「りっくん、りっくん、じーおしえて!」

 そう言って子供が自分に差し出してきたのは幼児向けの字の練習帳だった。勿論、総て平仮名で書かれており、大きなイラスト――例えば動物や果物など――に手本の字がついていて、それの通りに平仮名を書くというスタイルだ。ものの名前や数の数え方など、このくらいの年の子供には基本的なものを覚えるのも難しいらしい。一日に二、三ページ程飽きないペースで覚えさせてやるのがいいそうだ。
 更にこの練習を終わらせたら遊んでやるといえば、素直に子供は練習に励んだ。他にも絵本の読み聞かせや、他愛もない遊びに付き合う自分はまるで保育士のようだが、リヴァイはそれが嫌ではなかった。子供は予想外に呑み込みが早く、教えたことはきちんと覚えたので、リヴァイは内心で驚いていた。バカと天才は紙一重だという言葉が頭を過ぎるが、素直な子供の分、吸収も早いのかもしれない。よく出来たな、と誉めれば子供は素直に喜んで、リヴァイはそれをいつも微笑ましく思っていた。

「りっくん、りっくん、これであそぼう!」

 練習を終えて、子供が取り出してきたのは玩具のピアノだった。子供の玩具とはいえ、ピアノの登場にリヴァイの胸はざわめいた。ピアノ教師との一件が母親にばれてしまってからリヴァイはピアノをやめさせられてしまった。自宅に置いてあったピアノも処分されてしまったので、今までのようにピアノに触れることは出来なくなってしまっている。
 リヴァイは自分にプロになる程の才能がないのは判っていたが、ピアノは好きだったし、やめたくはなかった。自分が蒔いた種だから仕方ないとは思っているが、苦いものがこみ上げてくる。

「りっくん?」

 子供が不思議そうな顔をしたので、リヴァイは何でもないと笑って、軽く鍵盤を叩いた。子供の玩具にしては綺麗な音が出たので――本物のピアノには到底敵わないが――リヴァイは子供のために一曲弾いてやることにした。

(子供用だし、初心者向けの簡単なのでいいか)

 幼児が弾くならチューリップくらいのものが妥当かもしれないが――簡単すぎるのも詰まらないと思い、リヴァイが弾いてみせたのは猫踏んじゃっただった。
 器用に鍵盤を叩くリヴァイを見て子供が歓声を上げた。りっくんはすごいね、と笑う子供の素直な賞賛に、リヴァイは照れたのを誤魔化すようにその頭を撫ぜてやった。

「りっくんはなんでもできるし、せんせいみたいだね!」

 子供はそう笑って、将来は先生になればいいとリヴァイに勧めてきた。

「人に何か教えるのなんて面倒そうだしご免だな」
「りっくんがせんせいになったら、オレ、そのがっこうにいくー!」
「オイ、お前、俺の将来は教師になるって確定していないか?」
「りっくんになんでもおしえてもらうんだ! りっくんせんせいだね!」
「……だから、お前は人の話を聞くことを覚えろ」

 リヴァイはやれやれと諦めたように息を吐いた。

「……俺が先生になるとしたら、文系じゃなくて理系だな。どうせなるなら偏差値の高いところに行くぞ?」

 子供はリヴァイの言葉に首を傾げている。どうやら子供には言葉の意味が難しくて判らなかったようだ。

「ようするに頭が良くなきゃ行けない学校の先生になるって話だ」
「じゃあ、いっぱいべんきょうする! そうしたら、りっくんのがっこうにいける?」

 期待に顔を輝かせる子供に苦笑して、リヴァイはそうだな、いっぱい勉強したらな、と言ってその頭を撫ぜてやった。

「うん、がんばる! いっぱいべんきょうする!」

 遠い未来のことを楽しそうに語る子供に、その頃にはきっと自分はもう一緒にはいないのだろうな、と思いながらも、だからこそ今の時間を抱き締めるように、リヴァイは子供と一緒に笑った。



 ふっと目を覚ましたリヴァイは、今しがた自分が見ていた夢を反芻して、そんなこともあったな、とぼんやりと思った。

(そういや、猫踏んじゃったは俺が教えたんだった)

 他の曲を教える前に子供とは別れてしまったから、結局教えたのはその一曲だったけれど。

(俺に教職を勧めたのもエレンだったな)

 勿論、子供に勧められたから教職の道に進んだ訳ではない。物理学に興味を抱き、その道が面白いと思い、それを人に教えるのも良いのではないかと思ったからこそ教職を選んだのだが、心の片隅に子供の言葉があったのかもしれない、と男は思った。
 彼の存在はリヴァイの心の中で大きく深くとても大切なところに位置している。――それも、もう、今更なのだけれど。
 リヴァイは身を起こすと、職場である学校に行くために身支度を整え始めた。



「リヴァイ先生」

 学校の廊下で呼び止められたリヴァイが振り向くと、自分が教えているクラスの少年が立っていた。

「先生に質問があるんです。お時間を頂けますか?」
「――簡単なことならここで聞くが?」
「少し時間がかかると思いますので、出来れば物理準備室で」

 真っ直ぐにこちらを見つめてくる少年の瞳には射抜くような光がある。少年が何を言いたいのか、リヴァイにはすでに予想がついていた。この少年にとっても、彼はとても大事な存在なのだろうから。

