当然ながら会は荒れた。
虎城が次の会長に推薦されるだろうという予想を大いに裏切る話だった。
桂に解散を撤回するように求める声が広間を覆い尽くしたが、虎城は気にする様子もなく雛鳥に餌を与えるかのごとく密の口にご飯を運んでいた。
「虎城!お前が何か企んでるんだろう」
しばらくすると、火の粉は虎城にまで飛んできた。
「何か言えや!」
いきり立った男の一人が虎城の前まで来ると、怒りのボルテージを上げたまま、虎城の膳を蹴り上げた。
まだ残っていた食材が床に散らばり、それに驚いた密が一瞬で固まった。
それまでどれだけ場が騒然としていても動じなかった密だったが、
「ゃあああああ」
と一際大きな声で悲鳴を上げた。
野太い男達の声の中でも甲高い子供の声はよく通る。
そして、
「密、みーつ。大丈夫だ。大丈夫だから、な」
まだ悲鳴を上げ続けている密を宥め始めたのは虎城だった。
虎城は誰が聞いても驚く程に甘く、優しい声で密に話しかけると密を抱いたまま立ち上がった。
虎城の膳を蹴った張本人はまだその場に立ち尽くしたままだったが、
「おい、そんな子供に構ってる状態じゃねぇだろ」
虎城がそのまま広間を出ていこうとするのを悟ると、再び追いかけようとする。
この時、ある意味で静寂を取り戻していた広間には
「うるせーな。密が嫌がってるだろうが」
低く唸るように言葉を吐き出す虎城の声がよく響き、その声と共にバコッという音も耳に届いた。
そして、
「密、庭でも見に行くか」
虎城は何も無かったように、蜜を連れて広間を出て行ってしまった。
広間の出入り口付近、虎城を怒鳴りつけた男が大の字になって倒れていた。
誰もが声を出すことを忘れてしまったかのように黙っていたが、虎城の綺麗なハイキックが倒れている男の側頭部を直撃したのを目の当たりにし、もう少しで自分が男のように倒れることになっていたと想像していた。
そんな中で桂の側近はいち早く部下を呼ぶと、倒れた男を広間から連れ出した。
桂は静かになったのを見計らい、口を開く。
「今月末で桂樟会は解散するが、希望する人間は虎城組が引き受けてくれるそうだ」
「会長、それは実質的に桂樟会が虎城に取り込まれるってことじゃないですか!?」
思い出したかのように再び男達の怒号が広間に響き渡ったが、桂はそれには答えず広間を出て行ってしまった。
「「「会長!!」」」
桂を追いかけようとする人間達の前には桂の側近達と、虎城の護衛達が立ちふさがり、道を塞いだ。
「終わりましたよ」
機嫌を直した密を膝に乗せ、虎城は密が前に来た時に気に入った庭を眺めていた。
そんな二人に八嶋が近づいていく。
虎城はチラッと八嶋の方を見ると、
「いいパフォーマンスだっただろ?」
と笑った。
「密も良いタイミングで声を出してくれたからな。な、密」
「んー?」
虎城の声に密は反応を見せるが、首を傾げると再び庭へと視線を戻す。
庭を見れば白や黄色の羽を持った蝶々達が飛び跳ねている。
「これから忙しくなるな」
「本当ですよ」
「使えないバカ達は処分だ」
「そのバカ達が多いので処分が大変なんです」
「確かに、処分の仕方に迷うな」
「最後は家畜として売り飛ばしますよ」
虎城と八嶋の話を密が理解している筈もなく、密は綺麗な蝶に夢中だった。
「密、ここにも蝶がいるだろ」
虎城は笑いながら密の着物の柄を示すが、密はその言葉が聞こえていないのか、
「ああぁ、あぁあ」
庭を飛んでいる蝶に手を伸ばそうとしている。
「しょうがねぇな」
虎城はそう言うと、密を抱いたまま庭に足を踏み入れた。
しかし、蝶は密の目の前まで来るがその手に捕まることはない。
それでも密は楽しそうに声を上げている。
「密、しばらくはうるせぇが絶対に俺はお前を離さないからな」
そんな密を抱きしめた虎城は、密の唇に初めて自分の唇を重ねた。
密は驚いた顔をしたが、今までも頬や額にキスをされた経験があるため嫌がる素振りはなかった。
虎城はその後も何度か唇を重ねた後、密の口に舌を入れる。
無防備な密の舌を虎城は絡め取るが、密は甘く濡れた声を漏らすだけだった。
そして、いつも虎城を夢中にさせる密の香りもより一層その甘さも濃度も増した気がした。
虎城組に桂樟会が吸収されるということはすぐに広まった。
次の日からは杯を交わしたいという連絡や、逆に脅迫めいた電話で事務所は慌ただしく動いていた。
「勇生、お前・・・」
そんな中、虎城自身と父親は組事務所の一室で久しぶりに対面することになった。
