年表:雑賀一揆と根来衆


1467(応仁1)

:1。応仁の乱、起こる。

1473(文明5)

:加賀一向一揆。守護と戦う。

1480(文明12)

:日前宮神領と雑賀荘との土地争いの文書に「国衆」の語が見える。在地での実権が「国衆」と呼ばれる小土豪の手に移りつつあった。*

1485(文明17)

:山城国一揆起こる(現京都府)。畠山軍を追い、国中を成敗。

1486
1487
1488(長享2)

:加賀一向一揆(現石川県)。守護を攻め滅ぼす。

1497(銘応6)

:9。連如、石山本願寺を創建。

1532(天文1)

:山城国一揆、法華一揆と戦う。

1533
1534(天文3)

:信長、織田信秀の嫡子として生まれる。

1535(天文4)

:石山本願寺、紀州総門徒に援助を要請。細川晴元軍が大阪周辺に出兵したため。*

1536(天文5)

:細川晴元軍と対陣中の石山本願寺から紀州衆(雑賀衆)への出兵要請がある。回答の中に「惣国談合を以て」という語がある。* 1537 1538 1539 1540 1541

1542(天文11)

:雑賀衆、河内に進発する守護畠山稙長の軍勢中にある。文献上初見。*

1543(天文12)

:8。ポルトガル船種子島に漂着。鉄砲伝来。

1544(天文14)

:種子島、根来、堺、国友で鉄砲の製造に成功。急速に全国に普及。津田監物が紀州に伝える。*

1545
1546
1547
1548
1549(天文18)

:7。ザビエル、鹿児島りキリスト教を伝える。

:日本で初めて、鉄砲が合戦で使用される。黒川崎の合戦。*

1550
1551
1552
1553
1554
1555(弘治1)

:4。信長、清洲城に進出。

1556
1557
1558
1559
1560(永禄3)

:桶挟間の戦い、今川義元が敗死して信長勝利。

1561
1562(永禄5)

:根来衆が鉄砲を使用した記録の初見。*

1563(永禄6)

:三河一向一揆(現愛知県)おこる。

1564(永禄7)

:家康、三河一向一揆を鎮圧。

1565
1566
1567
1568

:9。信長、足利義昭を奉じて入京。

1569

:4。雑賀・根来衆、信長方として三好勢と戦う。*

1570(元亀1)

:6。姉川の合戦で、信長勢、浅井・朝倉軍を敗る。

:6。野田・福島で織田軍について三好勢と戦った根来・雑賀衆は、2000挺とか3000挺といわれる鉄砲を駆使。雑賀衆の鈴木孫一だけは三好方についた?*

:9/12。石山本願寺が挙兵。石山合戦始まる。

:10。近江一向一揆、信長と戦う。

:根来衆・雑賀衆は信長方についた。鈴木孫一だけは本願寺方?*

:信長、いったん帰京、戦いは一休み。

1571(元亀2)

:信長、伊勢長島(現三重県)の一向一揆を攻撃するが完敗。

:信長、延暦寺を焼き討ち。

1572(元亀3)

:12。家康、三方ヶ原の戦いで武田信玄に完敗。

1573(天正1)

:信長、義昭を追放し、室町幕府が滅びる。

:8。信長、浅井・朝倉を滅ぼす。

:9。伊勢長島一向一揆、信長と戦う。

:守護畠山昭高、守護代遊佐氏に殺される。*

1574(天正2)

:1。越前に一向一揆おこる。国中を支配。

:9。信長、長島の一向一揆を平定。2万人を焼き殺す。

:11。河内一向一揆、信長と戦う。

1575(天正3)

:4。摂津・河内・和泉の一向一揆、信長と戦う。

:5。長篠の戦い。

:8。越前一向一揆を平定。加賀一向一揆信長と戦う。

:10。本願寺、信長と和睦。

1576(天正4)

