Track07 レコーディング
樋口さんの音楽には魅せられた者を虜にしてしまう不思議な魅力がある。一度魅せられた者は再びその世界に身を投じるのが常である。
「漫画の神様」故・手塚治虫氏もまた、樋口さんの音楽に魅せられたひとりだった。
手塚氏の絶大な信頼の下「火の鳥2772」「ブレーメン4」といったアニメ音楽を任された樋口さんが、「火の鳥2772」に続き、再び手塚氏の依頼を受けたのは80年に放送されたカラー版「鉄腕アトム」の主題歌だった。
当初、樋口さんは手塚氏の依頼をこう言って断ったという。「手塚先生、どんなに素晴らしい曲を書いたとしてもあの「アトム(♪空をこえて〜)に代わって受け入れられるとは思いませんよ」と。しかし、手塚氏が意欲的だった為、樋口さんは曲を書き下ろし、デモテープも録音された。だが、諸事情でこの曲が陽の目をみることはなかった。
今にして思えば、これは神の采配だったのかもしれない。初代アニメ版アトムの主題歌は、もはや知らぬ者がいないほど国民に親しまれていた。「アトム」といえば誰もがこの曲を思い浮かべた時代だった。

それから20年の歳月が流れ、時は21世紀。
アトムに幻の主題歌が存在することを知るひとりの男がいた。彼の名は濱田高志。96年にコンピレーション・アルバム「ソフトロック・ドライヴィン」(「I LOVE YOU」収録)でいち早く樋口作品を評価、同年に「ベスト・オブ・シングアウト」を復刻して以来、今日に至るまで数々の樋口作品のCD化に努めてきた土龍団の中心人物である。彼はまた熱烈な手塚ファンでもあった。学生時代、食事の席で手塚氏から直接この幻の主題歌の話を聞いた濱田には、永年暖めてきた密かな構想があった。それはこの幻の主題歌を世に出すことだった。

2002年秋。濱田に遂にその日が訪れた。
2003年4月7日のアトムの誕生日を記念して、1枚のアルバムが制作されることになったのだ。タイトルは『Music For ATOM AGE』。50年前、初めてアトムの原作が登場した時代から実写版アトム、初代アニメ版アトム、カラー版アトム、そして今年4月から放送予定の「アストロボーイ・鉄腕アトム」まで、すべてのアトム世代に送るアルバムである。
アルバムの制作はレコーディング前から始まっている。数ヶ月におよぶ綿密な企画会議がレコード会社の担当者との間で繰り返された。その結果、全曲樋口康雄作曲による書き下ろし作品、原作やアニメとリンクしつつもアルバム独自のアトムの世界が展開する趣向、歌詞にあえてアトムを連想させるフレーズを入れないことで独立した楽曲としても楽しめる、といった従来のトリビュート盤にはない、”アトム・エイジに送る『架空のサウンドトラック』”という、全く新しいアルバム・コンセプトが打ち出された。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

午後6時、スタジオはにわかに人の出入りが激しくなった。ロビーには母親に付き添われた森の木児童合唱団のこどもたちが集まり始めていた。コントロールルームには見学の女性会員を伴った手塚治虫ファンクラブの代表者Aさん、麻生哲朗氏らが次々と到着した。作詞を手がけた麻生氏は「南アルプス天然水」「家庭教師のトライ」といった数々のヒットCMやChemistoryの作詞で知られる、今、最も注目を集める若手CMプランナーである。レコーディングを終えた金子さんも幻の主題歌を聴こうとスタジオに残っていた。その横で濱田さんは産経新聞の取材に「21世紀のアトムのスタンダード・ソングにしたい」「樋口さんは時流に流される音楽ではない。」そして「とにかく音を聴いていただければわかる」と力強く答え、その自信のほどを窺わせた。

