8.
良隆と別れた英華は不機嫌な表情を隠そうともせず、車に戻った。
「お嬢、どうでしたか?」
運転手役の男は鈍感なのか、英華にそんなことを聞いてくる。
英華は黙ったまま、いきなりヒールを履いた靴で運転席をドンと蹴った。
シンと静まり返る車内に、英華は気にした風もなく
「出して」
吐き捨てるように言うと、
「は、はい」
蹴られた男は背中にヒールの先を感じながら、慌てて車を発進させた。
助手席に座っている護衛は黙ったまま、触らぬ神に・・・という言葉を心の中で唱えいた。
ヒールは運転席に刺さったまま英華は靴を脱ぎ、次の作戦をひたすら考えようとしていた。
思考を集中させようとすればするほど、さっきの良隆の態度が頭の中を駆け巡り、フツフツと怒りが沸き上がってくる。
まさか良隆が断ってくるとは思っていなかった。
まともに人を見れない、オドオドとした態度の良隆のこと、
少しつつけば前中から離れていくだろう、自分から身を引くだろうと思っていたのが甘かった。
英華はどうにもモヤモヤとした感情を抑えられず、今度は素足で何度も何度も運転席を蹴ると
「くそ、くそ、なんなのよ、あいつ、私に、逆らって、くそ、あんな人間、くそ、あぁぁぁああ」
心に溜まった物を吐き出すように叫び、叫び終わったかと思うと
「許さない。絶対、絶対、許さないわよ・・・二人を別れさせてやるわ」
そう唸るように呟くと、
「パパと、それから吉見に電話して」
英華の父親である本山組長と若頭の名前を出した。
助手席に座っていた男は英華に逆らうことも、意見することもなく、
「分かりました」
とだけ言うと、携帯からすぐに英華指名の人物に電話を掛けた。
「はい、分かりました。こちらでも手配します。はい、失礼します」
英華からの電話を終えた吉見は大きなため息を吐き出した。
先日、組長である本山のお供として前中との会食の席に付いた。
お供と言っても、自分は本山の後ろで座っているだけ、話の流れを聞いていただけだった。
しばらく前、本山には前中から英華との縁談を断られたことを話していた。
前中からはこの話はこれっきりだと言われたことも伝えたが、
「お前の言い方がまずかったんじゃないか」
と本山に責められた上、
「お前に任せたのが間違いだった」
「こんな遣いもできないような人間に若頭を任せられないな」
と他の人間の存在をちらつかせてきた。
本山の罵声を浴びながら、吉見は自分が薄氷の上に立っているようなものだということを実感していた。
前中と英華が結婚すれば、確実に前中が次期組長であり自分にその役目が回ってくることはない。
そして、結婚が成立しなかった場合も組長は自分にその責任を押しつけ、今の役目を追われるだろう。
どう立ち回るのが得策なのか、それを考えている間にも本山が前中との会食をセッティングするようにと急かしてくる。
自分が直接話をすれば前中が動くとでも思っているのだろうが、吉見はそう上手くいくとは考えていなかった。
しかし、組長の言うことは絶対であり、何度となく断られながらもようやく会食の場を設けるところまでこぎ着けた。
本来なら上位組織の、しかも組長である本山自身からの正式な申し出を断るというのは考えられないが、前中はそれを厭うこともない。
この事柄だけでも前中の奇異な立場を実感することができたが、ようやく取り付けた会食の場でさらに明らかになった。
「どうして私が老い先短い人間と、食べたくもない料理を食べなければいけないんでしょうかね」
約束の時間を三十分以上遅れて来た上で、謝罪の言葉を述べることもしない前中に、本山は
「まあ、まあ、そう言わんと、ここの飯は本当に美味いんだ」
怒るどころか媚びるようにして前中の機嫌を取り始めた。
前中は薄ら笑いを浮かべながら、吉見の方をチラッと伺うと
「もうろく爺の相手も大変ですね」
そう言い放ち、料理を出すタイミングを計っていた女将には
「話はすぐに終わるので、間を置かずに料理はどんどん出してください。それから、お酒はこのお店で一番上等の物を」
と笑顔で告げてからようやく席についた。
本山の腹のうちはどうか分からないが、
「くだらない話とは、心外だな」
わざと大きな声で笑い飛ばしている雰囲気だった。
組長として、懐の広いところを示し、前中の態度を許しているという体だろうが、吉見の目から見るとまた違うように映った。
料理がどんどん運ばれる中、前中は優雅な手つきで料理を平らげていくが、本山は箸を持ったものの料理に手をつけず
「前中、この間はこいつが悪かったな」
吉見のことを箸で指し、あくまでも前中が縁談を断ったことを吉見の責任にしようとしていた。
「まあ、なんだ、可愛い娘をどこの馬の骨とも分からない人間に預けるのは親としても心許ないんだ。分かってくれるだろ」
本山はある意味で滑稽なほどの口調で前中に言い募るが、
