硯将彦(すずりまさひこ)は現在26歳である。


格闘技が大好きな父親の下に生まれ、子供の頃から様々な格闘技を習わされた。
柔道に剣道、空手に合気道、レスリングに総合格闘技。
習い事の他にも家に帰れば筋トレを欠かさなかった。


「男たるもの、強くなければいけない」


というのが父親の教えというか、考えだったからだった。

しかし、いくら親が期待しレールを敷こうとしても子供がそれに応えられるかどうかは分からないというもの。
その典型的な例が将彦だった。

将彦は筋トレのお陰で確かに体つきはしっかりとしていて、胸筋は見た目にはAカップぐらいの膨らみを持ち、
もちろん腹筋はチョコレートのように六つに割れていた。
片腕ずつ、女性をぶら下げてもビクともしないし、脱輪していた車を一人で助けたことは何度もある。

ところが、筋肉はトレーニングのお陰で付いても格闘技のセンスはそうはいかなかった。

子供の頃からあらゆる格闘技の習い事をしたものの、そのどれ一つとして極めることができなかった。

180センチを越える身長に、完成された肉体。

道場に見学に行くだけで


「ぜひ、うちの道場に」


と誘われることが多かったが、いざ通い始めると見た目とその能力に大きな差があることにすぐに気づく。
そのうち柔道では主に投げられる役に徹し、他の格闘技でも殴られ役や受け手側に徹する、または雑用係になるのがほとんど。

もちろん大会には出場したことはない。

父親はそんな将彦に失望していたが、将彦に合った格闘技があるはずだと諦める様子はなかった。
将彦自身はただただ父親に言われるがままに格闘技を習っていただけ。そこに自分の意志はない。

ほとんど全てのことを父親の指示で動いている将彦だったが、そんな将彦には父親に言えない趣味を持っていた。

それはは少女漫画を読むこと。


「男たるもの・・・」


といつも言われ続けた反動かもしれないが、少女漫画の世界に憧れていたが、
そのことを父親に言えるわけもなく、漫画は押入の奥底に隠していた。

寝る前にこっそり押入から出してきては、可愛い女の子がカッコいい男の子と出会い、恋愛している話を心を弾ませて読むことが唯一の楽しみだった。
まさか自分が漫画の世界のように可愛い女の子と恋愛関係になれるとは思っていない。

小学校の頃から周りの女子といえば、将彦のことを怖がって近寄っては来ない。
女子が憧れるのはあくまでも美少年であり、筋肉があったとしても細マッチョと言われる程度のもので、将彦のような体格の人間は気持ち悪がられる。
女子の代わりに近寄ってくるのは喧嘩目的の男子ばっかりだった。

そんな良隆にとって運命の出会いとなったのは、ある柔道の大会だった。

高校最後の大会だったが、将彦はいつものように雑用係として大会に参加していた。


「きゃー、沓山(くつやま)くーん」

「沓山くーん」

「きゃー」


普段は関係者や家族ばかりで、若い女の子の黄色い歓声が聞こえてくることがほとんどない会場内で、
その女子達の団体はひと際目立っていた。

しかも、彼女達が叫ぶ名前は毎回いろんな大会に雑用係として参加している将彦でも聞いたことない名前だった。
だからこそ、将彦は思わず彼女達が呼んでいる名前の主を目で探してしまった。


「沓山君、頑張ってー!」

「あ、こっち見た。きゃー」


まるでアイドルが会場にいるような騒ぎようだったが、その人物を見れば、将彦も納得するしかなかった。


「王子様だ」


自分と同じ柔道着を着ているはずなのに、そうは思えないほど清潔感に溢れていた。
沓山と呼ばれた彼は応援に来てくれた女子達の方をチラッと見ると、笑顔で手を振り声援に応えていた。

試合が始まり、組み手が始まると沓山が動くたびに


「「「キャー」」」


と黄色い声が聞こえてきた。

将彦は沓山と呼ばれていた人間はただの人数合わせで、すぐに負けてしまうだろうと思っていた。
別に沓山が憎くてそう思っているわけではなく、沓山と組んでいる人間は大会において優勝候補の一人だったからだ。
しかも、相手は大勢の女子の前で倒して自分が沓山のお株を奪ってやろうという魂胆が見え見えで、その目は闘争心に燃えていた。

そう予測していたのはなにも将彦だけではなかっただろうが、数分間の組合いの結果、
”ドン”という音と共に床に背中を付け、大の字で倒れ込んだのは沓山ではなかった。


「キャー、沓山くーん」

「キャー、カッコいいー」


女子達は沓山がどれほどのことをやってのけたのか分かっていないまま、黄色い歓声はひときわ大きくなる。
しかし、沓山は何事もなかったかのように、試合前と同じように爽やかな笑顔と共に彼女達に手を振って応えていた。