この間、ロビーからメインフロアに移動した小学生から高校生まで約20名の森の木児童合唱団の子供たちは、樋口さんのピアノに合わせて練習を始めていた。エンジニアの中澤さんの「お待たせしました」という声が流れると、コントロールルームには一瞬、緊張が走り、室内はしんと静まり返った。
この日、初めてオケが流れた。子供たちの歌声がスタジオに響き渡る。誰もが初めて聴く「アトム」に言葉を忘れて聴き入っていた。曲が終っても誰も口を開こうとしなかった。水を打ったような静けさ。ようやく濱田さんが「いかがでしたか?」と口を開く。産経の記者の方は「何をしでかしてくれたかと・・・」と言ったきり、笑いが止まらない。スタッフのひとりも思わず「素晴らしいですね」と感想を口にする。幻の主題歌はあの場に居合わせた私たちの予想をはるかに越えた曲だった。私はといえば、そんな周囲の人々の反応にすっかり気をよくしていた。樋口さんの曲が褒められるのはファンにとっても嬉しい事。樋口さんのファンであることを誇らしく思い、しみじみと幸せな気分に浸ったひとときだった。だが、その直後にとんでもない試練が待ち受けていようとは、その時の私は知る由もなかった・・・

樋口さんは子供たちの並び順を変更すると、更に2テイク録音した。
Aスタジオのコントロールルームとメインフロアとの間には広い踊り場のようなスペースが設けられていて、私はこの間、ここでレコーディングを終えた金子さんにお話を伺っていた。金子さんと私は住まいが隣市、高校・大学と学んだ時期は違うが、同じキャンパスに通っていたというご縁があり、楽しくお話させていただいた。そして、先に録り終えたTrack02が譜面から予想していたよりもテンポが速かったこと、Track02とTrack08が対照的な曲であったと話してくださった。そして、合唱団の練習のピアノ伴奏がとても上手なので、誰が弾いているのかと思ったら樋口さんだったのでとても驚いたとも語ってくださった。と、その時、私たちの横を樋口さんが通り抜けていった。
合唱団の指揮していた樋口さんは、プレイバックを聴くためにメインフロアからコントロールルームへ引き返すところだった。最初の試練が私を襲ったのはこの時である。私は樋口さんが居合わせたスタッフに囁いた聞いてはいけない一言を聞いてしまった。
「ひとり、すっごく可愛い子がいる」・・・・・・・・・ な、な、なんと!
幻の主題歌で言葉を失った私は、ここで再び言葉を失った。だが、その試練から立ち直る間もなく、次なる試練が私を襲った。金子さんの帰り際、ふたりは私の前で抱き合って別れを惜しんだ。なにも私の目の前でやらんでよかろうに!しかも、あの時、樋口さんは、ひきつる私の目を見て確かにニヤリと笑った。あれは私に対する挑発以外のなにものでもない。このように、樋口さんはすごいけどひどい人である(爆)。
そんな樋口さんを思い、一首詠んでみた。
「レポートの ギャラはいらない 愛をくれ」(詠み人 大伴焼餅)

責任感の強い私は、気を取り直してレポートを先に進めることにする。
プレイバックを聴いた樋口さんは「とってもよくなってきました。あとは明るさと元気だけだと思うので、もう一回やりましょう」と子供たちに声をかけると再びメインフロアに戻り、さらに2テイク録音した。データを編集する間、濱田さんと作詞の麻生さんは合唱団の子供たちにアトムの生い立ちやこの曲のエピソードを話して聞かせ、子供たちはその話におもしろそうに耳を傾けていた。編集したプレイバックを聴いた樋口さんは、アウフタクトのリズムや歌詞の歌い方など、さらに細部にわたるリクエストを子供たちに伝え、もう一度、更にもう一度と録音を繰り返した。子供たちはその度に元気よく「はい」と返事をして、見事、そのリクエストに応えていった。
こうしてここに新たな生命を与えられた幻の主題歌は「地球(ほし)の歌」として甦ったのだった。

(文中、一部敬称を略させていただきました。)