岡ちゃんエッセイ

 ここでは,岡ちゃんが過去に書いたエッセイや秘密基地を運営するに当たって考えていることなどを,自分の考えを整理する意味で掲載します。岡ちゃんブログや学園の文集などで既出のものもありますが,とりあえずここに集めておきます。

2010春
待てない人々
2009初夏
価値観の大転換
2009春
散りゆくサクラに
2009春
職人が好きだ!
2008冬
野の花を愛でる
2007春
がらくた博士の言い分
2006春
カリスマティーチャー岡田の特別講義U
2005春
金では買えないもの
2004春
ドクター岡田の特別講義
2003春
なぜ,白衣を着ているの?
2002春
何にも仙人の独り言
2001春
手つかずの自然の中で待てない人々

最近,待てない人々が増えている。
 かく言う私も実は相当なせっかちである。だからコンピユータの起動が待ちきれない。アプリケーションの処理速度が遅いとイライラする。要するに本来速くあるべきもの,速さが要求されるものに対しては寛容ではないのだ。これが現代なのだと思う。現代は一分一秒を争う世界なのだ。ビジネスの世界においては秒単位で状況が変化している。コンピュータやインターネットなどの発達により,こうしたことが可能になった。実にありがたいことだ。インターネットを通じた通信販売などは注文した翌日には商品が届く。リアルタイムの情報が自由に手にはいる。しかも無料で。本当に便利になったものだ。
 しかし,こうした便利さと引き替えに失ったものがある。『待つこと』である。待つことができなくなった人々はイライラする。だから待てない人が多くなった今,社会全体がイライラしている。車を運転しているとヒステリックなクラクションの音をしばしば耳にする。待てない人の発するイライラの音だ。ギスギスした空気が流れる。現代社会に蔓延しているストレスの一因は,待てないことのもたらす結果ではないかと思う。

 待てない社会でもっとも割を食うのは子ども,お年寄り,そして体の不自由な人である。私は子育てに携わってきたおかげで待つことを覚えた。4人の我が子の子育てにじっくり取り組んだおかげで,子どもと付き合うことの本質は待つことだと考えるようになった。体の不自由な子どもたちの指導にあたってきたことで,成長すると言うことは毎日のわずかな成長の積み重ねだと言うことが身にしみた。そして,年老いた両親からお年寄りが最も気にしているのは,もたもたしていて周囲に迷惑をかけていることへの気兼ねであると気づかされた。現代社会は本来速さを要求すべきではないものに対しても寛容ではないのだ。
 横断歩道を渡りきれず,道の真ん中でオロオロしているお年寄りを見るたび,私は日本の社会の待てない体質に暗い気持ちになるのである。

 児童虐待のニュースが連日のように流れる。私は待てない親が増えたなと思う。子育てはじっくり時間をかけて一つ一つ教えて行くことだ。小さな成長の積み重ねなのである。即答えが出るわけではないのだ。同じことを何度も何度も教えてやっと身につくものなのだ。しかし,待てない親たちは一度言って子どもがうまくできないとイライラする。これは子どもが悪いと身勝手に判断する。イライラしながら教えるから子どもはますますできなくなる。親は子どもに対する憎悪が増長していく。こうして悪循環に陥る。児童虐待の本質は待つことを身につけてこなかった親の未熟さなのである。

 反面,平気で待つことができているケースもある。例えばおいしい料理を出すお店の前では平気で何時間も行列をする人々がいる。ディズニーランドなどでも何時間も待ってアトラクションに入館する光景が当たり前のように見られるようだ。要するに待つことの代償として自分にとって価値の高いご褒美が得られれば待てるのである。
 ちょっと情けないと思うのは私だけだろうか。自分にとって得か損かが待つことの判断基準だとしたらあまりにも情けないではないか。なぜなら待つことは本来,周囲への優しさからでなくてはならないからである。

 自然と向き合うことは待つことを覚える絶好の機会である。例えば畑で野菜を作ろうとすれば,種を蒔き毎日の成長を楽しみにしながら何ヶ月もかけて収穫の時を迎える。決して種を蒔いたら数時間で食べられるわけではない。すぐに成長しないからと言ってイライラしたりすることもない。ただひたすらその成長を楽しみに世話をするだけなのである。
 もの作りも同じだ。お店で買えば簡単にすぐ手に入るものを一から手作りすれば,当然時間がかかる。できあがって使えるようになるまでには,たくさんの手間と時間が必要なのだ。だからこそ,できあがったものには愛着がわくし,大切にしようという気持ちも芽生えてくるのだ。そして,使えるようになるまで我慢強く待つことが,そんな気持ちをさらに強いものにしてくれる。
 スローライフという考え方が注目されて久しいが,こうした考え方が出てくることは至極当然なことと思える。今の世の中が慌ただしすぎるのである。遅いことを罪悪視する風潮が蔓延しているのだ。

 岡ちゃん秘密基地は極力ゆったりした空間にしたいと思っている。慌ただしく時を過ごすのではなく,じっくりゆっくり楽しんでほしいと思うのだ。それこそが,最も贅沢な時間の使い方なのだから…。
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価値観の大転換 

