2014年11月13日
【48年目の巡り合い】
埼玉県 10期 加藤
初期の譜面は、コピー機のような使利な機械は無く、長い曲の譜面も一枚一枚五
線紙に自分で写譜したものでした。ましてや大人数の分を書くのはとても大変です。
写譜はとても大変な作業で下級生が当然のようにこの作業をやらされました。
しかし、伝言ゲームのように先輩の写譜した譜面をまた写譜して行くので間違いも
そのまま伝達されてしまうので問題もありました。
私の記憶では、『校歌』と『真珠採りのタンゴ』は、全員が合奏に入ったと同時に、
写譜させられる曲がこの2曲でした。
手書きの時代の後、利用され出したのが、機械図面や建築図面の複写に使われ
ていたジアゾ式複写機です。これは、トレーシングペーパーや第二原紙と呼ばれる
半透明の専用五線紙に手書きした原稿と複写紙を密着させ、複写機内を通過させ
ながら紫外線を照射し、感光させます。
これは青焼きと呼ばれ、光の明暗が青色の濃淡として感光紙に移されます。因み
に、英語でもブループリントと呼びます。
現像工程でアンモニアガスを用いるため、乾燥するまでアンモニアの匂いがとても
きつかったものです。こういった湿式複写機は文房具屋さん本屋さんに置いてあっ
たので有料で複写してもらいました。
校歌と真珠採りのタンゴの手書き譜面
さて写真の手書き譜面は、1967(昭和42)年に写譜されたもので、なんと45年振
りに出て来たものです。保管していた方は九州・福岡在住の11期OG齋藤(陣内)さ
んでした。自宅の物置でふと見つけた学生時代に使った譜面の山から発見したそ
うです。齋藤さんがフォーユーアンサンブルの練習に東京へ出て来た時にこれを持
参し、48年振りに私に返していただきました。
その経緯は2人とも覚えていないのですが、たぶん11期の齋藤さんが写譜するた
めに1年上の私から借りたものであろうと想像します。
しかし、私は途中でクラブを退部したため、返す機会を逸したものなのでしょう。
それにしてもなんという巡り合いなのでしょう。48年の歳月が瞬間的にタイムスリッ
プしたような感じがします。
手書きの譜面は温かみがありますね。この手書き譜面の表紙に見えるクラブマー
クの《鳳凰》の印ですが、クラブ公式印ではありません。写譜した譜面に目じるしと
して自作の印を押したものです。
これは、1966年11月17日 東京・文京公会堂で行われた第7回定期演奏会の
プログラム表紙に印刷された鳳凰を写し取ったものです。
たしかプログラム表紙に薄紙で外形を写し取り、カーボン紙でゴム版に写し取り、
彫刻刀で周りを削り取ったものです。さらに中心部に1967と年号を彫り込んでいる
ことから年賀状に使ったものではないかと想像します。
当時は今のようにパソコンで年賀状を作るなんてありません。熱心な方は、年賀
状に芋判やゴム版で自作の印や図柄を押す事が一般的でした。
不便なようでも温かみのあるいい時代でしたね。
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2014年11月6日
【校歌の話題】
HP管理者
日本大学マンドリンクラブの公式演奏会で、必ず一番目に演奏される日本大学校
歌。作曲は山田耕作、作詞は相馬御風、編曲は宮田俊一郎。
1959年に宮田俊一郎先生に編曲していただいたものです。
この校歌についての話です。すでにご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが。
=日本大学100年(日本大学発行 1989年)より=
今、私たちが声高らかに斉唱している校歌は三代目です。
初代校歌は、一晩で作られた。大正9年5月、大学令による大学昇格の記念祝賀
式に、「そこで歌う校歌がほしい」という在学生の切なる願いから始まりました。
式典の前日、学生委員は当時の司法省参事官・本学講師で随筆家でもあった大
森洪太に作詩を、作曲は声楽家・立松久子にと、両家に押しかけ「明朝までに何と
か」と依頼。出来上がった校歌を学生たちが歌えるようになったのは、祝賀式典開
会20分前だったという事です。
この"速成校歌"から大正11年秋、大学は校歌改訂を決定しました。歌詞は学生
からの公募。翌、大正12年1月、多数の応募作品から3点を選び、法文学部教授
会で当選作品をアレンジして作った歌詞に、作曲家・梁田貞が曲を付けました。こ
れが二代目校歌の誕生です。
やがて時代発展に合わせるため、昭和4年5月、相馬御風の詩に山田耕筰が曲
をつけ、三代目つまり現在の校歌が生まれました。詩句は初代・二代目校歌の精
神を受け継ぎつつ、斬新さを加え、曲は明るく軽快で、しかも荘重さを秘めていま
した。
この三代目校歌も戦時中の昭和15年7月12日から終戦までは、"正義と自由"と
いう詩句を"八紘一宇"と改めて歌っていました。
八紘一宇(はっこういちう)とは、『日本書紀』巻第三神武天皇の条にある「掩八紘
而爲宇」の文言を戦前の大正期に日蓮主義者の田中智學が国体研究に際して初
めて使用したものです。「道義的に天下を一つの家のようにする」という意味です。
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2014年10月23日
【うちわの雑談】
HP管理者
どうでもいい話ですみません。
朝、ふとテーブル脇の新聞入れを見たら時期外れなうちわがありました。おや、こ
れどこかで見たよなと思ったら、ニュースで話題の"柄の付いた討議資料"でした。
先日辞任したM法務大臣から町内のお祭りで直接本人から手渡しされたものです。
うちわの様に見えますがうちわではないとテレビで言っていました。よく見るとたしか
に表面と裏面には《討議資料》とはっきり印刷されています。裏面には政策がびっし
り書かれていますので討議資料と呼べない事もないのですけれどね。
このうちわのようなものの起こす風が、政界に突風を起こしてしまったわけですね。
いい・悪いの話は別にして《話題の品》です。ネットオークションサイトでは4千円位
しています。
この手の政治家のうちわは、これまで幾つも見ましたけど・・・国会で追及していた
側の○○女性議員、○○都知事等々・・・
選挙管理委員会の証紙の有無がポイントらしいのですが、微妙ですね。
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2014年9月26日
【宮田俊一郎先生とのレコーディング】
北海道 14期 高橋
14期 高橋です。OB会HPの掲示板に"何でも情報"募集中と書かれておりまし
たので、宮田俊一郎先生との思い出話を投稿します。
40数年も前の古い出来事で、私の記憶の中にしまい込んでいたものです。お話
しする機会が無かったことと、先生と私しか関わっていなかったことなので、殆どの
