Harp、Horn
ストリングスの録音が予定より早く終わったので、続くホルン、ハープ、パーカッションの録音は、当初の予定を30分繰り上げた17:00からスタートした。フロア中央にハープの田口裕子さん、指揮台から向かって右側にホルンの南浩之さんと丸山勉さん。パーカッションの高田みどりさんはブースの中でスタンバイしている。樋口さんと田口さんの間で譜面の表記について確認作業が行われる。そのあと練習を兼ねて一度演奏してみる。樋口さんは、「ちょっと頭の部分やってみて。」とホルンに言うと、「最初のとこ、警戒音みたいなのがいいんだけど。空襲警報じゃないけど、なんか危機を知らせるみたいなのがいいんだけど。」と演奏の具体的なイメージを伝えた。 一方、田口さんには手拍子にあわせて歌いながら、三連*のリズムのニュアンスを伝える。高田さんの音をミュート*した状態で、テイク1を録る。演奏後、ペダルのタイミングを懸念する田口さんに、樋口さんは「いつも早いの。早いとは思ってるの。でも、まあ別に。慌ててるだけなんだよ。大丈夫」と声をかける。また、「南ちゃん、グリス*のフォルテピアノを外してフォルテシモで」と、ホルンの南さんに強弱記号の変更を伝える。ここでプレイバックを聴く。このテイクを土台に部分的に録り直していくか、もうワンテイク録るか協議した結果、プレイヤーの希望で、もう1テイク録ることになる。

テイク2の演奏直後、樋口さんは田口さんに「Mの3,4のぺダリングって、僕、書いてないですよね?」と言うと「Cナチュラル、D♭、E♭、F♭、G♭…」と、口頭でペダリングを指示した。ハープにはピアノでいう黒鍵にあたる弦がついておらず、ペダルを踏んで音を変化させるしくみになっているが、その指示が楽譜に書いてなかったのだ。「もう、要所要所やってけばいいですよね?」プレイバックを聴かずに樋口さんがそう言ったところをみると、テイク2は土台の演奏として満足のいくものだったのだろう。樋口さんはハープのグリスのボリュームを指摘すると、まず、その部分から録り直しをすることにした。「ホルンOKでしょ?」という樋口さんの問いかけに、南さんは「頭落としちゃったかなと思ったので、そこ、もう1回やっちゃおうかな」と答える。それならば、と樋口さんは「ハープもやっちゃっていい?そこアタマも怪しげなのがいいんだ。ちょっとミステリアスなのがいいんだ。」と言って、併せてハープの録リ直しも行った。

引き続き、ハープ、ホルンそれぞれのプレイヤーの気になっている個所を録り直していく。録り直した演奏を聴きながら、「J中のホルン、もう1回やってもらっていい?あれ(音が)長いほうがおもしろいんだ。そのあとのKもお願いしたいんですけど。♪ツカタン、ツカタン…」と樋口さんはここでもまた歌いながらニュアンスを説明して録音に臨む。「どお?いい?」時折、樋口さんは寺田さんの意見も参考にしながら、テイクにOKを出していく。一方、南さんは「ホルンのグリス(の開始音)はオクターブ下からでいいですか?」「最後の一発やらせてください」と演奏に納得のいかない点や疑問点を追求していく。田口さんもまた同様である。「ちょっと音域下に。今、Fから出たけどC位から出てもらえます?」田口さんから、グリスの音域について質問が出たとき、樋口さんは即座にこう答えた。私たちは一瞬にして聞き逃してしまいそうなハープのグリスの開始音も、樋口さんは決して聞き逃しはしなかった。レコーディングの場では、度々、このような樋口さんの人並みはずれた音に対する鋭い感覚に触れることがある。そうした場面に接するたび、「やっぱり、樋口さんってすごいなー」と私の脳内アドレナリン値は急激に上昇し、改めてその才能に惚れ直してしまうのだった。

だが、無情にもその直後にアドレナリン値を急降下させるような事態が待ち受けていた。「最後ふたつ。みんな、最後ふたつばっかり。ドラムも最後ふたつだけダビングやったし」と言って、ここでも樋口さんは最後の2小節の録り直しを指示した。そして録り直したプレイバックを聴いて「もう1回かな? クェックェックェッ」とオヤジな高笑いをしたのだった。「最後の2小節と一緒に、今の樋口さんの笑いも録り直してほしい…」そんな私の心の叫びが樋口さんの耳に届くはずもなく、最後の2小節だけの録り直しが行われた(あたりまえか)。このテイクにOKが出たところでスピーカーでプレイバックを確認。「おかれさま」の声で録音は終了し、田口さん、南さん、野口さんの3人はスタジオをあとにした。
 *三連:三連符のこと。2等分すべき音の長さを3等分した音符。
 *ミュート:消音。
 *グリス:グリッサンド。高さの異なる2音間を、連続的に(滑るように)経過的に演奏すること。


