このアルバムの特筆すべき点として、クラシックとポップスという異なるジャンルの作品が1枚のアルバムに収められているという点を挙げておきたいと思う。
樋口さんは、これまでポップス、クラシック、ジャズ、あるいはテレビ、映画、CM、舞台音楽など、あらゆる分野の音楽を手がけてきた。だが、その多岐にわたる音楽活動はこれまでひとつの情報としてまとめられる機会がなく、リスナーの多くは限られた情報の中で、彼の音楽性の一側面を知るにとどまらざるを得なかった。
このアルバムで初めて樋口さんの音楽に出会う人たちはある意味とても幸運だ。なぜならその人たちは最初の1枚で樋口さんの多彩な音楽性を知ることになるのだから。
「Track02」は樋口さん書き下ろしのピアノ・ソナタである。「Track02」はこのアルバムの主人公、アトムの宿命的な存在を表現したドラスティックな曲で、ピアノならではの
B0からF7までの広い音域が使われている。
いただいた譜面を見ながら、金子詠美さんの演奏を聴く。16分音符がぎっしりと並んだ譜面は、ツェルニー30番で挫折した私には右手のメロディーを追いかけるので精一杯だった。積み重なった加線の数に軽い眩暈を覚えながらも、私は初めて聴く「Track02」にただただ圧倒されていた。だが、その演奏は金子さん本来のものではなかったようだ。
音入れ開始から1時間以上が経過し、金子さんの演奏は少々パワーが落ちてきたというのだ。そこで一旦、昼食のため休憩をとることになる。
実はこの日私は、午後6時にスタジオに伺う予定になっていた。が、急遽「Track02」のレコーディングを見せていただけることになり、慌ててスタジオに駆けつけたのだった。しかし、我が家はスタジオまで片道1時間半の苦労多かるローカル住まい、私がスタジオに到着した時はすでにレコーディング開始から1時間以上が経過していた。
食事中は雑談に花が咲いた。この日、「Track06」のレコーディングの為、スタジオを訪れていた大島ミチルさんに別室でインタビューを行っていた濱田さんと岩田さんもコントロールルームに戻っていた。
近々予定されている金子さんの演奏会に話が及んだ時のことである。フライヤーの演目を見た樋口さんは「すごい大変だ。僕の手でも動かない」と唸った。すると金子さんは
「でもぉ、樋口さんのこの『Track02』も実はすごく弾きにくくって…」とご本人を前に大胆発言(笑)。「悪かったね!」樋口さんのこの返答に、一同大爆笑する。金子さんは「お会いしてみたら案の定、手の大きな方でした」と続ける。作曲家の手の大きさは作品に反映されるので、手の大きな作曲家の曲は弾くのが大変だという。ちなみに樋口さんは左手が11度届くという。人間、どこにどう伸びるかわからないもんである。
さて、そんな話題から今度は岩田さんが大島ミチルさんから伺ったお話を披露してくださる。樋口さんを師と仰ぐ大島さんは「樋口さんの曲を分析するのは難しいが、アナライズしようとすると四声にいきつく。編成が大きくても小さくても、必ず四声が横に流れている。四人が一緒に降りてくるんでしょう」と話しておられたという。(註・樋口さんは作曲する時、上から音が降ってくるという)
すると、それを横で聞いていた寺田さんが「四重人格ってことだ」と呟き、またまたスタジオに笑いの渦が巻き起こったのだった。
こうして爆笑スタジオバトルも終わり、昼食を無事に済ませた金子さんは、一足先にコントロールルームを出て、メインフロアに用意されたスタインウェイへと向かった。この日、レコーディングが行われたAスタジオは、天井が高く、55人編成のフルオーケストラが入る広いメインフロアを持つ。巨大なミキシング・コンソールを備えたコントロールルームは、そのメインフロアを見下ろす一段高い位置にあった。
昼食で完全にパワーを取り戻した金子さんは、再開1本目で見事な演奏を聴かせてくれた。演奏会なら完璧ともいえる出来だった。だが、プレイバックを聴き直した金子さんは1ヶ所だけどうしても気になる個所があるという。そこだけ弾き直して差し替えるのは音色やタッチの違いが表れてしまうので技術的に難しい。どうするのがベストなのか検討が始まる。結局、後半だけもう1テイク録ることになり、その演奏もすこぶるうまくいった。だが、それがかえって問題だった。オリジナルのテイクにも、弾き直したテイクにもそれぞれ良いところがあり、どちらのテイクを採用するかが、ふたつを聴き比べる作業を繰り返す中で検討された。そしてそれは納得のいく結果が出るまで続けられたのだった。 |
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