方はこの事実すら知ることが無かったのではないかと推測します。宮田先生への懐
かしい思いと尊敬の念を込め手記としてまとめてみました。ご一読頂ければ幸いで
す。
私が4年生の1974年8月、真夏の暑い時期でした。宮田先生から私宛に電話が
かかってきました。当時はまだ携帯電話も無く、アパートの大家さんからの呼び出
しの電話でとても驚きました。後にも先にも先生から頂いた電話は、この一回限り
だったと記憶しています。
内容は、「マンドリンのレコーディングを手伝ってもらいたい」とのことでした。当時、
私はコンサートマスターの役割を頂いていので、先生からの指名に与ったものと思
います。
数日後、先生と待ち合わせをしてタクシーで出かけました。私にとっては破格の待
遇でした。向かった場所は"日本コロムビア"。ドキドキしながら先生の後ろに隠れる
ようにして付いて行き、たどり着いた先は、コロムビアレコードの一番大きなスタジオ
でした。
既に十数名のプロ演奏家らしいメンバーがレコーディングをしており、頃合いを見
て入室したところ、指揮者のすぐ前の三方を板で囲われた場所に座らされ、目の前
には大きなマイク(多分大きく見えたのだと思います)が据え付けられていました。指
揮者から直ぐに楽譜が配られ演奏開始となりましたが、通常のレコーディングは一
回目には、指揮者からの指示を受けながら全体を通しての練習、二回目にはリハー
サル、三回目にはスタジオに赤ランプが灯り本番、と云う順序になるようです。プロ
の演奏家は普通でしょうが、年二回の演奏会のために一年間を通して練習を重ね
る学生の私達の感覚からは信じがたいことでした。これでレコードとしての商品が完
成するなど、考えも及ばないことでした。
コロムビアスタジオでレコーディング中の早川正昭氏と東京ヴィバルディ合奏団
配られた楽譜は「久しき昔」「アニー・ローリー」「蛍の光」の3曲、初見を最も苦手
とする私は心臓が飛び出るほどの思いで必死に演奏しました。隣の宮田先生のお
顔をそっとのぞき込むと、仕切りの板越しに何時もと変らぬ優しい表情で私を見返
して頂き、救われる思いをしたことを思い出します。
全曲バロック調のアレンジ曲で、1曲目の「久しき昔」、2曲目の「アニー・ローリ
ー」は「こんなもんでいいの?」と思いながらも、平易な曲調であったことも幸いして
何とか切り抜けることが出来ました。
しかし、3曲目はそう簡単ではなかったのです。ビバルディのマンドリン協奏曲に蛍
の光の曲を組み込んだ編曲で、二つのマンドリンとの掛け合 いとなる高音域が難し
くどうしても弾けなかったのです。遂にリタイアとなり、宣告されたのは「1週間後に
又来て下さい」とのことでした。帰り道、弾けなかった悔しさと先生に対する申し訳な
さが入り交じり、まともに顔を上げることが出来なかった自分の姿を今でも鮮明に
脳裏に刻み込まれています。
そして、こんな自分を最後までそっと見守って下さった先生の優しい気持ちと思いや
りの心が、私の身体の奥深くまで染み込んでいった一日でもありました。
1週間後のカラオケによる再録音は、無事終了しました。後程1曲1,500円、3曲で
合計4,500円のアルバイト料を頂きました。重みのあるアルバイト料で暫くは使うこと
が出来ませんでした。再録音までの1週間、再びの失敗を恐れて精神的にも追い詰
められ、宮田先生への思いとも交錯し、睡眠も食事もままならない状態が続きました。
僅かな時間床につく以外はマンドリンを抱え続けて過ごした日々を生涯忘れること
が出来ません。自分史の中で貴重な出来事として記憶に刻んでいます。そして、宮
田先生には感謝の言葉しかありませんでした。
この話しには、後日談があります。
私が卒業後、出身地の北海道に戻った昭和49年(1974年)か50年(1975年)頃、
居住していた苫小牧市の小さなレコード店に立ち寄った時のことです。何気なくレコー
ドを指で倒しながら順に眺めていると、あるレコードのジャケット(裏面)に目が止まり
ました。そこに写っていた写真の人物に見覚えがありました。先生と共にレコーディン
グをした時の指揮者と女性プロデューサーが写っていたのです。レコードをジャケット
から取り出し、そのレコード盤に先生と私の名前が刻まれているのを見付けた瞬間、
思わず手が震えました。
この時、初めてあのレコードが世に出ていたことを知ったのです。探しても見付ける
ことの出来ないであろう名も無きレコードが、片田舎の小さな店(LPは本当に僅かし
か置いていなかった店です)で発見できたことは奇跡に近いことでした。
後になって気づいたことですが、このとき直ぐに連絡を取っていれば生前の先生と
受話器を通してお会いすることが出来たのにと、つくづく悔いが残っています。お礼を
申し上げないまま先生に先立たれたことが残念でなりません。
つたない文章で恐縮ですが、宮田俊一郎先生に感謝の意を捧げる私からの言葉と
して、この手記をお届けしたいと思います。
〈参考…レコードの情報として〉
・ 「バロック・スタイルによるイギリス民謡」
−The English Folk Song Baroque Ensemble−
・指揮&編曲:早川正昭 ・演奏:東京ヴィバルディ合奏団
・発売:1974年11月
(このレコードの詳細につきましては、ここをクリックして下さい)
東京ヴィバルディ合奏団は日本を代表する室内楽団で、主にヨーロッパで活躍して
いました。その後改組されて、現在もヴィバルディの"四季"の演奏等で国内外でも幅
広く演奏活動をしています。
指揮・編曲者の早川正昭氏は、当時の東京ヴィバルディ合奏団の創設者で、指揮
者としては日本やヨーロッパ各地で公演活動を行っており、更には広島大学等の大学
教授としてバロック音楽研究の第一人者としても著名な方です。又、作曲も多くの作品
を手掛けていて、マンドリン音楽にも関わっているとのこと。日本有数の作曲者・指揮
者です。
以上のことは後になってから分かったことですが、早川氏を含め一時であっても著
名な方々と演奏を共に出来たことはとても名誉なことでありました。又、当時は指揮者
や室内楽団についての情報は皆無に等しく、小心者の私にとってはこのことがとても
幸いであったと心から思っている次第です。
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2013年11月28日
【自分の番】
HP管理者
≪書の詩人≫、≪いのちの詩人≫とも称される相田みつをさん。(1924〜1991)
彼の書の言葉は実に素晴らしく、心を打たれます。
下は、管理者が最近見て考えさせられた詩です。有名な詩なのでご存じの方も
多いかもしれませんが。
【自分の番】
父と母で 二人
父と母の両親で 四人
そのまた両親で 八人
こうしてかぞえてゆくと
十代前で 千二十四人
二十代前では― ― ―?
