落ち着いた風合いのドアを開けると、カラン、と来店客を知らせる音が辺りに響いた。リヴァイが中に足を踏み入れると適度に抑えた音量で流されるクラシック曲が耳に心地好く届き、温かみのある明るすぎない照明が居心地の良い空間を作り出していた。――隠れ家的な雰囲気のこのバーはリヴァイのお気に入りの店の一つだった。

「リヴァイ、ここ、ここ!」

 男に気付いたのか、カウンターのスツールに座っていた同年代の女性がリヴァイに手招きした。リヴァイはいらっしゃいませ、と声をかけてきた顔馴染みのバーテンダーに挨拶してから女性の横の席に腰を下ろした。

「早かったな。いつニューヨークから戻って来たんだ?」
「一週間前かな。もう新しい部署には挨拶を済ませたんだけど、これからが正念場ってとこかな。私としては向こうにずっといたかったんだけどねー」
「何を言っている。出世したんだろうが。大きなプロジェクトも任されてるって聞いたぞ」
「まあ、仕事はやりがいがあるんだけどさ。私達みたいなのはこの国じゃ阻害されがちなのは知ってるだろ?」
「お前は昔から周りの眼なんか気にしてねぇだろうが」

 リヴァイの言葉に女性――ハンジはまあね、と舌を出して笑った。
 ハンジはリヴァイの大学の同期生であり、根っからの同性愛者のリヴァイと同様に、彼女はバイセクシャル――同性も異性も愛せるという、世間一般からはマイノリティと呼ばれる性嗜好の持ち主だ。しかも、あっさりと周りにそれをカミングアウトして堂々と生きている珍しいタイプだった。
 大学時代、偶然知り合った彼女はリヴァイが同性愛者であることを即見抜いたが、それを吹聴することはなく、「ま、言いたくない人は言わなくていいんじゃない? 私は隠すのが面倒だから公言しちゃってるだけ。リヴァイはリヴァイでやればいいよ」と笑いながら、リヴァイは面白いけど全然私のタイプじゃないから大丈夫などと失礼なことを言ってきた女性だ。好奇心旺盛で行動力があり、思ったことははっきりと口にするが空気が読めないわけではない。変人と噂されながらも多くの友人もいた彼女とリヴァイはいつの間にか友人関係と呼ばれるものを築いており、彼女が海外の会社の研究開発チームに就職して、遠くの地に行ってからもこうしてときたま連絡を取っては飲みながら取り留めのない話をする間柄だ。

「でも、ここじゃパートナーは探しにくいよね」
「向こうにいたんじゃないのか?」
「とっくに別れたよ。遠距離恋愛は無理だって言われた」
「……言っておくが、紹介は出来ないぞ」
「判ってるってば。だって、リヴァイ、友達少な――」

 ハンジが言い切る前に男はデコピンを食らわせ、彼女は額を押さえて呻いた。

「……パートナーが欲しいならここで探してみるか?」

 この落ち着いた雰囲気のバーは実はそういった性嗜好の人間の集まる店として密かに知られている。いわゆる、発展場と呼ばれるようなものではなく、男性女性問わず、自分の性に対する悩みを抱えるものが息抜きに来る――そんな場所なのだ。一晩の相手を探すような店ではなく、長く付き合うパートナーを求めるものや、自分達の悩みを話し合える仲間を求めて訪れる場所だった。客質が良いので変な人間に引っかかることはまずないし、ちゃんと恋人が欲しいのならここはお勧めだ。

「うーん、でも、しばらくは仕事が忙しいからやめておくよ。落ち着いてから考えてみる」

 そう言って、彼女はバーテンダーから受け取ったカクテルに口をつけた。

「リヴァイも海外に行ってみたら? 視野が広がるよ?」
「折角職が決まった人間に何を言っている」
「ああ、それ、それ! 意外だったよ、リヴァイが教師になるなんてさ」


 男はこの春から新しい高校に赴任することが決まっていた。今は春休みだが準備もあるし、学校が始まれば更に忙しくなるだろう――その前に帰国してきた友人と時間を作っておくのもいいと思い、こうした席を設けたのだが、彼女はリヴァイが教師への道を進み、今でも続けているのが意外だったようだ。

「生徒に手を出しちゃダメだよ?」
「ガキに手を出す趣味はないぞ」
「まあ、その辺の常識があるのは知ってるけど。リヴァイのタイプって生意気そうな黒髪の子でしょ? そういう子をベッドの上で啼かすのが好きって話を聞いたけど」
「……お前、人聞きの悪いことは言うな」
「でも、事実でしょ。苛める癖に甘やかすのも好きでしょ。その辺をもっと上手くやればもっともてるのにね」
「余計なお世話だ」

 確かにリヴァイは生意気そうなタイプをベッドの上で組み敷いて啼かせるのが好きではあったが、別に嗜虐趣味はないし、SM趣味もない。なので、普段から冷たくされるのが好きなものや苛められたいタイプは御免だった。かといって、ベッドの上でも日常時でもべたべたに甘えてひっついていたい束縛系なタイプもご免だったので、中々難しいところではあった。
 別に理想が高いというわけではないのだが、ただでさえ付き合うのが難しい同性相手なのに、更に好みの相手を探すのは無理なのではないかと思っている。
 そのとき、丁度、澄んだピアノの音色が店内に響いた。やわらかく優しいメロディに二人は思わず会話をやめてしばし、聴き入った。
 この店では決まった曜日にピアノの生演奏を聴くことが出来る。客からのリクエストも受け付けており、落ち着いたこのバーには美しいピアノの旋律がよく似合っていた。そこもリヴァイがこの店を気に入っている理由の一つであった。思わず、指先がリズムを取るリヴァイを見てハンジは笑った。

