Introduction
10月31日、都内のスタジオで樋口さんがアニメのレコーディングを行うという情報をキャッチした我が1/1000000000000ismでは、さっそくスタジオに潜入し、レコーディングの模様を取材することにした。今回録音が行われたのは、小西康陽さんが作曲を手がけるアニメ「シュガシュガルーン」のイメージ・アルバム『メゾン ド ショコラ』の収録曲で、樋口さんはこの曲の編曲を担当している。この日は12:30のドラムの録りから22:30開始のコーラス録りまで、約半日かけて1曲録り終える予定になっていた。さて、今回のレコーディングの最大のポイントは、ビッグ・バンド編成による録音だという点だろう。かつては、お茶の間でも馴染みの深かったビッグバンドだが、シンセサイザーの出現や不況の影響で、コストのかかるピッグバンドのレコーディングは、なかなかできないのが実情だという。そんなご時世に、ビッグバンドの基本構成16名+ギター、それにストリングス14、ハープ1、ホルン2、パーカッション1、チェレスタ1、コーラス2を加えた総勢38名のゴージャスな録音を行うというのだから、これはもう只事ではない。おっと、前置きが長くなった。それでは、さっそレコーディングの模様をお伝えすることにしよう。
  注:文中のアルファベットはリハーサル・ナンバー(練習番号)を表しています。


Big Band
超立派。さすが世界のソニー!乃木坂駅を出ると目の前にそびえるソニー・ミュージック新社屋。その地下3階に今回レコーディングが行われるソニーミュージックスタジオがある。ホールから地下に向かうエレベーターに乗ると、後から白っぽいジャケットに太縞(だったと思う)のパンツ、マッシュルーム・ヘアの男性が乗り込んできた。なんと!小西康陽さんである。想定外のできごとに動揺する私には目もくれず、小西さんはとっとと目指すSTUDIO2へ。後を追うように私もスタジオへ。私が到着した13:00頃、スタジオではちょうどビッグバンドの録音が始まろうとしていた。メインフロアには、Trumpet:エリック宮城さん、西村浩二さん、木幡光邦さん、小林正弘さん、Trombone:松本治さん、中川英二郎さん、片岡雄三さん、B.Trombone :山城純子さん、A.Sax・:渕野繁雄さん、小池修さん、T.Sax:平原まことさん、近藤和彦さん、B.Sax:宮本大路さん、E.Guitar:伊丹雅博さん、3つのブース*には、Piano:美野 春樹さん、Bass:斉藤誠さん(クジラさん)、Drum:市原康さんが、それぞれスタンバイし、各自、練習を始めていた。音楽シーンの中核に位置する実力派をズラリと揃えた演奏も、この曲の聴きどころのひとつだ。もちろん、メインフロア中央の指揮台には樋口さんの姿がある。この日の樋口さんは、ブルーのシャツにジーンズというスタイル。でも、悲しいかな、レコーディング中は、樋口さんの「声はすれども姿は見えず」。超重量級のウィンドのメンバーに取り囲まれた樋口さんの立つ指揮台は、私の居るコントロール・ルームの隅っこからは、あまりに距離がありすぎた。

さて、そのコントロール・ルームでは、エンジニアの廣瀬修さん、スターチャイルド(キングレコード)のプロデューサー・小川智弘さん、インペク*の納屋和貴さん(フェイスミュージック)、音楽ライターの濱田高志さん、超ミニからスラリと伸びた脚も悩ましい美女、レディメイド・インターナショナル代表・長谷部千彩さんらが、準備や打ち合わせのため慌しく動き回っている。と、突然、モニターからクジラさんの声が聞こえてきた。「市原さん、ここだいじょぶだよね?ドンカマ*スタート、絶対厳しいから…。ちょっとIからやって」そう言うと、リズム隊の練習が始まった。「もう1回、IからKまでやってみようか?」「今のでいいんだよね?Kの2部音符=四分音符じゃないのか…」録音の要となるリズム隊のメンバーは、練習に余念がない。並行して、ホーンセクションの音決めも進められる。「おーっ、3つ鳴らして4つは難しいねー。修正しながらいかなくちゃいけないですね、後ろに引っ張られる感じで」と、その音に合わせてドラムを叩いていた市原さんが言う。廣瀬さんがキューボックス*の説明を終えると、樋口さんは「1回やってみます、いい?」とメンバーに声をかけた。ドラムのダブルカウントで演奏がスタート。をををっ、これはすごい!ホーンセクションでゴージャスに幕を開けるイントロのカッコいいこと!その迫力に早くも興奮で血が騒ぐ。ワルツのテーマ部分とフォービートの間奏部分を組み合わせたこの曲、不思議と聴いているうちに魔法にかかったように盛りあがっていく。そして、ビッグバンドならでは音のうねりと音圧で迎える、クライマックスのエンディング部分(ここ、必聴) 。これだけで十分すぎるほどの迫力なのに、この先、いくつもの楽器を重ね、いったいどんな曲を作ろうというのだろう?大いなる期待にワクワクしながら、私はこの場に居合わせた幸運に感謝した。
 *インペク:スタジオミュージシャンの手配をする人
 *ブース:レコーディング用に仕切られた小部屋
 *ドンカマ:レコーディングの際、ガイドに使用するリズムマシンのこと。わかりやすくいえばメトロノーム
 *キューボックス:録音した(もしくは自分の)音をモニターするための装置。チャンネルがいくつか有り、自分で操作して好みのモニター環境を作ることが出来る。