なんと百万人を越すんです
過去無量の
いのちのバトンを受けついで
いま ここに
自分の番を生きている
それが
あなたの いのちです
それが わたしの
いのち です
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2013年6月28日
【ピックのリサイクル】
HP管理者
マンドリンピックは昔60円以下だったと思います。今では1,000円弱となっ
て高騰しています。使って行くうちに減ってしまうのがピックの宿命なので気に
入ったピックでも消耗してしまうものと諦めていました。
日本ではピックの材料は、本べっ甲(鼈甲)が主流でした。現在ではべっ甲を
始めとして、熱可塑性樹脂のセルロイド、ポリアセタール樹脂などのナイロン類、
ゴム系など様々な素材のピックが溢れています。材料に加え、形状、固さ、厚
さバランス等、様々です。弾く楽器の種類、雑音が出にくいとか、消耗が少ない
とか切りがありませが、最終的には弾き手の好みで決まります。
私は、べっ甲製が一番好きです。軽い質感ながら、そこから生まれる音は力
強く同時にやさしさが出ます。
べっ甲は、南方の海に生息するウミガメ・タイマイの背と腹の甲を構成する最
外層の角質からなる鱗板を10枚程度に剥がして素材にします。余談ですが、
生薬、漢方で言うべっ甲は、タイマイではなくスッポンのものです。
1992年に『絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約』
(ワシントン条約)によって規制対象として輸入を禁止されているので、いつか
は素材がなくなるものです。そのため価格が高騰しているのです。
さて最近、先輩からピックの再生法を伺いました。
研磨して作ったピックだから磨き直せばいい・・・その通りですが素人にそんな
事が出来るのか・・・早速、試してみました。
昔お気に入りだったけれどガリガリになって捨てようとしていたピックがなんと新
品の様に復活したのです! これはすごい! ピックのリサイクルですね。
さて、その再生方法はこれです。ピックの製作者が行う作業とは多少異なりま
すが、手に入りやすい材料で素人が出来る範囲とすれば、これでも充分再使用
できるものになります。
【準備】
#1000の紙やすり、#2000の紙やすり、爪みがきセット
【粗研磨】
まずは軍手をして作業した方が良いでしょう。
#1000の紙やすりを用意します。番号は粒の目の粗さを表し、#1000は精
密研磨用です。紙やすりによってはそのまま使う空研ぎ用、水を付けて使う水研
ぎ用などがあります。この#1000で大きなガリガリになった場所をおおまかに
平らにします。削りすぎないように注意して下さい。
【仕上研磨】
次に#2000の紙やすりで丁寧に磨きます。根気よくじっくり行ないます。水み
がきがいいかもしれません。#2000を使ってもピックはスリガラスの様に表面
は曇った状態です。少なくても見た目では平らにし、平面や角の形を整えます。
【光沢研磨】
爪みがき等に使う珪藻土とグリセリンを合わせたペーストをセーム皮(鹿皮など
の銀面を落として油なめしした動物皮)に薄く塗り丹念に磨き、べっ甲独特の光
沢を出します。
最後に何も付けない乾いたセーム皮で丹念に磨きさらに光沢を出します。
これで再生完了です。材料はそれぞれ500円程度で、新品ピックの2枚以下で
す。ネットで購入出来ます。すり減ったピックの程度にもよりますが、50枚以上
は再生出来そうです。
プロは電動研磨機を使うようですが、手で根気よく頑張って下さい。元々、捨て
るピックですから失敗しても気楽です。お時間のある方は、一度お試し下さい。
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2012年9月4日
【宮田東峰とハーモニカ】
HP管理者
宮田東峰氏は、ハーモニカ演奏家。群馬県前橋市出身。
1898年(明治31)3月24日生れ、1986(昭和61)年1月31日没。
本名は孝三郎で、東峰は祖父の俳号です。
ハーモニカの箱に、宮田東峰氏の顔写真が載っていることを覚えていらっしゃる
方も多いかと思います。自分の顔をハーモニカの商標として登録したことでも有
名です。
20歳代の1922〜3年頃には東京毎夕新聞社の校正部に勤務していたそう
です。1910年にドイツ帰りの父から土産として楽器を貰いました。マンドリンを
貰ったのが兄 宮田信義、ハーモニカを貰ったのが弟 宮田東峰(孝三郎)でした。
当時、信義14歳、東峰(孝三郎)12歳であったと思われます。信義、東峰の兄
弟は楽器に夢中になり、それぞれマンドリンとハーモニカで名を成すことになり
ました。
余談ですが、東峰(孝三郎)は名前からも想像できるように、宮田家は男3人兄
弟でしたのでもうお一人も何らかの楽器を貰ったものと思われますが、この方
は音楽関係には行きませんでした。
東峰氏は奏法を独習し、大正7年日本初のハーモニカ合奏団(ミヤタ・ハーモニ
カバンド)を結成して、レコードや演奏会による普及活動、楽器の改良など に尽
くしました。
哀愁あふれるハーモニカの響き、庶民の楽器としてあっと言う間に広まりました。
また、小・中学校の音楽教育にも使われるまでになりました。
ハーモニカは、 1827年(文政10)、ドイツで発明され、1892年(明治25)頃、
日本へ最初に入ってきました。その後、1907年(明治40)、トンボ楽器製作所
が、日本で初めて国産ハーモニカ発売しました。 このトンボ楽器製作所が、
1924(大正13)に宮田東峰氏と提携し「ミヤタバンド」ハーモニカを発売しまし
た。大正14年頃には、全国に300を超えるハーモニカバンドがあったそうです。
現在、「ミヤタ・ハーモニカ・バンド」は現存しませんが、そのCDは入手可能です。
また、「ミヤタ・ハーモニカ・バンド」に在籍していた人達が別なバンドを結成した
り、宮田東峰氏の弟子達がハーモニカ演奏活動を続けています。
ハーモニカで、抒情歌、唱歌、歌謡曲、世界の名曲などを演奏すると独特のも
のがあります。ハーモニカはリードを使った吹奏楽器としてはめずらしく、吹くだ
けでなく吸うことによっても音を出します。吹く音と吸う音の混在で、長いフレー
ズを息つぎなしに演奏することが容易です。他の楽器と比べ、比較的早く曲を
吹けるようになるのも一般受けした要因でしょう。ハーモニカには、複音ハーモ
ニカ、クロマチックハーモニカ、ブルースハープ、コードハーモニカ、バスハーモ
ニカなど沢山の種類があり、調によっても使い分けします。本格的なるとかなり
難しい楽器でもあります。
NHKでミヤタ・ハーモニカ・バンドの指揮をする宮田東峰氏
1910年(明治43):12才の時、父のドイツみやげでハーモニカを初めて手に
する。
1918(大正7):中央大学三年在籍時、日本初のハーモニカバンド「東京ハーモ
ニカ・ソサエティー」結成。
1922(大正11):日本コロムビアで「東京ハーモニカ・ソサイエティー」初吹込み。
1924(大正13):楽団名を「ミヤタ・ハーモニカ・バンド」に改名。
1925(大正14):愛宕山の東京中央放送局(NHK)で初放送。
1924(大正13):トンボ楽器製作所が宮田東峰と提携し「トンボ・ミヤタ・バンド」
ハーモニカを発売
1925(大正14):日本蓄音機商会(日本コロムビア)と専属契約。
ところで、1961年11月10日に行われた日本大学マンドリンクラブ第2回定期
演奏会にゲストした宮田東峰氏の長男 英夫氏は、みごとなハーモニカ演奏を披
露して下さいました。