沓山に敗れた人間も、そして彼の実力を知っている周囲の人間は暫く声も出せない程だった。

将彦も試合を信じられない気持ちで見ていたが、沓山はその後も順調に勝ち進み決勝戦まで上り詰めることになった。

こうなると将彦だけではなく、誰もが無名の突如現れた強者に興味を抱くようになる。
将彦も他の人間と同様に沓山のことを教えてもらい、沓山の簡単なプロフィールを知ることになった。

沓山尚成(くつやまひさのり)は将彦と同じ、高校3年。

ただ通っている高校は県下でも有名な進学校で、その中でも沓山はトップクラスに入る。
このままいけばT大学の合格は間違いないと言われているが、本人は実にあっけらかんとしている、らしい。
顔もモデルにならないかとスカウトされるぐらいには整っていて、当然ながら女子にもモテる。

柔道は高校に入ってから運動不足解消のために始めたらしく、何度か大会に出るように勧められていたそうだが、断っていたらしい。
それが今回出ることになったのは、本来出場する予定だった人間が怪我で急遽出れなくなったからで、

「ちょっと気晴らしになるなら」

と言って出場することになったというのだ。

そんな暇つぶし程度の人間がまさか決勝に進むことになるとは誰も思っていなかっただろう。

将彦は観客席で決勝戦を見ながら、

『容姿端麗、頭脳明晰。本当に王子様みたいな人間っているんだな』

と思っていた。

将彦が所属している道場の人間は皆試合が終わり、一緒に決勝戦を見ていた。


「沓山君、頑張ってー!」

「沓山くーん!」


女子の声援に笑顔で応えている沓山はやっぱり王子様にしか見えない将彦だったが、


「何が『沓山くーん』だ、さっさと投げられろ」

「そうだ、そうだ、無様に負けてしまえ」


全く女子の応援を得られない男達は、その視線で人を呪うことができたならという程に違う意味での念を込めて沓山を睨んでいた。


「始め!!」


審判の声で試合が始まったが、1分も経たずに決着はついた。

”バシン”

気持ちいいぐらいの音、畳に人が打ちつけられる音に、誰もが固唾を飲んだ。

そして、次の瞬間には


「「「キャー!!」」」


女子達の雄叫びと、


「「「ぅおおおおぃ」」」


男達の落胆の雄叫びが入り交じった声が響きわたる。

将彦はいくら体重が変わらないといっても、体格差が大きい男を軽々と、そして優雅に投げ飛ばす沓山の姿に声を失っていた。
少し額に汗を浮かばせながらも、それを軽く頭を振って飛ばす姿に目を離せなくなる。

女子達は試合が終わるのを見届けると同時に、沓山を出迎えるべく選手の入退場が行われる出入り口へと向かい始める。
将彦も何となく女子達を追いかけるように席を立つが、周囲はまだ雑用が残っているのだろうぐらいにしか思わず、楽に抜け出すことができた。

女子達はそれぞれ手にスポーツドリンクやタオルを持ちながら、沓山が会場から出てくるのを今か今かと待っていた。
将彦もそんな女子に混じって同じようにスポーツドリンクを手に、立っていた。

まさか周囲の女子達は将彦も自分達と同じ沓山が目当てだとは思っていないようだったが、女子の中に頭2つ分程度大きく、
筋肉の固まりの男が立っていることには違和感を覚えていた。


「ねぇ、あの人・・・誰?」

「知らない。他の選手の関係者じゃない?」

「っていうか、邪魔だよね」


女子達の不躾な視線のまっただ中にいても、将彦はただ沓山をもっと近くで見たいという気持ちだけでそこに留まった。
そして、


「あ、沓山君!」


先頭で会場内を覗いていた女子が声を上げると、女子達がざわつき始める。
それは沓山が会場から出てくると絶頂を迎えることになり、


「沓山君、お疲れさま。おめでとう!」

「おめでとう!!これ、これ・・・」


一斉に群がる女子達を見ると、将彦はその戦いの中に身を投じることに躊躇った。

将彦が躊躇している間にも、当の沓山は


「ありがとー。ありがとねー」


と笑顔で女子に答えながら、少しずつ将彦の方へと向かってきた。


「く、沓山・・・くん、お疲れさま。良い試合だったな。優勝おめでとう」


小さな声で、言うべき言葉を練習していたが、いざ沓山が目の前を通るとなった時、


「く、沓山君。お、おめで、とう」


言いたいことの半分しか言えなかった。
しかも、『おめでとう』の部分は声が裏返るという大失態付きだった。

沓山は思わずといった感じで足を止めて将彦の方を見ると、


「ありがとう」


言いながら将彦が差し出したスポーツドリンクを受け取ってくれた。


「じゃあね」


しかも、別れの言葉付き。

女子達はその場に棒立ちになっている将彦を置き去りにして、沓山を追いかけて行った。
彼女達は将彦の前を通り過ぎる時、足を踏んだり、もしくは蹴ったりしていったが将彦自身にはそんなことを気にする余裕はなかった。


「ぅわぁぁあああ」


将彦はこの時、沓山の王子様然とした態度と笑顔に、すっかり心を奪われてしまったのだった。
そして、この時から将彦は沓山という最低な男から離れられなくなってしまった。

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