「ちょっと早いかな?」演奏を聴きながら、樋口さんはしきりとテンポを気にしている。「ちょっと早いほうがいいと思ってんの。そこはベースについてってくれます?」メンバーの質問にそう答えながらも、「ちょっと、全体に早いかなぁ?」とテンポを決めかねている様子。「やっぱり今のテンポでもう1回やらしてもらお。」樋口さんは、自分に言い聞かせるようにそう言うと、もう一度、今のテンポで演奏することを決め、セッションを再開した。演奏が終わると「作曲者、小西!」とメンバーにコントロール・ルームの小西さんを紹介した樋口さんは、「テンポどうですか?」と小西さんにも意見を聞く。そしてメンバーの意見も参考に、最終的に3ポイント、テンポを下げることにした。そして「1回録るっていうのはどうでしょう?」と提案するが、メンバーからの要望でM部分を練習することに。「あのテンポだと跳ねられないですよね」と、演奏を聴きながら樋口さんは言う。どうやらテンポを下げた理由はここにあったようだ。練習後、テイク1を録る。コントロールルームでプレイバックを聴いたリズム隊のメンバーは、「ほら、俺たち先に終わっちゃった(笑)」「難しいね。聞かないようにしてやんないと…」「合わせないと」「合わせたらカッコ悪いでしょ〜」と、自分たちの演奏を振り返っては、次の演奏の対策を練る。「これ、できるかな? それとも別々に録っちゃったほうがいい?」樋口さんは、リスクヘッジとして、後で録り直しがきくように別録りも考慮に入れている。だが、「いや、全然できると思いますよ」というメンバーの声に、クラリネットだけ別録りにすることにしてテイク2を録ることにする。

その直後である。樋口さんが聞きなれない言葉を発したのは…。「えと、いくつかやらせて。ちょっと乗っけろ作戦やらせてくれ。」ノッケロサクセン??果たして樋口さんが本当にそう言ったかどうかは定かでない。が、私の耳には確かにそう聞こえた。「♪ダラバラバ〜」突然、樋口さんが歌いだす。すかさずトランペットが♪ダラバラバ〜と演奏する。「♪ダラバラバ〜、アッ、アン」と樋口さんが歌うと、トランペットも♪ダラバラバ〜、アッ、アンと続く。ちなみに「アッ、アン」は、樋口さんがためいき路線に走ったわけではなく、ブレイクを表している。スタッフのひとりが「これで最後まで歌うんですかねぇ?」と言うと、まわりのスタッフも、皆、困ったような笑いを浮かべた。そんなことは露も知らない樋口さんは、おかまいなしに歌い続ける。「トロンボーンのあすこやらせて。ワン、ツー、スリー、フォー、♪パ、ラバラバ〜」「そこは♪ンパラ、ンパラ」「べたっとしない。スクエアに。♪タッタ、タラッパー」樋口さんの口からは、よくもまあ、これだけ考えつくもんだと思うくらい、いろんなフレーズが飛び出す。「そこは僕の歌、聞いて。♪パッパー チャララパララパーン……。」「その前のサックスも歌うと♪ダ〜ン、パ〜ラ〜ラ」「その前のクレッシェンドのとこは♪タラリルラ…」「それとドラムですけど、Hの9、10は付点四分フレーズなの。ターン、ターン、スターン・・・」樋口さんはラッパにとどまらず、ドラムパートまで歌いだした。スタジオは完全に”樋口康雄オンステージ”と化したのだった。だが、これは、譜面では伝えきれないフレーズやリズムパターンのニュアンスの違いを演奏者に伝える、たいへん有効な手段であるには違いない。「その前のラッパは♪ンパスパー。今のは♪ンパッパー」時に樋口さんは、私ごときには聞き分けることのできない微細なニュアンスの違いにまで言及、音楽家としてのこだわりをみせるのだった。「今、こう聴こえちゃう。♪ンパパって。♪ンパラっては聴こえない。ま、いいか。そういう曲にしちゃおうか」(ヘ?!)樋口さんは、時としてあっさりと音楽家としてのこだわりを捨てることもある;;