宮田英夫さんは、幼少の頃からハーモニカ奏法の訓練を受け、小学2年生でN
HKの『陽気な喫茶店』でデビュー、映画、テレビ、ラジオに出演していました。こ
の第2回定期演奏会出演時は高校3年生でした。
後に宮田英夫さんは、ハーモニカからジャズフルート奏者となりました。宮田英
夫カルテットを主宰してジャズ界ではその名が有名です。フルートばかりでなく、
テナーサックス、パーカッション奏者としてもレコード、CDを数多く出していて現
在も活躍中です
この時の写真や資料は【思い出アルバム・その20】の2010.01.21ご参照下さい。
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2012年8月23日
【クラウンマンドリン】
HP管理者
今では国内でマンドリンを製作者している方は少なくなってしまいました。
大正時代のマンドリンが一世風靡した時代には、様々なマンドリン製作会社が
あったそうです。このマンドリンもその一つです。
≪クラウンマンドリン≫と言うお洒落な名前ですが詳細は不明です。
大正末頃のカタログではピックガードにきれいなインレイがあります。
汎用品のようですが、1番高井6号は定価 金35円とあります。ハーモニカ
が1円位ですので当時としては中級品です。
さて、そのキャッチコピーには趣があり、思わず弾いて見たくなります。
販売元は、十字屋楽器店と書いてありますので、東京都銀座3丁目に、明治
7年(1874)に創業した、創業130年を超える楽器店の銀座十字屋ではない
かと思われます
クラウンマンドリン
ほのかなる音色に
南欧の情緒を
味わって下さい。
一.いと柔らかなる其音色
一.正しい気持ちのよい調子
一.ネックの決して狂わぬ附け方
此の三つがクラウンの特に勝れた話でございます。
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2012年8月22日
【カラッチェギター】
HP管理者
近年、中国でのキャラクター商品などの著作権や商品権問題が取りざたされ
ています。
しかし日本でも主に戦前には、似た様な事が様々な商品で行われていました。
著作権とは、言語、音楽、絵画、建築、図形、映画、写真、コンピュータプロ
グラムなどの表現形式によって自らの思想・感情を創作的に表現した者に認
められ、それらの創作物の利用を支配することを目的とする権利を言います。
又、商標権とは、商品を購入し、あるいはサービの提供を受ける需要者が、そ
の商品や役務の出所を認識可能とするために使用される標識をいいます。
著作権や商標権は、特許権と並ぶ知的財産権の一つとして位置付けられて
います。
Calace Guiter
さてこのギターはCalace Guiterです。読みは、カラーチェではなく ≪カラッ
チェギター≫ 又は ≪カラチギター≫と呼ばれる日本製ギターです。
現在でもオークションで "オールドギター" として見かける事があります。
サウンドーホールの中のラベルにはラファエレ・カラーチェ氏に似た写真と共
に、Calace Musical Inst. Mfg. Co. NAGOYA JAPANと英語名があります。
サインはRaffaele Calaceではなく、Calace Guitarとあります。
赤文字の英文で≪このギターは工場での厳しい検査を受けて出荷しています≫
とも記載があります。
マンドリン製作で有名なイタリアのカラーチェ社では時折ギターも製作してい
ますが、これは≪名古屋カラチ社≫のものです。
でも・・近隣国で話題になっているどこかの国の有名キャラクター商品のよう
ですが、明確に日本の名古屋製と書いてあります。
話は飛びますが1960年代日本でエレキギターが大流行した時、有名アーチ
ストが使用していたギターをコピーしたコピー商品が沢山販売されていました。
例えば、ビートルズのポール・マッカートニーのバイオリンベース(ホフナー社)
をコピーしたグレコ社やカワイ楽器社、ジョン・レノンのリッケンバッカー社をコ
ピーしたハニー社やファーストマン社など限りなくありました。
そうした事を考えると、日本人の商魂たくましさは、今では考えにくい事がごく
普通にあったのでしょう。
これは、東京マンドリン・クラブ(現在の東京マンドリン宮田楽団)の昭和9年
(1934)の演奏会プログラムです。プログラムの広告に≪ギター御買求の節
は、大好評の高級コッピーカラッチェギター≫とあります。
ここでは、コピー商品である事が明記されています。 また、製造販売元として
≪佐藤商會≫の名が記載されています。
昭和初期に地球の反対側で正式な契約に基づいてカラーチェ社が日本に製
造販売権を与えたとは考えにくいものがあります。多分一方的に日本で作られ
たものなのでしょう。本家カラーチェ社はご存じなかったかも知れません。
製造販売元の株式会社 佐藤商會は明治44年(1911)創業で、名古屋市西
区で現在でも、楽器卸売販売をされている老舗です。
もちろん現在では、カラッチェギターは販売されていません。
この会社の商標は現在でも丸くデザインされた五線にCalaceと書かれています。
さて、海賊版と言っていいのか悪いのか判断しにくい所があるこのギターです
が、スチール弦用とナイロン弦用があったようです。
一般的にコピー商品と言われるものには次の3種類に大別出来ると思います。
@完全にその商品を複製したもので正規商品と間違って買われる事を目的
としているもの。
A正規商品として発売されていない商品ではあるが、正規商品の足りない部
分や機能を補足したりして、より良い商品とする努力をしているもの。
B個人又は少数の人達によりプライベート用として製作されたもので販売を
目的としないもの。
さて、このカラッチェギターに触った事はありませんが、Aの正規品をより良く
した製品だったようで、作りはしっかりしていて軽量、音は美しく、好評だったそ
うです。どんな音がするのか一度弾いてみたいものです。
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2012年7月2日
【恒例のジャガイモ堀り】 その2
千葉県 9期 小松
9期小松です。
今年も恒例の我が畑でのジャガイモの収穫の時期となりました。
2012年6月28日、天候にも恵まれ、三浦ご夫妻(6・8期)、能澤ご夫妻(9期)
が収穫の応援に来てくれました。
収穫後、耕運機で畑を耕します。能澤(9)さん、三浦(8)さんが挑戦です。
初めてなので中々うまく耕せません。
農作業を終えて近所の和風レストランで食事をしました。ジャガイモの料理方法
に話しがはずみました。
夏場には、きゅうり、トマト、枝豆、茄子が楽しみです。又、晩秋にはメイン栽培の
落花生を収穫予定です。
収穫を楽しみたい方はいつでも小松農園にお越しください。お待ちしております。
お子様、お孫様もどうぞ。
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2012年6月30日
【恒例のジャガイモ堀り】 その1
千葉県 9期 小松
9期小松です。
今年も恒例の我が畑でのジャガイモの収穫の時期となりました。
2012年6月28日、天候にも恵まれ、三浦ご夫妻(6・8期)、能澤ご夫妻(9期)
が収穫の応援に来てくれました。
皆、筋肉痛になるのも忘れ一生懸命にご協力して頂いたおかげで、無事収穫
が出来ました。
品種は≪インカのひとみ≫(白く見える)と≪ノーザンルビー≫(サツマイモに似