最近の世界情勢を見ていると,アメリカに代表される価値観=たくさん努力してお金持ちになることが人生の最大の目的!というような価値観が変わってきていると思います。努力して勉強し,いい学校に入って,いい会社に就職し,エリートとして世の中を動かし,そこそこお金を稼いで物質的な豊かさを享受することが理想的な生き方みたいな価値観が揺らいでいると思うのです。

お金持ちになること,他人よりいい生活することが人生の成功者なのだというアメリカンドリーム的価値観の下,選りすぐりのエリート達が築き上げてきたのが今日の世界の豊かになったと言われる社会です。それが見事に崩壊したのが昨年からの経済危機でした。金儲けのためには手段を選ばない体質が今日の不況を生み,環境破壊を生み,格差社会を生み,飢えや貧困を生んできたのです。そういう教育をしてきた教育現場ももっと叱責を受ける必要があります。
まさに20世紀はそうした時代だったのです。

時代の寵児としてもてはやされた堀江貴文氏は『稼ぐが勝ち』と言いました。稼ぐことが勝ちで稼がないことは負けと言ったこうした価値観はまさに20世紀を象徴する価値観だと思います。

時代は変わりました。もはや競争を勝ち抜くことが価値ではありません。
世界中の人々,いいえ生きとし生けるものすべてとともに地球環境を守り,分かち合って生きていくことが大切なのです。これからの次代を担う子どもたちにはそういう目で世界を見て欲しいのです。

だから教育も変わらなくてはなりません。なのに新学習指導要領は相変わらず20世紀の教育的価値観を引きずっています。情けないです。ダイナミックな変革が必要なのです。

『地球科』『物づくり科』『共生科』『伝え合い科』いくらでも考えられるではないですか。
なぜいつまでも,国語,算数,理科,社会等々なのですか?

教師を辞めた今,そうした変革のできない教育界が歯がゆくてなりません。


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散りゆくサクラに  
 やっと満開になったなぁと思ったら,もう桜が散り始めました。
一度どこかで書いたと思いますが,私は散りゆく桜が一番好きです。
ただ単に舞い散る桜が美しいと言うだけでなく,その潔さに日本人の美学を感じるからです。

ちょっとえらそうなこと言わせてもらいます。

 私が教師を辞めようと思ったのも,この美学を貫きたかったからです。正直に言うと学校という現場で長く働いてきて,最近はずいぶん教えたくないことを教えなくてはならないことが多くなってきてしまいました。公教育の枠組みの中に自分がなじめなくなってしまっていたのです。

 総合的な学習が導入された10年前…。私は小躍りして喜びました。ついに私の時代が来た!と思いました。教科の枠にとらわれない教育こそが本当は最も大切と思っていたからです。総合的な学習の指導内容を考えるのはそれは楽しい作業でした。ところが時代の流れは常に揺り戻しがあるものです。今度の指導要領改訂では総合的な学習は大きく後退しました。英語の導入とともに時間数も削減されました。

 そして私は,もうこうした時代の流れに付いていくことが辛くなってきました。私は私の求める教育を続けていきたかったのです。だから,辞めてネイチャースクールの指導員になろうと決断しました。学校にもう未練はありません。
先生を辞めるときは潔く…とずっと思ってきました。だから,目黒区興津健康学園が閉園になるこのときが一番いいタイミングだと考えました。正直,これからの生活を考えると不安がないわけではありません。周囲の人々からも,もったいないという声を多く聞きました。

それでも,最後ぐらいは自分の散り際の美学を貫きたかったのです。

 最後にそんな私の決断に快く賛成してくれ,そして32年間の教員生活を支えてくれた私の妻に心から感謝したいと思います。

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職人が好きだ!
 

私は職人技を見るのが好きだ。テレビで職人技を紹介する番組などをやっていると,ついつい見入ってしまう。その技のすばらしさもさることながら,職人の生き方に共感するのだ。どちらかというと目立つことを好まず,ひっそりと仕事をしているが,その作り出すものには強いこだわりがあり,妥協を許さない。そういう一徹さが好きなのだ。

 実を言うと私の先祖は江戸の指物師だったそうだ。江戸指物といったら文机や小物入れなどあまり大きなものではないが,木工の技術の粋を集めて作った小さな木製品である。 金釘を一本も使わず,ほぞ組だけで仕上げてあるところも,そしてそのほぞが見えないように加工してあるところもいい!自分の技をひけらかすことなく,ものすごい技を目立たぬようにしてある奥ゆかしさがいい! 拭き漆で仕上げた文机など,木目が見事に生きていて,息を呑む美しさである。

 私は職人的な教師にあこがれている。職人のような教師になりたいと切望しているのだ。職人教師はちょっと見ただけで子どもの性格や気質を見抜き,その良さを殺さぬよう,秀でた部分をより伸ばしながら育てる。さりげない存在感で,さりげなく子どもを包み込み,それと気づかぬうちに子どもが変わっていく。そんな技を持った教師になりたい。
 ちょうど,職人が木の癖を見抜き,その美しさを殺さぬように,さりげなく加工し,卓越した技術を密かに作り込んで,より美しい作品に仕上げるのと似ているではないか。
 
 規格品の木製品を大量生産している工場では,木の本当の良さは生かされていない。画一的な製品がどんどん大量に作られていくだけである。木の性質や木目など一つ一つの材料の善し悪しは二の次だ。だから集成材などという味気のない材料が使われ,表面に木目をプリントしたりする安っぽい作品が仕上がる。
 
