たのしい授業in和歌山

太田城の水攻めと中世の終わり

 戦国時代末期の和歌山の地域史を題材にした授業のための教材です。ページ構成についてはまだ構築中ですが、内容はこれでほぼ完成しています。

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ISTUMOさんのページ:雑賀党・太田党の史跡の写真多数

身分制度の社会

 江戸時代の日本の社会は「身分制度」の社会ともいわれています。生まれつき武士・ 農民・町人などという身分(とそれにもとづく職業)が決まっていたのです。現代の社 会のように自由に職業を選ぶことはできませんでした。武士は、刀・槍・鉄砲といった武器を持つことができ、その武器の力で他の身分の人々を支配していました。
 このような身分制度は、江戸時代以前からずっと続いていたのでしょうか。

【問題1】

1) 江戸時代以前の社会でも、農民が商人になったり、武士になったりというように 身分が変わることをきびしく制限されていたのでしょうか。

 ア.身分の移動はきびしく制限されていた。
 イ.江戸時代より、ずいぶんゆるやかだった。

2) 江戸時代以前の社会でも、武士と同じように武器を持つことを農民は禁止されていたでしょうか。

 ア.江戸時代と同じく、禁止されていた。
 イ.江戸時代とは違い、禁止はされていなかった。


戦国時代の戦う農民と地侍

 江戸時代が始まる頃までの約120年間は「戦国時代」といわれます。日本各地で広い 農地と農民を支配した大領主である大名(強大な武士)がたがいに領地を取り合う戦争 をしていました。 この戦乱の時代には、農民も武器を持っているのが普通でした。自分達 の土地や財産を守り、増やすために武器を持って戦ったのです。 当時、日本にやってきて いたポルトガル人のキリスト教宣教師ルイス・フロイスは

「日本では今日までの習慣として、農民を初めとしてすべての者が、ある年齢に達 すると、大刀と小刀をもつことになっており、(中略)彼らは不断の果てしない戦 争と叛乱の中に生きる者のように、種々の武器を所有することをすこぶる重んじて いる」

と書き残しています。
 なかでも、たくさんの農地を持って、耕作する農民から年貢を取り立てる地主となっ た有力農民は、武器をそろえ、配下に農民を従えていました。このような地主をしてい る農民は武士との区別もあまりはっきりしませんでした。このような農民と武士をかね たような豊かな農民を「地侍」「土豪」「国人」などといいます。
 地侍や農民たちは、その土地を支配する領主(荘園領主や大名)に従い、年貢を納め ることになっていました。しかし、言われるままになっていたわけではありません。自 分たちのもとに少しでも多くの富を残すために、力を合わせて領主に抵抗しました。と きには地侍たちが中心になって団結し、「一揆」という組織を作って武器を持って支配 する武士と争うこともありました。なかには大名を領地から武力で追い出し、自分たちで何年間 も政治を行う、という例もありました。
 一方、地侍や農民から武士になり、大名の家臣となった者もいました。また、戦国大 名には、地侍の中から身を起こした者もいます。各地の大名を従えて全国統一に成功し た豊臣秀吉は農民身分の出身でした。

【問題2】

 紀州(現 和歌山県)北部(紀ノ川下流域)一帯にも地侍がいて、組織を作って活動 していました。彼らは、どんな武器を持って武装していたのでしょう。戦国時代後期の 最新武器であった鉄砲などは持っていたのでしょうか。