た色)で、一般の店では販売しておりません。
普通の男爵いもに比べ40%以上高いと思います。
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2012年6月15日
【永遠の夢 第9合唱を歌う】
千葉県 9期 能澤
=オーケストラと歌おう春のうたごえ2012=
2012年4月15日 市川文化会館大ホール
市川交響楽団、市川第九市民合唱団
指揮:船橋洋介 独唱:清水麻衣、小倉牧子、安保克則、大井哲也
・ヴェルディ 歌劇《ナブッコ》〜行け、我が想いよ、黄金の翼にのって
・ベートーベン 交響曲第9番《合唱付》
≪永遠の夢 第9合唱を歌う≫
私は2012年4月15日(日)市川市文化会館にてベートーベンの第9(合唱付)
演奏会に参加しパ−トはテノールで歌いました。昨年4月にリタイヤして、7月半
ば探し求めていた第9合唱の演奏会募集広告を地元市川の広報で見つけました。
このチャンスを逃すと一生後悔するかもしれないと、善は急げと入団手続きへ。
2012年11月30日募集期間を終えて市川文化会館で結団式、参加者は男女
で200名位。割合は男性60名女性140名位、女性が多く、男女の平均年齢が
60歳以上にも驚きました。
12月の第1週から文化会館で練習が始まりました。先生(合唱指揮者)と練習ピ
アニストの紹介があり、最初は発声練習。私は自己申告でテノールを選び、今まで
出した事のない高い声を苦しかったけれど気持ちがよかった。
そして先生から「このベートーベンの第9合唱はすべての合唱曲のなかで1番難し
い曲ですので頑張って欲しい、そして歌詞はドイツ語、暗譜でお願いします」と、挨
拶がありました。
歌詞と発音を覚えるのに難しく、練習3週目に注文していたテノール練習用CDが
届き、それからはCDが大活躍何回も聴きながら少しずつドイツ語に慣れていきまし
た。
そして年が明け1月半ば先生より4月の演奏会に1曲増やしますと皆に報告があ
りました。その理由は昨年3月11日に東日本大震災があってその被災者の皆さん
に元気になってもらう応援の意味で歌うことになったのです。曲目はジュゼッペ・ヴェ
ルディの歌劇「ナブッコ」から「行け、この想いを黄金の翼に乗って」です。
そして先生からこの曲の説明のあと、歌はイタリア語で、暗譜で歌います。ナブッ
コには練習用CDはないので、パソコンからYOUTUBEを開いて、ナブッコを検索
して覚えてください」と言われた。
1日中パソコンと練習用CDが回りっぱなしの日もありました。ドイツ語とイタリア
語を同じ時期に2か国語覚えるのは厳しかった。
4月14日リハーサルを迎えました。オケ合わせが終わって、指揮者より合唱と
ナブッコの2曲の出来具合について合格点を頂きました。その後、第9の4楽章、
合唱団員全員が歌う第1声「フロイデ」に触れて、「この部分はこの曲の生命線で
一番大切なところ、皆がまとまって歌わないと今までの練習が無駄になってしまう
のでしっかりと歌ってほしい」とハッパをかけられた。
4月15日(日)演奏会の当日は天気もよく暖かい日でした。服装は黒にまとめ、
蝶ネクタイは学生時代の演奏会以来で懐かしいかった。
観客は1500人を超え、三浦(8)さん、小松君(9)、林君夫妻(9)と親戚、家族が
来てくれました。
演奏会が始まり、1部ジュゼッペ・ヴェルディ歌劇「ナブッコ」より「行け、この想い
よ、黄金の翼に乗って」を。そして、2部 ベートーベン交響曲第9番(合唱付き)を。
ソリスト、合唱団員は初めから舞台に上がって3楽章まで椅子に座って待機、4楽
章からそれぞれが歌うやり方でした。
演奏が始まる前に司会者のTBS柴田秀一さんが、合唱団員に質問をしました。
その結果、最高年齢の方は83歳。最少年齢は16歳と返事が返ってきました。そ
して年の差63歳にも驚きました。それだけこの曲に愛着を感じている人が沢山い
るのです。
合唱団員の中には若い時から歌が好きで老いても演奏会の為、練習に来られる
方が結構おりました。
演奏が始まり、4楽章に入って合唱団全員の第一声「フロイデ」を大きな声で歌い
ました。
その後、指揮者が指揮棒を振りながら「フロイデ」の出来栄えに合格の合図をも
らい、なんとか歌え終わった時、満足感は最高に達していました。
そして「オーケストラと一緒に第9合唱を歌ってみたい」という私の永遠の夢が叶
えられたのです。
それは高校2年生の時、母親が暮れの12月、上野の東京文化会館に第9(合
唱付き)に招待してくれたのです。初めて第9合唱を聴き、生演奏の迫力に興奮し、
その時以来、オーケストラと一緒に第9合唱を歌ってみたいという夢を見てきまし
た。
そして2年前他界した母親が大好きだった第9合唱をもし生きていたならば、こ
の日に聴かせることが出来たはずでしたが残念ながら遅かった。でも母親は天国
で必ず聴いてくれていることを祈って歌いました。
楽屋に戻った時、指揮者、先生から改めて「合唱」と「ナブッコ」の出来栄えに合
格点を頂き、レセプションでは皆で成功を祝してビールで乾杯しました。
合唱団の男性・女性に「この第9合唱をどう思っていますか」と尋ねてみたところ
このような返事が返ってきました。
@好き A永遠の恋人 B生きがい C楽しい D元気がもらえる
もう一つ尋ねてみました。第9合唱の演奏会に参加した回数はどのくらいですか。
応えは10〜30回と多かった。本当に愛されていることを実感しました。
そして注文していた演奏会のCDが届き、聴いた感想はすばらしい、こんなにうま
く歌えているとは思わなかった。合唱団全員がまとまって歌ったことに我ながらうれ
しくて目頭が熱くなりました。
今回初体験のベートーベン第9合唱付きに参加できたことは私にとって大きな財
産になりました。これも指揮者、先生、練習ソリスト、合唱団の皆さんに支えられて
歌えたことに心から感謝し「ありがとうございました」と、お礼を言いたいです。
ある方から今年12月で習志野の第9合唱に誘われました。是非、参加したいの
ですが、申し込んでも狭き門らしくなかなか切符が手に入らないとか? 切符がも
らえれば、9月から練習が始まります。
今後も続けられるかぎり、この合唱を歌っていきたいと思っています。
皆さん。ベートーベンの第9合唱を歌ってみてはいかがですか。楽しいですよ!
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2012年5月24日
【新交響吹奏楽団の第78回定期演奏会】
京都 21期 小谷
21期 の小谷です。いつも楽しくホームページを拝見させていただいております。
先日、このホームページに東京マンドリン宮田楽団の河口湖合宿の様子が紹介さ
れておりました。
なんとビックリ、19期OBの村岡さんと21期OBの小谷が所属する新交響吹奏楽
団も同じホテルでここ30年来、毎年ここで合宿を行っています。
先日のゴールデンウィークも恒例の春合宿を行いましたが、宿のご主人と東京マ
ンドリン宮田楽団や宮田蝶子先生の話で盛り上がりました。
宿のフロントには宮田楽団と宮田蝶子先生のCDが飾られていました。
練習中の新交響吹奏楽団 村岡(19)と小谷(21)
さて、その新交響吹奏楽団の演奏会のPRです。
第78回定期演奏会が今週の金曜日に行われます。
日時:5月25日(金)19:00開演
場所:なかのZERO(JR中野駅下車 徒歩8分)
曲目:序曲 1812 (チャイコフスキー)、バレエ音楽 ボレロ (ラヴェル)他
村岡さんのボレロのスネアドラムは必見です!
毎度の派手なティンパもいいですが、ボレロのスネアも見ものですよ!