studio2の入口。recording中練習は続いた。「リズムですけどKの3つ前はちょっと気を使って。冷たくいかないで。」樋口さんの「冷たくいかないで」という言葉にウケまくるメンバー。おどけた調子で「気をつけまーす」と答える。4ビート部分の練習を終えた樋口さんは「みんな全体に真面目すぎる。もうちょっと真面目じゃなく楽しく」とアドバイスして、テイク2を録り始める。メンバーの演奏は確実にヒート・アップしている。リズム隊とともにプレイバックを聴いた樋口さんは、「いいか、これ。ちょっとずつ直したらいい?」とメンバーに確認する。「もう1回やってダメだったら、こっちをベースに」とクジラさんが言う。「もう1回いく? 悪くないなぁ」と、樋口さんはこのテイクは捨てがたいといった様子だ。「カッコいいっスよね!」「迫力あるよねー」と、メンバーのこの曲に対する評価も高い。「いいとこいっぱいありますよね」と誰かが言う。すると他のメンバーからも、「そう、いいとこいっぱいあるよ」と声があがる。だが、「早い4ビートのとこはもう1回やりたい」「さっきはブラスが落ちてるから、こっちも止まっちゃったところがある。できたらもう1回」といった意見も出された。

このテイクを土台にするか、もう1テイク録って、そちらを土台にするか、しばし樋口さんは思案する。「よしっ。こうしました。今のはすごくよかったんでキープしますけど、もう1コやります。それでうまくいったら終わり。うまくいかなかったら、さっきのを直すことにするかもしれない。」 時間の限られたレコーディングの現場では、そのテイクをOKとするか、もう一度やり直すかを、誰かが即座に判断しなければいけない。そこで、全員が納得してついていけるリーダー役が必要になるわけだが、今回のレコーディングでは、樋口さんがその役を担っていた。樋口さんのやり方で素晴らしいと思うのは、指示の出し方がとても具体的だということだ。演奏者にしてみれば、どこをどう変えれば良くなるかが、非常にわかりやすい。また、もう1回やればもっと良いテイクが録れるとか、これ以上やってもダメだといった打ち切りどころの判断が的確で迷いがない。 「じゃ、元気よくやってください。最後にチューニングをちゃんとして」と言った後、気になる部分を見つけた樋口さんは、その部分を一度さらう。そして改めて「じゃあ、ショコラのワルツ。決めたいと思います。」と言うと、テイク3を録り始めた。演奏を終えた市原さんが、開口一番「最後、ドラム失敗しちゃった」と言う。プレイバックを聴く。「大丈夫だよ」と樋口さん。「全体は(こっちの方が)いいかもしれない」「ここのとこは、さっきよりいいんだけどさ、最後が…。」とリズム隊のメンバーが口々に意見を言う。「こっちでいいよ。そんなに直すとこないでしょ?」樋口さんは、このテイクを土台にしようと考えている。「4ビートのとこ意外とラッキーだったね」と、クジラさん。懸案部分の演奏は、うまくいったようだ。

