか語れる程自分が彼を知っているとは言えないのかもしれない。だが、それでも知っていることはある。闇に落ちそうだった自分を救い、生まれ変わらせてくれたのは彼だ。厳しいけれど、それ以上に自分に厳しくて、懐が深くて、判りにくいけれどとても優しい人だ。だからこそ彼は多くの部下に慕われている。それをたった一言、強くて格好いいからの言葉で片付けて、まるで宝石か何かで自分を着飾るみたいに、傍に置いてあげるなどと言って欲しくない。
 ぱしん、と高い音がした。

「あなた、生意気よ」

 頬に走った痺れに女に叩かれたのが判ったが、女の手ではそれ程の痛みを感じなかったし、痛かったとしてもここで退く気はなかった。

「ね、ルイ、その子を押さえていて」

 その言葉に男は素早く鎖の調節をして、エレンはそれに引っ張られる形でベッドの上に倒れ込んだ。その隙に男は体重をかけて押さえつけ、少年を身動き出来なくする。女はそれに満足したのかにっこりと笑いながら、どこに隠し持っていたのか、短剣を取り出した。

「あなたの眼、抉り取ってあげる。二度と生意気な口が利けないように口を縫ってあげる。そうしたら、この塔の窓から落としてあげるわ」

 女が本気なのは伝わって来たが、エレンは女を睨みつけた。それがまた女の機嫌を悪くさせたようだ。

「――謝罪しなさい。今、謝ればまだ、許してもらえます」

 男が耳元で囁いたのが聞こえたが、エレンは自分の言葉を訂正することは絶対にしたくなかった。

「オレは間違っていない。リヴァイさんはものじゃない。――オレはあの人の傍にいたいから。傍できちんと立てる人間でいたいから。だから、退かない」
「何言ってるの?」

 女はゆっくりとエレンに近付いて言った。

「あの人の傍にいるのは私なのよ? だって、あの人は私のことを見て、お綺麗な方ですね、って言ってくれたもの。あのときから私達は運命の恋人同士なのよ。どうして皆邪魔するのかしら?」

 女が少年に短剣を振りかざそうとしたとき――。

「アリー様」
「なあに、ルイ?」

 男の声に女は剣を振り下ろすのを途中でやめた。

「この少年はリヴァイ兵士長様と交流があったようです。処分はもう少し待った方がいいかと思われます。利用価値があります」
「ルイはそうした方がいいと思うのね?」

 男が頷いたので、女は剣を収め、懐にしまうと、扉へと歩いていった。

「ルイ、今度はちゃんとリヴァイ様を連れて来てね?」
「はい、承知致しております、アリー様」

 女は出て行き、エレンはゆっくりと息を吐いた。どうやら、命拾いしたようだが、これがいつまで続くのか。自分を押さえつけていた男は上から下りて、静かに少年を見ていた。

「……一応、礼を言うべきかな。止めてくれて助かった」
「助けたわけではありません。あなたがリヴァイ兵士長と親しいという情報はありますから、取引の材料になります」
「……あの女何なんだ。リヴァイさんをどうしたいんだよ」
「アリー様は自分の傍に置いておきたいだけですよ。彼が大人しく傍にいてくれるなら満足すると思います」


 女がリヴァイの恋人だというのはもう嘘だとしか思えなかった。だが、女はそれを信じ込んでいるように思えた。虚言癖があるとかそういうレベルではなく、本当にそれが彼女の中では真実になっているような。

「……傍に置いておきたいって、人形じゃねぇんだから」
「そうですね、最初は人形だったのかもしれませんね」
「?」
「アリー様が欲しがったものですよ」

 あの方は可哀相な方なんですよ、と男はそう静かに話し出した―――。




 
2013.10.31up




 思っていたよりも長くなってしまったので、一旦ここで切ります(汗)。後、少しなんですが……後編短くなったら、調整するかも。そして、結城のオリキャラの女性はどうして変なのばかりなのか……orz



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