1.

「良隆さん、お別れしましょう」



良隆は前中のその言葉に、頭が真っ白になってしまった。

それと同時に、どこかで「ついにその時が来たんだ」と思っている自分がいることも分かっていた。



『どうしてこんなことになってしまったんだろう』



そう思いながらも良隆はただ頷くことしかできなかった。















この出来事の数ヶ月前のこと。


「社長、それから今日は19時半から吉見(よしみ)さんとの会食となっています」

秘書が午後からの予定を伝えている間、前中はパソコン画面に映し出されている恋人のあられもない姿をひたすら堪能していた。

そして、聞き終わった後の感想は


「面倒くさい」


のたった一言だった。

「最近、吉見さんからのコンタクトが多くないですか?」

「はい。間違いなく社長との繋がりを強くしたいという思惑だと思います。去年の福平(ふくひら)さん失脚後から頻回に・・・」

「私は別に・・・これ以上親しくしたいなんて思ってないんですけど」

「ですが、社長と親しい、何度となく食事を交わす仲だというのは他の組や、自分の地位を脅かそうと画策する人間を暗に牽制する意味でも有効ですから」

「でも、私が逆にその地位を奪いかねないとは思わないようなら・・・バカですよね」

前中の言葉に、秘書は思わず

「そういう心づもりでも・・・?」

と聞き返したが、前中はニッコリと笑顔を顔に張り付かせながら

「これ以上面倒な仕事が増えるのはゴメンです。私は恋人と過ごす時間を大切にする男なんですから。
そうですね、もっと暇になるというのなら上を目指してみてもいいですけど・・・」


パソコンに大きく映し出された恋人の顔に指を這わせると、


「良隆さんとの仲を邪魔するようなら容赦はしませんが。
まだまだ良隆さんにしてあげたいことも、覚えて貰いたいこともたくさんあるというのに、会えない日が多いと思いませんか?」

その唇をゆっくりとなぞる。

秘書はそんな前中に対し、特にコメントはせず

「とは言っても、表向き吉見さんは上司ということになっていますから。それから、今日に限っては大切な話をしたいと言われていましたので・・・」

それだけを伝える。
ただ、そんな秘書の言葉に対して前中は

「向こうにとっては大切な話であったとしても、私には良隆さんの電話以下の重要さだと思いますけど」

チクチクと嫌みのような言葉を重ねる。

「とにかく、明日は御木さんとの食事なので無理だと思ったので、なんとか今日にしてもらったんで・・・お願いします」

秘書は『どうして俺がお願いしなくちゃならないんだ』と少し疑問を感じながらも、
これ以上この場にいればさらなる口撃に合うのは必至だと、「それでは、今日の伝達は以上です」と話を打ち切ると社長室から早々に退散することにした。




社長の前中は表向きは青年実業家としていくつかの会社を経営しているが、それはあくまでも表向き。
その裏では広域暴力団松山会の三次団体に当たる楠本組の若頭として暗躍していた。

立場的には三次団体と弱い立場のように思えるが、それも表面的な部分だった。
前中個人だけを比較対象にするなら、むしろ親団体である松山会の幹部からも一目置かれる人物として有名だった。

それは組に多大な利益をもたらす人間であるという点や、人を人とも思わない残忍な性格をしているという点、
その二点だけでも現在の経済ヤクザとしての資質は十分で、上を目指そうと思えば突き進んでいく力を持っている。

しかし、前中本人にはそんな気は全くといって言いほどになく、気まぐれに残酷とも言えるゲームを思いついては遊んでいる。
むしろその方のが楽しいと公言していた。


そんな前中の秘書は多忙を極める。


少しでも前中と親しくなりたい、あわよくば自分の懐に入れたいと考える人間は多く、会食という名の接待申し込みは多かった。
その数は増えることはあっても減ることはない。

一方で、最近は以前より増して調整が大変になっている。

それもこれも、前中に恋人ができたからだ。

秘書はもちろんのこと、前中という人物を知る人間は全員、前中という人間に恋人というものが出来る日が来るとは想像できなかっただろう。
前中の身体には青い血が流れているとか、悪魔だとか言われ、恋という人を慈しむような感情があるとは考えられなかった。

そんな前中に恋人が出来たというだけでも衝撃の事実だったが、まさか恋人至上主義に走るような人間だったとは露ほどにも予想していなかった。

恋は人を変えるとはいうが、前中は異常なほど恋人に執着するような人間へと変わった。

まず、恋人の行動は逐一、全て、一欠片でも知りたいようで、秘書の手元には毎日のように前日の行動一覧が届くことになっていた。
さらに、家での様子を知りたいということから恋人のパソコンに不正アクセスをして、盗撮をする。

盗聴の類はまだしていないが、これは恋人の携帯がスマホではないため、不正アプリを使うことができずにいるだけのこと。

前中は何気なくスマホを勧めているが、なかなか恋人は頷いてくれないようだ。



こんな自分の知らない所で監視されている状態、普通の神経だったら耐えられないだろう。
しかし、幸いというのか前中の恋人は少しばかり普通とは言いがたい人間だった。


人付き合いは苦手中の苦手、そして鈍感であり、良いように言えば純粋であった。
だからこそ前中と一年以上もの間恋人関係でいられるのかもしれないが、その分秘書の仕事、というか雑用は増える一方だ。




