シングアウトの研究

  第3回 音楽の花ひらく 
末盛氏のめざしていたもの
「ステージ101」・・・シング・アウトがレギュラーとして出演していた番組である。1970年から74年にかけてゴールデンタイムにNHKで放送されていた若者向けのこの音楽番組が、留学先のアメリカでヤングアメリカンズとアップウィズピープルというグループを見た同番組の初代プロデューサー・末盛憲彦氏の構想のもとに制作された番組だということは今ではよく知られている。
末盛憲彦氏は、NHKのバラエティ番組の原型、「夢であいましょう(1961年4月〜1966年3月)を作りあげた人物である。その末盛氏がバラエティ番組の視察のため、アメリカに留学したのは1965年10月から1966年3月までの約半年間。このとき「ステージ101」の構想が生まれたわけだが、その構想が実現するまでに実に4年もの歳月が費やされていたことは、ほとんど知られていない。

1966年、アメリカから帰国した末盛氏が手がけたのは「ステージ101」ではなく、「音楽の花ひらく」という番組だった。5年間続いた「夢であいましょう」のあとに始まった「音楽の花ひらく」は、9ヶ月放送された。番組は、司会つきの公開コンサートという、それ自体はよくある形式だったが、その規模がハンパじゃなかった。百人のオーケストラ、60人の合唱団、数人の大スターが常時出演する大番組だったのである。加えて、強烈なバイタリティと、ある種の素人っぽさを結びつけたのが、この番組の特徴だった。

それまで日本の一般の音楽ファンには、音楽は与えられたものであり、勉強するものであり、難しいものであり、権威あるものであるという観念が強かった。音楽番組のそらぞらしさを痛切に感じていた末盛氏は、素人のもつ新鮮さとバイタリティが、雑音の多い家庭の中でも非常にひきつける要素であると同時に、親しみを持たせる要素であると考え、素人を起用することで「音楽本来の楽しみを視聴者に伝えたい、家庭の中に送り込みたい」と考えたのである。

「音楽の花ひらく」は、司会に佐良直美と三橋達也、指揮者に山本直純、スタッフには「夢であいましょう」から続く中村八大、永六輔といったそうそうたる面々が顔を揃えていた。そして、この番組にレギュラーで番組の核となっていたのがアマチュア集団、MRAのグループ「レッツゴー67」だったのである。
音楽の花ひらく」に出演するMRAの人たち

「青少年がふしだらにならず、不健康な遊びをしないように、集団訓練や国際交流などを行い、音楽で楽しんで、節度ある規律正しい生活を送る」ことを目的に、MRAに「レッツゴー」ができたのは1966年のことだ。ここで注意しておきたいのは、日本では、この歌声を通じた道徳サービスは「レッツゴー」と呼ばれたが、アメリカ・ヨーロッパでは「シング・アウト」と呼ばれていた点である。「レッツゴー」は、海外で公演を行うときは、「レッツゴー・アジア」「シングアウト・アジア」の名称を用いているが、先述したニュー・ホークスも、レッツゴー記事名前こそ「レッツゴー」ではないものの、実態はどれも同じMRAの人たちの集団なのである。そして、このレッツゴーの中心人物で、音楽的リーダーだったのが、先述のロビー和田氏なのである。


          レッツゴー66の武道館公演の模様を伝える当時の音楽雑誌」
なぜ、レッツゴーは「音楽の花ひらく」に出演することになったのだろうか? それにはこんな背景があった。



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