「分かってると思うけど、今月で引退してもらうから」
「お前・・・」
「何?俺と張ろうっていうつもりか?そんな力も金もあるのかよ」
「くっ・・・」
「まあ、大人しく田舎で畑でも耕してろよ。組は俺が今以上に大きくしてやるから」
虎城が一方的に父親に引退勧告を突きつけると、
「じゃあ、俺はこれから忙しいから」
部屋から出ていった。
父親はそれ以上ごねることはなかったが、
「勇生、あなたどういうつもりなのよ」
と桂の娘である貴美子は簡単に納得することはなかった。
家に寄りつかない虎城を追いかけ、組事務所まで乗り込んできた。
しかも貴美子は一人ではなく、桂に付いていた古参の幹部数人と一緒に。
虎城は応接間に席を設けたものの、
「どういうつもりも何もない。会長が解散だって言ったのは事実で、そこで路頭に迷う可哀想な組員達を虎城組が引き受けるってだけだ」
「そんな解散って簡単に・・・」
貴美子は一旦言葉を切ると、
「あなたが父さんに何か言ったんでしょ」
「そうだ、お前が会長に何か吹き込んだんだろう」
「会長が、あの会長が俺達に何も言わずにこんな大切なことを決めるなんてことはありえねぇ」
口々に話す言葉は徐々にヒートアップしていくが、虎城は素知らぬ顔で聞き流している雰囲気だった。
それが貴美子達の怒りをさらに助長させるということも虎城は十分理解していた。
貴美子達が息継ぎのために一瞬場が静まったところで虎城は立ち上がると、備え付けの電話に手を伸ばした。
「ああ、俺だ。お客様がお帰りだ」
「な、勇生!話は終わってないわよ」
貴美子がソファから勢いよく立ち上がったが、
「失礼します」
八嶋が入ってくると、虎城はさっさと部屋を出て行ってしまった。
残された人間は
「お気をつけてお帰りください」
と有無を言わさず八嶋によって追い出されてしまった。
そして、八嶋が虎城の元へと報告に戻ると、
「まあ、あれだな。1週間もしない間に鉄砲玉でも寄越してくるだろう」
「そうですね。あれだけ焚き付けてくだされば、何も問題はないかと」
虎城は事務所から吐き出されるように出ていく貴美子達を眺めていた。
「バカはすぐに頭に血が上るからな」
「奥様はどうしますか?」
「放っておけ。バカ共を釣る餌にはなるさ」
「きっとこの出来事を聞いた連中は奥様にアプローチを掛けにいくでしょうね」
「ああ」
八嶋の言葉に虎城は暫く黙り込む。
そして、
「密のとこには帰れねぇな」
「そうですね。今までのようにというのは無理でしょうね」
大きなため息と共に虎城の口から言葉が漏れる。
さらに虎城の言葉に八嶋が同意すれば、虎城のため息はさらに深みを増すようだった。
「密に忘れられる前にケリをつけねぇとな」
「そうしてください」
それから約2週間の間に虎城は2回襲われ、囲っている愛人達も何度か危ない目に遭っていた。
しかしそのどれも未遂に終わり、虎城達は命令を下した人間を次々に容赦なく処罰していった。
そんな中、密は襲撃を受けることも危ない目に遭うこともなかった。
それも、当初からセキュリティが万全なマンションを選んでいたことや、虎城と八嶋以外の誰もが密のマンションに入るセキュリティの解除方法を知らなかったことも良かったのかもしれない。
ただ、虎城と八嶋以外の出入りが制限されていることで密が一人で過ごす時間が多くなった。
虎城はなるべく密が狙われないようにと、今まで週4回訪れていたのを週1回ペースに変更した。
その代わり虎城は密がいるマンションの部屋にペットカメラを設置し、逐一密の行動を観察している状態だった。
「今日も密はテレビの前だな」
「そうですね。私が行ってもあまり喜んではくれませんし・・・」
八嶋の言葉は密かに虎城を喜ばせるものだった。
「歩く練習は?」
「少しぐらいなら何も持たずに歩けるようになりましたよ。ただ、勇生さんが傍にいると分かりませんが」
「なんでだ?」
「あなたは密が歩こうとする前に抱き上げてしまいますから。密もそれが分かっているから、あなたがいる前では歩こうとしないんですよ」
「そうかぁ?」
「少し自覚してください」
虎城は笑いながら再びカメラの映像を眺めながら、
「あと少しの我慢だからな」
と密に対してなのか、自分に対してなのか分からない台詞を呟いた。
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