 教育の世界でも同じようなことが言える。画一的な教育がどんどん同じような考え方をする人間を作り出していると考えると,恐ろしい!味も素っ気もない人間が増えていくのだ!こんな恐ろしいことはない。だからこそ,人間一人一人の個性を最大限に引き出せる,子育ての職人!そんな教師に私はなりたい。

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野の花を愛でる
 

休日、カメラを首に提げ家内と散歩に出る。ここ数年の私の休日の過ごし方である。もちろん健康のためのウォーキングも目的の一つだが、それよりも私が最も好きなのは歩きながら目にする野の花に四季の移ろいを感じつつ、その可憐な美しさを愛でることである。若い頃は何にも思わなかった雑草や野草と呼ばれる花々が妙にいとおしく感じられるようになったのは歳をとったからかもしれない。名前など知らなくても何の不自由もないのだが、じっと見つめているうちにその名が知りたくなってくる。写真に収め自宅に戻ると、さっそく名前調べである。この作業も何となく習慣化してしまった。名前を調べていくとさらに興味をそそられ、つぎの散歩がまた楽しみになる。
 
 ワルナスビという野草がある。確かにナスに似た花をつけている。しかし、その茎には無数のトゲがありちょっとさわるとかなり痛そうだ。ワルナスビとは昔の人もすごい名前をつけたものだと思うが、その名前に違わず『ワル』そうな風体に思わず吹き出してしまう。風体だけではない、この植物の実は実際に毒をもっているそうだし、草刈り機などで刈ってしまっても、その破片一つ一つからまた発芽するという何ともしぶとい草なのだ。じっと見ていると『ワルいで悪いか!』と居直っている風情でもある。そこが何とも人間くさくていいではないか。車で移動していたり、忙しく駆け回ったりしていては絶対見逃してしまうであろう野の花に、こんなにも味わい深い名前があり、そしてその存在を主張するかのように咲き誇っているのを見ると見逃さずによかったと得した気分になるのである。
 
 世の中スピードが重視される時代。鈍行列車で車窓の景色を楽しみつつ長い時間をかけて移動した旅路を、新幹線は瞬く間に走り抜けてしまう。飛行機での旅に至っては車窓の景色を楽しむと言うよりは下界の超遠景を眺めて旅しているのだ。かく言うわたしも日々の生活の中では車で移動することが多く、野の草に目を留めることなどできないのが現実なのだ。こうしたあわただしい生活の中では、もはや野の草に目を留め、その奥ゆかしさを味わうと言った感覚は廃れてしまったようだ。それと同時に人々の心もどこか世知辛くなってしまったと思うのは私だけだろうか。昔はよかったと昔を懐かしむようになったら歳をとった証拠だと言われるが、私には鈍行列車で旅していた時代がなぜか懐かしく好ましく感じられるのである。
 
 昭和ブームだそうである。やっぱり私だけじゃないんだ。あののんびりしていた時代。土も草もその存在を十二分に主張できていた時代。子どもが泥んこになって遊んでいた時代。そんな時代がよかったと感じる人がたくさんいることに私はホッとしている。と同時に、今を生きる子どもたちにもこうした自然とともに生きる感性をぜひもってもらいたいと思うのである。
幸い学園の子どもたちには、日々の学園生活の中でこうした感性を磨くチャンスがたくさんある。野の草で遊び、虫を追いかけ、石ころを拾い、土と戯れる。都会生活では見落とされてしまうものが、ここでは主役になっているのだ。ここでの生活で磨いた感性で、都会生活に戻っても目立たぬものに目を留める視野の広い人間になってほしいと心から思うのである。


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がらくた博士の言い分
 

 私はがらくたが好きだ!子どもの頃からがらくた集めに熱中し,母にはずいぶん叱られたものだ。ご多分に漏れずビー玉やメンコ,おはじきなどの収集に凝った時期もあった。しかし,いつの頃からか私の収集はよりがらくた色の強いものになった。特に好きだったのは機械の部品。粗大ゴミとして捨ててあるものを拾ってきては分解するという作業に熱中した。今と違って真空管のラジオやテレビがあった時代だから,拾ってくるのも一苦労である。自転車をもっていって自転車の荷台にくくりつけ,よろよろしながら持って帰ってきたものだ。
 
 分解するといろいろな部品が出てきた。まだ,用途がよくわからない頃は専ら部品をさらに分解した。トランスと呼ばれる部品を分解するとエナメル線が信じられない長さ巻かれていた。これを見つけた時は小躍りして喜んだ。エナメル線が手に入れば古釘に巻き付けて電磁石を作ることができるからだ。電磁石遊びは私の最も好きな遊びの一つだったのである。エナメル線をすっかりほどき終わると,鉄の芯が出てくる。この芯は『ヨ』の字型をした鉄板が何十枚も貼り合わさったものと『I』の字型をした鉄板が貼り合わされたものの組み合わせでできていた。この鉄板が素晴らしいおもちゃになった。この鉄板を一枚一枚はがすとすごい威力の手裏剣となるのだ!特に『ヨ』の字型の鉄板は木の電柱に突き刺さるほどの威力だった。(これを読んでいる子どもたちは危険なのでまねしないように!)スピーカーを石でたたいて分解すると,非常に強力な永久磁石も出てきた。これにも大いに熱中した。
 