 ア.鉄砲は、ほとんど持っていなかった。
 イ.300挺ぐらい持っていた。
 ウ.3000挺ぐらい持っていた。


鉄砲部隊を持つ「雑賀衆」と「根来衆」

 戦国時代には、紀州(現 和歌山県)の地侍や農民たちも活発に活動していました。 なかには全国にその名を知られる組織もありました。現在の和歌山市と海南市の大部分 を占める地域にあった「雑賀衆」です。
 雑賀衆は、雑賀五組と呼ばれる地域的な地侍の連合組織を作っていました。紀ノ川下 流域の雑賀荘・十ヶ郷・社家郷(宮郷)・中郷・南郷の5つの郷(村)からなっていま した。このうち雑賀荘が一番、勢力が強かったようです。  もう一つ、「根来衆」と呼ばれる組織も有名でした。紀ノ川を少しさかのぼった所( 現 岩出町)にある根来寺の僧兵の組織です。広い領地を持ち、紀北から和泉(現 大 阪府の南部)まで勢力地が広がっていました。当時は、寺院まで武器を持って領地を守 っていたのです。
 雑賀衆の地侍のなかには根来衆に加わっている者もいて、たがいに深い関係を持って いたようです。そして、どちらも「地主連合」であるという点では共通していました。 紀州には強力な大名がいなかったためか、両方とも物事の決定は代表者による会議で なされていたようです。まるで「共和国」のように政治が行われていたといいます。
 この二つの組織は、その優秀な鉄砲部隊の活躍によって、当時、全国にその名を知ら れていました。大量の鉄砲を集中して使用した戦闘としては、織田信長が鉄砲3000 挺を使った「長篠の戦い」(1575年)が有名です。ところが、その5年前(157 0年)に、信長軍の一員として雑賀・根来衆が鉄砲を2〜3000挺も使用し活躍して いるのです。 当時、農業や商業の先進地帯は畿内(現 大阪府と京都府・奈良県の一部) でした。そこから少し離れた紀州でも、最新の武器である鉄砲を装備した部隊を地侍た ちが作れるようになっていたのです。 *雑賀五組の図『和歌山市史第1巻』より

豊かな農業生産と活発な商業活動

 1543年(天文12年)種子島(現 鹿児島県)に漂着した中国船に乗船していた ポルトガル人によって日本に鉄砲が伝えられたといわれています。数年のうちには、 種子島、根来、堺(現 大阪府内)、国友(現 滋賀県内)で鉄砲の製造に成功していま す。当時、刀や農具などを作るために鉄の加工技術がいかに進んでいたかがわかります。 だからこそ、鉄の農具が農民に広く使われ、農業生産も高まったのでしょう。(この時代 ヨーロッパ人は鉄砲を持って世界中に進出していました。50年ほどでそのヨーロッパ人 たちの持つ鉄砲の数に追いついたともいわれます。)
 こうして鉄砲は、戦争をくりかえしていた全国に急速に普及することになります。
 紀州には、根来衆の津田監物が種子島から製造法を直接、伝えました。その後、根来 と雑賀で盛んに製造され始めます。紀ノ川の下流域が豊かな農業地帯であったことや、 雑賀衆が船を使って盛んに商業をおこなっていたことも大きな理由だったと考えられま す。なにしろ、大名の軍隊に肩を並べるような、最新式の武器を大量に装備した部隊が 作れたのです。地方がいかに豊かになってきていたかがわかります。
 農業生産が高まるなかで、年貢として武士に取り上げられずに農民のもとに残される 富も増えていきます。それにつれて商業も盛んになり、せまい村をこえて人々が結びつ くようになったのです。そのなかから、富をたくわえ、自らの武力でこれを守ろうとす る人たちが生まれてきました。支配する武士より力をたくわえる人々が出てくれば、古 いしきたりや身分もしだいにこわれていったことでしょう。農業や商業が盛んになれば 、社会の仕組みも変わっていくのです。

織田信長と戦う雑賀一揆

 戦国時代が100年ほど続いたころ、全国を武力で統一して従わせようようという大 名が次々とあらわれます。尾張(現 愛知県)、美濃(現 岐阜県)を領土とした織田信 長もその一人でした。信長は、天皇や将軍のいる京都にいち早く軍を進め、畿内(現 大阪府と京都 府・奈良県の一部)の武士や農民を従えようとしました。

【問題3】

 畿内(現 大阪府と京都府・奈良県の一部)の武士や農民を従えようとした織田信長 に最後まで強く武力で抵抗したのはどういう勢力だったと思いますか。

 ア.大名
 イ.貴族
 ウ.寺や神社
 エ.農民
 オ.そのほか


武器を持って戦う寺院

 1570年(元亀1年)、現在の大坂城の地にあった石山本願寺(一向宗と呼ばれる 仏教の一派の本山)は、信長との戦いを始めます。この戦いを「石山合戦」といい、11 年間も続くことになります。
 最初、雑賀・根来衆は信長方に参加して戦いました。ところが途中から雑賀衆は本願 寺方につきます。一向宗の門徒(信者)が多かったことが影響しているようです。以後 、雑賀衆は本願寺方の主力として勇猛に戦いました。その鉄砲部隊は、信長方を大いに 苦しめることになります。
 一番激しかった1576年(天正4年)の戦いでは、信長自身も鉄砲による傷を負っ ています。一方、本願寺方も大きな犠牲をはらい、約1万人の死者を出したと伝えられ ています。もちろん、雑賀衆もたくさんの死傷者を出したことでしょう。そのためか、 雑賀衆の中でもこれ以上、本願寺方につくかどうかで対立が起こったようです。