「……判った、では、準備室に行こう。アルレルト」

 大切な少年の幼馴染みであるアルミン・アルレルトを連れてリヴァイは自分の私室と化している物理準備室へと向かった。


「単刀直入に申し上げます。エレンときちんと話をしてください」

 物理準備室に入るなり告げられた言葉にリヴァイは苦笑を浮かべた。前置きもなしにこうもハッキリと用件を切り出されるとは思っていなかったのだ。アルミン・アルレルトは穏やかな気性で、争い事を嫌うタイプだとリヴァイは思っていた。余り目立たないが、成績も良いし協調性も高く、自然と周りに溶け込むのが上手い少年だ。
 それがこうも毅然とした強い態度に出るとは――それだけ、彼の少年が彼にとって大事なのだろうけれど。

「先生は自然消滅を狙っているのかもしれませんが、今の状態のエレンを放ってはいられません」

 ――あれから、リヴァイはエレンと一切話はせず、接触を悉く避けている。今までのように用事を言いつけることはせず、二人きりになるのを避け、恒例の弁当を受け取るのもやめた。勿論、授業があるので完全に接触を絶つのは不可能であるが、不自然に見えないようにリヴァイは上手く立ち回っていた。それを不審に思うものがいるとすれば、二人が教師と生徒以上の関係だと知るものだけだ。

「お前はどこまで知っている?」
「――詳しいことは何も」

 アルミンが知っているのはただ一つ、二人が付き合っている、ということだけだ。今から少し前の話になるが――いつものお昼の時間、幼馴染みの少年にアルミンにだけは言っておく、と前置きされてから物理教師と交際することになったと告げられたのだ。普通なら吃驚する事実であろうが、驚きは少なかった。彼が物理教師に想いを寄せていたのは知っていたし、相手の男もエレンといるときには雰囲気が和らぐことにアルミンは気付いていた。真っ赤な顔で俯きがちに早口に言う幼馴染みは贔屓目なしに可愛らしかったし、少年がとても幸せそうに見えたので、アルミンは素直に良かったね、と祝福したのだ。同性同士でしかも教師と生徒という二人の関係は周りに知られればまずいことになるのは予想出来たし、この先も困難だらけなのは間違いないが、それでも幼馴染みが選んだ道なら見守ろうと思った。二人が寄り添って生きていけるならそれでいいと。――それがこんな事態になるとは思ってもみなかった。勿論、年齢性別関係なくどんな人間にだって交際相手と別れるなんてことは起こり得るよくある話で、二人が破局を迎えたとしても不思議ではない。ただ、何と言えばいいのか判らないが――二人でいるときの空気がとても自然で、彼らはこの先もずっと一緒にいるのが当たり前のように続くのだろうとアルミンには思えたから。

「一度手を伸ばしておいて、突き放すのは無責任です」

 今のエレンは萎れた花だ。与えられていた水と肥料を総て断たれて枯れてしまいそうな花。いつも通りに振る舞ってはいるが、彼が無理をしているのはアルミンには判っていた。

「――今だけだ」

 ぽつり、と呟くようにリヴァイは告げた。

「今だけだ。そのうちに普通に女のことを好きになって俺のことなど忘れる。大学に進んで多くの人間と接するようになればもっと視野も広がる。俺とのことなど一時の気の迷いだったとあいつも気付くだろう」
「それ、本気で言ってますか?」
「ああ」
「なら、先生はエレンを甘くみています」
「――――」
「エレンは頑固で意地っ張りで負けず嫌いで――誰よりも一途で真っ直ぐです。先生がこのまま終わらせるつもりでもエレンは黙っていないと思います」

 今は萎れてしまっているとしても、エレンは温室の花ではない。大地にしっかりと根を張り前を向いて咲く野の花だ。このまま枯れていくはずがない。

「言いたいことはそれだけです。失礼しました」

 アルミンはそう言うと男に一礼して物理準備室から出ていった。
 本当に言いたいことだけ告げて去っていった少年に、リヴァイは溜息を吐いて、凭れるように椅子に腰かけた。
 あの幼馴染みの言っていることは正しい。きっとあの少年はこのまま引き下がることはないだろう。いつか話す機会を作らなければならない。だが、ほんの少しだけ時間が欲しかった。
 少年をこの手で抱き締めてそのぬくもりを感じていた記憶はまだ新しい。欲しくて欲しくてたまらなかったものが手に入って、貪るように味わっていた――まるで、砂漠でオアシスを見つけた旅人のように。
 今、少年と対峙したら誘惑に負けてその手を取ってしまうかもしれない――リヴァイが彼を避けているのはそのためだった。

(後、少しだ、エレン)

 そうしたら、自分は笑顔でその手を離してやれる。いい女でも見つけろよ、と冗談を言いながら送り出せる――いや、そんなことを言ったらまた叩かれるかもしれないが。
 このところは雨続きで外からは雨の音が聞こえていた。どうせなら自分のこの想いも全部押し流してくれればいいのにとリヴァイは思った。




