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OB・OGなんでも投稿(その9)

       マンドリン関連でなくても何でも結構です。生活の事、社会に言いたい事、お仕事の事、
       世の中に言いたい事・・何でもご自分で感じた事を気楽に投稿して下さい。

2023年3月6日
【キャセロール・スパゲティ】
2023年3月5日、TBSテレビで放送されたバラエティ番組「それSnow Manにやらせ
て下さい」ジャニーズの新星9人組アイドルグループSnow Manが人気の観光スポット
で一番おいしいグルメを町の人々に調査し、お店に取材交渉までするという企画です。
          
この日の放送は、神奈川県川崎市の絶品グルメを探すというテーマで川崎駅近くの老
舗や名店を調査していました。その結果32店舗がノミネートされ、最終的に一番に選
ばれたのがイタリア料理「モナリザン」のキャセロール・スパゲティでした。
「モナリザン」は1964年創業の川崎で一番古いイタリア料理店です。創業当初からの
味を、6期 大嶌さんと11期 大嶌さんが引継ぎ、現在は息子さんが継承しています。
          
川崎No.1となったキャセロール・スパゲティは、グラタンの中にスパゲティーが入って濃
厚な味わいとなり、その上に2種類のチーズと海老を乗せて、オープンで焼いたもので
す。Snow Manたちも絶品 川崎へ来たら絶対モナリザンだねと言っています。海
老と細めの麺がよく絡みあい熱々で、おいしい・おいしいを連発していました。

2020年7月8日
【浜松市楽器博物館】 その2
                                    東京都 15期 服部

2020年6月22日、浜松市にある浜松市楽器博物館に行きました。ご存じと思います
が、ハーモニカの宮田東峰氏はマンドリンの宮田信義氏と三兄弟です。信義氏は宮田
俊一郎先生の父ですから、東峰氏は宮田俊一郎先生の叔父さんになります。
          
宮田東峰氏は、1918年に日本初のハーモニカ合奏団「東京ハーモニカ・ソサエティ」を結
成しました。これが後の「ミヤタ・ハーモニカ・バンド」となります。また、東京ハーモニカ協
会も創立し、日本のハーモニカ普及に努力されました。
ところで、宮田東峰氏の長男 英夫氏は現在ジャズ・フルート奏者として活躍されています。
1961年11月10日に行われた日本大学マンドリンクラブ第2回定期演奏会にゲスト出
演され、日本の童謡をみごとなハーモニカ演奏で披露して下さいました。この時、英夫氏
は高校3年生でした。
  マンドリンについては別投稿あり(ここをクリック

2020年7月6日
【浜松市楽器博物館】 その1
                                    東京都 15期 服部

2020年6月22日、浜松市にある浜松市楽器博物館に行きました。
浜松市には、ヤマハやカワイなど世界的楽器メーカーが本社を置いています。この博物
館は、浜松市が「音楽の街づくり」の一環として1995年に設立したものです。世界中か
ら集められた約3,300点の資料中にハーモニカが展示されていました。ハーモニカと言
えば宮田東峰氏です。沢山のミヤタハーモニカが展示されていました。自分の顔写真が
入ったミヤタハーモニカは、高級ハーモニカの代名詞にもなりました。
          
         ミヤタハーモニカ製、ミヤタホーン製、ミヤタ響音製の複音ハーモニカ群

2020年1月20日
【昭和生まれの看板メニュー】
                                    東京都 12期 竹内

2020年1月14日 日本テレビ ニュースエブリーの特集で川崎イタリア料理店《モナリザン》
が紹介されました。《モナリザン》は6期 大嶌さんのお店です。
この日の特集は「昭和生まれの看板メニュー」として「キャセロールスパゲティ」が紹介されて
いました。

一見ドリアの様に見える「キャセロールスパゲティ」。濃厚なソースととろけたチーズの中には
スパゲティ。特にソースが格別においしい出来です。今の季節には熱々で体がポカポカにな
りピッタリです。
キャセロールスパゲティの使っているソースは、豚バラなど3種の肉、トマト、玉ねぎ等を煮込
んだラグールソースとベシャメルソースを混ぜ合わせ、鶏ガラスープで伸ばし、これをスパゲ
ティにかけ、この上に2種類のチーズとエビを乗せて、オープンで焼いたものだそうです。
   