 自分でラジオが作れるようになると,がらくた集めもぐっと実用的になった。相変わらず粗大ゴミのラジオやテレビを拾ってきていたが,主な目的は部品とりになった。いろいろな部品を取り出し,それを活用して自作ラジオやアンプを製作していたのだ。こうしているうちに回路図が大分読めるようになり,自分になり改造したり,自分で回路図を書いて製作したりできるようになった。こうなると,もはや粗大ゴミは宝の山だった。友だちに手伝ってもらっては大型のテレビなどを自分の部屋に運び込んだ。自分で修理してテレビを見られるようにしたりもした。
 いつの間にか私の部屋はがらくたでいっぱいになった。ある日,大音響と共に部屋が揺れた。あわてた母がすっ飛んできた。私が収集し押し入れにしまっておいたがらくたの重さに耐えかね,押し入れの底が抜けたのだった。もちろん,母からは大目玉を食った。
『すぐに捨てなさい!』
と厳命されたが,この宝の山を易々と捨ててなるものか!さっそく自分で押し入れの底を補強し,私は宝の山を死守した。
 私の部屋は勉強部屋と言うよりは実験室になった。机にはハンダごてが自作のハンダごて台の上にいつも鎮座していた。拾ってきたトランスとダイオードを使って実験用の電源装置も完備していた。もしもに備えて,机に取り付けたコンセントにはフューズも取り付けておいた。この実験室で私はいろいろな電気工作に熱中した。古乾電池を石でたたきつぶし(私の最も原始的かつ有効な分解方法)中に入っている炭素棒を取り出した。(今の乾電池とは構造が違うので,これまた,危険だからまねをしないように!)この炭素棒を二本使って,アーク放電の実験をやったのだ。アーク放電の放つ青白い光にうっとりしたものだ。当然,感電も何度も経験した。中にはよく生きていたなと言うような高電圧の感電も経験した。それでも,実験の楽しさの方が数段素晴らしかった。

 こうして大人になった私だが,がらくた好きは未だに変わっていない。私の教室はやっぱりがらくた箱のようだ。あまり教育的とは言えないし,保護者の方々ももう少し片付ければ?と思う方も多いと思う。しかし,子どもにとって,がらくたは様々なアイデアを生み出し,ただのゴミを有効に活用する知恵を学ぶ貴重な資源である。最近は子どもの成長する環境の中にがらくたが少なすぎると思う。がらくたに埋もれていることが幸せな子も,けっこういるのだ。だから,私は学校には,がらくた部屋が必要だと思う。片付けの心配のない,散らかし放題の部屋。本来なら捨ててしまうものだけど,アイデア次第で無限の可能性を引き出すことのできるものがたくさん詰まっている部屋,そんな部屋が絶対必要だと思う。これががらくた博士の言い分である。


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カリスマティーチャー岡田の特別講義U


 私は超〜早起きである。だいたい午前三時台には目覚める。若い頃こそ,夜更かしして朝寝坊なんて言うこともあったが,オヤジと呼ばれるようになってからは,ずうっと早起きだ。血圧が高いから朝起きると,すぐにエンジン全開である。目覚めると,早朝の(深夜か?)静かな時間に仕事をこなす。実際,この原稿も早朝に書いている。ちなみに今現在の時刻は三時二七分である。別に目覚まし時計を使って早起きしているわけではない。自然に目が覚めるのだ。もう,二十年以上目覚ましは使ったことがない。当然のことながら早起きすれば早寝である。下手をすれば学園の子どもたちより早寝をしている日もあるくらいだ。
 
 こうした生活を長く続けていると人間は日中に活動する動物なんだなぁと実感する。夜暗くなったら寝て,朝日と共に目覚める。(私の場合,ちょっと早起き過ぎだが…)実にシンプルで良いではないか。これが自然に忠実な生き方なのだろう。そんな思いを強くするのである。
都会は夜がない。不夜城などと言う言葉がぴったりする。省エネだなんだと大騒ぎするわりには,異常なまでのライトアップに何でなんにも言わないんだと思う。樹木だって大変だ。考えられないような数の電飾を巻き付けられて,本来なら光合成も一休みして静かに休んでいる時間に体中が光っているのだ。おちおち休んでもいられないだろう。排気ガスに耐え,電飾に耐え健気に立っている都会の街路樹たちを見ていると,『よくがんばっているね,ごくろうさん!』と頭でもなでてやりたくなる。

 そんな都会で生活している子どもたちも大変だ。生活リズムを作るには非常に劣悪な環境である。昼夜の区別がつきにくい環境の中で,自分の生活リズムを作ろうと思ったら,相当な意志を持って生活時間を管理する必要があるからだ。私は千葉の片田舎に住んでいるが,私の家の周りには,夜八時半をすぎたら営業している店はない。コンビニだって車で行かなければならない。必然的に周囲が『早く寝ろ!』という方向に導いてくれるのだ。実にありがたいことだ。こうした環境にいれば,生活リズムを作るのは意外に簡単なことなのである。
 