Percussion
スタジオでは、ひとり残った高田みどりさんがグロッケンとシロフォンの録音を開始する。黒のタートルネックのカットソーに黒のパンツのいたってシンプルなファッションながら、高田さんは「洗練された大人の女性」を感じさせる、とても素敵なかた。高田さんは、廣瀬さんとオケの頭だしの位置を確認すると、すぐにテイク1の演奏にはいった。演奏が終わると、樋口さんはさっそく気になる点を指摘し、シロフォンの部分的な録り直しを始めた。「2こめやろう」と言う樋口さんに、高田さんが「ちょっと聞かせてくれませんか?」と言う。レコーディング中、高田さんは何度かこの言葉を口にした。高田さんは、自分の演奏したフレーズを確認することを怠らない。プレイバックを聴きながら、樋口さんは「2個目がちょっと突っ込んだの」と解説する。そこを踏まえて演奏したテイクは、一発でOKとなる。

続いてグロッケンの録り直し。まずは現状のテイクを聞く。高田さんはアルペジオ*の音のバラケ具合が気になっている。一度、演奏して感じをみる。プレイバックを聞いた樋口さんは「ズッコケてるな。なんかつまづいてるよね」と言う。そして「アルペジオっていうより…ミは問題ない。レシド」と、問題はアルペジオより、”レシド”の三音が突っ込んでいる点だと指摘する。さらに「ここはホルンが装飾をつけて歌ってるのね」と説明、高田さんに別の観点からサジェスチョンを与える。それらを念頭において、再度、高田さんが演奏する。しかし、「ドの発音状態がよくなかった」ので、さらにワンテイク録り、これがOKテイクとなる。高田さんから「Iの録音状態が気になる」という意見が出されるが、樋口さんは「これは大丈夫!」と自信をもって答える。念のためプレイバックを聴くが、「これでいいよ。いいじゃん!」と、樋口さんはこの部分に関しては録り直しの必要はないと判断した。高田さんが「ちょっと全体を聞かせていただけませんか」とリクエストすると樋口さんは「飽きるほど聴いて」と笑いながら答え、録音はわずか20分ほどで終了した。
 *アルペジオ:分散和音

スタジオでは、次のティンパニの録音のための準備が進められた。その間、コントロールルームに戻った樋口さんは、スタジオ入りした大隅さん、寺田さんらと雑談、19日に行われた堀内敬子さんと宮浩川さんのライブの話をふたりから聞いたりしていた。実は、レコーディングと同じくらいおもしろかったのが、この寺田さんと大隅さんの会話だった。よくあるでしょ、仲の良い先輩後輩の間の「愛情あるツッコミ」。ふたりの会話はちょうどそんな感じなのだ。具体的な内容は、あまりにくだらなくて書けないが(爆)、そのツッコミの応酬がおもしろくて、私はおおいに笑わせてもらった。 

スタジオの準備が整い、「じゃ、録り!」の声でティンパニの録音が始まった。まず、1テイク録ってみる。「終わりから3つ前の3の裏はいらないや。」と樋口さん。そして、高田さんの質問から譜面に誤りがあることがわかり、その部分を修正する。「そこ、Es(エス)とAs(アス)だね。いや、E(エー)とA(アー)だ。ナチュラルが抜けてるの。」クラシックではドイツ音名、ポピュラーやジャズでは英語音名が使われる場合が多いが、レコーディング中、樋口さんはその両方を使用した。「ケツやっちゃおうか」そう言うと、樋口さんはまず、終わりの部分から録り直しをした。今は録音技術の進歩で簡単に演奏の差し替えができるが、ロケートする場所によっては、曲に乗り切れなかったり、クレッシェンド感を出しにくかったりする。そこで樋口さんは高田さんと相談のうえ、若干、演奏のしかたを変更、その点を踏まえてワンテイク録音した。「惜しいな…。ケツはよかったから、4つやって5つめの頭の四分音符まで。」と、ミリ単位とも思える慎重さで、さらなる修正部分を決定する。再度、その部分を録り直し、この部分の修正作業は終わった。続いて、樋口さんは気になる部分の練習番号を告げると、次々に該当部分のプレイバックを聴き、演奏を確認していった。「ここ、チューニング変えてるから不安感があるんだよね。ちょっと弱い」「これはOK!」「Dの前はちょっと詰まってる。ここだけもう1回」と録り直す部分とその必要がない部分とを迷うことなく判別していく。ひととおり録り直しが終わったところで全体をプレイバック。1ヶ所、直しを加えたい部分が見つかり、その部分を録り直して、ティンパニの録音もまた、あっけないほど順調に終了した。