信長の雑賀攻め

 1577年(天正5年)2月13日、織田信長は兵を率いて、紀州の雑賀一揆を攻め るために京都を出発しました。約15万人の部隊だったといわれます。信長は、本願寺 を降伏させるには、一揆となった雑賀衆をどうしても討つ必要があると考えたのでしょ う。
 このときは、雑賀衆の内、社家郷(宮郷)・中郷・宮郷と根来衆が信長方についていま す。残る、雑賀荘・十ヶ郷を信長は攻めました。
 雑賀衆は、激しく抵抗しましたが約10日間の戦闘の末、3月の初めには降伏をして います。信長は、自分に従うことを誓わせると、すぐに兵をひきあげました。他の地域 での戦争が気にかかったようです。
 信長は、地侍や農民の武力を完全にはつぶさなかったのです。そのため、その後も雑 賀衆は本願寺に味方し、主力の一つとして戦いました。ただ、信長と戦った雑賀衆の有 力地侍の中から信長につくものが出たため、以前のような勢いはなくなっていたともい います。
 1580年(天正8年)、本願寺は、とうとう力つきて信長と和睦します。法主(宗 派の最高位)である顕如は、鷺森(現 和歌山市内)に移りました。これで、信長は、 畿内の平定にほぼ成功しました。

秀吉の紀州攻め

 1582年(天正10年)、本能寺(現 京都市)で織田信長が暗殺されます(「本能 寺の変」)。その後の後継者争いの中から、羽柴(豊臣)秀吉が頭角をあらわしました 。秀吉は、地侍などの地主の力を弱めて、実際に農地を耕作している農民を直接に支配 しようとしました。そのため、雑賀・根来衆は秀吉と対立するようになります。
 1585年(天正15年)、3月21日、秀吉は、畿内周辺でただ一ヶ所、自分に従 わない紀州を攻めるため、大阪を出発しました。海上からも水軍が進み、先発隊を加え ると総勢約10万人の部隊だったといいます。雑賀・根来衆は、和泉(大阪府南部)に 千石堀城や沢城といった出城を築いて秀吉の軍勢を待ちかまえていました。
 しかし、この大部隊には雑賀・根来衆といった「地主連合軍」はかなうはずもなく、 数日の内に平定されてしまいます。
 3月21日の午後、秀吉は和泉の岸和田城に入り、すぐに千石堀城を攻めました。雑 賀・根来衆は激しく反撃しましたが、その日のうちに攻め落とされてしまいました。沢 城など他の出城も抵抗しましたが、数日の間に落城したり、和睦し開城してしまいまし た。
 3月23日、秀吉は和泉山脈をこえて根来寺に軍を進めました。すでに根来衆は逃げ 去っており、抵抗を受けることはありませんでした。このとき、寺から出火し、一部を 残して根来寺は焼け落ちてしまいました。
 3月24日、秀吉軍の先発隊が雑賀荘に入りました。しかし、それ以前に、雑賀衆内 の内輪もめのためか雑賀荘内は(湊・中之島一帯を中心に)放火され、半分以上が焼か れていたようです。雑賀衆の主だった中には船で四国へ逃げ出す者もいたといいます。
 秀吉は、3月25日に土橋城(現 和歌山市粟)に入城し、ただちに紀州南部征服の 部隊を出しました。同じ日に、紀三井寺(現 和歌山市)の見物もしています。紀州に 入ってからは、秀吉軍は、雑賀・根来衆による抵抗をほとんど受けなかったのです。
 ただ一つの例外を残して。 *当時の地名 『和歌山市史第1巻』より

太田城の水攻め

 地侍の太田氏とその配下の農民が、雑賀・根来衆の残党とともに太田城(現 和歌山 市太田)に立てこもったのです。籠城(ろうじょう)した人数は、一説によれば約5000人(妻子を ふくめて)ともいわれます。
 秀吉軍は城を攻め立てますが、太田城勢は鉄砲で激しく反撃します。秀吉は、使者を 立てて降伏をすすめましたが応じません。そこで秀吉は、犠牲が少なくてすむ「水攻め 」に切り替えます。太田城の周りに高い堤防を築き、紀の川の水を入れて城を水没させ ようというのです。和泉・紀州の農民を動員し、のべ約17万人で工事をおこなったと いわれます。
 工事は3月26日ごろに始まり、10日ほどで全長約6kmの堤防が完成したようで す。大雨がふったこともあり、4月3日には、ほぼ満水になったともいわれます。4月 8日ごろからは、城内に水が入り出したようです。
 籠城を始めて約1ヶ月が過ぎたころ、ついに太田城勢は降伏をします。中心となった もの53人は首を切られ、その女房23人は磔にされたといいます。53人の首は、天 王寺(現 大阪市)まで運ばれてさらし首にされたようです。その後、太田城には火が 放たれて焼け落ちています。