 都会の喧噪と光の洪水の中で生活する最近の子どもたちを見ていると,ある変化に気づく。視覚や聴覚が選択的に働いているのだ。騒がしい環境の中で自分の必要な声や音だけを選択的に聞き取るという力をカクテルパーティー効果という。カクテルパーティーの騒音の中で話し相手の声だけを選択的に聞き取ることが出来る脳の働きという意味で名付けられたものだ。現代の子どもたちは聴覚も視覚も,このカクテルパーティー効果が強く働いているように思われる。この効果が過剰に反応すると,本来有用な情報でも,切り捨ててしまうことになる。最近の子どもたちの様子を見ていると,必要な音や声が聞けていなかったり,必要な観察が不足していたりする傾向のある子どもが多く見られる。行き過ぎたカクテルパーティー効果で聞こえても聞いていなかったり,見ていても見えていなかったりするのだ。こうした傾向を改善するには暗く静かな夜を取り戻し感覚を磨くしかない。私はそう考えるのである。
 
 六年生の移動教室で私が必ず行程の中に入れるものがある。暗い森を静かに歩くナイトハイクだ。最近,ナイトハイクというと肝試しのごとき暗闇遊び的な活動をすることが多くなってきているが,私のやるナイトハイクはあくまで暗闇を体感し,五感をとぎすましながら夜の森を静かに歩くという活動である。真の暗闇を体験したことのない子はたいていその恐怖で,私から離れようとしない。気がつくと何人もの子どもが私の袖口や服の裾を握っている。そうした真の闇の中で五感をとぎすませていると,いろいろなものが聞こえたり,体感できたりする。動物たちの発する警戒音や木の実の落ちる音。そして,足下が見えない恐怖から足の裏に神経を集中しながら歩くと,地面のちょっとした質感の違いまで感じ取れるようになる。ムササビの飛翔音を聞くことが出来たときは,子どもたちと一緒にしばし感動に浸った。
 
 学園の子どもたちにはぜひ,暗く静かな夜を十分に体感し,自然の息づかいを聞き逃さぬ人間になってほしいと心から思うのである。

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金では買えないもの 
 今の世の中、たいていのものは金で買える。品物だけでなく、娯楽や遊びも金で買える。金で買えるのだから、わざわざ自分たちで考えなくてもよいということで頭と体を使って遊ぶことをしなくなってしまった。ただ、遊ぶ金を得ることにだけ力を注げばいいのだ。最近の少年犯罪のニュースを見聞していると、遊ぶ金ほしさの犯罪がずいぶん多い。遊ぶのにはどうしたって金が必要なのだ。
 
 どうしてこうなってしまったのか?少なくとも私が子どもだった頃は遊ぶのに金など必要なかった。どんなものでも遊びの道具になったし、遊ぶ場所にも困らなかった。それを奪ってしまったのは大人である。都市では遊び場はすべて開発され、子どもたちの遊び場はなくなった。都市型の公園は真の意味での遊び場ではない。遊び場というのはもっと雑多なものだ。ガラクタがなければいけない。規則という制約があってもだめだ。小綺麗な場所は魅力的な遊び場ではないのだ。なぜなら、そこにある雑多なものが子どもたちの遊び道具だからである。木の枝でも金属のガラクタでも何でも遊び道具にしてしまう、子どもは本来、遊びの天才なのである。

 こうして遊び場を奪われ、遊ぶ道具もなくなってしまった子どもたちに大人が用意したのは、金を使って遊ばせてもらう施設や家庭で外に出ずに遊べるゲーム機などである。これでは自分の頭と体を使って遊べといっても無理な話である。ディズニーランドファンには申し訳ないが私はディズニーランドが大嫌いである。金を使って遊ばせてもらう施設の総本山のように見えるからである。遊ばせるプロが造った施設で徹底して計算し尽くされた遊びを体験する。これは楽しくないわけがない。あたりまえだ。しかし、そこにあるのは受動的な疑似遊び体験である。これは、家庭用ゲーム機にもいえる。プロのゲーム制作者が徹底的に検討して造ったのだからおもしろくないわけがない。しかし、あくまで疑似体験の中だけのおもしろさである。疑似体験の弱点はすぐ飽きが来ることである。自分の頭と体を使っていないのだから、当然といえば当然である。
 
 私は学園の裏山が好きだ!できることなら全部裏山で授業をやりたいくらいだ。不思議なもので東京でゲームばっかりやっていたと思われる子どもたちでも、裏山に足を踏み入れたとたんに人が変わる。子どもの持つ遊びの本能が目覚めるのだ。どん欲に遊び始める。裏山で得られる遊びは大人が創った疑似体験ではない。百パーセント自分が創りだす現実の遊びなのだ。だから飽きがこない。放っておけばいつまででも遊んでいる。フジの蔓にぶら下がってターザンのように遊ぶ子、わざわざ崖になっている場所を尻滑りの要領で下り降り、またその崖をよじ登る子、木の実を拾って投げ合いをする子、倒木によじ登り天下を取ったように叫ぶ子などなど、十人十色というが遊び方はいろいろである。やっぱり子どもは遊びの天才なんだと実感する。普段、教室ではおとなしい子がダイナミックに斜面を滑り降りているのを見ると、この子の本来の姿はこれだったのだと初めてわかる。小枝の先などでしばしば切り傷や擦り傷ができることもある。しかし、その痛みも現実の痛みなのである。現実の痛みを知らない子は他者の痛みも理解できないのだ。本当の体験こそが子どもを変え、子どもを成長させる。子どもにはこうした環境が絶対必要なのである。
 