Celesta
当初の予定では、パーカッション19:30終了、そのあと食事休憩を挟み、20:30からチェレスタの録りが予定されていた。しかし、パーカッションの録音が予定より1時間近く早く終わったので、予定を繰り上げて、18:50からチェレスタの録音を始めることになった。チェレスタを演奏するのは『GODSPELL』でピアノを担当した大隅一菜さん。お約束のキューボックスの説明を聞いたあと、リハーサルをかねて一度弾いてみる。「ダイナミック*って意識してる?」演奏を聞いた樋口さんは、大隅さんにもっと大きな音で弾くように言う。チェレスタはピアノに比べて鍵盤を強く叩かないと思ったような音量が出ないといったこともあるけれども、この曲にグロッケンが使われていることを考えると、樋口さんは、オブリガード的なフレーズを持つチェレスタを、もっと全面に押し出した演奏にしたいと考えていたのかもしれない(私の勝手な想像)。また、樋口さんは「アコースティックな感じで録りたい」と、エンジニアの廣瀬さんに希望を伝えた。さて、大隅さんはダイナミックを意識して、もう一度、通して弾いてみる。そのテイクを土台にして、頭から順に部分的なチェレスタの録り直しを行う。滑り出しこそスムーズだったが、次のB部分で録り直しは思いのほか難航した。実はこの部分、このあと録音が予定されている歌メロと一緒なのだ。それだけに、この部分はちょっと慎重?に録音が進められた。1回目の演奏。「惜しいね、後半はよかったんだけど…」2回目の演奏が行われる。「グロッケンがかぶっていて、わかりづらい」という寺田さんの意見で、グロッケンを落としてプレイバックを確認する。「1、2だけだわ」3、4小節目は問題ないが、前半1、2小節の演奏に問題があるようだ。大隅さんの傍らで、樋口さんは人間チェレスタとなって、歌いながら模範を示す。3度めの演奏。コントロールルームの寺田さんが「Fに入ったところがちょっと突っこみ。」と指摘する。プレイバックを確認したあと、1,2はパンチ*することに決め、演奏を再開する。「2小節目の2拍目が早い」「Fの次のGが突っ込みすぎ」「ちょっと1、2小節目が焦って聞こえる」と、寺田さんは演奏のツッコミに対しても厳しい。そして「後ろでノルような感じでやったほうがいいかもしれない」と大隅さんにアドバイス。樋口さんは「簡単なことなんだよ。」といって、ここでもまたチェレスタのフレーズを口づさんだが、「しつこい」という読者の声が聞こえてきそうなので、再現するのはやめておく。再び演奏が繰り返される。だが、「2小節目の二拍めが突っ込んでる」とまたもや寺田さんが指摘する。「両手だから難しいとか、そういうことじゃないよね?」と、原因を探ろうとするが、これといった原因は見つからない。一連の作業に入ってから、さして時間が経過したわけではないが、ここまでのレコーディングがあまりにも順調だったので、ここでちょっと足踏みした感はある。だが、幸いにして時間は十分すぎるほどある。大隅さんにも樋口さん、寺田さんの表情にも切羽詰った感じはない。気持ちのうえでは、まだまだ余裕がありそうだ。気を取り直して演奏を再開する。「今、3小節目がダメだったね」と今度は樋口さんが指摘する。「あわや泥沼に突入か?」と思われたが、1,2がよければ、3、4は繋げばいい。こうして、なんとかB部分を録り終えると先に進んだ。その後の録り直しは比較的順調に進行し、データのエディットをエンジニアに委ね、チェレスタの録音は無事に終了したのだった。
 *ダイナミック:ダイナミック レンジ。最も音量が大きい部分と最も静かな部分との差を、デシベル (dB) で定義したもの。わかりやすくいうと音量。
 *パンチ:一度録音したトラックの録音しなおす位置を指定して、再度録音すると、その部分だけ差し替わる。その録り直しのスタート位置をパンチイン、終了位置をパンチアウトと呼んでいる。