《モナリザン》は初代が、昭和30年に喫茶店としてオープンしました。その後、2代目の6期
大嶌さんがイタリアで修行し、昭和45年に本格的なイタリア料理店として再オープンさせまし
た。開店後、新しい料理をとグラタン風スパゲティを考えたのがキャセロールスパゲティだっ
たそうです。当初、目新しさから評判となり、徐々に店の看板料理となりました。

今では、現社長3代目の大嶌さんが作ったイカスミキャセロール、キャセロールビアンカ等の
月替わりの味も登場しています。2代目 6期 大嶌さんは、昔のものをそのままではなく昭和
生まれの看板料理の味を残しつつ、新たな味にも挑戦する姿勢が必要だと語っていました。
《モナリザン》は、こうした努力で新たなお客を呼んでいます。

2019年5月16日
【天神の藤】 その2
                                    東京都 12期 竹内

亀戸天神社は、東京都江東区亀戸にある神社です。学問の神として親しまれている菅原道
真を祀っています。4月の下旬から、境内に100株以上ある藤の花が一斉に咲き始めます。
藤の淡い色と香りが多くの人々に愛され東京一の藤の名所として賑わいを見せています。
  

2019年5月13日
【天神の藤】 その1
                                     東京都 12期 竹内

亀戸天神社は、東京都江東区亀戸にある神社です。学問の神として親しまれている菅原道
真を祀っています。
催事として4月25日から5月5日まで、境内の藤が一斉に開花し、神社中が一面藤色に染ま
る藤祭りがあります。ここの藤は、江戸時代から亀戸の藤と呼ばれ藤の名所となっています。
境内にある池には亀戸にちなんだ亀がたくさん住み着いています。赤い太鼓橋の上から見渡
すと、一面の藤棚を上から見下ろすことが出来ます。
  

2019年4月18日
【花魁(おいらん)道中】 その2
                                    東京都 12期 竹内

2019年4月13日に浅草で行われた「江戸吉原おいらん道中」です。
吉原遊郭は、1617年(元和3年)に幕府公認のもと設置された遊郭です。始めは江戸日本橋
近くにあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転しました。
最盛期には3、000人の遊女がいたとされていますが、遊女には格があり、その頂点に君臨し
たのが花魁(おいらん)です。
吉原遊郭ではさまざまな作法や独特のルールがありました。客が花魁とは、最初の顔合わ
せである「初会」から始め、2回(「裏を返す」)、3回(「馴染み」)と少なくとも3回登楼しなけれ
ば、親しく接することができませんでした。多くの金を使うお大尽の遊びで庶民には縁遠いも
のでした。
           

2019年4月17日
【花魁(おいらん)道中】 その1
                                    東京都 12期 竹内

2019年4月13日に浅草で行われた「江戸吉原おいらん道中」です。
吉原遊郭は、1617年(元和3年)に幕府公認のもと設置された遊郭です。始めは江戸日本橋
近くにあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転しました。
最盛期には3、000人の遊女がいたとされていますが、遊女には格があり、その頂点に君臨し
たのが花魁(おいらん)です。
容姿や気だてばかりではなく、幼い頃からの敦育で身につけた詩や音楽、文学などの教養が
必要とされていました。花魁がお客から指名を受け、自分の部屋から茶屋へ出向く道中行列
を「花魁道中」といいました。
禿や新造、妓太夫、やり手などに付き添われて行く華やかな行列はひとつの見せ場でした。
  