結局、このテイクを土台にして、最後のドラム部分だけ録り直すことに決める。市原さんは再びブースに戻ると演奏を再開した。プレイバックを聴いた樋口さんは、「大丈夫。でもさ、フィル*ってしないの?」と市原さんに新たな要求を出す。市原さんは、フィルを入れた演奏に挑戦するが、「だめだ、できない〜」と悪戦苦闘。樋口さんは「できるよ、簡単じゃん」「カッコよくやろうと思うからダメなの」と、あっさり言う。「うわ〜、言われちゃった」と言いながら、市原さんは再度フィルに挑戦。演奏を聴いた樋口さんは、今度は「いいじゃん」とOKを出す。だが、プレイバックを聴き直し、「ラストふたつやりましょう」と、最後2小節をもう一度、録り直すように指示した。無事、この2小節を録り終え、ウインドの部分的な録り直し作業に移る。樋口さんは別チャンネルで録ることをエンジニアと確認すると、頭から順に録り直し作業を進めていった。別録りすることになっていたクラの録音も、ここで行われた。練習で一度も決まらなかったクラのフレーズが見事に決まると、スタジオには安堵の空気が流れた。このあと樋口さんは、音量や音符の長さといった、さらに細部の録り直し作業を進めた。「Mの前。そこの4つのフォルテシモが十分盛りあがって、次のフォルテピアノにいきたいんですが、演奏は問題ないんで、音量と、あと、♪スパッパラー、スバッバラー(以下、面倒なので省略)っていって、ズドーンといきたいんで、そこがうまくいってるかどうか。」「Iでテーマが転調されてるわけじゃない?そこからの佳境感。♪ンパッパラ〜〜って、ちょっと長くしたほうがいい。その4小節間。その前に2つクレッシェンドありますけど、これって、皆さんつけてますよね? これ、1回メゾピアノに落としてる?」と、樋口さんは、この部分は圧倒的に強弱を効かせた、インパクトのある演奏にしたいと考えているようだ。録り直しの1回目は「リズムが悪いね」ということボツになるが、2度目の演奏がOKテイクとなる。「以上なんで、プレイバックしてください。」プレイバックを確認し、午後2時55分、ビッグバンドのベーシックトラックの録音が終了した。この間、ほとんど言葉を発することなく、じっとレコーディングの様子を見守っていた小西さんは、別の仕事のため、一旦、ここでスタジオを出た。
 *フィル:フィルイン。メインのメロディーの空白部分などに加えられる即興的なフレーズのこと。オカズとも言う。

Strings
弦のメンバーの後姿。わかりにくくてごめんなさい。15:30からはストリングスの録音があった。ストリングスを担当するのは、「リーンの翼」のレコーディングにも参加している篠崎正嗣さん(マサさん)のグループ。第一バイオリン6、第二バイオリン4、ビオラ2、チェロ2という編成だ。強面のベテラン・ミュージシャンから、若い女性が多いストリングスのメンバーに入れ替わると、スタジオは俄かに華やいだ雰囲気に。小西さんと入れ替わるように、編曲助手の寺田鉄生さんがスタジオに到着する。ストリングスのメンバーは、軽く自分のパートを練習し、キューボックスの説明を聞く。樋口さんは「ちょっと1コだけ説明」と言うと、「全音符だから全然関係ないんだけど一応説明しときますが、Tのとこの変化、Jの前のテンポの変化、♪カンカンカンカン、カーン、カーン…その付点四分が次の二分・・・全音符だからどうってことないんだけど、一応ね」と、わかったような、わからないような説明を長々と続けたあと、部分練習を開始した。要所をさらった後、一度みんなで合わせてみる。「アタマからやりましょう。ワン、ツー、せーの!」樋口さんの合図で弦だけの演奏が始まる。その感触から、いけそうだと判断した樋口さんは、さっそく録りおえたばかりのビッグバンドのオケとストリングスをあわせてみることにする。音あわせの後、テイク1を録る。ストリングスの音色が加わると、曲の表情は一変した。

その劇的な変化に酔いしれる間もなく、演奏が終わるや否や「ちょっとMからやって。はい、ワン、ツー、スリッ! 」と部分練習が開始された。感覚を忘れないうちにさらってしまおうということなのだろう。「先、いきます。♪ターターターターじやなくて♪タァーッ、タァーッ」と、ここでも歌いながら演奏のニュアンスを伝えていく。ひととおりさらい終えたところで、テイク2を録る。プレイバックを聴いた樋口さんは「Aの着地を決めたいんだ」と言うと、もう一度その部分の練習を始めた。さらに「サックスと一緒に歌って。じゃあ、みんなで」「ドン尻を練習したいんだ」「Fに入ったところの三連…」と矢継ぎ早にいくつかの個所を指摘すると部分練習を繰り返し、テイク3を録る。プレイバックを聴いた樋口さんは、ここでもまた、終わりの2小節を録り直したいと言う。さらにI部分の2回の録り直しを経て、この部分にOKがでたところで、頭からプレイバックを聴く。樋口さんは、「1ヶ所プレイバックしてほしい」と言って、A部分のプレイバックを聴き、三連をさらに際立たせた演奏にしたいと要望、加えて「やり直したいところが1ヶ所ある」と言ってDからFまでの録り直しも行った。この間、わずか約45分。録音は順調に進行し、予定より45分早い16:15、ストリングスの録音は滞りなく終了した。

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