「先に始めさせてもらってます」


この夜、とあるイタリアンレストランの個室に到着した時にはすでに相手はワインを何杯か呷った後のようだった。
約束の時間から三十分を過ぎていたが、前中は遅刻に対して謝罪する気もなく、また相手も謝罪を求めることもなかった。


「何か呑まれますか?」

「いえ、遠慮させていただきます」

前中はやんわりと断った上で、給仕に

「料理を」

と促した。


まるで前中の方が立場が上のように見えるが、実は相手の方が楠本組の上位組織にあたる本山組の若頭で、肩書きだけなら前中よりも格上だった。

しかし、実力だけで照らし合わせてみれば前中の方が格上であり、若頭という今の地位ですら前の人間が前中の逆鱗に触れたことで追放されたから転がり込んできた、棚ぼた的な地位であることは十分理解していた。

だからこそ前中の機嫌を損ねてはいけないという思いと、どうにかして前中という後ろ盾を武器に、自分の立場を確固あるものにしたいという思惑があった。


「で、今日は何か大切な話があるとか?」


前中は前菜を口にしながら、早く話せとばかりに話題を振るが

「まあ先に食事を楽しんでからでも・・・ここの食事は美味しいんだ」

微妙な自分の立ち位置に、吉見の口調も定まらないものになってしまう。

ただそんな吉見の気持ちや立場を理解しながらも、思いやる気持ちを持ち合わせていない前中は

「残念ながら、私は吉見さんと一緒に食事をしても楽しいとは思えないんで・・・
確かにここの食事は美味しいかもしれませんが、それ以上のものが得られるとは思えませんから。
一方で、もし私が愛する人と一緒ならたとえ路地裏の古びた居酒屋で食事をしたとして、味はいまいちでも私は十分食事を楽しむことができると思います」

そう言ってバッサリと言い捨てた。


吉見は顔を引き攣らせるだけで黙っていた。
ここで前中に楯突くことは良い結果は生まないということを分かっているからだが、吉見の護衛役は耐えるということを知らなかったようで、

「前中ぁ。お前、若頭に向かって舐めた口きいてんじゃねぇぞ」

と店の雰囲気をぶち壊すような唸り声を上げた。


そんな一見すると一触即発な雰囲気も、前中は気にすることもなく

「頭ではなく、筋肉とお友達な人は放っておいて・・・大切な話っていうのは何なんですか?」

もう一度、同じ言葉を重ねただけだった。


ここで前中の後ろに控えていた秘書はチラッと吉見の後ろに視線を移した。

筋肉バカと言われた護衛がここで黙っているとは思っていなかった。
前中の挑発に気づいていないのか、黙っていられないのか、だからこそ筋肉バカの真骨頂ということだろう。

前中が食事の手を止めることなく、皿の上に彩りとして添えられているトマトを口に入れたところで、


「前中ぁ、てめぇ」


良く言えば血気盛んな、悪く言うならバカな護衛は大きな音と共にテーブルの上に手を突き、前中の顔を覗き込むようにして威嚇した・・・つもりだった。

そんな部下の行動を吉見はあえて止めなかった。
自分が言えない分、男の行動に『よくやった』『もっとやれ』と心の中でほくそ笑んでいた。

前中の秘書もこの展開をあえて止めに入らなかった。

なぜなら、

「あ?」


秘書が止めに入るよりも早く、前中が持っていたフォークは見事に男の手のひらに突き刺さっていたからだ。

男の方はあまりに素早い行動に、何が起こったのか分からなかったようだが、


「ぅわぁあぁあ」


理解すると同時に大きな声を上げてその場に転げ回ることになった。
幸いしたのは、フォークが机に貫通していなかったことだろうか。

吉見の表情は凍りつき、秘書はただ無表情で男がのたうち回るのを見下ろしていた。

前中はといえば、

「ああ、残念。やっぱりこんなサラダフォークじゃあ貫通まではいかなかったですね。
骨が邪魔だ」

本当に残念だという風に言えば、

「いつまでもそこで転がって喚いていられると、次の料理が遅れてしまうんですけど」

と男の側頭部を靴で押さえる。
そして、男の手に刺さったままのフォークを抜くと、迷わず男の喉元へと突き刺した。

当然喉にフォークを刺された男は叫びたくても叫べず、ただ口をパクパクと魚のように開け、ヒューヒューと息の音だけを発していた。

言葉を失い、茫然と状況を見ている吉見に対し、秘書が冷静な声で


「吉見さん、早くこのゴミを片づけてください」


そう指示した。

吉見も頭ではそうしなければと理解しているつもりだったが、

「あ、ああ・・・」

と言ったきり、次の言葉が出てこなかった。

秘書は軽くため息をこぼすと、フォークを突き刺したままの男の髪を無造作に掴むと

「おい、こいつを処理しておけ」

部屋の外に待機していた人間に渡した。
床には男が流した血液が残っていたが、別の人間が入れ替わるように入ってくると綺麗に処理をして再び出ていった。

「ようやく静かになりましたね」

前中はそう言うと、給仕に次の料理を持ってくるように伝え、再び


「で、お話って何ですか?」


とニッコリ。

吉見はもう話をはぐらかすこともできず、


「実は、前中・・・さんに、縁談の話があります」


話を切り出すしかなかった。



 NEXT