慈雨




 自分の指の下で鍵盤は澄んだ音を立てた。リヴァイのお気に入りのこの馴染みのバーのピアノはいつでも澄んだ音色を奏でる。店主に訊ねたところ、定期的に調律師に頼んで調音してもらっているらしい。良い楽器を長く使い続けるには楽器の手入れは欠かせない。リヴァイが音の良さを誉めると逆にリヴァイの耳の良さを誉められた。店主はクラシック音楽をこよなく愛しているが――だからこそこのような店を構えたのだと思うが――耳の方には自信がないのだとリヴァイに語った。下手の横好きだと笑う店主には、音を聞き分ける能力以上に大切なものがたくさん備わっているのだとリヴァイは思う。
 リヴァイの耳がいいのは昔からだった。いわゆる絶対音感というものを持ち合わせているようなのだが、特に音に携わるような職業には就いていないのだから宝の持ち腐れな気がする。
 リヴァイの耳の良さに敬服したからという訳ではないだろうが、このバーのピアノがあいているときに男が弾くことを店主は快く許可をしてくれた。
 一頻り演奏を楽しみ、手を止めると、ぱちぱちと拍手を送るものがいた。視線を向けるといつから来ていたのか、そこには大学時代からの友人の女性が立っていた。本日は彼女と待ち合わせをして呑む予定となっていたのだが、約束の時間の前にリヴァイはここを訪れ、彼女を待つ間ピアノを弾かせてもらっていたのだ。声をかけてくれれば良かったのにとリヴァイが言うと、演奏の邪魔をしては悪いから終わるのを待っていたのだと彼女は返した。

「相変わらず、リヴァイのピアノは繊細だね。弾いているのがリヴァイだとは思えないよ」
「誉めるのかけなすのか、どっちかにしろ。……まあ、誉められる程の腕でないのは自覚しているが」

 リヴァイの腕はアマチュアとしては上手いが、プロとしては通用しない。そういったレベルだ。しかも、昔と違ってピアノに触れる時間は極端に減ったので腕は落ちている。日々の練習は音楽家には欠かせないものだ。練習を怠ればそれはすぐに腕に反映される。

「それだけ弾ければ充分だと思うけど。音楽は聴いている人がいいって思えばそれだけで価値があると思うな」

 そう言いながらハンジが手招きしてカウンターのスツールに腰掛けたので、リヴァイもその横の席に腰を下ろした。注文した酒に口を付けながらぽつりぽつりと話を始める。

「仕事はどうだ?」
「順調にいってるよー。新しいとこでも変人扱いされてるけど、嫌われてはないみたいだし」
「お前がどこに行ったって変人なのは変わらないだろ」

 リヴァイの言葉に相変わらず口が悪いんだから、とハンジは口を尖らせた後、リヴァイはどうなの?と訊ねてきた。

「別に何も変わりはないな」
「――嘘でしょ、リヴァイ」

 ハンジはきっぱりと男の言葉を否定した後、苦笑とも微笑ともつかない笑みを浮かべた。

「この前、会ったときにリヴァイは見つけたんだなぁって思ったんだ」

 この前会ったとき、と言われ、リヴァイは彼女と前回会ったのがいつだったか思い返した。確か、彼女が帰国してすぐに会った後、一、二回程呑みに付き合ったことがある。まだ少年と接触を絶つ前の話だが、特に変わりもなく近況報告と取りとめのない話しかしていない。そのとき交わした会話からそんな風に感じる要素はなかったはずだ。

「見つけたって何をだ?」
「リヴァイが大事だって思えるものを」
「――――」
「リヴァイは昔から――って、言っても、私が知ってるのは大学のときからだから十年くらいだけど、何も欲しがらないでしょ?」
「……人を悟りを啓いた仙人みたいに言うな。普通に欲くらいはあるぞ?」
「ああ、いい茶葉が欲しいとか、新しい家電が欲しいとか、そういうものじゃないよ。リヴァイにだって判ってるんだろ? リヴァイは心から欲しいものは諦めているっていうか……もう手に入らないんだって割り切っちゃってるみたいなとこがあったから」

 だから、この前会ったときは良かったなって思ったんだけど、とハンジは少し寂しそうな顔でリヴァイを見つめた。

「自分では気付いていないかもしれないけど、何か考え事があるときや気分転換したいときにリヴァイはよくピアノを弾くんだよね。まあ、普通にただ演奏したいときもあるんだろうけど――さっきのはそういう感じに見えなかったから」
「お前の考えすぎだ」
「うん。そう言われると思ったよ。――リヴァイ、何かを欲しがることは決して悪いことじゃないし、それが特別なものだったら、尚更手放してはいけないと私は思うよ」
「別に特別に欲しいものなんてないぞ」
「リヴァイ」
「本当にない。――十年以上前ならあったかもしれないがな」

 そう言ってリヴァイはグラスを傾けた。キラキラとした大切な宝物のような時間――それをリヴァイは十年以上昔にもらったのだ。一生分の幸福をあの一家が与えてくれた。だから、それでいいのだ。それ以上を望んではいけなかったのだから。
 ふう、と溜息を吐いてハンジは席を立った。

「――出よう。きっと、今のリヴァイはいくら呑んでも酔えないと思うから」

 そのまま店を出るハンジを無視するわけにもいかず、リヴァイは彼女の後に続いた。




 外は天気予報が当たり、小雨が降っていた。このところ崩れやすい天気が続いており、二人とも傘を持ち合わせていたので濡れることはなかったが。店を出てから少し気まずい雰囲気が流れていたが、ハンジがまあ、言いたくなったらいつでもいいから相談してよ、と明るく笑ったので、嫌な空気にはならずに済んだ。
 このまま自宅に帰るというハンジを見送るため、ともに歩いていたリヴァイは近道に公園を抜けていくことにした。すると、そこでニィニィというか細い声が耳に届いた。思わず立ち止まり視線を走らせると、公園の片隅に段ボールが置かれていた。