2018年6月22日
【マンドリン 親しき旋律】 その2
                                   千葉県 10期 新津

2018年4月9日 本経済新聞に掲載されたマンドリン奏者で多くのレコードを制作され、
「マンドリンの音の博物館」館長である南谷博一氏の記事から抜粋です。

         
             独奏名曲集       デュオ奏法によるマンドリン名曲集

 1964年名古屋市と岐阜市でマンドリン公演を初めて行って以来、海外も含めて
30回以上のリサイタルを開いてきた。
 1995年には薬局を閉め、改築した跡に学生時代から集めてきた楽器やレコード、
楽譜などを展示する「マンドリンの音の博物館」を開いた。マンドリン専門の博物館は
日本でも初めてではないだろうか。楽器は約50本、レコード、CDなどの音源は干数
百点にのぼり、1910年代の貴重なSP盤も聴ける。日本で初めてマンドリンを作っ
た鈴木政吉が手掛けた楽器も収蔵品の1つだ。
 70年に及ぶマンドリン遍歴の中で、一番の思い出は2005年。愛知万博(愛・地
球博)の期間中、全国から集まった約700人のマンドリン奏者との合奏コンサートを
開いたことだ。
 日本にマンドリンが伝わったのは1894年といわれている。長く親しまれてきた楽
器にもかかわらず、正確な記録などが不十分なのが実情だ。バイオリンやピアノと違
ってマンドリンは音楽大学で教えられる機会が少なく、流行歌の伴奏楽器、大衆的な
楽器として広まってきた。
 もっとも、マンドリンで奏でる音楽はとても豊かで、決してピアノやバイオリンなどに
劣るものではない。クラシックの独奏楽器としても十分な音楽性を備えている。そのこ
とをもっと多くの人に認識してほしい。
                         [南谷博一:マンドリンの音の博物館館長]

2018年6月21日
【マンドリン 親しき旋律】 その1
                                   千葉県 10期 新津

2018年4月9日 本経済新聞に掲載されたマンドリン奏者で多くのレコードを制作され、
「マンドリンの音の博物館」館長である南谷博一氏の記事から抜粋です。

                        
8本の弦をつまびくと哀愁を帯びた音色が広がるイタリア発祥の楽器、マンドリン。実
は日本で初めて作られたのは私の地元である名古屋市だ。
7歳でこの楽器と出合って以来、私は70年にわたって演奏や普及活勣に取り組んで
きた。 (中略)
1944年、小学1年生だった私は偶然が重なりマンドリンを習い始めた。通信簿で他
の科目はみんな優なのに、音楽だけが良。母は「この子には音楽の才能が無いので
は」と案じて、ギター教室に通わせようとした。ところが大きすぎて弦に指が届かない。
そこで先生は傍らにあった壊れかけのマンドリンを手渡した。先生はギターが専門だ
ったので、新たにマンドリンの先生を紹介してくれた。それが生涯の師となる中野二郎
先生だった。
日本マンドリン界の重鎮だった中野先生は戦後、NHK名古屋放送管弦楽団の専属
指揮者を務めるなど、中部の音楽界に大きな足跡を残された方だ。
毎週1回1時間、マンツーマンでのレッスンは数十年続き、奏法だけでなく、歴史、作
曲など多くを学び、(中略) 2000年に98歳で亡くなるまで、ずっと親しくさせていただ
いた。

2018年1月22日
【正月映画と言えば・・・】
                                    東京都 12期 竹内

正月映画と言えば、映画『男はつらいよ』、そして主人公 寅さんです。
「わたくし、生まれも育ちも東京葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い、 姓は車、名は
寅次郎、人呼んで "フーテンの寅" と発します。」ほぼワンパターンのストーリーです
が、27年間48作に渡って製作された正月映画です。作品数としてギネスブックにも
認定されています。
             
京成電鉄金町線柴又駅前には、1999年に建てられた寅さんの等身大銅像がありま
す。旅に出る寅さん(渥美清)が、さくら(倍賞千恵子)の方を振り返ったシーンをモチー
フとしているそうで、銅像の足元には、山田洋次監督による寅さんの故郷への思いが
刻まれています。2017年3月には妹のさくら像が新たに完成しました。
昔、赤坂で渥美清さんとお会いした時、本当に四角い顔でビックリしました。物静かな
方で結構おしゃれだった事を思い出します。

2017年9月22日
【宮田俊一郎先生19歳の曲発見】
                                    東京都 12期 竹内

〈宮田俊一郎ファン〉にとってスペシャルニュースです。故 宮田俊一郎先生が19歳
の時に作曲したこれまで誰も知らなかった作品を発見しました。
年代から考えると宮田俊一郎の初出版自作曲の可能性があります。
曲には、行進曲「青少年」という題が付けられ、東京マンドリン宮田楽団の宮田俊一
郎作曲リストにも記載がなく、楽譜もない曲です。
宮田俊一郎先生の没後41年目の大発見となります。

