2009年2月25日
【ジュゼッペ・アネダについて】 その8
ホームページ管理者
1971年6月23日〜7月9日に日本公演を行ったイタリアのジュゼッペ・アネ
ダについて=その8
≪ジュゼッペ・アネダ写真集3≫
演奏後、客席に挨拶するアネダ
晩年のアネダ
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2009年2月24日
【ジュゼッペ・アネダについて】 その7
ホームページ管理者
1971年6月23日〜7月9日に日本公演を行ったイタリアのジュゼッペ・アネ
ダについて=その7
≪ジュゼッペ・アネダ写真集2≫
リュートを弾く若いアネダ
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2009年2月23日
【ジュゼッペ・アネダについて】 その6
ホームページ管理者
1971年6月23日〜7月9日に日本公演を行ったイタリアのジュゼッペ・アネ
ダについて=その6
≪ジュゼッペ・アネダ写真集1≫
本国イタリアでは頻繁にテレビ等に出演していたようです。
アネダ氏の残した録音を今聴いてみると、その新鮮な演奏は改めてその素晴
らしさを感じます。
1997年7月30日 85歳で逝去されたことを今回の調査で知りました。
来日時の写真ではありませんが、公開します。
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2009年2月22日
【ジュゼッペ・アネダについて】 その5
ホームページ管理者
1971年6月23日〜7月9日に日本公演を行ったイタリアのジュゼッペ・アネ
ダについて=その5
ジュゼッペ・アネダ氏はこれまでに多くの録音をレコードやCDに残しています。
その中で目立つのがオーケストラとの協奏曲競演です。アネダ氏は埋もれてい
た多くの古典マンドリン曲を発掘し演奏しましたがこの協奏曲も多くは彼の発見
した曲でした。
マンドリン協奏曲 変ロ長調(べルゴレージ)
マンドリン協奏曲 イ長調(チェチェーレ)
マンドリン協奏曲 変ロ長調(ジュリアーノ)
2つのマンドリンと弦楽合奏のための協奏曲 ハ長調(ヴィヴァルディ)
マンドリン協奏曲(ペルゴレージ)
マンドリン協奏曲 ト長調(ハッセ)
チャルダス(モンティ)
アルヘシラス(レオナルド)
ソナチネ・カデンツァ(ベートーヴェン/カラーチェ)
前奏曲 第2番(カラーチェ)
カンシオンとホータ(ファリャ)
ガボットオ(リュリ)
スペイン風奇想曲(ムニエル)
ソナタ ニ長調(ゲルバシオ)
ソナタ ハ長調(ヴィヴァルディ)
まだ他にもあると思われますが、HP管理者の持っているものだけです。
下はアネダ氏がコンサートでよく弾いているバロック古典で、ゲルバシオ作曲の
マンドリン・ソナタ ニ長調です。
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2009年2月21日
【ジュゼッペ・アネダについて】 その4
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1971年6月23日〜7月9日に日本公演を行ったイタリアのジュゼッペ・アネ
ダについて=その4
ジュゼッペ・アネダ氏は、1971年7月9日NHKで『世界の音楽』の収録を行
いました。この時の放映は翌月の8月31日でした。
『世界の音楽』は、1950年1月1日放送日開始され、1974年3月31日に最
終回を迎えたNHKの長寿音楽番組です。 世界中の音楽家をスタジオに招待し
て、歌や演奏を披露する楽しい番組でした。
アネダ氏がこの時演奏したのは『チャルダス』(作曲:モンティ、編曲:アネダ)で
す。ジプシーバイオリンを思わせる情熱的な前奏部、中間部の力強く美しいハー
モニクス、後半部のすさまじい早弾き・・多くの日本のマンドリンファンがテレビ画
面に見入りました。
下はその時のテレビ出演の貴重な写真です。
チャルダスを演奏中のアネダ
テレビで演奏したのは多分この一曲だけだったように思います。
因みに、この時の録音テープがアネダ氏の資料を探していたら出て来ました。
時間がある時に聴いてみます。
チャルダスの中間部にあるハーモニクスを弾くアネダ
インタビューでは、自分が使用しているマンドリンは三年位で交換していると
言っていました。その位がマンドリンの音質が一番良い時期であり、オールド
マンドリンは使用しないという言葉にも驚いたものです。
ヴァイオリンなどの接弦楽器と比べて、マンドリン、ギターなどはあまり古くな
るとよくないと中野二郎先生もおっしゃっているそうです。