チェレスタの録音が終わったところで、食事休憩に入る。最新のスタジオには、アーティスト・ロビーと呼ばれるスペースがあり、さらにその奥に、簡易キッチンまで備えられたアーティスト・ルームと呼ばれるリビング・ルームのようなスペースがある。このアーティスト・ルームで、樋口さん、寺田さん、濱田さん、大隅さんの4人は夕食をとった。この日のメニューは、スタッフが手配してくれた魚弁当。男性3人はムツ弁当、大隅さんはブリ弁当を注文した。このお弁当、ご飯のうえにドーンと大きな魚の切身がのっかってるだけ。それに味付のりと味噌汁がついて1,600円也。さすが乃木坂価格である。そのお弁当を食べながら、食べ物の話題からハワイで樋口さんがやってた危険なアルバイトの話題まで、話はいろんなとこに飛んでいく。しかし、なんといっても話題の中心は、終わったばかりの舞台『GODSPELL』だ。これはネットで公開するわけにはいかないオフレコ話ばかりなので、知りたい人は、ワタシニ電話シテクダサイ(古〜っ)。 さて、次の録音は22:30から。舞台の稽古が終わってから駆けつける堀内さんと宮川さんの到着を待ってのスタートとなる。長いと思った待ち時間は、思ったより早く過ぎ去っていった。

Chorus
午後10:25、舞台の稽古を終えた堀内さんが事務所のスタッフと共にスタジオに到着する。5分後には、宮川さんも到着した。小西さんも再びスタジオに戻る。今回、コーラス(スキャット)で参加する堀内敬子さんと宮川浩さんは、樋口さんが音楽監督を担当したミュージカル『GODSPELL』のキャストからの抜擢である。堀内さんは、ジーンズにブーツというスポーティーな服装で、ハイジ風の衣装で舞台を演じていた堀内さんとは少しイメージが違う。が、可愛らしさは舞台と少しも変わらない。一方、革ジャン姿でスタジオ入りした宮川さんは、てんとう虫のアップリケのパジャマの宮川さんとは、まるで別人28号のかっこよさ!衣装・化粧・髪型、やはりこの3つはあなどれないと実感する。ふたりが揃ったところで、さっそくブースに入り、まずは樋口さん指導の下、大隅さんのピアノ伴奏で歌の練習をする。その後、オケを流して聞いてみる。キューボックスの説明を聞く堀内さんは、廣瀬さんの質問にもハキハキと答えている。そして、軽く堀内さんがメロディを口ずさむと、宮川さんもそれに合わせて歌ってみる。「(宮川さんと)一緒のとこはいいな」と堀内さんがお茶目に言う。「俺、上だから。♪パラバラッパー」とフレーズを口ずさむ宮川さん。「そのあとが難しいやつか…」と譜面を見てつぶやく堀内さん。樋口さんは「1回通してやっちゃって。1コめ録っちゃいます」とふたりに声をかけると、さっそくテイク1を録る。「ぜーんぜんよくなかった!難しい…」歌い終わった途端、堀内さんが絶望的な声をあげる。舞台では経験豊富なふたりも、スタジオは勝手が違うのか、どうも調子がつかめない。樋口さんは、「敬子ちゃんがもうちょっと歌って、宮ちゃんがもうちょっと抑える」とアドバイスするが、堀内さんは「自信がないからで〜す」と弱気な返事をする。樋口さんは「えーと、どうしようかな。少しずつやりましょう」と言うと、コーラスが最初に登場するB部分から録り始めた。