この作品は1944(昭和19)年に発行された宮田信義先生の曲集に入っていたもの
です。1944年と言えば日本は戦時下で、学徒勤労動員、サイパン島の日本軍玉
砕など敗戦色が出て来た時代です。しかし、まだ混乱期ではないので本の発行も可
能だったのでしょう。
このマンドリン曲集も戦時下の色が濃く、曲の前後に、「愛国行進曲」、「海の進軍」、
「敵は幾萬」など戦意高揚のための曲が多く掲載されています。軍の統制下で、映
画・本・レコードなど全てのものは戦意高揚がテーマでした。
作曲者の好き嫌いに関わらず、軍歌調でしか出版出来ない状況だったと想像され
ます。
重要なのは作曲時期が、19歳から20歳になろうとしていた時です。20歳になれば
召集令状により出征となります。戦況悪化の時代、生きて帰れない事を少なからず
ご自身では考えられていたはずです。場合によっては遺作となる事も。

曲は、行進曲でありながら宮田俊一郎先生ならではのロマンチシズムを感じ取れる
軽快な曲です。何かの機会にこの行進曲「青少年」をみなさんの前で演奏出来たら
と考えています。

尚、掲載本の写真、掲載曲詳細などは近日中に、このHP「宮田マンドリン記念館」
の「宮田出版物館」に掲載予定です。
 

2017年9月21日
【校歌編曲の頃】
                                    神奈川県 24期 賀来

日本大学マンドリンクラブも今年58期。もう60期・61期の新しいメンバーが入部して
います。この間、メインの活動である演奏会の構成や曲目は変わっています。しかしそ
の中で、全ての期が必ず演奏した曲があります。
それが、日本大学校歌です。
この度、OB会名誉会長・第1期の松橋さんのご協力を得て、校歌にまつわるエピソー
ドをまとめました。ぜひご一読のうえ、訂正・補足などお寄せください。

我が日本大学マンドリンクラブの校歌、その歴史は1960年から始まります。その年の
6月11日、東京・日比谷公会堂で開催された「チリ地震津波救済 ポピュラーコンサー
ト学生大演奏会」、そして8月の吹奏楽部との合同演奏旅行の際に演奏されたのが、
公式に演奏された最初と思われます。

松橋さんに校歌編曲の頃の思い出をお聞きしました。
上記「学生大演奏会」に出演するにあたり、「校歌がないのはおかしい」との声があ
がりました。そこで吹奏楽部からスコアを借り、宮田俊一郎先生にお渡しして編曲をお
願いしたそうです。
チリ地震の津波が日本に襲来したのは5月24日。それから20日足らずでの演奏会で
す。編曲も、また練習も大わらわだったことでしょう。
「ところで、実際に宮田先生にお願いに行ったのは、どなたでしょうか?」
「う〜ん、よく覚えてないんだよね〜。稲垣(稲垣さん。2期マネージャー)だったか?
杉浦(初代主将・コンサートマスター)だったか。私(松橋さん)か杉浦なら丸く収まるん
だけど。杉浦にしておいて〜」

さて、宮田先生の手でマンドリン編曲された校歌ですが、山田耕筰の原曲と大きく3点
が異なっています。

 1.調性が変ロ長調からハ長調に変わっている。
 2.原曲にはない前奏がある。
 3.歌いだしのリズムが違う
以外、各項目を見ていきましょう。

1.調性について
まず、原曲譜と現役生が弾いている譜面をお目にかけます。
原曲の変ロ長調(♭2つ)はクラッシック音楽でよく見かけますが、マンドリン・ギターと
いったフレット楽器は♭はやや苦手。
そこで宮田先生はマンドリン・ギターが得意とし、初心者にも馴染みやすいハ長調を採
用したのでしょう。

2.前奏について
校歌は「歌う」ときは、前奏を必要としません。しかし楽器で「曲」として演奏するときは、
前奏はつきものです。
1960年当時、吹奏楽部ではいわゆる前奏がなく、「いざ歌わん 我らが理想」の部分
を前奏として演奏していました。
しかし宮田先生からいただいた譜面には、私たちがよく知っている前奏がついています。
この前奏部分は宮田先生のオリジナルなのです。このような本格的な前奏がある校歌
を演奏しているのは、もしかしたら日本大学マンドリンクラブだけかもしれません。

ところで、他の部員が練習に取り組む中、松橋さんが一人で心を悩ませていたことが
あったのだそうです。それが、この「前奏」部分。
「原曲にはない『前奏』があることで、他の音楽団体や、特に大学本部からクレームが
つくのではないか、との心配があったのです。」と、松橋さん。
「初めの1か月程は恐る恐る演奏していました。幸い何処からもクレームはなく、ほっと
胸をなでおろして堂々と演奏するようになりました。」
そして前述の合同演奏旅行では、演奏曲目のトップを飾ったのでした。