「……物凄くテンプレートなシチュエーションだな」
「ああ、そうだね。……子猫かな?」

 躊躇う素振りもなくハンジは段ボールの中に手を突っ込み、その腕にひょいっと抱き上げたのはまだ小さい黒猫だった。ニィと鳴き声を上げながら大きな金色の瞳をこちらに向けてくる。――その瞳が彼の少年を想起させて、リヴァイの胸内が波立った。

「ほら、もう大丈夫だから。大人しくしててね」
「……お前、その猫どうするつもりだ」
「そうだね、取りあえず、飼ってもらえる人がいないか探してみる。それまでは私が預かるよ。うちのとこはペット可だから問題ないし。一度手を差し伸べておいて放り出すような無責任な真似はしないよ」
「――――」

 あの幼馴染みの少年と同じ言葉をハンジから聞いて、リヴァイは僅かに顔を歪めた。ハンジに他意はないのは判っているが、その言葉はリヴァイには痛かった。
 ハンジは本気で猫を連れていくことに決めたのか、子猫を抱いたまま、動物を預かるなら色々と用意が必要だからと急ぎ足で歩き出した。

「リヴァイ、私、リヴァイのことは全然タイプじゃないんだけど、友人だとは思ってるんだよ」

 別れ際、彼女はリヴァイに振り向いてそう語った。

「だから、ちゃんと幸せになってくれたら嬉しい。私の他にもそう思っている人はいるよ。それを忘れないでね」

 その後、前を向いて歩いていく彼女をリヴァイは黙って見送った。



 自宅マンションに帰り着くと、部屋の前に人影があった。ドアの前に座り込んでいるその人物は膝に顔を埋めているため顔の確認は出来ないが、柔らかそうな黒髪とその身体付きは紛れもなくリヴァイが知る人物だった。

「エレン」

 どうしてここに、とは思わなかった。いずれは少年は自分と話す機会を得ようとするだろうし、このままにはしておかないだろうと思っていたから。リヴァイが疑問に思ったのは何故家の中に入らなかったのか、ということだ。少年に合鍵は渡したままだし、こんなところで待っていなくとも中で待っていれば良かったのだ。予定よりは早く切り上げたとはいえ、もう夜も遅いし、いったい、いつから少年はこうしてここで待っていたのだろうか。

「エレン。オイ、起きろ、エレン」

 待ちくたびれたのか、微睡んでいたらしい少年の身体はすっかり冷えきっている。肩を軽く揺すると、少年は顔を上げ、まだ閉じていたそうな瞼を何とか押し上げた。その眼にリヴァイの姿を認めた少年は無意識にか口許に笑みを浮かべた。

「せんせ、おかえりなさい……」

 まだ寝ぼけているのか、少々舌ったらずな声で告げる少年にリヴァイの胸はざわめいた。その声の甘さが、情事のときの声を想起させて、リヴァイは動揺を押し隠した。――エレンはどんなときでも挨拶は欠かさない。優等生としての癖というよりも、幼少時からの躾の影響だろう。きちんと挨拶すること、感謝と謝罪は忘れないこと――それは彼の母親のカルラからの教育だった。
 特に、母親が亡くなってから家に一人でいることの多くなった少年が言うことの少なくなった、ただいまとおかえり、という言葉に特別なものを抱いていることをリヴァイは察していた。
 頭がハッキリとしてきたのか、立ち上がった少年に、リヴァイはどうして中で待っていなかったのか、と訊ねた。

「先生ときちんと話すまでは家に入るのはやめておこうと思ったので」

 だが、リヴァイと話す機会が学校では作れなかったので、結局は家まで来てしまったのだと少年は言う。

「先生ときちんと話したいんです。――逃げてこのまま終わりにするのは嫌ですから」
「――取りあえず、中に入れ。話はそれからだ」


 少年をリビングのソファーに座らせたリヴァイは、自身の心を落ち着かせるように紅茶を淹れてテーブルの上に運んだ。少年はしばし躊躇っていたが、そっとカップに手を伸ばして口に運んだ。

「やっぱり、先生の紅茶が一番美味しいです」
「そうか」
「――先生、オレは先生とこれからもずっと一緒にいたいです」

 カップをソーサーに戻してから、エレンは真っ直ぐにリヴァイを見つめてそう言った。

「オレ、本当はうっすらと気付いていたんです。先生はきっとどこかで――」

 エレンは唇を噛み締め、それから何かを堪えるように手を握り締めた後、言葉を続けた。

「オレを手放す準備をしている。いつだって先生は別れる心構えが出来てる。そんな感じがしてました」

 想いが通じ合って身も心も結ばれ、付き合い始めた当初はそんなことには気付かなかったし、考えたこともなかった。だが、時間が経つにつれ、何となくではあるが、リヴァイは自分とこういう関係になったことに罪悪感めいたものを感じているのではないかと思い始めた。それはとても些細な日常の中の出来事で感じたものだったのだけれど。
 例えば、休み時間に付き合っている女子はいないのか、との同級生の問いにいないと答えた後。もてそうなのに勿体ないなーとか、もうちょっと真面目なのをやめればすぐに彼女が出来るぞ、などと冗談を言われた自分の前にたまたま通りかかった物理教師の顔を見たときに。
 休みの日に出かけた先でつい親子連れを眼で追ってしまったときに、不意に頭を撫ぜられたその手のぬくもりに。
 違うのに、とその度にエレンは言いたかった。そんなものは些細なことでしかなくて、ともにいられることの方が何倍も何十倍も大事で幸せなことなのに、と。