「そんなにピアノが好きなら音楽教師になれば良かったのに」
「人に教える程の腕前じゃない。それに、物理も面白いぞ?」

 ハンジの言葉に返したそれはリヴァイの本音だ。ピアノもピアノが奏でる音も好きだが、物理もそれと同等――いや、人に教えるという点ではそれ以上に面白いと思っている。

「まあ、リヴァイが楽しんでいるならいいけど。元気そうで安心したよ。――そのうちに現れるといいね」
「何がだ?」
「ピアノや物理や紅茶以上にリヴァイが夢中になれるような――パートナーになってくれる子」

 ハンジの言葉にリヴァイは人のことより自分のことを心配しろよ、と苦笑いを浮かべたのだ。



 リヴァイはハンジと別れて街をぶらついていた。眠らない街――という言葉があるが、この繁華街は変わってないな、とリヴァイは思った。勿論、店は入れ替わってしまっているが、こういった場所の独特の雰囲気は変わっていないと思ったのだ――自分がまだ高校生だった頃、足を踏み入れていたときと。
 そんなことを考えながら歩いていたリヴァイは数人の若者達から声をかけられた――いかにも柄の悪そうな感じの彼らが何を思ってリヴァイに声をかけてきたのかはすぐに知れた。お決まりの文句で金品を要求されたからだ。

(本当にオヤジ狩りなんてやっている奴がいるんだな)

 内心で感心してしまう。こういった場面にはお馴染みの台詞にも、一人に対して複数でかかってくる姑息なところもテンプレート過ぎて笑えてしまう程だ。

(まあ、この人数と腕なら問題にもならないが)

 自慢ではないがリヴァイは強い。プロの格闘家を数人相手にしたらさすがに負けるかもしれないが、この程度のものならまず負けないだろう。酒は少し入っていたが、酔う程には飲んでいないし、リヴァイは酒豪と呼ばれる程に酒にも強かった。

(適当に相手してさっさと帰るか)

 そんなことを考えていたときだった――第三者の声が飛び込んできたのは。

「なあ、そこのおっさん。多勢に無勢みたいだし、手を貸そうか?」

 明るい髪に深くキャップを被った、おそらくはまだ年若いだろう少年はこの状況を見ても動じずにそんなふうに声をかけてきた。辺りが薄暗いのとキャップを深く被っているために顔をはっきりと確認出来ないが、その口許や顔のラインは判った。
 まさか、とリヴァイは思った。胸に広がる既視感はきっと気のせいだろう、と。『あの子』がこんなところにいるはずはないのだと。リヴァイは波立った心を誤魔化すように無言で胸ポケットから煙草を取り出すとライターで火を点けて煙をふかした。

「必要ねぇ。五分で終わる。それより、お前いくつだ? ガキは早く家に帰ってクソして寝ろ」

 だが、少年はリヴァイの問いには答えずに、こちらの加勢に入って来た。リヴァイは内心で舌打ちしてこうなったら早く片付けてしまおうと、次々に男達を地に沈めていった。


 少年はリヴァイ程ではないにしろ、強かった。喧嘩慣れしているように見えたし――少なくとも、一度や二度ではなく場馴れしているように感じた――こういった状況を見るのも初めてではないように思えた。おそらくは常習的にこうした界隈に足を踏み入れているのではないかとリヴァイは推察した。

「あいつらのこと、警察に被害届け出さなくていいのか? 恐喝とか強盗とかそういうんだろ?」
「面倒くせぇ。それに、届けたら逆に過剰防衛でこっちが捕まりそうだからな」

 訊ねてくる少年にそう返しながら、リヴァイの中では確信に近いものを感じていた。
 この少年は『あの子』だ――もう、十年以上も会っていない、リヴァイに光をくれた小さな子供なのだと。