当の前中は聞いていないのか、口元に料理を運ぶ手はいっこうに止まらない。
「その点、お前なら安心して任せられる。
もちろん、俺が引退した後はお前に組を仕切らせるつもりもある。どうだ?」
吉見の位置からは本山の表情は見えなかったが、前中が本山ではなく自分の顔を見て笑うのは正面から見えた。
前中の意図は分からなかったが、前中はある程度の食事を終えると
「もうろく爺の戯れ言だと思って今日のことは聞かなかったことにします。
そちらの吉見さんに言いましたが、私はじゃじゃ馬を飼う余裕は残していませんし、
そんあ余裕があるなら恋人との時間にあてさせてもらいますので、あしからず」
と言って立ち上がる。
「お、おい」
本山が思わず腰を上げるが、そこに仲居が新たな料理を持って入ってくる。
「あの・・・」
帰ろうとしている前中と慌てた様子の本山に視線を彷徨わせていると、前中は
「後の料理は彼が食べるので」
と吉見のことを指すと、笑顔で
「それじゃあ。
ああ、そうでした・・・この話は、本当に、これで最後にしてくださいね」
部屋を出て行ってしまった。
「おい、前中。ちょっと待て・・・、おい、吉見!お前もボーッと座ってるんじゃねぇ」
「は、はい」
本山の言葉に急いで前中を追いかけると、意外にも前中は玄関の手前であっさりと捕まった。
それは、吉見が来ることを予想して待っているようにも見えた。
「いいのか、これで・・・オヤジは簡単に諦める人間じゃないぞ。それに、お嬢だって」
吉見が忠告のつもりで言うが、前中は気にした様子もなく
「分かってますよ。でも、あなたも不幸な人ですよね」
「何がだ」
「棚ボタ的であれ、せっかく若頭まで上り詰めたと思ったのに・・・
万が一、私があのじゃじゃ馬と結婚すればあなたは一生組長になれない。
だからといって、私がこの話を断り続けても、あなたはこの責任を負わされる可能性が高い・・・そんな感じじゃないですか?」
「オヤジは・・・」
自分がもしかしたらと考えていたことをピンポイントで言い当てられながら、吉見はそれを否定する言葉が見つからなかった。
あまり本山のことを知らないだろう前中がそう言うのだ、
きっとこの話がまとまらなかった時には役立たずの烙印を押され今の地位を追われることは間違いないのだろう。
「身の振り方、考えた方がいいのは、そちらじゃないですか?」
前中は笑みを浮かべると、「それじゃあ」と言って去っていった。
前中を見送った後、座敷に戻れば当然ながら本山から叱責を受けた。
黙って頭を下げながら、前中の言葉を思い出していた。
そして、本山の顔を見ると唐突に思った。
―― このままではダメだ ――
と。
「くそ・・・このことがどこかに漏れたら」
本山は焦っていた。
昔は鼻にもかけていなかった、下部組織の前中という存在が、今や自分を通り越して広く知れ渡った人間になっていることに。
組の集まりに出ても、出てくるのは前中の名前ばかり。
前中自身は下っ端であり、その場に出席することはないが
「あんな優秀な駒を持っているのは最大の強みですな」
「そうそう、確か虎城組長とも繋がりがあるとか」
「ずいぶん儲かってるらしいですな、羨ましい限りです」
笑いながら話しかけてくる連中の、それが本心からの言葉ではないことは本山にも分かる。
親団体の組長である本山も知らないことを聞かされることもあり、話を聞きながら本山は心の中で歯ぎしりをするばかりだった。
周りの人間は本山が前中を飼い慣らせていないことを分かっているのだ。
だからこそ本山は前中を娘婿として自分の懐に入れ、前中に首輪を付けるつもりでいた。
前中も極道という組織の一員である以上、本山の言葉に感謝こそして、逆らうとは思わなかった。
ましてや、将来的に本山の組を手に入れることができるという美味しい条件も提示されているのに。
今回のことが他の組の耳に入ったとしたら、ますます本山は嘲笑の的になるだろう。
少し前まではこんなことはなかった筈だ。
本山組と言えば、親団体である松山会の覚えもよろしく、何か問題が起これば先頭に立って血気盛んに相手の組に乗り込んでいったことも一回や二回ではない。
ところが、時代は変わり本山組を取り巻く環境や懐事情も変わっていった。
他の組から一目置かれていた存在だった本山と本山組は、時代遅れと揶揄されることが多くなっていった。
だからこそ、本山は今の立場を守ることに必死だった。
それには前中をうまく飼い慣らすことが必須。
何が何でも娘と前中をくっつける必要があるが、肝心の前中には恋人が、それも男の恋人がいる。
この恋人がいなくなれば・・・本山が思案しているところに
「組長、お嬢から電話です」
タイミング良く娘から電話が入った。
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