:4。本願寺、再び挙兵。

:4/13。信長、本願寺を攻撃。石山合戦中、もっとも激しい戦闘。

:根来衆は信長方、雑賀衆は本願寺方。雑賀衆の内部で対立が起こる。宮郷・中郷・南郷が「自由の企て」*

:5/16。宮郷・中郷・南郷あてに、信長から、雑賀攻めへの協力の申し出に対する返答が届く。*

:7。毛利水軍が紀州一揆と連携し本願寺を救援。

:7。信長軍、毛利水軍に敗北。

1577(天正5)

:正月。顕如、信長に味方する太田からぬけた門徒を激励。*

:2/13。信長、15万余騎を率いて、雑賀攻めのため京都を出発。

:2/28。中野城(現和歌山市)降伏。

:3/1。信長方、鈴木孫一構(弥勒寺山)を総攻撃。*

:3/2。雑賀衆、降伏。

:3/27。雑賀衆、毛利水軍を助けて淡路島の岩屋を守るため海を渡る。これで毛利水軍の瀬戸内海における制海権は強固になる。*

1578(天正6)

:10。荒木村重、信長にそむく。

:11。織田水軍、毛利水軍を破る。

1579(天正7)

:5。信長、安土城天主に移る。

:8。加賀一向一揆、信長と戦う。

:12/3。本願寺から雑賀年寄衆に対して、信長との和睦について意見を聞くため来るように、という指示がだされる。*

1580(天正8)

:3。信長と石山本願寺、和睦。

:4/9。顕如、大阪を船で出発、10日、鷺森(現和歌山市)に海路着く。

:雑賀3組は、降伏に反対。

:11。柴田勝家、加賀の一向一揆を平定。

1581(天正9)

:8。信長、高野山を討つ。

:鈴木孫一の継父、土地争いから土橋若太夫に殺害される。*

1582(天正10)

:正月。雑賀衆の有力者、土橋若太夫が同じ雑賀衆の鈴木孫一に鉄砲戦のうえ暗殺された。*

:2。信長軍に応援された鈴木孫一が土橋氏勢を雑賀一帯から追い出す。*

:5。羽柴秀吉による高松城(現岡山市)の水攻め。

:5/20。鈴木孫一、岸和田の織田軍に参上し忠節をつくすことを誓う。*

:6/2。本能寺の変。明智に攻められて信長自害。

:6/3。鈴木孫一、岸和田城から退城。*

:6/4。土橋勢、鈴木城を攻めて放火。*

:6。山崎(現京都府)の合戦で、秀吉、光秀軍を破る。

:7。太閤検地始まる。

1583(天正11)

:4。中村一氏、岸和田城へ入城。兵8000余。*

:4。賎ヶ岳の戦い(現滋賀県)で、秀吉、柴田勝家を破る。信長の後継者の地位をほぼ固める。 :7/4。顕如、鷺森から貝塚へ。*

:秀吉は、岸和田城の兵糧米として泉州中の寺社領をすべて没収し、泉州地侍の地地検した上その2分を取り上げようとした。地検とは、土地の所有者、面積とを調べること。根来寺や雑賀衆にとって、その経済的地盤を根底からゆさぶられることであった。*

:根来・雑賀衆、中村・沢・田中・積善寺・千石堀の五ヶ所に出城。日々小競り合い。*

1584(天正12)

:1/1。雑賀・根来衆、岸和田城を攻める。*

:1/3。中村一氏、五ヶ所の出城を攻める。*

:1/16。近木川で対戦。紀州勢敗れる。*

:3/18。家康、小牧山に陣。

:3/18。雑賀衆、海上と陸上から岸和田に進撃。泉州各地に放火。*

:3/21。雑賀・根来、海上と陸上から堺まで進撃。岸和田城へ雑賀衆攻めるが敗走。*

:3/22。雑賀・根来、引き揚げる。*

:3/28。秀吉、尾張に出撃。

:4/9。長久手の戦い。

:11。秀吉、家康と和睦。

:根来寺、「泉州知行について望」みを秀吉に申し入れたが認められず、ここに至ってその存亡をかけて秀吉と対決せざるを得なかった。*

1585(天正13)