「オイ、それより、お前いくつだ? 名前は何て言う?」

 だが、少年はリヴァイの問いには答えず、するりと猫のようなしなやかな動きでその場から離れた。

「じゃあな、おっさん! 今度は絡まれねぇようにしろよ!」
「オイ、待て――」

 街の中にあっという間に姿を消した少年にリヴァイは深く息を吐いた。
 これがリヴァイがずっと忘れなかった存在――エレン・イェーガーとの再会だった。




慈雨




 リヴァイはいわゆる富裕層と呼ばれる、裕福な家庭に生まれた。父親は超一流と呼ばれる有名な企業のエリート社員で、出世街道をまっしぐらに突き進んでいる男だった。母親は父親の会社程ではないが、わりに知られた中堅どころの会社の社長の娘で、その母の父が取引先の会社の社員であるリヴァイの父親を気に入り、是非娘をと紹介したのが二人が結ばれるきっかけだったと聞いている。二人の結婚に政略的なものや打算がなかったとは言えないが、それでも、母親は父親のことを気に入ったのだし、父親も母親なら伴侶にしてもいいと思ったのは事実だろう。
 だが、二人の結婚生活が破綻するのは早かった。母親は子供であるリヴァイから見ても美しい女性ではあったが、今時珍しい典型的なお嬢様で、母方の祖父母には他にも子はいたが娘は彼女一人だったことから甘やかされて育っていた。家事は一切したことがなく、総ては家政婦任せで、箸より重いものなど持ったことがない、そういった女性だった。
 対する父親は出世欲の強い仕事人間だった。母親との間に子供を二人設けると――リヴァイには兄が一人いる――もう用は済んだとばかりに家庭を顧みず仕事に励んだ。
 今にして思えば、母親は寂しかったのだろう。夫に振り向いてもらえない鬱憤を晴らすように自分の趣味に没頭し、後は子供の教育に力を注いだ。ピアノ、英会話、書道、珠算、マナー教室、護身術に進学塾……色々なものを習わされたが、一番長く続き、好きだと思ったのはピアノだった。ピアニストになれる程の才能は生憎持ち合わせていなかったが、リヴァイはクラシックと呼ばれる音楽を愛した。

 リヴァイは自分で言うのも何だが、ひどく可愛げのない子供であったと思う。両親の不仲は幼い頃から悟っていたし、お嬢様育ちでヒステリー気質を持った母親を刺激すると面倒なことになると早くから学んだ少年は、表向きは親に逆らわない優等生を演じて見せていた。――単に争うのが面倒だったのだ。リヴァイにとっては家族はそういう名前のついたただの他人と変わりがなかった。
 それが寂しいとか、哀しいとか、考えたことはなかったと思う。何故なら、それが当たり前であったのだから。親に従順な子供を演じて、成人したら自立して離れればいいと漠然と考えていた。

 ――それが崩壊したのはリヴァイが高校生のときだった。自分が同性愛者であることが母親にばれたのだ。リヴァイは自分が同性にしか性愛的な興味を抱けないのだと自覚したのは早かったと記憶している。思えば、幼稚園や小学校の頃からそうだったのだろう。周りが隣のクラスの何ちゃんが可愛い、とか女子の話題をしているときに、自分は全く興味が抱けなかったのだ。適当に話を合わせてはいたが、女性に対して恋愛感情を抱くことはなかった。
 だが、そのときは別に自分が人と違うとは考えてはいなかった。単にまだ恋愛に関して興味が持てないのだろうと思っていた。しかし、中学生になり、思春期と呼ばれる年齢に入ってリヴァイは自分の興味の対象が女性ではなく同性である男性に向いているのだと自覚した。別に女性が嫌いなのではないが――性愛の対象としては見られない。自分が同性愛者だと自覚したときに、リヴァイはそれを隠すことに決めた。世間一般ではセクシャルマイノリティーと呼ばれるものに対しての差別は根強くあったし、それが学校という狭い枠の中で知られればどんな目に遭うのか簡単に予想がついたからだ。
 上手くやれていた、とリヴァイは思っていた。実際にばれるような真似はしていなかった――母親にピアノ教師との情事の現場を目撃されてしまうまでは。
 母親は半狂乱になった。リヴァイを「異常」だと決めつけ、病院でカウンセリングを受けさせ「まとも」にするのだと言い張った。リヴァイは冷静に自分が同性愛者であり、女性は愛せない、この先もそれが変わることがないと告白したが、何を言っても無駄であった。彼女にとっては自分の子供が「まともではない」ということが重要で、「普通」で「優等生」の息子以外の存在は認めることは出来ないものだったのだ。
 そして、リヴァイがリヴァイらしく在ることを頭から否定したのだ。
 だから――リヴァイは親に従順な優等生でいることをやめた。

 単純に家にいたくなかった。家庭を顧みない父親も本来の自分を否定しかしない母親も嫌味しか言わない兄もただ煩わしいだけだった。だから、リヴァイは髪を金色に染め、夜の街に飛び出した。髪を染めたのは単純に黒髪の優等生のままでいれば周りから浮くからだ。絡まれるのは煩わしかったから溶け込むようにとした行為だが、それでも生来の目つきの悪さから喧嘩を売られることは多々あった。
 だが、リヴァイはそれらを全部返り討ちにしていた。家が裕福であったため何かあってはと護身術や武道を少しだけ習わされていたのと、自分でも身体を鍛えていたのが役に立ったのだ。どんなことでも無駄はないのだな、とリヴァイは自嘲するしかなかった。
 喧嘩も慣れれば上達するもので、リヴァイに敵うものはもういないだろう――と囁かれるまでになったとき、それは起きた。

(……これはヤバいかもな……)

 リヴァイは流れ出る血を何とか止血してその場に座り込んだ。――油断した、と言わざるを得ない状況だ。複数人からの突然の襲撃を受けたリヴァイは何とか全員を沈めたが、自身も怪我を負った。今まで喧嘩をして負け知らずなのが却って仇となったのか、リヴァイを快く思わない者は多い。こんなところを見つけられたら袋叩きに遭うかもしれない。
 しばらく休んで体力を回復するのを待って移動するか――いや、待っている間に逆に体調は悪化しないだろうか。まだ動けるうちに移動する方がいいのではないだろうか。考えを巡らせるリヴァイに追い打ちをかけるように、ぽつり、ぽつり、と雨が降り出して来た。