詳細はこのホームページ【演奏会のお知らせ】にも掲載されておりますが、17期〜
22期を中心に多数のOB・OGの皆さまにご来場いただいております。
懐かしい顔ぶれも多く、ぜひ皆さまのご来場をお待ち申し上げております。
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2012年3月10日
【あれからもう一年】
HP管理者
2011年3月11日、太平洋三陸沖を震源として発生した東北地方太平洋
沖地震。死者行方不明者1万9千人以上という未曾有の災害となりました。
私たちもそれぞれに大地震を体験し、生きると言う事、日本という国、様々
な事を考えさせられました。あれからもう1年が経ってしまいました。
11日の日曜 14時46分、この時間には多くの犠牲者の方々に対し、哀悼
の意を表し、ご冥福をお祈りしする為、その場で黙祷を捧げたいと思います。
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2012年1月5日
【ペコちゃん】 正月バージョンのペコちゃんを見て思う
HP管理者
不二家のマスコットキャラクターのペコちゃん。
当初は1950年に発売された不二家の菓子≪ミルキー≫の商品キャラク
ターとして誕生し、後に同社全体のマスコットとなりました。
1950年生れというと還暦をすぎているので『ペコおばあちゃん』なのです
が、ペコちゃんはいつまでも可愛い永遠の6歳です。
チョロっと舌を出しているペコちゃんはいつでも可愛いですね。
名前の由来は、仔牛を表す東北方言「ベコ」から来たそうです。ペコちゃん
に対してポコちゃんという男の子のキャラクターも有名ですがこちらは舌を出
していません。
ショートケーキ、特にストロベリーショートケーキが日本では最もポピュラー
でケーキ屋やカフェでは外せない一品です。このストロベリーショートケーキ
を大正時代に日本に紹介して全国に広めたのは不二家でした。
現在は、ヨーロッパのおいしいケーキを様々な店で食べる事が出来ますが、
不二家は現在でも全国約630店舗あり頑張っています。
HP管理者は不二家とは関係がありませんが、正月バージョンの可愛いペ
コちゃんを見て思ってしまいました。2007年の事件から再起したペコちゃん、
これからも元気でね。
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2011年12月26日
【寺内タケシとマンドリン】
HP管理者
エレキギター奏者の寺内タケシ氏が、高校時代にマンドリンクラブを創立さ
せNHK全国楽器コンテストに3年連続優勝し、大学時代には短期間ではあっ
たものの明治大学マンドリン倶楽部の部長兼任の指揮者だった話です。
部屋の本棚を整理していたら『バカやってるかい』(著者 寺内タケシ)という
本が出て来ました。
寺内タケシ氏は、彼のバンド・ブルージーンズを率いて≪エレキギターの神
様≫と言われた人です。ギターを弾いて50年以上、1967年に第9回日本レ
コード大賞編曲賞を受賞しました。
今年、2011年には日本レコード大賞功労賞の受賞が決まっています。
1939年生れで、72歳となりました。
さて、そんな寺内タケシの演奏には時々、ギタリストのトレモロとは思えない
美しいトレモロが出て来ることがあります。昔から不思議でしたが理由がわか
りました。自伝の中に彼とマンドリンの関係が記されていました。
5歳の時からギターを弾いていた彼は県立高校入学直後にマンドリンクラブ
を創設しました。それは中学時代、土浦に演奏旅行に来た明治大学マンドリ
ン倶楽部の演奏会を聴いて、これだったら自分達でも出来るし、これ以上の
演奏が出来ると思った事が始まりだそうです。
入学式が終わるやいなや部員募集、半ば脅しながら3日間で140人の部員
を集めてしまいました。しかも全員が楽器は初めてというもの。
土浦市の市議会議長で実業家だった父からマンドリンオーケストラの全ての
楽器を購入してもらい、あっと言う間にマンドリンクラブを結成してしまいました。
木刀を片手に部員達を脅しながらの練習と帰宅後の編曲の日々。そして、
わずか半年の9月にNHK全国楽器コンテストに出場し優勝してしまいました。
さらに3年連続優勝という高校マンドリン史上に残る記録を打ち立ててしまった
のです。
高校3年の時、父親に頼んで明治大学マンドリン倶楽部を土浦市に呼び、演
奏会を開きました。寺内達のクラブは前座で出演ましたが、彼の悪いクセで明
治大学マンドリン倶楽部のレパートリーとすっかり同じ曲を用意して演奏してし
まいました。
ばかにされたとカンカンに怒った明治大学部員と険悪な空気になっていたと
ころに古賀政男先生が現れ、「いやぁ君だね、寺内くんというのは。じつにすば
らしい演奏だった。大学に進学するなら是非うちの学校にいらっしゃい」と怒ら
れるどころか明治への入学を勧められ、結局、明治大学工学部へ進学、マン
ドリン倶楽部に入部してしまいました。
しかも、古賀先生との約束は直ちに部長にするというもの。当然、一年生の
新入部員がいきなり部長で、先輩達を木刀で脅しながら指揮するものですから
部員達とはこれまた険悪な空気になります。
そうこうするうちにマンドリンよりも家業を継がせたい思いの父親によって、わ
ずか1週間で退学させられてしまいました。
こうしてエレキギターの寺内タケシ氏は、短期間ではあったものの明治大学マ
ンドリン倶楽部の部長兼任で指揮者でもあったわけです。
でも、明大創部89年の長い歴史からは末梢されている事柄かもしれませんね。
もちろんその後は、エレキギターで大活躍した事は前述の通りです。
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2011年11月4日
【マンドリン 日伊結ぶ調べ】
HP管理者
2011年10月26日付、日本経済新聞の文化欄にマンドリン関連の事を見つけ
ました。【マンドリン 日伊結ぶ調べ】という題で、≪ナポリ・マンドリン・アカデミー
学長≫のマウロ・スクイッランテ氏が書いたものです。
===========================
私は26年前、20歳の時にマンドリンに出会い、演奏を始めた。(中略)
子供の頃、ナポリの街角にあるピザレストランや路上でマンドリンを演奏し
ているミュージシャンたちをよく眺めていた。もっとも彼らは皆高齢。しかも当
時ナポリ市内でマンドリンを演奏するミュージシャンは数人しかいなかったよ
うに思う。(中略)
マンドリン発祥の地なのになぜ、と日本の皆さんは不思議に思うかもしれな
い。ナポリではマンドリンは廃れていたのだ。(中略)イタリアでは、マンドリン
は≪古くさい≫というイメージが付きまとうようになり、すっかり影が薄くなって
しまった。(中略)
私はその後、伝統音楽に興味がわき、マンドリンを学ぼうとしたが、地元ナ
ポリには教えてくれる場所が無かった。そのためローマでファビオ・メンディッ
ト氏から個人レッスンを受け、その後、北部まで出向き、パドバの学校に入学。
3年間マンドリンを学んだ。さらにスイスのバーゼルにある音楽学校で古典音
楽を学んでからナポリに戻った。
帰郷した私が取り組んだのは、若い世代の育成だった。1929年に設立さ
れ、50年程で閉鎖されてしまったナポリ・マンドリン・アカデミーの復活だ。
(中略)
2006年、日本でアルバムを発売したのに合わせて初めて日本の土を踏ん
だ。イタリアよりもマンドリンがポピュラーな楽器はことに驚き、少し複雑な心境
にもなった。主要な大学にマンドリン・オーケストラが存在し、楽器店でも普通
に買うことができる。何度かマンドリンの講習会を開き、伝統的な奏法を指導し
たが、受講生はだれもが熱心で、日本人の中にマンドリンを愛する伝統を感じ