 このような裏山遊びで得られるものは金では買えない貴重なものだ。裏山で遊んだ後の子どもたちは実に晴れ晴れとしたいい顔をしている。明らかに心が満たされている表情である。これが貴重なのだ!他の遊びでは得難いカタルシスを得ているのである。最近はすぐかっとなったり、イライラする子どもが多いようだが、そういう子どもは裏山で数時間遊ばせるといい。精神的に落ち着き穏やかになること請け合いである。

 学園の裏山には何もない。制約もない。そこにあるのは頭と体を使って思う存分遊ぶ空間だけである。私はこの裏山遊びの経験が子どもたちの将来に計り知れない影響を与えるものと確信している。


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ドクター岡田の特別講義
 

 健康学園で子どもたちを指導している立場としては、実にどうも面目ない話であるが、最近、血糖値が異常に上昇してしまい、ついでに高脂血症並びに脂肪肝などというものも抱え込んでしまって治療を受けている。子どもたちに偉そうなことをいっているのになんだ!とお叱りを受けても何の申し開きもできない。いやはや情けないことになってしまった。
 そもそも、原因は何か?普段の生活だって規則正しくしている。自慢ではないが休みの日だって生活リズムを崩したことはない。間食もしなければ、タバコも一五年以上前にやめた。なのになぜ???
 答えは簡単。飲み過ぎだ!
 
 親譲りの大酒飲みで、飯は抜いても酒を抜いたことはないという生活を長く続けてきた。それも晩酌という域を超えた量を毎日飲んでいたのだから体をこわすのも当たり前である。一言、言い訳をお許し願えるなら、私はこう見えても顔に似合わぬ神経の細さを持ち合わせていて(笑わないように!)、少しでも仕事が忙しかったり、いろいろな問題を抱え込んでいたりすると、とたんに眠れなくなってしまうのだ。こうしたストレス状況の妙薬として酒は私にとって欠かせなかったのである。とはいっても酒はエチルアルコール、体内に入れば肝臓によってアセトアルデヒドになり酢酸に変化する。アセトアルデヒドは紛れもない毒物である。(この辺がさすが理科の先生!言うことが科学的である。と自画自賛!)肝臓がその毒物を一生懸命処理していたのだが、主人の連夜の飲酒によって、アルコールによる余分なエネルギーが肝臓に蓄積され、人間フォアグラ状態になってしまったのだ。こうなると肝機能は低下し、肝臓は『私、一生懸命尽くしてきたのだけれど、もう限界です。お暇をいただきます。』といって働くのをやめてしまった。事態は深刻である。ついでに、その隣に控えていた膵臓も『俺、もう知らないもんね!』といってインシュリンの分泌をやめてしまったものだから、本来インシュリンの働きによって体に行き渡るべきブドウ糖がエネルギーとして消費されることなく、『私ゃ、無念じゃ!』と言いつつ、尿になって体外に排出されてしまうのである。

 そんなわけで過日、医師から『今すぐ、禁酒!』と言い渡され、死刑宣告を受けたように肩から崩れ落ちてしまった。こうして、我が人生最大の試練、禁酒と食事制限の日々が始まったのだ。
 血糖値の異常は本当に深刻である。このこと自体は尿の中に糖分が出てくるぐらいで無症状なのだが、他の臓器が血糖値の異常によって『ワシらも、もう持ちこたえられん!』と言って機能を失っていく可能性があるからである。放っておけば死んでしまうことだってあるのだ。もう待ったなしである。すぐに血糖値を下げなければならない。医師の処方してくれた薬を飲みつつ、さっそく私は血糖値について調べ始めた。その結果、血糖値コントロールに有効な民間療法として、桑の葉、シークワーサー(沖縄産の非常に酸っぱい柑橘類)、アーモンドなどがよいということが分かり、さっそく自らの体を使った臨床試験に取りかかった。

 調べていく中で興味深かったのは、日本人は過去に何回もの飢饉を経験し、ひもじい思いをしているので、DNAの中に飢餓に耐える遺伝情報が組み込まれているということだ。日本人の体は最近はやりのエコカーのように、少ないエネルギーで効率よく動かすことができるエコピープルだったのである。だから、今日のような飽食の時代ではエネルギーの過剰摂取に陥りやすいのだ。『な〜んだ、そうだったのか〜!』『セレブだなんだっていってるけど、日本人ってみんな貧乏人の血が流れているのだぁ〜』そう思ったら、なんだか自分の体に流れている日本人の血が妙にいとおしくなった。
とはいえ、今まで酒を飲みながら、あれこれと喰い漁り、腹一杯飲み食いしていた身には、禁酒と食事制限は辛い修行である。食事量は一日1600キロカロリーと決められている。先日も結婚式に呼ばれていったのだが、食事はカロリー計算の結果半分も食べられず、酒も飲めない生き地獄のような状態だった。それでも、何も食べられず死んでいくアフリカの子どもたちのことを考えると、毎日三食食べられるのは幸せなことだ。そう考え、気を取り直して禁酒と食事制限に取り組む毎日なのである。

 児童諸君!悪いことは言わん!過食をさけ、運動を心がけるようにしなされ!そしてなによりも、大人になっても

酒を飲み過ぎてはいかんヨ!

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なぜ,白衣を着ているの?
 