(……まずいな)


 雨に濡れれば体温が奪われる――そうなれば体力は回復するどころか消耗していくだろう。このままここにいても動けなくなるだけだ。とにかく立って移動しなければ――とリヴァイが身を起こそうとしたときに、不意に手が差し伸べられた。

「君、大丈夫かい?」

 見上げると、眼鏡をかけた背の高い男が立っていた。心配そうな顔をしてこちらの様子を窺っている。

「怪我をしているようだね。早く手当てしないと」
「……うるせぇ、放っておけよ」
「そうはいかないよ。私は医者なんだ。医者が患者を見捨てては存在意義がないだろう?」

 だから、手当てをさせてくれないか、と真っ直ぐにこちらを見て言う男にリヴァイは戸惑った表情を浮かべた。

「……あんたは医者なのか」
「そうだ。だから、怪我人を放ってはおけない」


 嘘をついているようには見えないが――こんなに都合よく医者が現れるなんて胡散臭いとリヴァイは思った。だが、このままここにいてはまずい事態になるのは判っているし、一人で安全な場所に移動出来るかはあやしい。例え動けたとしても雨に体力を奪われ、途中で倒れるのは簡単に予想出来た。

「――病院には行きたくない」
「なら、私の家に行こう。ここからそう遠くないし、とにかく君には治療と休息が必要だ」
「…………」

 男を信用した訳ではなかった。ただ、病院になど行けばまたあの母親がどうなるか判らなかったし、自宅には帰りたくはない。手当ても休息も必要であるし――今はこの男の話に乗って、何か企んでいるようなら沈めて逃げればいいだけの話だ。
 そう判断したリヴァイは仕方なく、男の申し出に乗ることにしたのだった。



 男はグリシャ・イェーガーと名乗った。自宅にリヴァイを連れて帰った男は早速リヴァイの怪我の手当てをした。医者というのは本当だったらしく、その処置の仕方は鮮やかだった。
 濡れた衣服を着替えさせてもらい、一息ついたリヴァイは帰ろうとしたのだが、そこに立ちはだかったのは彼の妻のカルラだった。

「そんなフラフラしているのにどこ行くの! 泊まっていきなさい!」
「――イヤ、でも、俺は……」
「いいから! 怪我人は大人しく言うことをきく! 返事は?」
「………はい」

 リヴァイの返事に満足そうに頷いたカルラはリヴァイを客用の布団の中に押し込んだ。もう深夜になっていたし、完全に体力が回復した訳ではないので有り難いといえば有り難いのだが、身元の知れない人間をこんなに簡単に家にあげて泊まらせるなんて大丈夫なのだろうか。一応、名前は名乗っていたが、身元確認をされた訳ではないし、自分が強盗になったりしたらとか全く考えないのであろうか。怪我人を放っておけない性分なのだとしても、通報して任せれば良かったのだし、手当てはしたのだからさっさと追い出せば良かったのだ。――夫婦揃って変わっている、それがイェーガー夫妻の第一印象だった。

 翌朝、リヴァイはカルラに叩き起こされた。何かと思えば朝食を食べていけとのことらしい。リヴァイはいつも朝は紅茶だけだと言えば、一日の活力の源はしっかりした朝食からだと怒られてしまった――本当に調子の狂う家だとリヴァイは思う。
 朝食が出来上がるまでリビングのソファーで待つことにしたリヴァイはとてとてと自分に近付いてくる気配に気付いた。視線を向ければそこにいたのは幼稚園生くらいの男児だった。

「おはようございます!」

 子供はどういうわけかキラキラとした目で自分を見ていたが、やがて驚いたようにパタパタと足音を立ててこちらに近付いてきた。

「おにいちゃん、けが? いたい?」
「別に大したことねぇ。こんなもん掠り傷だ」

 昨夜――日付は変わっていたから本日なのだが――手当てされて巻かれた包帯やガーゼが目についたらしい。見た目は少し痛々しく感じるかもしれないが、傷自体は大したことはないし、こんな怪我は今では日常茶飯事だ。取りたてて気にすることではないのに、子供は自分が怪我をしたかのように痛そうな顔をしてこちらを見つめてくる。そして、子供は何を思ったのか、こちらに手を伸ばしてきた。

「いたいの、いたいの、とんでけー!」
「――――!」

 虚を衝かれた、とはこういうことだろうか。子供騙しのおまじないの存在はリヴァイも知っていたが、まさかそんなものをかけられるとは思ってもみなかったのだ。
 そうして気付く。自分はこんなおまじないをかけてもらったことはただの一度もなかったことに。リヴァイは不注意で怪我をするような子供ではなかったから、手当てをしてもらうような場面自体がなかったのだが、怪我をしたときはいつも自分で手当てしていた。――怪我をして帰って来ても両親は家にいなかったし、家政婦は必要以上に自分に構うことはなかった。そもそも、リヴァイの怪我に気付くような家族ではなかった。
 子供はおまじないを言い終わると、今度は傷に触れないように気を付けながら自分に抱き付いてきた。伝わってくる体温がひどくあたたかくて心地好い。子供の身体は温かくてやわらかくて、リヴァイは自分でもどうしてなのか判らずに動揺していた。