3.歌いだしのリズム
「日に日に新たに」の歌いだしですが、原曲は8分音符3つです。しかし、私たちが弾い
ている校歌は、8分音符+付点8分音符+16分音符になっています(他にもこのよう
な箇所があります)。なぜ宮田先生はそのように編曲したのでしょうか。
     
両者を歌い比べてみると、何となく理由がわかってきます。
原曲では、自然で落ち着いた感じがします。そして日本大学マンドリンクラブの譜面か
らは、弾むような若々しい躍動感が伝わっては来ませんか?
編曲当時、執行部の方々は20代前半。30代半ばであった宮田先生は、執行部や新
生マンドリンクラブに若さと無限の可能性を感じたのではないでしょうか。
そう考えると、この校歌こそが日本大学マンドリンクラブとマンドリンクラブに集う学生
たちを表現したものであり、マンクラへの宮田先生最大の贈り物ではないかと思います。

最近の現役生は、校歌を「歌」として歌う機会はないそうです。
しかし、この譜面を演奏する限り、マンクラの伝統と情熱は絶えることはないと確信し
ています。

2017年8月25日
【無言館に思う】
                                     埼玉県 2期 佐々木

 昨年の秋、長野県の佐久へ行く機会があったのでついでに以前から聞いていた上田
市にある「無言館」という美術館を訪ねてみました。1997年設立以来結構有名になって
いるので知ってる方もいると思いますが、私は初めてでした。
 8月になって終戦記念に関連した特集などをテレビで見ていて「無言館」のことを思い
出しました。正式名称は、一般社団法人 戦没画学生慰霊美術館「無言館」といいます。
 施設名の「無言館」は、展示される絵画は何も語らず「無言」ではあるが、見る側に多
くを語りかけるという意味と、客もまた展示される絵画を見て「無言」になるという意味も
含んでいるとのことです。
設立者である館長は、窪島誠一郎という方で2005年第53回菊池寛賞を受賞していま
す。
   
 写真にあるように、道を登っていくとコンクリートがむき出しのままの簡素な建物が見
えてきます。内部は撮影禁止なのでここに絵は載せられませんが、添え書きを2点ば
かり紹介します。

太田 章 「和子の像」
 「この絵はやさしかった兄が私にのこしてくれた唯一の贈りものです」と妹の和子さん
 はいう。18歳の妹さんを描いた兄の章、章は本当にやさしい兄だった。腕のいい友
 禅職人だった父は、その章を「本格的に琳派の画家に」と期待していたという。
 和子さんは、80歳を数える今日まで、ずっと戦死した兄の絵とともに暮らしてきた。
 (原文のまま)

  太田 章 昭和17年9月 東京美術学校日本画科卒業
   1921(大正10)年、東京都に生まれる。
   1944(昭和19)年5月17日 満州牡丹江省にて脚気衝心のため戦病死。享年23歳


日高 安典 「裸婦」
 あと5分、あと10分、この絵を描きつづけていたい。外では出征兵士を送る日の丸
 の小旗がふられていた。
 生きて帰ってきたら必ずこの絵の続きを描くから・・・安典はモデルをつとめてくれた恋
 人にそういいのこして戦地に発った。しかし安典は帰ってこられなかった。


館長は開館にあたって次のような詩を館内に掲げています。

      [あなたを知らない]

  遠い見知らぬ異国(くに)で死んだ 画学生よ
  私はあなたを知らない
  知っているのは あなたが遺したたった1枚の絵だ
    (中略)
  遠い見知らぬ異国で死んだ 画学生よ
  私はあなたを知らない
  知っているのは あなたが遺したたった1枚の絵だ
  その絵に刻まれた かけがえのないあなたの生命の時間だけだ
                           窪島 誠一郎
                       1997/5/2 (「無言館」開館の日に)

 有名な絵はありませんが、彼らの最後の絵を見るとその絵に込められた思いや時代
背景を感じられて何とも言えない気持ちになります。
「無言館」ができた当初は37人の画学生の87点の作品でスタートしたそうですが、い
まや第2展示館や「時の庫」と併せて108人の戦没画学生の600点余の絵画や彫刻
の作品を収蔵しているといいます。