:3/20。雑賀・根来攻撃のため、秀次が大阪を出発。*

:3/21。秀吉、10万騎を従えて出馬。岸和田城に入城。*

:千石堀城落城。夕方、田中城落城。夜、畠中城落城。*

:3/22。積善寺城、和睦に応じ開城。*

:3/23。沢城、和睦に応じ開城。*

:秀吉、根来寺へ出撃。根来衆、逃げ去る。根来寺焼け落ちる。*

:3/24。粉河寺、攻められる以前に焼け落ちる。*

:秀吉の先勢、雑賀に入る。すでに、内輪争いのため、湊・中之島一帯は放火されていた。*

:土橋城を包囲するが、土橋氏、すでに土佐に逃げている。*

:3/25。秀吉、雑賀、土橋城に入る。太田城を残して、雑賀の諸城は、戦う事なく壊滅。兵を分け、一部を紀南征服へ。*

:3/25。太田城で鉄砲戦。秀吉方51名討ち死に。秀吉方から鈴木孫一を使者の案内役として降伏を勧めるが太田勢は拒否。*

:太田城には妻子を含めて約5000人が籠城。*

:3/26。堤防工事開始。*

:3/28。宮井・小倉井の用水から水を入れる。*

:3/31。堤防完成。*

:4/3。大雨もあり、満水に。*

:4/8。太田城内へ水が入るほど増水。*

:4/9。堤防の一部が切れる。秀吉方の陣に泥水が流れこみ混乱。*

:4/10。秀吉、高野山を武装解除。@

:4/22。開城。女、子どもが退城。*

:53人の首をはね、23人の女房をはりつけ。53人の首は天王寺でさらし首。*

:4/23。籠城していた百姓に対して、鋤や鍬などの農具、鍋や釜、家財道具、農耕用の牛馬、住むべき小屋を与え、それぞれの村へ返す、という命令を秀吉が出している。二日の間の食物を取らせて退場させよ、という命令もあった。*

:6。秀長によって和歌山城の城普請始まる。*

:7/2。「和歌山」という地名の初見史料。*

:7。秀吉、関白となる。以後、豊臣姓。

:8。顕如、貝塚から天満に移る。*

:8。秀長が、小堀新介に検地奉行として検地を紀州で施行するように命じる。(天正検地)*

1586(天正14)

:5。家康、秀吉の妹・旭姫と結婚。

:10。秀吉、生母を人質として家康に差し出す。秀吉と家康が大阪で会見。

1587(天正15)

:10。肥後(現熊本県)で国人一揆。

1588(天正16)

:全国に刀狩り令と海賊停止令を発令。

1589(天正17)

:6。伊達政宗、南奥羽(現東北地方南部)を平定。

:8。政宗、使者を送り秀吉に許しを願う。

:この年まで和歌山での検地が続いている(熊野地方は天正18年、高野山寺領は天正19年に施行)。土豪勢力の抵抗のために遅れたと考えられる。

1590(天正18)

:3。秀吉、北条氏直の小田原城を包囲。

:石田三成による忍城(現埼玉県行田市)の水攻め。

:7。北条氏直が秀吉に降伏して北条氏は滅亡。

:豊臣秀吉による天下統一が完成する。

1591(天正19)

:8。身分統制令。武士、農民の転職を禁じる。

[作成者:尾崎文則・1996/8/13]

参考文献:*印は、@印は安藤精一編集『図説 和歌山県の歴史』河出書房新社、他は『角川第二版 日本史辞典』角川書店

注:鈴木孫一と記載しているが,鈴木孫市の間違いではないか,というご指摘をいただきました。『和歌山市史第1巻』によると当時の一次資料では孫一の方が正しいようです。


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1996年 8月 13日 Tuesday 21:52:36