「……何してんだ、ガキ」
「んーと、ぎゅう!」
「は?」
「おまじないしてぎゅうすれば、いたくなくなるよ! おかーさんがいってた」

 そんなものは迷信で何の効果もない、と一笑に付すことは出来なかった――そうするには子供のぬくもりはあたたかくて優しすぎた。今までそんなことを自分に教えてくれる人はいなかった。こんな優しいぬくもりをもたらしてくれる人は自分には一人もいなかったから。

「まだいたい? いたくなくなるまでぎゅうするからだいじょうぶだよ!」

 そう言って、子供はリヴァイの頭を撫ぜてきた。小さな手でリヴァイの髪を慈しむように触れてくる。

「おにいちゃん、キラキラ。きれい」
「――綺麗じゃねぇよ。汚いんだとよ。自分の息子だと思うと気持ち悪いんだそうだ」

 ああ、こんな子供に何を言っているのだろう、とリヴァイは思う。
 汚らわしい、気持ち悪い、何でお前は普通じゃないんだ、あなたは病気なのよ――全部、血の繋がった肉親に言われた言葉だ。それをこの子供に言ったってどうにかなるわけでもないのに。

「なんで? キラキラなのに。あのね、よごれたらあらえばだいじょうぶなんだよ! オレ、ちゃんとてをあらってるから、きれいだよ!」

 ね、と子供は笑ってまたリヴァイに触れてくる。リヴァイが少しも汚れてないことを証明するかのように。

「おにいちゃんはあったかくてキラキラでピカピカ! たいようといっしょだね!」

 そう言う子供をリヴァイはぎゅうっと抱き締めた。

「おにいちゃん?」

 子供が告げる言葉こそが、綺麗でキラキラしたものだ。こんな風に優しくて美しい言葉を自分は知らない。――きっと、そんな風に言ってくれる人を自分は欲しがっていたのだ。

「まだ、いたいの? げんきがでるおうたうたう? おにいちゃん」
「…リヴァイだ」
「りー?」
「リヴァイだ、俺の名前」
「りー、り? りっくん? りっくん、オレはエレン・イェーガーです!」
「りっくんて、そんなガキじゃねぇぞ。俺はこれでも高三だ、エレン」
「こうさん? りっくんじゃなくてこうさん?」
「あー、そうくるのか。取りあえず、りっくんでいいか……」
「りっくん、まだいたい?」
「もう、痛くない。……お前のおかげだ、エレン」

 その後、結局歌ったエレンの頭を撫ぜてやって、リヴァイは食卓に着いた。カルラの料理の腕前は確かで、リヴァイは普段食べないのにも拘らず、おかわりをしてしまったくらいだ。
 そういえば、こんなふうに誰かと一緒に食事をするのはどのくらい振りだろうかと思う。母親は手料理など一切しない人間だったから――何せ、遠足の弁当さえも家政婦に作らせたくらいだ――いつも家政婦が作っていった料理を黙々と食べるしかなかった。家族とは時間が合わないから食事を一緒にすることはなかったし、時間が合ったとしても仲良く歓談しながら食事をするような家庭ではなかった。
 ――食事も終わり、今度こそイェーガー宅から辞去しようとするリヴァイに、カルラは良かったらまた来てね、と笑顔で告げた。

「イヤ、でも、俺は――」
「時間があるときでいいから。エレンもあなたに懐いたみたいだし。いつでもいらっしゃい」

 それにあなたの食べっぷりも見ていて気持ち良かったわ、とカルラは笑った。


 社交辞令だと思った。本気にしたら相手も迷惑に思うだろう――そう思ったリヴァイはもうここに来ることはないと決めていた。
 だが、改めて考えてみると、怪我をして倒れていたところを助けてもらい、更に泊めてもらって食事までご馳走になったのにろくにお礼もせずに帰って来たのだ、自分は。それはいくら何でも無礼ではないだろうか。
 考えた末、リヴァイはお礼を言いにもう一度だけイェーガー家を訪ねてみることにした。

「りっくん! りっくん! りっくんだー!」

 突撃訪問の結果は子供の突撃返しだった。飛びついてはしゃいで張り付いてくる子供の相手を延々とする羽目になったが、それは決して嫌ではなかった。この子供はあたたかくて柔らかくて優しいもので構成されているのだ、と素直に感じられたから。

「リヴァイ君、来るの遅ーい! エレンがずっと待ってたのよ?」

 自分も待ってたけど、と笑うカルラに次も絶対に来ること!と約束させられ、当然のようにリヴァイの分まで用意された食事を一緒に食べることになったのだった。
 ――その後、リヴァイはイェーガー家に入り浸るようになった。子供はどういうわけかリヴァイにひどく懐いて離れたがらなかったし、イェーガー家はひどく居心地が良かった。おそらく、自分はこの一家に理想の家庭を見ていたのだとリヴァイは思う。仕事が忙しくて中々家にはいられないが、ちゃんと父親としての役目を果たしている家族思いの父と、料理上手でしっかりものの母親、天真爛漫で可愛らしい息子。
 思いやりにあふれた幸せな一家は、その中にリヴァイを入れてくれ、居場所を作ってくれた。一緒にいられたのは数カ月だったけれど、それはまるで神様がリヴァイにプレゼントしてくれたみたいにとても大切な宝物のような時間だった。

