中性浮力と無重力  

(2013年9月4日作成
9月21日修正)


 国際宇宙ステーション(ISS)の中で活動している宇宙飛行士は足が床についていない。手を離したノートや鉛筆もぷかぷかと漂っている。今やTVで何時でも目にする光景になってしまった無重力状態である。

 国際宇宙ステーションは地上400Km程度の宇宙空間を飛行しているので、宇宙ステーションに作用する重力は地表の重力の約89%の大きさである。
    (参考: 6370^2/(6370+400)^2=0.89 )

  重力は働いているにも関わらず、無重力状態になっているのは遠心力と釣り合っているからと説明されてきた。秒速8Km近くの速度で地球を周回する宇宙ステーションには遠心力が働いているというのである。宇宙ステーションは水平方向に速度を持っているから地表に達しないが、地球に対して自由落下の状態にあることは、真下に落ちる自由落下と変わらない。

  重力と遠心力(または、慣性力)が釣り合っているので無重力状態であるという説明はニュートン力学の教えるところであり、誰も不満は抱かなかった。ところが、100年前に一人の科学者が、自由落下により重力が消えることに気がついた。アインシュタインである。

 無重力状態になっているのは、重力と遠心力という力と力の釣り合いではなく、重力そのものが消えている。無重力状態というまでもなく、無重力なのである。アインシュタインはこの発見に力を得て、難解な数学に取り組み一般相対性理論を確立した。

 一般相対性理論は、当初はあまり注目されなかったものの、いくつかの観測事実で裏付けされるや大騒ぎになり、今や殆どの科学者が正しい理論として認めるところとなった。アインシュタイン自身が講演先のあちこちで、自由落下により重力が消えるということが、自分の生涯で最高のアイデアであったと語っている。

 アインシュタインが気がついた自由落下により重力が消えると言う事実は、重力が実際の力ではないということを意味するのである。このことを補足説明した後世の科学者がいなかったわけではないものの、未だに放置されたままである。例えば、去年発刊された次の解説書でも重力は力として説明されている。

  「面白くて眠れなくなる物理」、佐巻健男、2012年、PHP研究所
  「重力とは何か」、大栗博司、2012年、幻冬舎
  「これが物理学だ」、ウオルター・ルーイン、2012年、文芸春秋

 宇宙ステーション内の無重力状態が力と力の釣り合いでないならば、力と力の釣り合いによる無重力状態というのはあるのだろうか。幸いなことにあるのだ。

 地上で長時間の無重力状態を模擬するための施設がある。NASAのヒューストンには大きなプールに水を貯め、宇宙ステーションのモックアップを沈めて宇宙飛行士が操作性の確認や訓練をおこなっている。JAXAの筑波宇宙センターにも、同じ目的で深さ10m、直径16mの、WETS(Weightlessness Environment Test System:無重量環境試験装置)という名称タンクが作られた。現在は役割を終え、既に撤去されてしまった。

 ウエットスーツを着て腰に付けたウエイトが丁度合っていると、水中で浮くこともなく沈むこともない状態になる。この状態を中性浮力(Neutral Voyancy)と言い、無重量環境の訓練に使用したものである。水中での活動は水の抵抗が大きいので、宇宙ステーション内とは明らかに異なる。しかし、足が地に着かない状態など、ぷかぷかと浮いた状態は模擬できる。

 運動に対する抵抗の違いの他に、中性浮力は宇宙ステーション内の無重力状態とは異なる要素がある。それは中性浮力は力の釣り合いによる無重力状態であるということである。中性浮遊にある物体は浮力と物体の重量とが釣り合っている。浮力は物体の表面に作用する圧力の総和である。物体の上面の圧力より下面の圧力の方が大きく、この差分の総和が重量と釣り合っているのである。

 浮力と釣り合うのは重力ではない。重力は力でなく加速度なのだから浮力という力と次元が違うから釣り合えない。重力という加速度に抵抗して運動を阻害すると、その重力加速度に質量を乗じただけの慣性力が働く。これが重量である。従って、浮力と釣り合う力は重量(または、重さ)なのである。