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2009年2月20日
【ジュゼッペ・アネダについて】 その3
ホームページ管理者
1971年6月23日〜7月9日に日本公演を行ったイタリアのジュゼッペ・アネ
ダについて=その3
最近は海外のマンドリニストが日本で公演を行う事は珍しくありませんが、昔
はほとんどありませんでした。
記録として本格的なマンドリニストの日本公演は1925年(大正14)のラファエ
レ・カラーチェ氏が初めてと言っても過言ではないでしょう。
記録としては以下のような公演記録があります。
1894年(明治27)10月13日:アメリカのサムエル・アデルスタイン(横浜公演)
1911年(明治43):アドルフ・サルコリ
1920年(大正9):イタリアのアメリアス
1921年(大正10):コヴァリスキー
1925年(大正14):イタリアのラファエレ・カラーチェ
つまり、本格的なマンドリニストの来日は1925年の演奏・楽器製作・作曲・
編曲で有名なカラーチェ氏以来 約50年ぶりということになります。アネダ氏の
日本公演のパンフレットには 『半世紀ぶり日本マンドリン界の夢実現』 と書い
てありました。
ジュゼッペ・アネダのサイン
ジュゼッペ・アネダ氏の演奏はとかく教則本で教えられる形や流儀にとらわれ
る日本人には驚異的なものでした。その独自の奏法には様々な評価が出て、賛
否が大きく分かれました。
しかし、古典名曲の復活やその独特の奏法には誰もが驚いたものでした。特に
画像を早送りしたかのような驚異的な早弾きは、すさまじい迫力がありました。
もちろん音楽的にもすばらしかった事を覚えています。
アネダ氏が使用していた楽器は100年余りの歴史を誇るイタリア・ローマの名
器エンベルガーでした。カラーチェより小ぶりで特徴あるエンベルガーの音は、こ
の演奏会以降、カラーチェ一辺倒だった日本で特に有名になったように思います。
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【ジュゼッペ・アネダについて】 その2
ホームページ管理者
1971年6月23日〜7月9日に日本公演を行ったイタリアのジュゼッペ・アネ
ダについて=その2
アネダ氏は、忙しい日本公演の合間にレコーディングも行いました。
1971年7月5〜8日に日本グラムフォンの第1スタジオで行われたレコーディ
ングは、当時レコード(POCH-1374・1971年12月)として発表されました。
現在はCD(WPCS-10542・1994年7月1日発売)でも聴くことが出来ます。
ジュゼッペ・アネダ/マンドリン・リサイタル
2曲以外は来日コンサートと同じ曲目です。
1.ソナチネ・カデンツァ(ベートーヴェン/カラーチェ)
2.前奏曲 第2番(カラーチェ)
3.カンシオンとホータ(ファリャ)
4.ガボットオ(リュリ)
5.スペイン風奇想曲(ムニエル)
6.ソナタ ニ長調(ゲルバシオ)
7.ソナタ ハ長調(ヴィヴァルディ)
日本グラムフォン第1スタジオで録音中のジュゼッペ・アネダ
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【ジュゼッペ・アネダについて】 その1
ホームページ管理者
昔、この人の日本公演を聴きにいったことがあるんだよ・・と、8期 楠岡さん
から独奏マンドリン公演のプログラムを貸していただきました。
それは、1971年6月23日〜7月9日に日本公演を行ったイタリアのマンドリ
ニスト ジュゼッペ・アネダ氏の日本公演プログラムでした。
懐かしいものでした。実は、HP管理者もこの公演を聴きに行ったで、同じ会場
に居合わせていた事になります。
6期の成瀬さんは、6月30日の名古屋・勤労会館での公演をお聴きになられた
そうです。
ジュゼッペ・アネダ氏については、当時情報も少なく、プログラムにもあまり記載
がありませんでしたので、アネダについて私の資料と合わせて少し書いてみます。
ジュゼッペ・アネダ
ジュゼッペ・アネダ(Giuseppe Anedda)は、1912年3月1日生。
地中海のイタリア・サルディニア島の州都カグリアリ(Cagliari)で生まれ、幼少
時よりバイオリンを勉学、カグリアリ音楽院にバイオリンで進学した後、マンドリ
ンに魅せられ転向しました。
オーケストラとのコンチェルト競演を始め、バルバノ、コッキ、ガバローネ、ジュリ
アーノ等の古典マンドリン曲を多く発見し、演奏しました。
自国イタリアはもとより、全ヨーロッパ、北アフリカ、南北アメリカ等 世界中で
