シングアウトの研究

第2回 MRAとキーパーソン
MRAとはなにか
もう、ずいぶん長いことMRAについて調べている。しかし、ネット上にはほとんど情報がなく、どんな文献をあたったらよいのか見当もつかず、MRAの実態は、ほとんどわからずじまいだった。ところが、あるとき、MRA国際移動学校同窓会の公式HPを見つけ、シングアウトのメンバーだった原田時芳氏や江崎和子氏の名前を記載した名簿(現在はない)を見ることができ、彼らがMRA国際移動学校に参加したのは1968年ごろであったことを知った。また、レッツゴーの活動も、その写真から、おぼろげながら想像することができた。

しかし、MRAがなんなのか、いまひとつ私は掴みかねていた。1年ほど前のある日、ふと思いついてMRAについて検索していた私は、驚くほど詳細にMRAを解説したブログに行き当たった。それが「不可視の学院」”カルトの世紀 道徳再武装と松下政経塾”である。これを読めば、MRAの実態がなんであったのか、実によくわかるはずである(ただし、ここに書いてあることがすべて正しいという保証はない)。これを読めば私が改めて解説する必要はないと思うので、本文を読み進めるまえに、まずはこのブログをご一読いただきたい(「日本の黒い霧」でも読んでるようなおもしろさ)。

キーパーソンロビー和田
MRAの解説は「不可視の学院」に譲るとして、ここでは、MRAとレッツゴー〜シングアウトをつなぐキーパーソン、ロビー和田氏について少々触れておきたい。

ロビー和田氏は、昭和20年8月12日、インドネシアで生まれた。日本人の血が半分、残りはオーストラリアとチェコの血がそれぞれ半分ずつという出自である。一家は、その頃、インドネシアに滞在していたが、終戦のドサクサで父と生き別れになり、母子はシンガポール、オランダと移り住み、昭和23年、日本にやってきたという。
その生活が物語るように、ロビー氏はアメリカン・スクール、ドイツ学園、明治学院中学、玉川学園高校と学校を転々としている。中学時代に音楽に興味を持つようになった彼は、高校時代に青山学院の高校生だったマイク真木とファイア・サイト゜・ボーイズというフォークグループを結成する。このグループは、仲間同士のコンサートや素人参加のテレビ番組で次第に人気をもつようになるが、その後、解散している。
そんなある日、彼はMRAから音楽劇に加わって世界を歩いてみるつもりはないかと誘いを受け、同意。MRAのグループとともにインド・セイロン・中国・韓国・台湾・香港といった地域で歌うようになる。

ロビー和田(中央)とニュー・ホークス昭和41年10月、ロビー和田率いる総勢数百人という”ニューフォークス”は、CBS・コロムビアから「シャウト/コロンボ」というシングル盤をリリースした。もちろんこの数百名というメンバーは、MRAを中心としたものである。同年、”ニューフォークス”はMRAのイベントで武道館のステージに立つが、このとき、演奏部隊としてステージに立っていたのが、ヴィレッジ・シンガーズである。これは、、ヴィレッジ・シンガーズのリーダー、南里孝夫氏もまた、MRAと深くかかわっていた人物だったからである。なお、南里氏はバンド創設メンバーである森おさむ氏とともに67年2月にヴィレッジ・シンガーズを脱退している。ヴィレッジ・シンガーズが「バラ色の雲」のメガ・ヒットを放ったのは、彼らが去ったのちの67年8月のことである。

ロビー氏に話を戻そう。彼は、再びマイク真木とともに昭和43年にザ・マイクスを結成。メンバーは、ロビー和田(12st.g、v)、マイク真木(v、12st.g)、元ブロード・サイド・フォーの鶴原俊彦(lg、v)、横田実(b、v)、田辺あかね(v、ダルシマ)という面々。一時期は高田恭子も参加していた。しかし、このグループは、マイク真木が前田美波里と電撃結婚した余波をかぶり、短命に終わっている。
その後、ロビー氏は音楽プロデューサーとして和田アキ子、西城秀樹、葉加瀬太郎などを手がけ、現在も現役プロデューサーとして活躍中であることは周知のとおり。尚、和田アキ子の「笑ってゆるして」の作曲者・羽根田武邦はロビー氏のペンネームである。夫人は、元シングアウトのメンバー、エミこと江崎和子氏。2003年、日比谷野外音楽堂でシングアウトが一夜限りの復活を果たした際、若き日のレコードジャケットでしかお顔を存じ上げないにもかかわらず、会場をあとにする端正な顔立ちの男性がロビー氏その人であることはすぐにわかった。というのはまったくの余談である。

つづく


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