「リヴァイ君、話がある」

 イェーガー家で過ごすのが当たり前のようになったある日、グリシャが真面目な顔でリヴァイにそう切り出した。真剣な話なのを悟り、リヴァイは頷いて居住まいを正した。

「一度、ご両親ときちんと話し合いをした方がいい」
「――――」

 思わず顔を顰めたリヴァイに諭すようにグリシャは続けた。

「君は高校三年生だ。進路のことを考えなくてはならない。進学するにしても就職するにしてもご両親に相談しなくてはならないだろう」

 グリシャの言うことは尤もだった。リヴァイはまだ未成年だ。この先何をするにもまだ親の許可が必要であるし、就職して親元を離れるにしたって、どこか住居を借りるなら保証人がいる。高校は単位を落とさないように通ってはいたが、担任からも進路をどうするのか散々訊かれてはいた。金髪に染めたとはいえ、成績は学年トップを維持していたから学校側としては進学を望んでいるようだった。――おそらく、親も進学を望んでいるだろう。世間体を気にする彼らは息子が高卒なのには耐えられないだろうから。

「親御さんのところには私も一緒に行こう。いつまでも逃げていては進むことは出来ないままなのだからね」

 グリシャにそう諭されたリヴァイは両親と今後の話し合いをするため、自宅に向かうことにした。――が。
 待っていたのは最悪と呼べる展開だった。グリシャを見るなり、母親は彼をリヴァイの「相手」だとみなし、口汚く罵ったのだ。彼を自分の息子を異常者にした悪人だと決めつけた母親には何を言っても無駄だった。
 リヴァイの父親の方は冷静だったので、話し合いは母親を抜きにして行うことにした。結果として、リヴァイの進学は決まったが、地元ではなく遠く離れた大学に進み一人暮らしをすることになった。
 そして、イェーガー一家との接触は今後絶つことが決められた。母親を刺激しないためである。今後も接触を続ければ、母親は未成年略取でグリシャを訴えると公言していたし、根も葉もない醜聞をグリシャの職場に流しかねなかった。
 イェーガー一家は今までリヴァイが得られなかった優しくてあたたかいものを、無償でたくさん与えてくれた大切な存在だった。彼らの幸せを脅かすようなことは絶対に避けなければならなかった。
 ご迷惑をかけました、と頭を下げるリヴァイにグリシャは穏やかな顔で君のせいではないよ、と告げた。

「いつか、君が自分の望む道に進んだら、会いに来てくれるかい? 君は私達のもう一人の家族だから――」

 カルラもエレンもそう思っているよ、と告げるグリシャに、リヴァイはただ頭を下げるしかなかった。
 ――一番辛かったのは子供との別れだった。リヴァイを実の兄のように慕って懐いていたエレンは唐突にリヴァイとの別れを聞かされ、泣きじゃくって、しがみついて離れなかった。

「りっくん、いっちゃやだ……! やだよぉっ!」

 どうして、この子供は自分をこんなにも慕ってくれるのだろう。子供がキラキラして綺麗だと言ってくれたこの金髪だって偽物なのに。目つきも口も悪いし、決して愛想だっていいわけじゃない。そんな自分にどうして懐いてくれたのだろう。
 以前、そんなことを言ったリヴァイに、子供の母親のカルラは子供には自分のことをきちんと想ってくれる人が判るのよ、と笑った。

(ああ、確かにそうだ)

 真っ直ぐに慕ってくれる子供を、自分も素直に可愛いと思っていた。イェーガー家ではリヴァイは自分を偽ることなく自分のままでいられた。

(俺もお前を想っていた、エレン)

 しがみ付いてくるこの手を離すのが辛いと想うくらい、無邪気に慕ってくる子供を愛おしいと想うくらいには。

「いつか、また会えるから、泣くな、エレン」

 それがいつになるかは判らないけれど。きっとこんな小さな頃にひと時だけ遊んでくれたもののことなど忘れてしまうだろうけれど。その分、自分が覚えていよう。この小さな手もぬくもりも笑顔も泣き顔も楽しそうにはしゃぐ顔も全部忘れずにいよう。

「きっと、また会えるから、エレン」

 そうして、リヴァイはイェーガー一家との縁を絶ち切って旅立っていった。




 大学時代はリヴァイは自由に過ごした。数は少なかったが気の置けない仲の友人も出来たし、自分が進む道――教職である――も見つけた。そうして、無事に大学を卒業したリヴァイに叩きつけられたのは実家からの絶縁状だった。生前分与として財産を分け与えるのと引き換えに何があっても実家の敷居はまたがない、今後一切関わりを持たないことを約束させられた。家の財産などどうでも良かったが、相手を納得させるのにはいいだろう、とリヴァイはその条件を飲んだ。
 聞いた話だが、兄に良い縁談がまとまったらしい。だから、同性愛者の二男のことが先方にばれて破談になるのを恐れたのだろう。――結局、リヴァイの家族は最後までリヴァイを受け入れることはなかったのだ。

 リヴァイはかつて自分が過ごしていた場所近くにマンションの一室を購入したが――実家は長男の結婚を機に家を売り払って引っ越していたから問題はなかった――イェーガー家には行けなかった。もう自分のことなど忘れているかもしれないし、カルラが亡くなったと聞き及んで、知らなかったとはいえ彼女の葬式にも出なかった自分が今更行くのを躊躇ったのだ。いつかカルラの墓前には手を合わせたいとは考えていたが――タイミングをすっかり見失ってしまった。