「オレは先生の傍にいたいです」
「――今だけだ、エレン」

 冷静に、諭すようにリヴァイは声を発した。真っ直ぐな少年の言葉に傾くことのないように。

「今は夢中で判らなくても、そのうちに熱は冷める。男と付き合っていたことなど、気の迷いであったことに気付く。――お前は元々同性愛者ではない。女を愛せる人間だ。わざわざ同性の俺を選ぶ必要はない。普通に女と恋愛して結婚して家庭を持つ――その方がいい。それがお前の幸せだ」
「――ふざけないでください」

 押し殺したような声を発し、エレンは男をキッと見つめた。

「オレの幸せを勝手に決めないでください! 結婚して家庭を持つことだけが幸せじゃないでしょう! 好きな人と一緒にいて幸せになれないなんて、どうして決めつけるんですか!」
「そのうちに年を取ればお前にだって判る。同性同士でともにいることの困難が。そのときになって後悔しても遅――」
「そんなの、とっくに覚悟してる!」

 エレンは声を荒らげてリヴァイの言葉を制止した。

「オレが悩まなかったとでも言うのかよ! 死ぬ気で悩んで迷って泣いてそれでも好きだって思ったから傍にいるんだ! オレがそんな軽い気持ちで男に突っ込ませたと思ってんのか!」

 一気に言い放った少年は顔を歪めて、ボロボロと涙を零した。

「後悔なんて絶対にしない。……先生が好きです。一緒にいたいです」
「エレン」
「好きです、好きです、好きです――」

 嗚咽を堪えるようにただ涙を零す少年に、男は、こんな風に泣かせたいわけじゃなかったのに、とその頭を撫ぜた。

「――エレン、俺はお前に『家族』を作ってはやれない」
「そんなこと――」
「家族がいない孤独をお前には味あわせたくはない」

 家族の誰からも拒絶されたときに、リヴァイは自分には最初から家族はいなかったのだと思うことにした。元よりいないも同然の家族であったから、そこには何の情も感慨も湧かなかった。
 けれど、リヴァイは知っている。幸せな家庭がどんなものであるのかを。たった数ヶ月ではあったけれど、家族同然に自分を扱ってくれた一家がどんなにあたたかく優しい存在だったかを。自分に一生分の幸福をくれたあのあたたかい家庭を自分はこの少年に与えてやることは出来ないのだ。
 勿論、家庭があったとしても不幸な人はいるし、生涯独身の人間が全員不幸かといえばそうではないだろう。ただ、自分といることでこの少年の可能性を奪ってしまうというのなら、自分は――。

「なら、オレが先生の――リヴァイさんの『家族』になります」

 言われたことがリヴァイには咄嗟に理解出来なかった。

「リヴァイさんの弟も兄も伴侶も全部オレが頑張ってやります。母さんはもういないけど、父さんはいるので、オレをもらえばオプションで父親もついてきます」
「オプションって、お前な……」
「オレはリヴァイさんがいいんです」
「――――」
「将来のことなんか正直判らないし、不安もあります。でも、オレはリヴァイさんといたいんです。それはそんなにいけないことですか? 後悔なんて絶対にしません。だって、オレはリヴァイさんを好きな気持ちなら誰にも負けない自信がありますから!」

 好きです、大好きです、と続ける少年の姿が小さかったあの子供と重なる。昔から、一途に自分を求める姿は少しも変わっていない――自分に向けられる感情の色は変わったけれど、どうして自分のことをこんなににも求めてくれるのだろう。

(お前はバカだ)

 自分の進みたい道に進み、可愛いらしい女性と結婚してあたたかい家庭を作り、自分の子供の成長を見守り老後はのんびりと暮らす。そんなごく普通の幸せと呼ばれるものを全部捨て去っても自分がいいと言う。世間一般では未だに差別があって、この国では正式な婚姻も認められていない。何度愛し合っても子が出来ることはない。なのに、それでもいいのだとそんな風に言われてしまったら。
 ――どうしても、手を伸ばしたくなってしまう。お前を好きな気持ちなら誰にも負けない、それは自分の台詞なのだから。
 リヴァイはそっとエレンの頬に手を伸ばして流れ落ちる雫を優しく拭った。

「――俺は扱いにくいぞ。愛煙家だし、綺麗好きだから掃除にはうるさいが、それ以外の家事には無頓着だし。苛めるのも甘やかすのも好きだからな」
「知ってます」
「――将来、物凄くオヤジくさくなるかもしれんぞ?」
「リヴァイさんが禿げてもメタボになっても成人病になってもずっといますよ?」
「――オイ、何で禿げてメタボで早死にする前提なんだ」

 思わずデコピンを食らわせると、少年は額を押さえて呻いた。

「それに、前にも言ったが、俺とじゃお前一生童貞だぞ?」

 俺にはネコは出来んからな、とからかうように言えば、少年は別に構わないです、と続けた。

「その、リヴァイさんとするのは嫌じゃないし……き、気持ちいいし……」
「…………」

 恥ずかしそうに真っ赤な顔で言う少年に、リヴァイはその場で頭を抱えたくなった。計算ではなく素で言っているのは判るのだが――いや、だからこそ性質が悪いのだと男は思う。