【質問1】

太田城を攻め落とした後、秀吉は、紀州の地侍や農民にどのような命令を出したと思い ますか。あなたが秀吉だったらどうするでしょう。みんなの考えを出しあってみましょ う。


「刀狩り令」・「兵農分離」の先がけ

 太田城勢が降伏したとき、秀吉は、籠城した農民に対して

「在々百姓ら、自今以後、弓箭・槍・鉄砲・腰刀等停止せしめ訖ぬ。然る 上は、鋤・鍬等農具を嗜み、耕作を専らにすべきものなり」

と命令しています。〈武器を持つことを禁止する。農業に専念しろ〉というのです。さ らに退城する農民には〈農具や家財、住居、20日分の食料を与えよ〉という命令も出 しています。また、この1ヶ月前には、雑賀の地百姓に同様の〈武器をとれば許す〉と いう命令を出しています。〈太田城に籠城した農民だけでなく、すべての農民から武器 を取り上げるよう〉に命令を出したのです。
 地侍や農民が武器を持っていれば、いつ一揆を組んで秀吉に反抗するかわかりません。 農民は人口の大部分をしめるだけに、大名である秀吉にとってはたいへんな心配の種で す。といって、大切な農業生産をおこなってくれる農民を一揆のたびに殺してしまうわ けにもいきません。そこで、地侍や農民から武器を取り上げて、農業のみに専念させよ うとしたのです。そして、秀吉に従う武士だけが武器を持つようにしたかったわけです。 その武士は農村から離して城下町に住まわせました。このような政策を「兵農分離」と いいます。
 この年、秀吉にとって天下統一のさまたげとなる主だった一揆はすでに平定されてい ました。秀吉は、雑賀一揆を解体するにあたって、全国の地侍や農民の武装解除の手初 めとしたわけです。紀州攻めの3年後にあたる1588年(天正16年)、秀吉は、農 民から武器を取り上げるよう命じた「刀狩り令」を全国の諸大名に対して出しました。 その先がけとなるものが、紀州で初めて実施されたことになります。雑賀攻めの時の信 長とちがって、抵抗しそうな地侍から徹底して武力を奪おうとしたのです。

【問題4】

  この後、紀州の地侍や農民たちは秀吉に対して再び一揆を起こすことはあったでしょ うか。

 ア.一揆などを起こして秀吉の命令に抵抗した。
 イ.秀吉に特別な抵抗をせずに従った。


検地に抵抗する農民

 太田城が開城したころ、秀吉は、紀州を治めるための新しい城の建築を弟の秀長に命 じています。和歌山城(若山城)です。堤防作りをおこなった農民が、そのまま築城の ための人夫となったようです。和歌山という地名もこのころから使われ始めました。和 歌山城には秀吉の部下が住み政治を行いました。地侍の「共和国」時代は終わったので す。その後、紀州の地侍たちも以前のように華々しい武力による戦いはしていません。
 それでは、まったく無抵抗になったかというと、そうではありません。
 秀吉は、紀州を年貢を納めさせる農民と農地を登録するために「検地」を行おうとしました。 これによって耕作農民は自分の農地を武力でおびやかされることはなくなります。し かし検地の結果によって負担しなければならない年貢の大きさを決められてしまいます。
 そこで有力農民(地侍)や農民は紀州の各地で一揆を組むなどして様々に抵抗して自 分達に有利なるようにさせようとしました。たとえ武器を使った戦争で勝てなくても、 実際に耕作する農民やそれを組織している有力農民(地侍)は、支配者の言いなりのま まにはならなかったのです。
 実は、「刀狩り」の後も農民の間には広く鉄砲などの武器が残っていたようなのです。 江戸時代の中頃に起こった紀州の高野山寺領での農民一揆では、数百の鉄砲が農民方で 用意されたといいます。ですから、武器を持ってはいても、表立って武器を持ち出して 武士と争うことが(秀吉の紀州攻めの後は)なくなっただけ、ともいえるわけです。


