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OB・OGなんでも投稿(その7)

        マンドリン関連でなくても何でも結構です。生活の事、社会に言いたい事、お仕事の事、
        世の中に言いたい事・・何でもご自分で感じた事を気楽に投稿して下さい。

2010年7月10日
【千葉の東京ドイツ村】 その2
                                 千葉県 9期 小松

 先日、千葉県袖ヶ浦にある東京ドイツ村に行って来ました。
"自然と人が共に過ごせる" 共生の追求を基本コンセプト作られた東京ドイ
ツ村は、東京ディズニーランドのようなバーチャルリアリティーの世界ではな
く、いながらにして、ヨーロッパの自然の気分を味わえます。皆さんも休日を
利用して是非おいで下さい。
屋外ではバーベキュー、ボート池ではペダルボートも楽しめます。
  

18ホールのパターゴルフ場です。全部で6コース108ホールもあります。こ
れだけ大きいパターゴルフ場は見たことがありません。他に子供用の小さな
場所もあります。

車で場内を一周して好きな場所に駐車する形式をとっています。自転車・徒歩で
も入場でき、自由開放的な気分が味わえます。
  
             こども動物園                            アジサイの花園
 

2010年7月9日
【千葉の東京ドイツ村】 その1
                                  千葉県 9期 小松

 先日、千葉県袖ヶ浦にある東京ドイツ村に行って来ました。
東京ドイツ村は、千葉県袖ケ浦市にあるテーマパークで、2001年3月18日
にオープンしたものです。
館山道、袖ヶ浦インターから5分にあり、東京からのアクスは非常に良い所に
あります。園内は自分の車で回ることができ、疲れません。入園料は、一人
1,200円ですが、市原SA、うみほたるSAにサービス券があり、100円安くなり
ます。

広大な園内は四季折々の花が咲き乱れ、広い緑の芝と調和し、実に美しい所
です。「自然と人が共に過ごせる」共生の追求を基本コンセプトに、敷地面積は
27万坪と東京ドームの約27倍もあります。


金魚草の花

芝生の丘を中心にボート池や、アミューズメントエリア、子供動物園、フラワー
ガーデンのエリアがあり、場内にはドイツ料理やドイツビールを楽しめるレスト
ラン・ショップもあります。
 
7月31日(土)には、花火大会が開催されます。(雨天は翌日)
テラスでドイツ料理を食べながら花火を楽しみます。もちろん小生も予約済み
です。
 

2010年4月5日
【桜に魅せられる頃】
                               ホームページ管理者

 都心では今月の半ば位まで桜の見頃です。土曜・日曜は、何処へ行って
も桜に魅せられた人でいっぱい、上野恩賜公園を筆頭に、小さな公園でも
満開の桜の下で宴会です。

 昨日の4月4日に、北区にある飛鳥山公園に初めて行ってきました。この
飛鳥山公園は、JR王子駅に隣接する桜の名所の一つで、ここも人・人・人
で大混雑でした。
 

 飛鳥山公園は、江戸享保期に行楽地として整備され、1873年(明治6)に
上野公園などと共に日本最初の公園に指定された由緒ある公園です。園内
には3つの博物館があり、地域郷土資料を展示する『北区飛鳥山博物館』、
日本最初の洋紙工場だった旧王子製紙の資料などを展示している『紙の博
物館』、王子に本邸を構えていた実業家 渋沢栄一に関する資料を収蔵展示
する『渋沢資料館』があります。



 飛鳥山公園脇を走っている荒川線は、都内で数少ない路面電車が現在も元
気で走っています。1991年(明治44)に誕生してから、時代を走り続けた都電
です。もちろん車両は新しくなりましたが、雰囲気はそのままレトロです。

 三ノ輪から早稲田までどこまで行っても160円。途中では、家々の間をかろう
じて通って行く場所もあり、名所も多くあります。
休日には、荒川線で小さな旅をしてみるのも面白いかもしれませんね。
 