 レプトケファルスという魚はアナゴ、ウナギ、ハモなどの幼魚であるが、体が透き通っていて見つけにくい。思考実験としてこのような魚の理想的な状態を考える。骨や眼なども体の密度は全て水と同じであるならば、どんな形状であっても完全に中性浮力の状態となる。このような中性浮遊は水深によらない。何mの深さにあろうとも無重力状態を保てる。違いは体の中に圧力がかかっているということである。水中での中性浮力状態が力の釣り合い状態であることは圧力センサーを付ければすぐ判る。


 自由落下による無重力状態が力の釣り合いではないことは、圧力センサーで検知できないことからも判る。もっとも、宇宙ステーション内部には1気圧の空気が詰められているので、体の中に圧力センサーを付ければ1気圧を示してしまう。しかし、この圧力は重力ではなく生命維持のために地上の大気圧を模擬しているだけである。

 無重力状態の生態を研究するためにメダカがスペース・シャトルで宇宙飛行をしたことがあった。このとき、メダカは小さいものの水槽ごと運ばれ、大気圧も加わっていた。地上での水面近くを泳ぐメダカとの環境の差は小さかったと推察される。レプトケファルスでも上下をどのように感知して泳いでいるのか不思議なことである。重力を検知する器官が備わっているのであろう。

 逆に宇宙ステーションの中で地上の中性浮力の状態を模擬することを考える。宇宙ステーションの中に密閉した水タンクを持ち込み、その中に宇宙飛行士が呼吸のためにアクアラングを付けて入り込めばよい。水圧は1気圧をかけて置く。2気圧にすれば水深10mの中性浮力と同じとなる。圧力勾配がない違いがあるが、宇宙飛行士が地上の中性浮力との違いを感じることは出来ないだろう。

 アクアラングを付けて水中に潜って見ればすぐ判ることだが、水深10mであろうと20mであろうと、中性浮力の状態に差を感じることはない。圧力は2気圧と3気圧の差があるにも拘わらずである。タンクの空気使用量は多くなるが、水深40mでも50mでもダイバーが圧力の大きさで苦しくなることはない。30m以上深く潜ったときは浮上に時間をかけないと潜水病になるという制約はある。アクアラングでも100m以上深く潜ることはまずないが不可能ではない。素潜りでもマイヨールは100mを超える世界記録を持っている。

 戦闘機のパイロットは急激な旋回飛行をする際にかかる高Gに耐える訓練をする。耐圧服は下半身に圧力をかけることにより血液が下半身に集中することを避ける工夫である。耐圧服を着ても7Gを10秒間耐えるのはきついことであろう。下手をすれば気絶したまま生還できない。

 ところが7Gであろうと10Gであろうと人間がかなりの時間に耐えられる方法がある。ゴンドラを水槽にして水を貯め、その中に操縦士はアクアラングをつけて乗るのだ。7Gの加速度を受けた水槽の水は水槽の深さによって異なるがせいぜい水深10m程度の圧力にしかならない。つまり、ゴンドラの中の操縦士は水深10mでの中性浮力の状態におかれる。場所による圧力差ができるが水と体はどの部分でも釣り合うので中性浮力であることには変わらない。どちらかと言えば無重力状態のままである。これならば1時間でも7G状態でいられるだろう。水深10m程度なら潜水病になる心配もない
 


 さて、もう少し思考実験を続けよう。このゴンドラをだぶだぶの宇宙服に置き換えて中を水で満たせば同じではないか。操縦士はこれで7Gでも10Gでも生き延びられる。しかし、内圧が7気圧、10気圧にも持つような宇宙服は存在しない。強度的に無理なのだ。現在宇宙ステーションで宇宙飛行士が着用している宇宙服の内圧は0.4気圧程度である。このため、空気では呼吸が苦しいので純酸素を吸っている。

 有人ロケットの設計においては、打ち上げ時に加速度が大きくなり過ぎないように考慮しなければならない。大きな推力のロケットを使い、重力に抵抗する飛行時間をなるべく短くした方が性能上で有利なのだが、有人ロケットでは加速度制限を考慮せざるをえない。

 高い加速度を気にしない有人ロケットを打ち上げる方法がある。強度の大きい宇宙服は当分作れないとしても強度の大きな水タンクなら作れる。燃料タンクのようなものだから。宇宙飛行士がこの水タンクに浸かったままで打ち上げられれば10Gの加速度が1分続こうが2分続こうが、宇宙飛行士は無重力状態のまま飛行できることになる。水タンクの質量が余計なペイロードになることは確かだが。
 
(了)


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