の演奏活動を頻繁に行っていました。カーネギーホールでの公演もあったようで
す。後進の育成、世界の図書館での調査・研究にも携わり、自国イタリアでは
"マンドリンの聖者"と呼ばれていたそうです。
1997年7月30日 85歳で逝去。
アネダは、1971年1月から4月まで南北アメリカで70数回のリサイタルを行い、
その後、59歳の時に日本を訪れました。
日本公演のパンフレット
日本公演のパンフレットには、『半世紀ぶり日本マンドリン界の夢実現』とありま
す。この”半世紀ぶり”については後に書きますが、当時のマンドリン界ではかなり
話題になりました。
アネダ氏の日本公演スケジュールは以下の通りです。
1971年6月23日
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札幌・共済ホール |
24日
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仙台・宮城医師会館ホール |
25日
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東京・日比谷公会堂 |
28日
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神戸・芦屋市民会館ルナ・ホール |
30日
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名古屋・勤労会館 |
1971年7月 2日
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大阪・サンケイホール |
3日
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東京・久保講堂 |
4日
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東京・ヤマハ・ホール公開レッスン |
5、8日
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レコーディング(日本グラムフォン・第1スタジオ) |
9日
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NHK『世界の音楽』収録 |
公演プログラムには、当時日本のマンドリン界の重鎮であった中野二郎、服部
正、田中常彦、古賀政男、鈴木静一、南谷博一、川口優和の各氏が名を連ねて
います。
公演の合間には、公開レッスン、レコーディング、テレビ主演と多忙な来日だった
ようです。
日本公演7月3日のチケット
【プログラム記載の演奏曲】
実際の演奏は多少異なるかもしれませんと注記があります。数曲は別の曲だったかもし
れません。
ピアノ伴奏:古村義尚
1.ソナタ ハ長調(ヴィヴァルディ)
2.ガボット(リュリ)
3.ロ短調ソナタ(ジュリアーノ)
4.無伴奏独奏 ソナタ第一番(バッハ)
5.ニ長調ソナタ(ゲルバシオ)
6.カンシオンとホータ(ファリャ)
7.アンダンテと変奏(べートーヴェン)
8.ソナチネ・カデンツァ(べートーヴェン/カラーチェ)
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【カナダ・カルガリーにて】 その3
千葉県 9期 小松
昨年2008年12月18〜27日のクリスマス時期に、娘が暮らしているカナダ
のカルガリーに行ってきました。
今回の旅行目的は、現地でのクリスマスの模様を見ようと思い家内と一緒に
12月18日〜27日までカナダ、カルガリーに行ってきました。
カルガリー空港の外に出た瞬間、寒さでむせてしまいました。(−25度でした)
現地8日間の内、観光に出かけたのは2日だけで、後は連日パーティーの連続
でした。娘婿の両親もアメリカのシアトルから駆けつけ、プレゼントの交換など
で楽しいひと時を過ごしました。
又、娘がソーシャルワーカーとして勤めている、「アガペ・ホスピス」のクリスマス
パーティーにも招待され、日本のお菓子を持って行ったのですが、以外にも大
好評で、すぐになくなってしまいました。日本の味は新鮮だったようです。
「アガペ・ホスピス」です。ホスピスとは、終末期ケアを行う施設の事です。
情報として、個人で海外旅行されるときの宿泊先は、B&Bがお勧めです。ベッ
ドとブレックファーストの略で、泊まりと朝食つきで、カルガリー市内で、2人で
9,000円程度です。日本の民宿のようなものですが、普通の市中ホテルと変
わらぬ設備があり、特に朝食時にそこのオーナーとの「会話」?が非常に楽し