「――本当に俺でいいのか?」

 これが最後、今ならまだ逃がしてやれる、と言うリヴァイに少年は躊躇わずにはっきりと告げた。

「リヴァイさんがいいです」

 少年の言葉を聞いて、男は力いっぱいに少年を抱き締め、俺が悪かった、と小さく囁いた。
 少年はその言葉に頷いて、男の背に手を回したのだった。

 どのくらいそうしていたのだろうか、不意に男が仲直りをした恋人同士がやることと言ったら何だと思う?と訊ねてきた。

「え? それって……まさか……」
「お前が好きだって言った、気持ちいいことをたくさんしてやろう」

 煽ったのはお前だしな、と続ける男に煽ってないです、と心の中で叫びながら、少年は冷や汗を流したのだった。





「ほら、エレン、もっとちゃんと見せてみろ」
「――――」

 羞恥のために耳まで朱に染めて膝頭をくっつけて首を横に振る少年に、男は足を広げるようにと命を下した。

「でないと、ちゃんと見えないだろう? お前が自分でしているところが」
「――――っ」

 あれから寝室に少年を連れてきた男はベッドの上に導くと、俺と会っていない間、自分でしていたか?と訊ねたのだ。その質問に固まり、それからふるふると震えながら、少年はしていません!と叫ぶように言った。

「していないのか?」
「だって、それどころじゃなかったですし……」
「なら、溜まっているだろう。出した方がいい」
「は?」
「遠慮せずに自分で抜いていいぞ。……じっくり見ていてやるから」

 男の言葉を理解した途端、出来ませんと即答する少年の耳朶をリヴァイは甘く噛んだ。舌で舐め上げ、囁くようにその耳元で告げる。

「俺が見たいんだ。……お前が普段どうやってしているのか知りたい」

 そう囁きながら、服の上から胸の突起をいじってやると少年の身体がびくん、と跳ねた。気にせずぷっくりと固くしこってきたそれを弄び、空いている手で少年の弱い部分を撫ぜ上げていく。

「リ、リヴァイさ……」
「出来るだろう?」
「――――」

 少年が陥落するのは早かった。火をつけられた身体は快楽には従順で、このままでは辛くなるだけだと少年自身にも判っているのだろう。おずおずと下衣に手をかけ、決意したように下着ごと下ろしてベッドの下に投げる。上だけ着ているというのは見ようによっては裸になるより艶めかしく思える格好だが、本人はそこまで気が回らないようだ。ベッドに座ったまま足の間に手を入れて自身に触れたようだが、羞恥にか足を開いて見せることがどうしても出来ないらしい。
 仕方ないな、とリヴァイはエレンの肩を押して上半身をベッドの上に倒すと、強引にその足を左右に割った。

「――――っ!?」

 思わずといった風にじたばたと暴れる両足を掴んで押さえ、リヴァイはふうっと、そこに息を吹きかけた。んっ、と甘い声がエレンの口から上がる。

「何だ、もう勃ってるんじゃねぇか。ほら、このままだと辛いだけだろう?」

 涙目で訴えるように少年が見つめてくるが、リヴァイは動かない。やがて、観念したかのように少年は自分のそれに手を伸ばし、そっと手を上下に動かした。
 見られることが恥ずかしいのか、ぎゅうと眼をつぶりながら少年は自身を擦りあげていく。だが、それでも男が自分のどこを見ているのか感じているはずだ。

「なあ、エレン、いつも何を考えながらしている?」
「――何も考えてませ……っ」
「嘘だな。――誰に触られることを想像しながらしている?」

 更に真っ赤になって首を振るだけの少年が普段何を考えながら――誰との行為を思い返しながらしているのかは言わずとも明白だった。リヴァイはそんな少年の様子を楽しみながら、手を伸ばして容器を取った。蓋を開けて中からとろりとした液――ローションを取り出すと、少年の秘部にそれをたらした。突然のその感触に驚いたのか、少年は閉じていた眼を開けてこちらを見たので、男は口の端を上げて見せた。捕食者の笑みに少年が固まる。

「イケないようだから、手伝ってやる」

 そう言って、男はつぷりと少年の体内に指を挿し入れた。ローションのぬめりを借りた指先は易々と少年の中に侵入を果たし、肉壁を押し広げていく。

「あ、リヴァイさ……そこ、ダメです……っ」

 体内にあるしこりを刺激してやれば、びくびくと少年の足が跳ねる。後ろをいじられることで快楽を得ることが出来るのだと知ってしまった身体は、ひどく快楽に従順だ。そう教え込んだのは自分ではあるが、前だけの刺激では物足りないとばかりに無意識に腰を動かしてくる少年は普段の少年からは想像出来ないくらいに淫らだ。

「ほら、前が止まってるぞ?」

 少年の自身にもローションをたらし、少年自身の手を使って擦りあげてやると、ぬるぬるとした感触が気持ちいいのか少年の声が甘さを増す。そうやって何度か扱いてやった後リヴァイは手を離したが、それに気付かず少年は夢中で手を動かしていた。
 少年の手の動きに合わせて指を増やし、少年の良いところを集中的について押しつぶすようにしてやると、少年の口から一際高い声が上がり、ぱたぱたとその腹に白濁液が散った。
 していなかった、というのは本当のようで、いつもよりも濃く感じるそれを吐き出した少年はとろりとした眼で呆けた顔をしている。イッた後の少年は無防備で可愛らしいのだが、それを堪能している余裕はなかった。――ずっと触れていなかったのは自分も同じなのだ。あんなに何度も好きだと言われて煽られた後、こんな痴態を見せられては我慢出来る訳がなかった。
 少年の身体をひっくり返し、腰を高く上げさせると、双丘を押し開くように両手で掴む。顕にされた蕾にすでに怒張していた自分のものを合わせると、リヴァイは一気に中へと押し入れた。