録っては聴き、聴いては録るという作業を数回繰り返したのち、「うん、いい!一応これくらいの出来でずーっといきましょう」言う。「これくらいの出来ィ?」と宮川さんも堀内さんも思わず樋口さんのこの言葉に苦笑い。先に進む。「♪ンパーね。でもここがパーだと、あとが続かない。切ったほうがいいね」と樋口さんはブレスの位置も指示していく。ふたりが別々のパートを歌う部分では、「(宮川さんは)♪パラッパ、パラッパー、こっち(堀内さん)はさ、次ないから、♪パーラッパ〜」と、樋口さんはふたりそれぞれに歌い方の違いを説明する。「♪パーラッパッパ〜っ!」と、堀内さんは樋口さんの説明を踏まえて歌ってみる。「そう!あのさ、敬子ちゃんさ、そういうのがほしくて今日呼んだから、そういうのやって」と樋口さんが言う。「そういうのってなに?動き?」と堀内さんはオオボケをかますが、「いや、音楽を感じる力があるんだ」と、樋口さんはまじめに答えた。「さっきの♪パラパラパ。ちょっと難しいけど、やっちゃいずましょう。」先ほど、難しいので後回しにした部分をここでやることにする。樋口さんは「1コ1コ、ピッチなんていって言ってないで勢いでいっちゃいましょう」と言って録り始める。
プレイバックを聴いた寺田さんが「堀内さんがもうちょっと聞こえてくるとカッコいいと思う」と言う。もう一度、歌い直す。その堀内さんの歌に「かわいい」の声がかかる。「かわいくじゃだめでしょ?」と言う堀内さんに、樋口さんは、「OK!OK!これ魔女なの。空飛んでるの」と説明する。その説明に、堀内さんと宮川さんも和んだ表情をみせる。録っては聴き、聴いては録るという作業を繰り返しながら、少しずつ先に進んでいく。途中、先に録音したチェレスタと同じメロの部分も出てくる。そしてJ部分まで進んだとき、「そこ、1234、2234、♪パッパッバ。これ、簡単だ」と、またしても樋口さんは「簡単だ」という言葉を口にした。だが、樋口さんが簡単だと言ったところが、簡単だったためしがない(笑)。「もう一丁いって。もうちょっとカッコよく」と、最初のテイクにNGを出す。「もっと(声が)小さいほうがよかったですか?」と宮川さんがと尋ねると、樋口さんは「あのね。先に言わなきゃいけなかったんだけどサー、日本人ぽくないほうがいいんだ」と言い出す。「それわ、無理だ〜」と堀内さんが言う。すると宮川さんは「オヤジが佐賀の人間なんでね、ちょっとむこうの血がはいってるんだ」と冗談を飛ばす。このふたり、ほんとに楽しい。そして、さすがむこうの血が入っているだけあって、録り直したテイクは一発でOKとなる。

だが、次にこの日、最大の難所が待ち受けていた。「♪バラッ バラッ バラッ パラッ、バラッ バラッ バラッ パラッ 」文字で書けば、たったこれだけ。だが、これが何度やっても、うまくいかない。1回目、宮川さんが途中でつっかえる。2回目、ブレスはとらないほうがい、ということで録った3回目は走りまくる。4回目、♪(ン)パラッの(ン)が抜ける。5回目、バランスが悪かった。6回目、入口があわない。ふたりのピッチもバラバラ。ここで樋口さんは、ふたりと歌の練習をする。そして「必ず頭をつかまえて」とアドバイスする。樋口さんは、「やっても無駄」な人には、何度も録り直しをさせたりしない。だから、録り直しが続いても不思議と不安はなかった。それにレコーディングが始まってから、まだ20分も経っていない。エンジニアの廣瀬さんの手際のよさも手伝って、短時間で密度の濃いレコーディングが進行していた。再び録った7回目、今度は重い。8回目、「う〜ん、ダメでしょ?」と悲観的になってきた堀内さんを、樋口さんは「1コできりゃいいんだから。貼ればいいんだから」と励ます。9回目、ピッチが悪い。10回目、「俺の最後の最後だね」と、自らのミスにさすがの宮川さんもちょっと意気消沈。ここで「もう1回やっとこう」と言うと、樋口さんはまたふたりと歌の練習を始めた。そして「3つめのパが遅れる」と問題の個所を指摘する。11回目、宮川さんのテンポがちょっと遅かった。ここで宮川さんと堀内さん、別々に録ることにする。12回目、ちょっと走った。13回目、1回目の♪パラッ・・・はよかったが、2回目は堀内さんが重かった・・・。

それでも、ひとつうまくいったので、一応、全部並べてみて、最初から全部聴いてみることにする。その作業はとりあえず後でやることにして、最後の部分を録ることになる。1回目、宮川さんは堀内さんと同じパートを歌ってしまう。本来は3度上を歌うことになっているので、まず、その練習をする。だが、音程をとるのが難しい。「覚えてるうちに」2回目を録音するが、うまくいかず、宮川さんは「もう、ダメダ〜」とネをあげる。そんな宮川さんに、「勢いでいっちゃえ、いっちゃえ」と樋口さんはハッパをかけて、テイク3を録る。テイク3の3、4部分はよかったので、これをキープして、さらにもうワンテイクを録ることにする。「えーとね、なんとかなるから、終わりのふたつを録っちゃおう。」

時計の針は、そろそろ11時を指そうとしていた。レコーディングは続いているが、田舎住まいの私は、そろそろ撤収しないと終電を逃してしまう。「なんとかなるから」樋口さんのその言葉を聞いて、私は「もう、大丈夫」だと確信してスタジオを出た。私がスタジオを出たあと、あの曲はどんな進化を遂げたのだろう? 樋口さんにとっては、これが最後になるかもしれないビッグバンドによるレコーディング・・・その曲の完成テイクは、あと数日で私たちの手元に届けられる。  
END

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