 それを後悔したのは、始業式でエレンを見つけたときだ。名簿で調べなくてもリヴァイにはエレンがすぐに判った。優等生の仮面を張り付けて自分を偽り、その反面、繁華街に繰り出している少年に胸が痛んだ。居場所を求めて彷徨うその姿は痛々しくリヴァイの眼に映った。
 何かとエレンに用事を言いつけ、会話を交わしていくうちにエレンの根底にある性格は変わっていないのだと感じた。温かくて柔らかくて優しいものを持ったままあの子供は大きくなった。

(まあ、昔の方がもっとアホっぽかったが)

 そして、かなりまずいことに、エレンはリヴァイの好みのタイプに成長してしまっていた。エレンに再会するまで気付かなかったが、自分が黒髪が好きなのは無意識にイェーガー家で過ごしていた日々を求めていたのかもしれない。最初の脅しにキスしてしまったときも、エレンがあそこで降参しなかったらまずいことになっていたかもしれない、と思う。強制的に自分の許にいさせるようにしたのは、エレンのことが心配だったからだが、深く知れば知る程彼に惹かれていくのを感じていた。
 リヴァイに気を許したのか、丁寧な言葉遣いで応対しながらも素を見せて文句を言ったり、こちらの心配をしたり、照れたように礼を言ったりする少年は見ていて可愛らしかった。ちょっかいをかけると大げさに反応するのも面白くて、少年といるのはとても楽しかった。まるで、イェーガー家にいたときのように心が安らぐのを感じながらも、リヴァイは決して一線は越えるまいと決めていた。


 そんな風に過ごしていたある日、グリシャの方から連絡が入った。エレンを繁華街で確保して自分が預かることになってから、連絡は入れていたが、それは電話でだ。直接会って話すのは十年以上振りで、リヴァイはらしくもなく、少々、緊張していた。大学を卒業し、近くに戻っていながら、何の挨拶もしなかった自分の不義理は責められても仕方のないことだろう。きちんと、詫びを入れるつもりで再会したグリシャはまるで、あの頃のように変わりなく穏やかに接してくれた。
 家族の話をしたときにだけグリシャは痛ましそうな顔をしたが、そうか、と短く言っただけで下手な慰めを口にしなかったのが有り難かった。

「前にも言ったが、私は君のことをもう一人の息子――家族のように想っているよ」

 別れ際、グリシャはそんなことをリヴァイに語った。

「だから、エレンが君とどういう関係になったとしても受け入れるつもりでいる」

 その言葉に眼を瞠ったリヴァイに、グリシャはいつもの穏やかな顔で、エレンは君のことを本当に楽しそうに話すんだよ、と続けた。

「きっと、あの子は心の底では君を忘れていないんだろうね。――あの子をよろしく頼むよ、リヴァイ君」

 そう言うグリシャにリヴァイはただ頭を下げるしかなかった。




 その後、一悶着あって、リヴァイとエレンは恋人同士と呼ばれる関係になった。愛しいと想う相手に好きだと告げられて、その手を離したくないと想ってしまった。自分を抑えることがどうしても出来なかった。
 その事実をグリシャにはまだ告げてはいないが――彼はもしかしたらもう気付いているのかもしれない。

「…………」

 ふう、と息を吐いて、リヴァイは眼の前のピアノに手を伸ばした。職場である高校の音楽室にあるピアノは調律がきちんとされているようで、鍵盤を叩くと澄んだ音色を奏でた。
 リヴァイはたまにここのピアノを弾かせてもらっている。音楽室が使われていないときにほんの短時間だけだが。

「失礼します」

 その声とともに現れた人物はリヴァイを目にして驚いた顔をしていた。

「あれ? 先生? 何でここに?」
「それは俺の台詞だ」

 どうも少年は音楽教師に用があったらしい。彼自身の用事ではなく、頼まれたらしいのだが、生憎ここには音楽教師はいなかった。

「職員室にいるんじゃないのか?」
「ああ、じゃあ、そっちに行かなきゃか……」

 少年はそう言って、音楽室を見回して、懐かしいな、と呟いた。

「懐かしい?」
「ああ、オレ、一年のときの芸術選択は音楽だったんです」
「俺が赴任してくる前か。確か、科目は音楽と美術と書道だったか?」
「そうです。美術以外なら何でも良かったんで、音楽に決めたんですけど……」

 ぽろっと出た言葉にリヴァイは首を傾げ、ああ、とそれから納得したように呟いた。

「そうか。お前、画伯か」
「画伯って何ですか、画伯って! ただ、ちょっと、苦手なだけです!」
「今だから言うが、お前が描いた絵は犬も猫も牛も馬も全部同じだったぞ?」
「幼稚園児なんてそんなもんです! オレが特別に下手だったわけじゃないです!」

 唇を尖らせる少年にリヴァイはくつくつと笑ってから手招きし、自分のところへと来させた。
 何ですか、とまだ拗ねたように言う少年にリヴァイは弾いてみるか、と訊ねた。

「え? オレ、ピアノなんて猫踏んじゃったしか弾けませんよ?」
「ああ、それでいい。連弾するか」
「連弾なんて出来ませんよ! オレ、自分で言うのも何ですが、下手ですからね!」
「不可能を可能にするのが、人間なんだぞ」
「イヤ、何ドヤ顔で言ってるんですか! 無理ですってば!」