「ひあああああああっ!」

 性急な挿入に少年の口から高い声が上がり、まだ出し切れていなかったものが少年の先端から零れた。力の入らない手でシーツを握り締め、何とか呼吸を整えようとする少年の背中を宥めるように撫ぜてやってから、リヴァイは腰を動かし始めた。ゆるゆるとその感触を確かめるように動かしてから、腰を引きまた押し込める。

「あ、あ…リヴァイさ……まだ、動いちゃ……」
「――悪いが、余裕がない」

 言うなり、奥深くを突いてきた男に少年は身体を跳ねさせた。身体の奥の奥まで暴くように深く侵入されて、熱くて固い男のもので弱い場所を遠慮なしに擦られて、いやいやするようにエレンは首を振った。

「あ、や、激し……! リヴァイさ…もっとゆっくり…おねが……っ!」
「エレン……」

 熱く掠れた声で名前を呼ばれてエレンの背筋にぞくりとしたものが走った。欲情を抑え切れない男の声――男が自分を欲しいと思っているのが言葉にしなくても伝わってくる。勿論、体内にある熱い男自身がもうすでに何よりも物語っているのだけれど。反射的に男をきゅうっと締め付けてしまい、お返しとばかりに男に前を擦られた。

「あ、ああ、リヴァイさ……っ」

 先程達していたそこは後ろからの刺激で再び勃ち上がっていた。自分でいじるよりも男に触られることの方が遥かに気持ちいいと知っている身体はそれを押しつけてしまう。
 男はそんなエレンの様子を見てくっと咽喉を鳴らした。

「本当に、エロい、身体になりやがって……」

 まあ、そうしたのは俺だがな、と続けて男は腰の動きを激しくした。

「あ、あ、リヴァイさ……キス、キス、した……」

 エレンは実は後ろからの体勢は余り好きではない。楽なのは判っていたが、男の顔が見えないし、キスをすることが出来ないからだ。男は頷いて繋がったまま少年の身体を反転させると、貪るような口付けを与えた。

「んぅっ……ふうんっ」

 少年は口にはしないがキスが好きなのだとリヴァイは思う。快楽に溶かされて訳が判らなくなったときに必ずキスを強請る。まだまだ技巧はなっていないが、必死にこちらの動きについていこうとする様子が可愛らしいのでこのままでもいいかと男は思っている。

「お前、キス、好きだな」
「んっ……ちがっ……」
「何が違うんだ?」
「キス、じゃな……好きなのは、リヴァイさ……したいの、リヴァイさんだけ……」
「…………」

 ああ、この少年をどうしてくれようか、と男は思う。一度飛んだ状態になってしまうと、少年はひどく可愛らしくなる。勿論、普段が可愛くないと思っている訳ではないが、理性が飛ぶと途端に素直に思ったことを口にするのだ。
 好き好きと繰り返す少年にキスを落としながら、欲望を放つためにリヴァイは動きを更に速め、熱い液体を少年の中に注ぎ込んだ――。




 本日が休日で良かったな、と眼を覚ましてリヴァイは思った。あれから何度も少年を貪るように抱いてしまい、少年が泣いて許しを乞うても離してやれなかった。その後、少年は行為に疲れ果て気を失うように眠ってしまったが、眼を覚ましても動ける状態ではないのは明らかだ。授業があっても受けられはしなかっただろう。

(……セックスを覚え立てのガキじゃあるまいし。何やってんだ)

 自分に呆れながら、まだ眠っている少年の頭を撫ぜてやる。少年が眠っているうちに後処理は済ませていたが、この分だと自力で風呂に行くのは無理だろう。二人で風呂に入るのをエレンは嫌がるが――入ったら男に何をされるかもうすでに経験して知っているからだ――リヴァイの方は好きだった。普段、強気で憎まれ口を平気で叩くくせに、こういったことに関しては慣れずにいつまで経っても初心な反応をする少年が可愛くてつい構ってしまう。

「ん……っ」

 ピクリ、と少年の瞼が動いた。ゆっくりと開いた大きな金色がリヴァイの姿を認めて嬉しそうに細まる。

「おはよう、ございます……」

 ――ああ、好きだな、とリヴァイは想う。この少年がとてつもなく愛おしいと想う。手放さなければならないものを手放したくないと想ってしまうくらいに。
 寝起きなのと行為のせいで掠れた声で朝の挨拶をした少年に水を飲ませてやると、人心地ついたのか、ふうと少年は息を吐いた。

「先生、咽喉痛いです。後、腰も……身体が重いし、だるいです」
「――悪かった。無理させすぎたな」
「――別に、いいです」

 ぼそり、と呟くように少年は続けた。

「オレも、したかったですし……」
「――――」

 ああ、だから、どうしてこの少年はこうなのだ、とリヴァイは言ってやりたかった。少年はよく自分をずるいと口にするが、こちらだってそう言ってやりたい。

「あの、でも、あんまり激しいのは……その、もうちょっと、ゆっくりなのがいいです……」

 恥ずかしいのか真っ赤な顔で続ける少年の頭をリヴァイはぐしゃぐしゃに掻き回した。わわっと、エレンの口から声が上がる。

「そうか。お前はじっくりされるのが好きなのか。次はじっくり、ねっとり、たっぷり時間をかけてやることにするな」
「何ですか、そのじっくり、ねっとり、たっぷりって! そんなこと言ってませんからね!」
「判った、判った」
「判ってないですよね? 全然、判ってないですよね? 普通がいいって話です!」