2010年4月3日
【秘話 弾かなかった2曲】
                                 栃木県 6期 成瀬

 なんとも大げさな一人よがりの題で恐縮ですが、「弾かなかった」というより
「弾けなかった」というほうが妥当かも知れません。昨年9月の50周年演奏
会に、旧知の間柄である元早大マンクラのコンマスの片倉さんに強引に聴き
に来てもらいましたが、彼が懇親会に出られなかった埋め合わせに、11月に
上野で宮田蝶子さん、8期 長谷川君と一緒の宴を設けてくれました。標題は
そのときの話題のひとつにもさせてもらったものです。

 1曲目は交響曲第40番、いわずと知れたモーツアルトです。今から約45年
前、大学のマンクラではまだ交響曲全楽章を演奏した例はなく、これは多分、
マンドリンオーケストラでは無理があるのだろうと思っていました。何かマンド
リンに合いそうな曲はないものか探索しているうちにこの40番しかないという
結論にいたり、スコアを買い一人ひそかに下宿で練習しておりました。全楽章
弾ける段階にはなりましたが、まだ我がマンクラでは10年早いと思い、指揮
の三浦にも話すこともなく自分の胸中にしまっておりました。

 その年の4月、神戸で全日本大学マンドリン連盟の総会があり、片倉さんと
初めてお会いしました。彼は関東学生マンクラ界に片倉ありと勇名を馳せてい
ましたが、宮田俊一郎先生の門下生であるということですぐに打ち解け、定演
では何をやるのかと聞いたところなんと、この40番、このときは指向が合って
いた嬉しさとさすが老舗のマンクラという羨ましさが混ざったことを今でも鮮明
に覚えています。
もちろん聴きに行きましたが、早大らしく実にしっかりとした演奏でした。
 彼は、現在会社のオーナーの傍ら我孫子でマンクラを主宰と公私ともに活躍
しておられます。

 2曲目はプロも嫌がる?という「ウィリアム・テル」序曲です。
僕は最後の定演の頃体調を崩し、コンマス用の楽器もクラブに返して楽器もな
いので、社会人なったらマンドリンから足を洗うつもりでした。ところが、会社の
独身寮が日吉で宮田俊一郎先生のお宅の都立大学とは目と鼻の先、やはり
マンドリンへの思いは断ち切れず、東京マンドリン宮田楽団に入れていただき、
お宅によく出入りすることとなりました。そして光栄にもコンマスを拝命し、その
時の奏演会の候補の1曲が「ウィリアム・テル」でした。うわさにたがわず難曲
で何とか弾けるようになりましたが、中間部の速いパッセージがかろうじてだっ
たでしょうか、奥様の吉子先生とも頑張りましたが俊一郎先生のご判断で取り
やめになりました。
 その後、愛知県に転勤となり、たった一年余りの在籍となってしまい、未だに
申し訳なさといささかの悔しさが残っております。

 その後、後輩諸君が「英雄」と「新世界」に果敢に挑戦しましたし、「ウィリアム
・テル」はある意味定番になっているようだし、皆さんすごいと思います。
最近の私はとてもこのような難曲を弾くような気力もありませんし、ひたすら脳
の活性化のために指が動く限りマンドリンを続けたいと思っています。
 
2010年1月23日
【子供のうた】
                                  ホームページ管理者

 最近読んだ、児童文学者の小林純一氏の書籍から纏めたものです。
童謡や唱歌は、懐かしさもあるのでしょうが、抒情的な歌詞と曲は今でも忘れる
ことが出来ません。曲がマンドリンの音質に合うため、マンドリンアンサンブルで
よく演奏されます。