 ここだけを目的にというのではなくても、ついでがありましたら寄ってみる価値のある
美術館だと思います。
 

2017年2月21日
【よくありそうな壁掛け】
                                            HP管理者
よくお土産にもあるような壁掛け、シンプルな内容ですが心を打ちます。
                
因みに、幸の文字の元の成り立ちは、刑罰に使われた手カセの形と、それを逃れる意
の字が合わさったものとされているそうです。つまり、刑罰を逃れるから幸せだそうです。

2016年1月26日
【佐賀市でも35年ぶりの大雪】
                                        佐賀県 12期 田中
(佐賀市に住む12期 田中さんから)

日本付近は大寒波が襲来し九州でも記録的な大雪となっています。沖縄も観測史上初め
ての雪が降りました。佐賀県内でも記録的な寒気が流れ込み、佐賀市の最高気温は35
年ぶりに0度を下回る真冬日となりました。30cm位の積雪ですが、九州では雪対策など
考えた事もありません。雪国では当たり前の大したことのない積雪ですが、佐賀では交通
機関も止まってしまい大混乱となってしまいました。
佐賀市の真冬日は1981年2月以来の事で、仕事も止むを得ず臨時休業、朝から雪見酒
を楽しみました。日本酒と一緒に食べるのは有明海で捕れたガザミと呼ばれるワタリガニ
の竹崎カニです。
             

2015年4月22日
【66歳のディズニーリゾート体験記】 その2
                                        東京都 11期 中村

66歳の若いお爺さん? が連れ合いと娘に乗せられて東京ディズニーシーに行ってきまし
た。

最初は目の前の運河にある「ペネツッアン・ゴンドラ」に乗船しました。
2人の船頭さんが上手に舵取りをして解説をしてくれました。歌も歌います。路上の人に陽
気に「チャオ」と声を掛けます。
到着港にはアルデベルチの看板がありました。
下船して気が付いたのですが、ガラス越しにヴァイオリンが見えます。よく見るとマンドリン
も飾っています。別のウィンドにもマンドリンが飾ってありました。
右下のマンドリンは12弦6コースになっています。
  

   
この地域はイタリアのポルトフィーノの港町がモチーフになっているとの事。マンドリンの曲
が数多く流れていました。既にご承知の方が多いと思われますが、シーに行かれたら是非、
マンドリンを探してください。

その後はマジックランプシアター・ミズティックリズム、そしてトランジェットスチーマーライン
で園内を一周して、最後に予約済のブロードウェイショービックシアター・ビックバンドビート
を見て(聴いて)一日が終りました。
因みに、東京ディズニーシーにいる間に食した物は、開園前のお弁当・鮫子ドッグ・スモー
クチキンレック・ミートパイとお昼のサンドウィッチでした。(アルコールは無し)

激しいアトラクションは避けて、ゆったり過ごしました。お天気も良く、楽しんだ一日でした。
一番嬉しかった事は、シニア料金で入場出来たことでした‥‥‥‥‥

2015年4月21日
【66歳のディズニーリゾート体験記】 その1
                                        東京都 11期 中村

66歳の若いお爺さん? が連れ合いと娘に乗せられて東京ディズニーシーに行ってきまし
た。朝、4時起床(さすがに眠い)。目は覚めてもお腹は寝たままのため朝食をとらず始発
電車でいざ舞浜へ。
まだ夜が明けず真っ暗の中、4時59分の始発電車に乗り込んだ。意外と乗客が多いのに
少しびっくり。
二つ先の駅で東京行に乗り換えますが、快速電車がまだなので各駅停車の東京行。約100
分で舞浜に到着しました。ここからモノレールでシーの入場口まで移動し7時前に当日券売
り場で暫し行列です。
東京駅で購入したお弁当で朝食です。お稲荷さんとかんぴょう巻そしてまい泉のヒレカツサ
ンド3切れ。
8時になりました。開門です! 皆さんお目当てのアトラクションを目指して走っています
場内で多くのキャストの方が両手を挙げて「走らない様に」と注意喚起をしています。
我が家はお目当ての、ブロードウェイショービックシアターの指定券をゲットするため、抽選
機に向いました。
一発で指定席をゲット。意外と当らない人が多いそうです。
さて、何のアトラクションにしようか? と、相談しました。
目の前に運河がありましたので、最初は「ペネツッアン・ゴンドラ」に乗船しました。
            

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