私は、普段から学校にいるときに白衣を着ていることが多い。『なぜ、白衣を着ているの?』と子どもたちにはよく聞かれる。そんなときは『先生は理科の先生だから…』とか、『先生は博士なんだよ〜』などと冗談めかして答えていた。実際、学生時代は理科を専攻していたので白衣でいることが非常に多かった。(生来の不精者なので、あまり洗濯せず『白衣』が『黄衣』や『茶衣』だったこともしばしばだったけど…。)

 その学生時代に、理科教育学の先生から『白衣は水溶液の色などを比較するときにその背景として使う。子どもに正しい色を見せるためには、白衣を着ているのが一番良い。』と教わった。私はそのときに妙に感動したのを覚えている。そんなことで何で…と思われるかもしれないが、私にはこの『子どもに正しい色を見せる。』と言うことが、子どもにものを教えるときの奥義のように思えたのである。こういうのを『目から鱗』と言うのだろうか。単に薬品を扱うときの安全性や清潔さを目的としたものが白衣だと思っていたものだから、なおさら感激したのだろうと思う。
 
 そして、教員になった私は、しばらく白衣を着ることを忘れていた。まだ若かったこともあり、あまり行動的とはいえない白衣を日常的に着ているのは鬱陶しく思えたからである。その後、養護学校や身障学級の教員を十年ほど務め、福祉教育の必要性を強く感じて再び通常学級の担任として赴任したとき、私は、また白衣を着ようと思った。それは子どもたちに『本当に大切なことをありのままに伝えたい。』『外見や先入観にとらわれずに、ありのままを正確に見る力を持って欲しい。』と思ったからである。それだけではない。私自身が子どもたちを真っ白な気持ちで教えられるようになりたい。いらぬ先入観で子どもを見ず、ありのままの子どもの姿を見られる教師でありたい、という気持ちを白衣を着ることで忘れまいと思ったのである。白衣はいわば私の願いと意気込みの象徴だったのだ。以来、白衣は半ば私のトレードマークになった。
 
 白衣を着ていると、いいことが多い。第一に、私のようにだらしのない格好をしていても、白衣を着てしまえば、まあ、何とかごまかせる。(と思っているのは私だけかもしれない。)第二に、冬場は暖かい。(裏を返せば夏場は暑いと言うことになる。)そして、第三に、何となく偉そうに見える。(放っておけばただのオッちゃんにしか見えない私には、かろうじて先生らしさを演出する貴重な装備になる。)等々、私にとっては好都合なことばかりだ。
 実は、江戸川の小学校にいたとき、私は四年ほど専科教員をやっていた。それも、理科と図工と総合学習の三つの専科を受け持つ自称スーパー専科ティーチャーだったのである。このときも、私のユニフォームは白衣だった。理科の授業の後に図工の授業なんてこともあったので、いつの間にか白衣は絵の具やペンキで色々な色が付いてきた。図工の時間も白衣を脱がなかったのは、服が汚れなくて好都合だったばかりではなく、ここでも白衣は正しい色を子どもに見せるための絶好の背景だったからである。
 
 朝、出勤し白衣を着ると私はただのオッちゃんからティーチャーオカダになる。子どもたちをありのままに見ようと言う意気込みも一緒に身にまとう。私にとって白衣は一種の変身スーツでもあるのだ。白衣のティーチャーオカダが繰り出す数々の楽しい学習に子どもたちが目を輝かせることを願いながら、今日もティーチャーオカダはだいぶ寂しくなってきた白髪頭をひねるのである。


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何にも仙人の独り言 
 毎夏、家族と猫二匹と共に一週間ほど山にこもる。等というとかっこいいが、何のことはないただ山奥のキャンプ場でボーっとしているだけである。それでも若い頃は子どもたちが小さかったので子どもを遊ばせるという大前提があった。しかし、今となっては子どもたちはそれぞれ自分自分で楽しみを見つけ、川に潜ってはイワナを仕留めてきたりするようになったものだから何の手もかからなくなった。私はただ一日のんびり暮らすだけである。自称『何にも仙人』と名乗り、昼寝をしたり、本を読んだり、ときには昼間から一杯やったりしている。夕方には子どもたちが突いてきた魚を焼いて、それを肴にまた一杯やる。そして、早々に寝てしまう。実にどうも、だらしのない生活をしているのだ。しかし、ただ一つ早起きだけは欠かさずやっている。自慢じゃないがどこのキャンプ場に行っても一番早起きなのは私である。まだ、暗いうち(だいたい三時台である。)に起き出して火を熾す。お湯を沸かし熱い紅茶を飲む。真夏でも山の朝は肌寒い。私の選ぶキャンプサイトはいつも川沿いのものだからなおさら寒い。その凛とした空気の中で熱い紅茶を飲みながら夜明けの美しさを味わう。白んでいく空、くっきりと姿を現す稜線、目を覚ました鳥たちの群れ…。
 
 そして、日の出。目を見張るグラデーションの空。朝日に映し出される山々…。私の至福の時である。
普段、コンピュータや様々な機械を使って仕事をすることが多い。だいたい、生まれついての機械大好き人間なので機械との縁は大変深いものがある。そんな私でも時には機械と全く縁のない生活をしたくなる。人からはよく『先生はコンピュータがないと生きていけませんね。』等と言われることがある。こうした場合私ははっきり否定する。
『いやいや、コンピュータなんてなきゃないで生きていけますよ。私はちっとも困りません。』
 実際、コンピュータが無くても無いなりの生活はできる。
事実、二十年ほど前にはコンピュータとはほとんど無縁の生活をしていたのだ。さほど困りはしない。
 むしろ、私にとって欠くことの出来ないのは『自然に囲まれてすごす時間』である。中でも夏の山ごもりの一週間は最も大切な時間である。大げさに言えば、この一週間で私は私を取り戻しているのである。
 