 日本の子供の歌は、大きく分けると三つに分けることが出来ます。
 その一つは、『わらべうた(童唄)』と呼ばれるものです。昔から誰が作ったとも
なく、子供たちの間に歌いつがれて、伝わってきた歌です。
 その二つは、『唱歌』と言われるものです。唱歌は、明治時代になって、音楽が
学校の教材に取り入れられるようになってから、その教材に使われた歌です。
 その三つは『童謡』と呼ばれる歌です。これは、大正時代の中頃に【赤い鳥】と
いう子供雑誌で起こした児童文学運動の中から起こった呼び名で、詩人や作曲
家が子供の歌を言います。
 こうして日本の子供の歌は”わらべうた”から”唱歌”、そして”童謡”に移り変わ
って来たわけです。

【わらべうた】
 日本のわらべうたは、日本書紀や万葉集まで遡ります。しかし、この頃は労働
の歌(業歌)であって、子供のための歌ではないようです。子供の生活や気持を
歌った歌としては、室町時代からと言われています。
このわらべうたも大きく3つに分けることが出来ます。
 @子供達が集り遊戯をしながら歌う歌・・『かごめかごめ』、『花いちもんめ』等。
 A季節の変わり目などの行事の時に歌う歌・・『夕焼け』、『お月さまいくつ』等。
 B子守の女の子が赤ん坊をあやして歌う歌・・『ねんねんころりよ、おころりよ』等

 例えば、50周年記念演奏会で取り上げた『五ツ木の子守歌』は、子守歌ではあ
るものの、子守り娘が自分自身の悲しい身の上を詠ったものです。
地方の貧しい農家などでは、子供を5〜6歳から働きに出されました。働きに出さ
れたと言うより、売られたと言ってもいいかもしれません。どんなに悲しく、つらかっ
たことでしょう。    
  『五ツ木の子守歌』
おどま盆ぎり、盆ぎり、
盆からさきゃ おらんど
盆がはよ来りゃ、はよ、戻る。
おどんがうっ死(ち)んだちゅうて、
誰が、にゃあてくりゅうきゃ
うらの松山、セミがなく
 
(おれたちは盆迄、盆かぎり)
(盆の後には、いないよ)
(盆が早くくれば帰れるよ)
(自分が死んだって)
(誰が泣いてくれようか)
(裏の松山ではセミが鳴いている)

【唱歌】
 明治時代には音楽は知識と道徳を諭す教材という考え方だったようです。
下は、これは日本で初めてでた音楽教科書に載っている唱歌です。ずいぶんと難
しい歌詞です。
  『見わたせば』
見わたせば、あおなぎ、
花桜、こきまぜて
みやこには、みちもせに
春の錦ぞ。
さおひめの、おりなして、
ふるあめに、そめにける。

【童謡】
大正時代になって児童文学運動から、北原白秋や西条八十らの詩人が、山田耕
作や成田篤三などの音楽家と生みだしたのが、童謡でした。
  『りす、りす、こりす』 (北原白秋)
りす、りす、こりす
ちょろ、ちょろ こりす
あんずの実が赤いぞ、
食べ食べ、こりす。

  『かなりや』 (西条八十)
唄を忘れたかなりやは、
後ろの山にすてましょか。
いえ、いえ、それはなりませぬ。

こうして出来た子供のうたは、歌い継がれ、今も私たちの心の中に残っています。
 
2009年8月20日
【白洲次郎の武相荘】 その2
                                  ホームページ管理者

 自分の信じた原則をプリンシプルと呼び、日本で初めてジーンズを穿き、近年
『日本一カッコいい男』と呼ばれ、日本の憲法制定に大きく係わった真のリベラリ
スト白洲次郎。
1942年(昭和17)に白洲次郎は、町田市熊ヶ谷の農家を買い取り移住、その農
家に『武相荘』と名付け、妻正子と住んでいました。現在、この家は一般公開され
町田市指定史跡となっています。