かった記憶があります。
やはりカナディアンロッキーの旅行は6月〜7月の間が一番です。夜は11時過
ぎまで明るく、1日を有効に使えます。飛行機代金は、概ね8万〜10万円程度
で行くことが出来ます。
カルガリーの市街写真です。
ロッキーマウンテンの山並み。カルガリーからバンフに向う途中の車
の中から写した写真です。
野生のエルクです。エルクは、アメリカアカシカのことで大型のシカの
種類です。道端に普通に見る事が出来ます。
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【カナダ・カルガリーにて】 その2
千葉県 9期 小松
昨年2008年12月18〜27日のクリスマス時期に、娘が暮らしているカナダ
のカルガリーに行ってきました。
完全氷結したボーリバーの氷上で
バンフの中に流れているボーリバーです。
滝の部分が氷結しているのが見えます。
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【カナダ・カルガリーにて】 その1
千葉県 9期 小松
小生昨年2008年12月18〜27日のクリスマス時期に、娘が暮らしているカ
ナダのカルガリーに行ってきました。
成田からバンクーバー、更に国内線に乗り継ぎ、約12時間の旅でした。現地は
イマナス20〜30度で、一面銀世界です。夏は山、森、湖がすばらしい眺めです
が、冬もまた違った美しさがあります。
写真は、カルガリーから車で1時間の所に、国立自然公園として有名なバンフに
行った時のものです。
バンフで、地元の放送局の人からインタビューを受け、そのときの模様が『YOU
TUBE』のサイトに掲載されました。
娘と家内3人でインタビューを受けている姿が見ることが出来ます。
YOU TUBE (青色文字をクリック)
バンフ自然公園の中に流れている完全氷結したボーリバーの氷上で家族と
ボーレイクの完全氷結した写真です。ボーレイクはボウ・バレーの氷河が溶け
た水で出来た湖で、この時の外気温はマイナス27度です。
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【百年前の両国駅の写真発見】
東京都 8期 三坂
年末のトリを飾るのは、歴史的にも貴重な写真です。
父が残した古いアルバムの中から見つけました。
写真の上には、【総武鉄道株式会社両国橋停車場開業式之景】とあります。
これは1904年(明治37)年4月5日。つまり105年前の光景なのです。
当時すでに完成していた総武鉄道の佐倉−本所(現在の錦糸町)間をさらに延
長して両国橋(現在の両国)に達する工事の完成を祝う式典の写真です。
この工事の責任担当者の一人が三坂の先祖でした。
何も無い土地に出来た停車場のように見えます。左手奥に長い屋根付きのプラ
ットホームと車両が見えます。プラットホームには人影が見えます。
広場中央の柱には日の丸、万国旗、紅白の丸提灯が吊り下げられています。
総武鉄道とは、現在のJR総武本線です。1889年(明治22年)総武鉄道株式
会社が創立され、1894年(明治27)7月に佐倉〜市川間が開通しました。同年
12月には市川より本所(現在の錦糸町)まで延長され、1905年(明治37)4月
両国橋(現在の両国駅)まで延長されました。この建設工事は日本初の高架線で
した。
三坂親子はこの工事で総武鉄道と関わりました。私の曽祖父・三坂邦寧(写真◎)
と祖父・三坂廣作です。(写真●)
(上の写真の部分拡大)
邦寧は、書記生から外務大臣秘書代理を経て、総武鉄道に入社後、この延長
工事に係わり、責任者の一人としてかなり苦労されたようです。後日その功績から
鉄道院主事となり、両国駅にも勤務したことがあります。
三坂家とマンドリンクラブゆかりの地・両国は不思議な縁で繋がっていました。
(上の写真の部分拡大)
さて、写真の人々の服装は教科書で見た明治時代そのものです。正装した人々
は、山高帽子と背広にネクタイ、紋付袴、半てん等、西洋文化と日本文化が混在
していたことが良くわかります。皆さんなかなかお洒落ではありませんか。学帽を
かぶった子供も数人見えます。
現在の両国駅は「両国橋停車場」と呼ばれていたそうです。この工事の結果、両
国界隈は首都東京の東の玄関口として大いに発展し賑わいを見せて行きました。
当時は欧米列強の国々に負けない国作りのため、『富国強兵』の国策に従って、
全国に鉄道網を張り巡らすという国からの指導があったものと思われます。
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