 咽喉の痛みも忘れて話す少年は自分が行為自体を否定していないことに気付いているのだろうか。リヴァイはくつくつと笑って、少年のために少し遅めの朝食の準備をしてやることにした。


 リビングに移動しようとする少年に手を貸してやりながら歩いていると、少年があ、という声を上げた。そのまま窓際に移動しようとする少年に、リヴァイも方向転換してそこまで彼を連れていく。

「どうしたんだ?」
「先生、ほら、見て! 虹です!」

 少年の指し示す方に視線を向けると、いつの間にか雨が止んでいたらしい空に美しく大きな虹の橋がかかっていた。

「昔、母さんに聞いたんですけど――雨って恵みの雨って言うでしょう? 大地を潤して作物を育て、豊かな実りを与える。まあ、水害とか被害もありますけど。だから、恵みを与えてもらった大地が空に感謝して、あんなに綺麗な虹の橋をかけるんだって」

 まあ、迷信というか、科学的には何の意味のないものですけど、と少年は少し照れたような笑みを浮かべた。

「だから、オレ、わりと雨って好きなんですよ。雨の日を嫌う人多いですけど、雨上がりにこんな綺麗なものを見せてくれますから――」
「――そうだな。俺も雨はわりと好きだな」

 降り注いで大地に染み込み、豊かな恵みを与える雨。乾いた大地に潤いをもたらしてくれた、慈しみの雨――この少年こそが自分にとっての慈雨だ。

「あ、そういえば、昔、虹の橋のふもとには宝物があるんだって聞いたこともありました。子供の頃、本気で探したことがあった気がします」
「そうか。何なら一緒に探してみるか?」

 リヴァイの申し出に少年はきょとんとして、それからくすくすと笑った。

「そうですね、先生なら見つけそうです」
「不可能を可能にする男だからな、俺は。見つけたら九対一で取り分は俺だな」
「うわー、がめついですよ、先生」

 少年を座らせて、男は朝食の支度に取りかかる。不味くても文句は言うなよ、と男が告げれば、少年は胃は丈夫なんで大丈夫です、と返す。――デコピンが少年の額に投下されたのは言うまでもない。
 ――きっと、この先も自分は迷うだろう、とリヴァイは思う。また少年の手を離すべきではないかと葛藤する場面が訪れるだろう。そのときにはもう素直に手を離してはやれないかもしれないし、みっともなく縋りつくのかもしれない。この先どうなるのか自分にだって判らないのだ。
 だが、それでも――少年が自分を必要だと言ってくれる間は傍にいよう。葛藤を続けながらもこの手を離さずに抱き締めていよう。二人でいられるように努力を続けよう。――願わくば、それがずっとずっと何十年も続くように、と想いながら、男は少年の頭を撫ぜた。





「りっくん、りっくん、にじのさきにはたからものがあるんだって!」
「はあ?」

 突然の言葉にリヴァイは戸惑った。どこからそんな迷信を聞いてきたのだろうか、と思ったが、子供の夢を壊すのは大人気ないのでリヴァイは言わずにおいた。まだサンタクロースの存在とかもこの子供は信じていそうな気がする。
 虹が出たら探しに行くんだと言う子供に、そもそもそんなに虹を見る機会があるとは思えないとも言えなかった。晴れた日に水撒きなどをすれば人工的に虹は作れるだろうが、子供の言う虹は空にかかる大きな橋状のものだろう。
 あんなに綺麗な虹の先にあるのだからすごく素敵な宝物があるに違いない、と思い込んでいる子供に、そうだな、とリヴァイは相槌を返した。

「宝物を見つけたらどうするんだ?」
「りっくんにあげる!」

 何の気はなしに投げた質問にそう返されて、リヴァイは固まった。

「りっくんにぜんぶあげる! だから、ぜったいにみつけるね!」

 そう言った後、あ、おとーさんとおかーさんにもちょっとあげてね、と子供は笑う。宝物は自分はいいから自分の大好きな人にあげたいのだと屈託なく笑う子供に、熱い何かが胸にこみ上げてきて、リヴァイは言葉に詰まった。

「そうだな、絶対に見つかるさ、お前なら」
「うん!」

 そう笑う子供こそが自分にとっては宝物だとは口には出来ずに、リヴァイはその頭を撫ぜてやった。



 ――忘れてしまって構わない。自分が全部覚えているから。
 そう想った気持ちは今でも変わらない。
 どんな未来が待ち受けていても、この先何が起ころうとも。
 この想いを抱き締めて生きていくのだと男は想った。






≪完≫



2014.5.6up




 しくらん様からのリク。『ナイトウォーカー』設定、リヴァイ視点からの話ということで書かせて頂きました。前作では出てこなかった先生の想いや葛藤を書いてみたのですが……もうちょっと悩ませても良かったような。いや、余り書くと長くなりすぎてグダグダになりそうだったので。後、ちょい、エロが唐突気味ですが、ここでやらないと先生じゃないので!(爆)そして、先生はベッドの上ではSっ気を発揮する人です、はい。うちのサイトのエロ担当なので、もうこれは仕方ないとエレンに諦めてもらうしかない気が(笑)。こんな話ですが、少しでも楽しんでもらえるものになっているといいのですが。
 リクエストをくださったしくらん様、ありがとうございました〜!




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