                
 偶然ですが、2009年9月21日〜23日の3日間、NHKドラマで白洲次郎・伝
説の生涯をドラマ化し、放映するそうです。

            
           武相荘、二階への階段                母屋入口

 当時、首相の田中角栄に対してさえもルールを守るということを第一にしまた。白
洲次郎が理事を務める軽井沢ゴルフクラブに、ある日秘書から「これから田中がプ
レイしますのでよろしく」 と挨拶があった。応対した次郎が「田中という名前は犬の
糞ほどたくさんあるが、どこの田中だ」と返したところ、「総理の田中です」と返答が
あった。「それは、クラブの会員なのか?」と次郎が尋ねると相手からは「会員ではあ
りませんが、総理です」と返答があった。次郎は「ここはね、会員のためのゴルフ場
だ。そうでないなら帰りなさい」と言い、そっぽを向いたとのエピソードがあります。

   
          庭には美しい竹林              武相荘の裏にある散策路、鈴鹿峠

           
                 石仏立像               散策路から

 白洲次郎に関する書籍は数多く出版されています。
 『風の男 白洲次郎』、『プリンシプルのない日本』、『白洲次郎の流儀』、『占領を
背負った男』、『レジエンド・伝説の男』、『日本で一番カッコイイ男』、『白洲次郎と白
洲正子』・・・沢山あります。
 
2009年8月19日
【白洲次郎の武相荘】 その1
                                  ホームページ管理者

 白洲次郎氏をご存知でしょうか?
 自分の信じた原則をプリンシプルと呼び、日本で初めてジーンズを穿き、近年
『日本一カッコいい男』と呼ばれ、真のリベラリスト白洲次郎。

 戦前は近衛文麿首相のブレーン、戦後は吉田茂首相の側近となって政治の中
枢にいて、昭和史の鍵を握る人物であるにも関わらず、その生涯は比較的歴史
の闇の中に埋もれてしまっています。

白洲次郎:1902年(明治35年)2月17日 〜 1985年(昭和60年)11月28日

              日本人で初めてジーパンを穿き、日本一カッコいい男 白洲次郎

 白洲次郎は兵庫に生まれ、イギリスに留学、ケンブリッジに学ぶ。第二次世界
大戦にあたっては、参戦当時より日本の敗戦を見抜き、神奈川県鶴川に移住し、
農業に従事しました。
 戦後、吉田茂に請われてGHQとの折衝にあたり、GHQ側の印象は『従順なら
ざる唯一の日本人』であったそうです。
 日本国憲法制定に、政界入りの声もあったようですが、生涯在野を貫き、東北
電力会長として戦後の電力再編に努めました。

 白洲次郎と美術評論家・随筆家としても読売文学賞を2回受賞し、町田市名誉
市民第一号の白洲正子のご夫妻が町田市熊ヶ谷の農家を買い取り移住したの
が1942年(昭和17)でした。
 白洲次郎は、この家に武相荘(ぶあいそう)という愛称を付けました。
武蔵と相模の境にあるこの地に因んだ事と無愛想をかけたものだそうです。

 この家は、寄せ棟造りで、東側妻面兜造りの重厚な芽葺屋根の主屋と、カキ、シ
ラカシなどを配した広い庭のたたずまいは、多摩地区の養蚕農家の面影を残して
います。整型四間取の間取りや材料・構造から明治初期の建築のようです。

  
            長屋門                        萱葺き屋根が美しい母屋

 白洲次郎の車好きは有名です。イギリス留学中にベントレーやブガッティを乗り回
し、「オイリー・ボーイ」(オイルにまみれるほどの車好き)と呼ばれていたそうです。
 晩年までポルシェを乗り回し、軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長も努めていました。

  
          母屋とお茶処                          お茶処

 おもしろい話では、日本人で初めてジーンズを穿いた人と伝えられています。サン
フランシスコ講和条約締結に向かう機内で着用したそうです。
また、ラッパズボンも愛用していました。
 百八十センチを超す長身、端正な顔立ち、英国流の洗練された身ごなし。趣味は
車と大工とゴルフ。そんな次郎を夫人・正子は「直情一徹の士(さむらい)」「乱世に生
き甲斐を感じるような野人」と評しています。「しょせん平和な世の中に通用する人間
ではなかった」とも。
 

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