 世はまさにIT時代。うかうかしていると情報に押し流されて、自分を見失ってしまうことだってある。シミュレーションと現実とが区別できなくなっている人も増えていると聞く。 情報通信技術が発達すればするほど、人間性回復の時間が必要である。『自然に囲まれてすごす時間』はよけいな情報や科学技術をそぎ落とし、人間としてのもっとも基本的な生活を呼び戻し、心の豊かさを取り戻す宝物のような時間なのである。

 こんな私だから、学園で仕事が出来ることを心から喜んでいる。学園の生活にはこの宝物のような時間がたくさん詰まっているからである。そして、子どもたちにとって学園で過ごす時間は本当の宝物だ。心豊かな人間として成長していくために必要なあらゆるものが学園にはそろっている。単に健康を回復するだけでなく、ひとまわりもふたまわりもスケールの大きな人間として成長するための糧がたくさんあるのだ。子どもたちと学園の周りの海山を歩くとき、私はいつも思う。『この美しい海山をずっと守り通してほしい!後は頼んだぞ!』と 。


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手つかずの自然の中で


 一月のある日、子どもたちと裏山にはいる。かご編みをするカズラをとるためである。冬は山にはいるにはもってこいの季節。温かい時期なら当然注意しなくてはならない蛇や毒虫、そしてスズメバチ達も静かに春を待っている季節だからである。花の香りも草木の芽吹くにおいもしない代わりに思う存分歩き回れるのだ。
 学園の裏山は全く手つかずの自然。これがいい。そこいらのヤワな自然公園やアミューズメントパークでは絶対に味わうことのできない凝縮された濃厚な自然を味わうことができる。ひっかき傷や擦り傷は当たり前、下手をすれば斜面を滑り落ちることだってあり得る。これがいいのである。この、適度のスリルと山の恵みであるカズラを採取するという行為が子どもたちの野性を覚めさせる。
 
 小さな決断を迫る斜面の段差に直面したとき、子どもたちの顔が変わる。恐怖心と戦う子どもの顔に甘えの色はない。この瞬間は、一人一人がちいさなチャレンジャーになる。決断までのわずかな時間、子どもたちの心は激しく揺さぶられる。そして、決断。得るものは大きい。その大きさは、顔を見ればわかる。実に晴れ晴れと、すがすがしい顔をしている。目が輝いている。
 
 アケビヅルにとりつく。高い枝にしっかり絡まったカズラを無心に引っ張る。途中で切れぬように注意深く…。一人では無理だと見ると、いつの間にか周りの子どもたちが集まってくる。そして、声を合わせ、力を合わせ一心に引っ張る。しばしの戦いの後、カズラはあきらめたように切れた。しりもちをつき、しっかりカズラを握ったまま、団子のようになって笑っている。どの顔も実に満足げだ。自然の中で遊ぶといつの間にか協力することを学ぶ。自然の強さ、厳しさに立ち向かうとき、一人では無理だということを子どもは直感的に感じ取るのだ。そして、ごく自然に友だち同士が助け合う。友だちのありがたさが身にしみるときだ。
 教室では、何時間もかけて教えなければならないことが、自然の中ではあっという間に学ぶことができるのだ。
 『それ以上進むと危ないぞ!』誰かの声が飛ぶ。不思議なものだが自然の中にいると危険を予測することができるようになる。きっと人間の持っている本能が呼び覚まされるのだろう。そうしろと言ったわけでもないのに、互いに足場の悪いところを教え会い危険を回避する。私が『危ないぞ!』と声をかける前に誰かの声を聞くとき、子どもの底知れない能力を思い知る。

 たくさんのカズラを収穫し、ほくほく顔で帰途につく。ここからがまた一苦労。さっき死にものぐるいで下った斜面を今度は登らなくてはならないのだ。頼りになるのは周囲の木の枝や根、太い下草など。これにつかまり必死に斜面を登る。登っては滑り落ち、登っては滑り落ちしているうちに、いつの間にか、なにをつかんだら自分の体を支えられるか見ただけで分かるようになる。体重をかけたら折れそうな枝や半分枯れた草など直感的に見分けられる。こんな能力だって、手つかずの自然の中だからこそ身に付けられるのだ。
先に無事斜面を登りきった子どもが後から登ってくる子どもに声をかける。『だいじょうぶかぁ!』『もっと右に進んだ方が登りやすいぞ!』そして、直前までくると自然に手が伸びる。『ほらっ、つかまれ!後少しだ!』『よしっ!もうちょい!』まるで山男達のようだ。
こんな光景を見ているだけで、なぜか私は胸が熱くなる。もしかしたら、本当の仲間、固い絆ってこんな時に作られるのではないかと思えてくるのだ。少なくとも都会生活の中では絶対に味わうことのできない連帯感がこの瞬間には感じられるのである。
 学園の裏山は自然の宝庫、冒険の宝庫であると同時に人との絆の宝庫なのかもしれない。


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