 エレンの言葉を意に介せずに勝手に決めてしまったリヴァイに戸惑ったが、男が楽しそうだったので、少年は諦めて促されるまま鍵盤に指を走らせた。
 エレンの演奏はお世辞にも上手いとは言えなかったが、リヴァイの指は滑らかに動いて鍵盤の上を走り、その澄んだ音色にエレンは驚いた。無理だと思っていた連弾は未熟なエレンの腕をリヴァイがカバーして聴けるものになっていた。
 演奏が終わり、エレンは思わず拍手していた。明らかに自分のレベルとは違ったからだ。

「先生ってピアノが弾けたんですね。知りませんでした」
「昔にちょっとやっていただけだがな」
「ああ、でも、それで納得しました。先生の家って置いてあるCD全部クラシックばかりだったから」

 そう言って嬉しそうに笑う少年に何がそんなに嬉しいのかと問えば、これで先生のことを一つ知れました、と真っ直ぐな言葉が返ってきた。

「あ、じゃあ、オレ、行きますね。それと――」

 音楽室の扉に手をかけたところで、エレンは振り返り、少し困ったような顔で物理教師に告げた。


「今日、手伝いに行くのちょっと遅れます」

 そう言って音楽室を出ていくエレンを男はただ見送った。



 そして、エレンがその日、何故遅れると言ったのかはすぐに知れた。
 その理由をリヴァイが偶然、目撃したからだ。
 たまたま、通りがかった通路から見えた校舎の片隅に立つエレンと女子生徒。声までは耳に届かなかったが、状況からいって少年が告白されているのは明らかだった。可愛いと評判の少女は確かエレンの隣のクラスの生徒だったろうか――期待と不安にかその頬は朱に染まっている。リヴァイはそれに視線を一瞬だけ投げて、何事もなかったように、その場を後にした。


「あの、先生……」

 その後、物理準備室にやって来たエレンは明らかに挙動不審だった。何かを言おうか言うまいか躊躇っているのがまる判りで、こちらにちらちらと視線を送って来る。おそらくは百パーセントの確率で先程見た光景が関わっているのだろうが、リヴァイは何も言わなかった。
 やがて、決意したかのように、少年は先生、とリヴァイに声をかけた。

「後から耳に入れて変に誤解されても嫌なんで……言っておきます。今日、オレ、隣のクラスの女子に告白されました」
「そうか」
「でも、ちゃんと断りましたから! 好きな人がいるって言って!」
「そうか」
「……それだけなんですけど……」

 沈黙と気まずい空気が流れ、エレンは居心地が悪そうにあの、怒ってますか、と訊ねた。隠し事はしたくなかったから話したんですけど、と続ける少年にリヴァイは首を横に振った。

「イヤ、怒る理由などないだろう。それより良かったのか?」
「え?」
「折角、可愛い女子高生と付き合えるいい機会だったのに。勿体ないことをしたな」

 リヴァイの言葉にエレンは固まって、それからふるふると震え出した。

「何、言ってるんですか……? それ、本気で言ってるんですか?」
「勿論、本心だが?」

 リヴァイの声はひどく冷静で、それが冗談やからかいではないことは少年にも伝わったはずだ。からかっただけだと、いつものように笑って頭を撫ぜてやればきっと少年は唇を尖らせて文句を言って終わらせるだろう。おそらく、それを望んでいるのも判っていたが、リヴァイはそうは返さなかった。

「何で、そんなこと言うんですか!? だって、だって、先生は――」

 言葉を詰まらせる少年にリヴァイは淡々とした声で告げた。

「お前は女とも付き合える。だったら、わざわざ道を踏み外さなくてもいいだろう、とそう思っただけだ」

 それに、俺とじゃお前一生童貞だからな、とわざと下世話なことを言えば、途端、バシッとリヴァイの頬に衝撃が走った。熱い痺れが広がるが、平手打ちだったので拳で殴られるのよりはマシだろう。
 視線を向ければ、叩かれた自分ではなく、叩いた方の少年が大粒の涙をぼろぼろと零していた。

「――先生のバカっ……!」

 そのまま泣きながら駆け出して物理準備室を出ていく少年をリヴァイは追いかけなかった。

「……確かに俺はバカだな」

 頬に広がる熱と痺れは大きくなっている。冷やさなければ腫れるかもしれない。だが、リヴァイにはそんなことはどうでも良かった。
 自分はバカなのだ。
 大切な大切な宝物が幸せになれるのなら。その可能性を自分が阻害しているというのなら。
 ――いっそ、自ら手放してしまおうと考えるくらいには。

 ポツリ、ポツリ、外には雨が降り始める音がしていた。
 雨の日に始まった縁なら雨の日に終わらせてしまうのが相応しいな、とぼんやりとリヴァイは思った。





2014.4.29up





 長くなったので、一旦ここで区切ります。前作よりシリアス成分五割増しくらいになっていますが……先生の背景が重いのでこうなってしまいました。そして、結城の書くオリキャラの女性はまともな人がいないのは何故なのでしょう……(汗)。



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