とった。
ナポリで有名なラファエル・カラーチェというマンドリン製作者がいる。彼のお
じいさんは1925年来日し、天皇陛下の前で御前演奏会を開いている。マンド
リンを通じた日伊の交流は古い歴史があるのだ。
私は、これまでの来日は単身だった。いつかはメンバーを引き連れ、日本で
ナポリ・マンドリン・オーケストラの演奏を披露したいと願っている。
ナポリ・マンドリン・アカデミー学長 マウロ・スクイッランテ
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2011年7月11日
【今年も小松農場が大収穫】 その2
千葉県 9期 小松
9期 小松です。
我が家の畑では、ジャガイモの収穫時期になりました。
7月1日、今年の収穫には、三浦ご夫妻(6、8期)、能澤ご夫妻(9期)に加
えて三浦さんの娘さんとお孫さん(6ケ月)にもお手伝いいただきました。
ジャガイモの品種は、ノーザンルビー、インカのひとみ、サヤアカネ、コガネ
丸、ハルカ、シャドークィーンの6種類です。通常スーパーでは販売されてい
ない品種です。
写真のじゃがいもでさつまいもの色をしたノーザンルビーは、蒸かして食べ
ると、さつまいもの様な食感があります。じゃがいもはビタミンCも豊富で、
カリウムたっぷりの野菜です。
左から:小松夫人、三浦さんの娘さんとお孫さん、三浦(6)、能沢(9)、能沢夫人、小松(9)
今年の11月頃には落花生の収穫を予定しております。我が家の落花生は、
最高品種の≪千葉半立≫です。
興味のある方は是非御来園下さい。お待ちしております。
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2011年7月10日
【今年も小松農場が大収穫】 その1
千葉県 9期 小松
9期 小松です。
今年も我が家の畑は、7月上旬にジャガイモの収穫時期になりました。自分
で育てたものを、収穫して、食べられる事は格別です。
畑では、そら豆、落花生、ジャガイモ、枝豆、きゅうり、トマト、トウモロコシ等
を栽培しています。
7月1日、今年の収穫には、三浦ご夫妻(6、8期)、能澤ご夫妻(9期)に加
えて三浦さんの娘さんとお孫さん(6ケ月)にもお手伝いいただきました。
三浦ご夫妻 能澤ご夫妻
途中雷がゴロゴロなりだし、かなり慌ただしかった収穫でした。蒸し暑い中、
なれない仕事は大変でしたが、何とか無事終了。
今年は例年以上に実の成りも良く、大収穫でした。
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2011年2月13日
【日本で一番美しい取水塔】
HP管理者
昔、東京の小学生が遠足の定番になっていた村山貯水池は東京都水道
局の水源のひとつで、東京都内の他県にまたがらない湖の中では最大です。
湖は、西の村山上貯水池と東の村山下貯水池に分かれています。
下貯水池の東側は東京都立狭山自然公園となっていて、一般的に多摩湖
ととこの狭山自然公園も含みます。桜の名所としても有名で、春には公園内
に植えられている沢山の桜で花見客が賑わいます。
村山下貯水池第一取水塔は1925年(大正14)7月に完成し、奥にある第
二取水塔は、取水量を増やすために1973年(昭和48)に完成しました。玉
川上水の始点でもある羽村取水堰から地下水道管から原水を導き、村山上・
村山下貯水池にいったん貯留し、東村山、境、朝霞の各浄水場に送水してい
ます。
ここにある村山浄水場第一取水塔は、日本で一番美しい取水塔と言われ
ています。ネオ・ルネッサンス様式で建設された取水塔は、煉瓦造りの円筒
に丸いドーム状の屋根が特徴で、とても湖に似合っています。
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2011年1月23日
【≪影を慕いて≫に思うこと】
HP管理者
昭和を代表する歌姫 美空ひばり(1937〜89年)没後20年を過ぎその節
目に合わせて様々な企画がされているようです。テレビでは特集番組が放送
され、CDでは全集が発売され、様々な本も出版されたりしています。
美空ひばりさんの映像や歌声は、いまなお人々に感動を与え、胸を熱くさせ
てくれます。学生時代にはそれほど興味がなかったHP管理者ですが、最近そ
のすばらしさを痛感しています。
さて、異論がある方もいらっしゃるとは思いますが、マンドリンはその物悲し
い部分を強調して、歌謡曲の伴奏には欠かせない楽器でした。しかし、この事
により、これまで一部の趣味となっていたマンドリンが、広く一般に知られるよ
うになり、歌謡曲とマンドリンは深い繋がりを持つようになった事も事実です。
神奈川県で昨年末に行われたマンドリンのサロンコンサートでは、全曲が美
空ひばりのレパートリーを演奏するというものでした。
演歌の心を楽器で表現するのは簡単には出来ませんが、特にひばりさんの
レパートリーを歌のないマンドリン演奏で表現するのはとても難しいことです。
ところで、ひばりさんと言えば『影を慕いて』を思い浮かべてしまいます。藤
山一朗、美空ひばり、森進一など数多くの歌手がレパートリーとして、レコー
ドやCDを出しています。
『影を慕いて』は、1931年(昭和6)に発表された古賀政男作詞・作曲の曲
で、1932年(昭和7)に藤山一郎の歌で発売され大ヒットした曲ですが、ヒット
する前には、幾つかのエピソードがあります。
この歌は、1928年(昭和3)の夏に、古賀政男が自分のロマンチシズムが
崩壊し、その絶望から、青根温泉で自殺を図った時、蔵王にかかった夕焼け
を見て『影を慕いて』の一片の詩が浮かんだのだそうです。
古賀政男の自伝には、1929年(昭和4)のアンドレス・セゴビアの演奏を聴
きに行き、『ギターこそ心の友である――セゴビアは改めてそのことを教えて
くれたのだ』とその感動を書いています。
コンサートに興奮して一晩中眠れなかった古賀は、都合4回もコンサートに
行きました。そして、セゴビアのコンサートから帰って、一気に『影を慕いて』を
書き上げたそうです。
最初は流行歌でなく、1929年(昭和4)、明治大学マンドリン倶楽部の定期
演奏会でギター合奏曲として発表されました。
その演奏会にゲスト出演していた歌手 佐藤千夜子が流行歌にすることを古
賀政男に勧めたのだそうです。
自伝には、完成した『影を慕いて』を第三者の批評が聞きたくて、新宿のカフ
ェで顔なじみの女給さんに小声で歌って聴かせたと書いてあります。
しかし、その女給さんからは、『だめだめ、古賀さん。こんな古臭い感じの曲
は、現代にはとてもむかないわ』と言われてしまいました。
その『影を慕いて』は、佐藤千夜子が1930年(昭和5)日本ビクターでレコー
ディングされ、翌年1月に新譜で発売されました。しかし、あまり売れなかった
そうです。因みにレコードには、歌の伴奏が明治大学マンドリン倶楽部と記さ
れていましたが、実際は古賀政男のギターだけの伴奏でした。
その後、1932年(昭和7)に藤山一郎の歌で再発売され大ヒットする事にな
ったわけです。以降、様々な歌手に歌われ、昭和を代表する名曲となりました。
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2010年12月29日
【なんでも鑑定団 A】 =マンドリン=
神奈川県 12期 開澤
この楽器は、渡邊弦楽器研究所製の1978年 渡邊精次氏の作品です。
渡邊精次さんは、1947年からマンドリン製作を行い、多くの名器を製作して来
ました。『渡邊マンドリン』は、初心者からプロまで多くの人に愛用された楽器で
した。現在はご子息である廣明さんと典道さんへとその技術を受け継がれてい
ます。
写真のマンドリンは1978年製で、長年経過していますが、現在でも乾いた美し