中世の終わりと近世の始まり

 武士というのも、もともとは開発農地の地主でした。その土地を守るために武器をとって戦ったのです。ですから、その出身は地侍や農民とあまり区別がなかったのです。 このような武士や地侍、武器を持った農民などが活躍した社会を「中世」の社会といい ます。普通は、武士が初めて日本全国の政治を動かした鎌倉時代ごろから、豊臣秀吉が 全国を支配するころまでの社会を、「中世」と呼びます。
 太田城の水攻め以後、日本の社会は、しだいに武士身分と農民身分がはっきり区別さ れ、固定された社会に変わって行くことになります。寺院も、武力は持たず宗教活動の みを行います。豊臣秀吉は「刀狩り令」の3年後に「身分統制令」をだして、武士、農 民の転職を禁じています。秀吉の死後、徳川家康が開いた徳川幕府はさらに身分秩序に きびしい政治を行いました。このような全国統一以後の社会を「近世」の社会といいます。
 約300年間続いた近世(主に江戸時代)の日本の社会は、戦乱のない安定した平和な社会でした。特に、前半は、農業生産もたかまり、全国の人口もほぼ2倍まで増えました。農民の生活は、中世に比べれば豊かになったことでしょう。
 しかし、それは、きびしい身分制度によって政治がおこなわれる社会でもありました。
 太田城の水攻めと開城後にとられた政策は、中世から近世へと日本の社会が移り変わ り境目の出来事だったのです。

 【質問2】
 あなたが、もし日本の昔にもどって生活をするとしたら、中世の社会と近世の社会と では、どちらに住みたいと思いますか。身分は、大部分の日本人がそうであったように 農民として考えたらどうでしょう。

 ア、中世の社会。
 イ、近世の社会。

 

 


【資料】

雑賀・根来衆と信長・秀吉との関連年号

1467 
応仁の乱。戦国時代、始まる
1480 
国衆という言葉が初めて文書に
1543 
種子島に鉄砲伝来
1570 
雑賀・根来衆、鉄砲部隊活躍。本願寺と信長「石山合戦」開始
1575 
長篠の戦い
1577 
信長の雑賀攻め
1580 
本願寺、信長と和睦。石山合戦終了
1582 
本能寺の変。信長、死す
1584 
小牧・長久手の戦い
1585 
秀吉の紀州攻め。和歌山城、築城開始。秀吉、関白に 
1588 
刀狩り令
1590 
秀吉、全国統一に成功
1591 
身分統制令

太田城

 現在の和歌山市太田にあった。「東西2町半(約273m)、南北2町(約218m )、まわりに堀をめぐらし、東西南北に橋をかけ、東門を大門として、合戦の時は南門 のみを開けたと伝えている。堀の内には土手を築き、櫓を設けた。現在、太田の地に〈 城跡〉という小字があり、往時の太田城址と考えられている」(『和歌山市史第1巻』)

太田城の水攻め

今も残る水攻め堤防の遺跡
●今も残る水攻め堤防の遺跡↑(手前は道路)
堤防の遺構の上部から南方を見る。前方は太田小学校
●堤防の遺跡の上部から南方を見る。前方は太田小学校

 「太田城の水攻めは、天正10年(1582年)の羽柴秀吉による備中高松城(現  岡山市)、天正18年(1590年)の石田三成による武蔵忍城(現 埼玉県行田市) の水攻めとともに、〈日本三大水攻め〉と呼ばれている。 紀ノ川田井ノ瀬から西へ出水 を通り中黒田へ、そして、吉田から南(現 和歌山駅西側)へ回って総光寺に至り、 さらに東して日前宮北部を通り、音浦山り至る53町(約5.8km)に堤防が築かれた。
 堤防は、太田城の堀から3町(約330m)を隔て、当時の鉄砲の射程外としたので ある。堤防の土台18間(約36m)、上部5間(約10m)、高さ6間間中(約13m) と伝えるが、上流では高さも低かったと思われる。付近の土砂を掻き揚げるだけの作業で あるが、和泉・紀州の百姓を動員したことが、史料からうかがえる。人夫は、16万92 00人と記されているが、延べ人数であろう。昭和初年には、まだ、約20ヶ所の堤防跡 が残されていたが、現在はほとんど消滅し、出水付近に僅かにその面影を偲ぶことができ る」(『和歌山市史第1巻』)


[著作:尾崎文則/1996/8/25]Copyrightゥ 1996 Ozaki Fuminori
★本教材は、和歌山市立教育研究所の教育論文で入賞をいただきました。
(主な参考文献:『和歌山市史第1巻』、『日本の歴史11 天下一統』集英社、安藤精 一編集『図説 和歌山県の歴史』河出書房新社、板倉聖宣『日本歴史入門』仮説社)


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