い音がします。ネックにはべっ甲が貼ってあり、手の滑りがとても良いもので、お
気に入りのマンドリンです。
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2010年12月28日
【なんでも鑑定団 @】 =マンドリオーラ=
神奈川県 12期 開澤
この珍しい楽器は、1920年頃製作された『Mandriola』(マンドリオーラ)と呼ば
れるマンドリンのなかまですが、弦が12本ある12弦マンドリンです。
一般のマンドリンは2線が1組ですが、この楽器は3線が1組となっています。こ
の3線が一般のマンドリンと同じ様に4コースあるので全部で12本となるわけで
す。調律はE−A−D−Gのマンドリンと同じ調律です。
マンドリンとマンドラを組み合わせたもので、1904年ごろナポリの製作家 マリ
アーニ(Mriani) によって開発されたものだそうです。
1つの音を押さえると3本の弦が共鳴して、輝く音がします。ちょっと地中海の民
族楽器的な感じもします。ボディーは軽く、表面板には美しい螺鈿装飾がされて
います。
写真の楽器はウエスタンミュージックなどで多く使用されているフラット形ですが
通常のマンドリン形ボディーのものも製作されていました。この楽器は、1920年
頃に多く作られたものの一つのようです。製作会社はイタリア・シチリア州の都市
カタニアにあったカルメロ・グリッロです。
2007年5月26日に行われた、平成19年度日本大学マンドリンクラブOB会の
総会で12期 竹内さんが4期 長野さんのギター伴奏で演奏したので覚えている
方もいらっしゃるでしょう。
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2010年11月25日
【カザルスの心】 =平和をチェロにのせて=
HP管理者
最近、偉大なチェロ演奏家カザルスの自伝を読みました。彼の音楽と平和
を願う心を初めて知りました。
パブロ・カザルス(Pablo Casals:1876年〜1973年)は、スペインのカタル
ーニャ地方に生まれたチェロ演奏家で、指揮者、作曲家でもありました。
チェロの演奏と言えばサン・サーンスの『白鳥』が最も有名ですが、カザルス
の愛奏曲『鳥の歌』は同じ位に有名な曲です。
カザルスは、祖国の自然をこよなく愛し、平和と自由をいつも願っていました。
カタルーニャ民謡の『鳥の歌』は、第ニ次世界大戦が終わった1944年から彼
の演奏会の最後ではいつもこの曲を弾いていたそうです。
それは、内戦の祖国を去り、亡命先から祖国への熱い思い、そして平和と自
由への願いを表現したものであったようです。
特に1971年10月のニューヨーク国連本部で平和を訴えるスピーチを行い
し、「私の生まれ故郷カタロニアの鳥は、ピース、ピース(平和)と鳴くのです」と、
カザルスは94歳の高齢でしゃべる声もかすれていましたが、力強く語りました。
スピーチの後にオーケストラとチェロ独奏を披露しました。この時の『鳥の歌』
はまさに伝説的な演奏となりました。そのチェロは艶やかで、寂しげで、感動的
で、たとえようもなくすばらしいものでした。
カザルスの平和と自由への思いに感動した観客の拍手はいつまでも鳴り止む
ことがなかったそうです。
その演奏から2年後、彼の人生は幕を閉じました。
話は変わりますが、日本大学カザルスホールは、日本初の室内楽専用ホー
ルとして本格的な室内楽を日本に届けたいという思いをプロデューサー萩元晴
彦が込め、カザルスの没後、音楽の重要な拠点として後世のために末永く守っ
てくれることを条件にカザルス夫人からその名の使用許諾を受け、その名を冠
してきものだそうです。
残念ながらお茶の水再開発計画により、カザルスホールは現在閉鎖されてい
ます。
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2010年10月12日
【ぼけ封じの極意】
HP管理者
ある店の壁にこんなものが貼ってありました。『ぼけ封じの極意』これが気に
なる歳になってしまったということなんでしょうか。
一.友だちを作り、気持ちはいつも若く盛年のように
一.よく笑い、よくしゃべり、明るく朗らかハッピー
一.遊び心と色々な趣味を持つこと
一.好奇心を持って、面白楽しそうなことにチャレンジ
一.塩分はほどほど、好き嫌いなく、なんでも良く噛んで食べるべし
一.お酒はそこそこに、煙草はボケの早道か、やめるが勝ち
一.よく動き、よく歩き、指先運動いち、に、さん
一.新聞、本を読み、日記を付けて頭の体操
一.怒らず、あせらず、ストレスためずに家族と会話を
一.くよくよせず、ワクワク気分で、感謝・感謝の真心であるように
ふ〜ん、なるほど・・要するにフォーユー・アンサンブルでマンドリンやギターを
一生懸命弾いていれば、ぼけ防止は80%位クリアしているんですね。
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2010年8月6日
【我が家の畑】 その3
千葉県 9期 小松
我が家の畑です。自分で育てた野菜を食べるのは、とても楽しみで美味しいもの
です。みなさんもいかがですか。
トーモロコシです。穂が出てきています。収
穫は7月末です。甘くておいしいです。
落花生畑と落花生の花です。黄色の花を咲かせ、花からつるが伸びて地中に
もぐり、実をつけます。まさしく字の通りですね。収穫は10月末ごろです。
我が家の愛犬「こぼ」です。6歳の男の子です。
犬種はジャック・ラッセル・テリアで日本ではあ
まり見かけない犬です。やんちゃですが一緒に
生活していて、楽しいわんちゃんです。
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2010年8月5日
【我が家の畑】 その2
千葉県 9期 小松
我が家の畑です。自分で野菜を作ってみたいと思った事がある方も多いと思いま
す。でも作り方も知らないし・・・意外と難しくなく、楽しいものです。自分で育てたも
のを、収穫して、食べられる事は格別です。みなさんもいかがですか。工夫すれば
ベランダでも可能です。
きゅうりです。写真はまだ小さいですが、2日
くらいで大きくなり、毎日収穫してます。
収穫したジャガイモです。「インカのひとみ」
という品種で一般のスーパーでは売ってい
ません。少々小ぶりですが中は黄色で、蒸
かして食べるとめちゃめちゃ美味しいです。
昨年は9期 能沢夫妻と、6期・8期 三浦夫妻が
収穫の時期に手伝いに来てくれました。
写真は三浦夫妻です。
収穫した落花生。最高品種の千葉半立です。
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2010年8月4日
【我が家の畑】 その1
千葉県 9期 小松
6年前に知り合いの農家の方から、畑をやらないかと声を掛けられ今まで土など
さわったこともないのに、どうしようかと迷いましたが、家内とも相談して、老後の
ことも考え思い切って始めました。
試行錯誤の繰り返しで、最初の年は栽培が簡単なジャガイモとサツマイモから始
めました。
今年は、そら豆、落花生、ジャガイモ、枝豆、きゅうり、トマト、トウモロコシ、しし
とう、オクラ、ほうれんそう、かぶ、アスパラ等を栽培しています。
左から落花生、トウモロコシ、トマト、奥がきゅうりで
す。我が家の野菜は有機栽培、完全無農薬です。
中央左がジャガイモ、右が枝豆です。
メイン栽培の落花生です。最高品種の千葉半立で歯ごたえ、甘み、香ば
しさが格別です。遠くに見えるのは我が家の愛犬「こぼ」です。
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