【恩師 宮田俊一郎先生の思い出】
日本大学マンドリンクラブOB会 名誉会長 松橋
宮田俊一郎先生を語るとき、私の頭に去来するのは、"もし先生がおいでにな
らなかったら、または宮田先生でなかったら、日本大学マンドリンクラブおよびO
B会は途中で消滅していたかもしれない"と言うことです。
日本大学マンドリンクラブは宮田先生なくして語る事が出来ません。それ程に大
きな存在でした。
1.宮田先生に辿り着くまで
マンドリンクラブ創立後、ご指導してくださる先生が必要となりましたが、私たち
はまずはOBの中から探す事を考えました。戦前、日大にもマンドリンクラブがあ
ったらしい、と言う話しはあったのですが、学内の色々な方に聞いてもまったくそ
の手がかりは見つかりませんでした。
その後、文化会(文化団体連合会と県人会の大学側事務局)のかたから「日大の
OBでギターを弾く方を知っている」と言われ、星野和求さん(東京バーテンダー
協会理事として渋谷でバーを経営。新劇役者、プロ野球選手が常連客)を紹介さ
れました。
星野さんは宮田俊一郎先生のご尊父である宮田信義先生のお弟子さんだったの
ですが、その関係で、星野さんから俊一郎先生を紹介されたのでした。
(戦前あったらしいマンドリンクラブについては、その後、日本大学 医学部の前身とな
る専門部医学科にあったマンドリンクラブであることが判明しました。しかも、ここで技
術指導や指揮をされていた方は、故宮田俊一郎先生のご尊父 宮田信義先生だった
のです。宮田家と日本大学とは戦前から深い関係にあったのです。)
2.宮田先生との始めての出会い
私は、NHK東京放送管弦楽団でギター・マンドリンを弾かれる方が指導者とし
ておいで願えると聞いて「えっ!NHKの?天下のNHKだよ。嘘だろう?」と聞き
なおした事をいまでも覚えております。
いよいよ先生が法学部の練習場(と言ってもただの教室)に入って来られた時
の第一印象は、「若い!」。当時先生はまだ35歳。実は、NHK東京放送管弦楽
団をテレビで見た記憶では皆さん相当なお年という印象で、50歳か60歳の方が
お見えになるものと勝手に決め込んでいました。
私たちは大先生をお迎えして、どのように接して良いやらさっぱり分からず、た
だ右往左往するばかりでした。でも先生は話し方もやわらかく腰も低くて二度びっ
くり。
こちらが恐縮してしまうほどでした。
3.先生の教室で個人レッスン、楽器購入依頼まで
創立当時、まず楽器を基本どおり弾ける人はほとんどおらず、何人かの者がマ
ンドリンとギターを習うために先生のご自宅の教室に通い、直接先生のご指導を
受けました。
どうしても通えないものは先生に習っているものから間接的に教えてもらうと言う
状態でした。
先生は大学には週一回おいでになり、楽器を弾く初歩から丁寧に教えてくださ
いました。当時楽器は当然個人持ちで、4年生からは「なるべく1万円(現在の価
格で言うと20万円位)以下の楽器は買わないように。手工品を買え!」と言う命
が出されていましたので、先生は一生懸命手工楽器屋さんに交渉して、値切って
下さる事までして頂きました。
本当に日大マンドリンクラブを大きく立派に育てようとなさり、親身になって細か
いところまでお気を使っていただきました。
4.入り浸り
そのうち楽器を習わない人も色々理由をつけて、かわるがわる数人づつ毎日の
ように先生のご自宅を訪問するようになりました。と言うよりも、遊びに行く、たか
りに行くと言った方が正しいと断言できます。NHKの仕事、宮田楽団や日大のた
めの編曲、教則本の編纂、それにマンドリン・ギター教室での指導と、非常にご
多忙にもかかわらず私達が訪ねると手を休め、私たちの質問、要望に一つ一つ
真剣にお答えくださり、そうこうしているうちに当然のように酒盛りと言う事になり
ます。
その際、奥様はいやな顔一つせず、いろいろ手料理を出してくださり、家族とか
家庭の味に飢えている私たちは、我れ先にと食べさせて頂き、先生初め奥様、お
子様たちまで、みな家族のようにして頂き甘えさせて頂きました。奥様も私たちを
自分の息子のように扱われ、悪いところは注意され「先生にはこのように言った
ほうが良いわよ」とかいったアドバイスまでしてくださいました。
時には、急な雨の時など「誰か傘を持って幼稚園に迎えに行って!」後輩が「は
い私が」と言ったほほえましい家族的な事もありました。
今は、ただひたすら「有難うございました」「申し訳ございませんでした」と言う気
持ちに尽きます。
5.仲介役
その後OB会も発足しましたが、お金もなく各種通知、鳳友もなく、OB会は実態
のない状況が続きました。また、卒業と同時に練習場、合宿にも行かなくなります
ので、現役の状況はまったく分からず、知り得た事といえばすべて先生から伺う
情報だけでした。
また、OB会の事も先生から現役にお知らせいただくという状況で、OB会と現役
の仲介役まで先生や奥様がしてくださいました。OB会が固まるまで現役の事は
すべて先生任せと言った状態で、種々細かいところまでご助言をいただきまし
た。
冒頭の"先生がおいでにならなければ…"と申し上げたことがご理解いただけると
思います。
"宮田俊一郎先生だったから"と今はっきり言えるのです。
6.恩師
宮田先生はプレクトラム音楽が大好きで、お酒が大好きで、蝶々が大好きで、
強烈な巨人ファンでした。ジャイアンツが負けると機嫌が悪くなり、その時はなる
べく難題は話さないほうが良いくらいでした。先生は家族想いで、特にご両親を
大切にし、長男として弟さんたちにも大変気を使っておられました。お父様が創ら
れた「東京マンドリン宮田楽団」にも力を注いでいらっしゃいました。
先生がご自分で育てられた日本大学マンドリンクラブに対する思い入れは相当
なものだったと思います。その後いろいろな大学のマンドリンクラブに関係されま
したが、いつか奥様に「日大マンドリンは特別だ!」と断言されているのを耳にし
た事があります。
それ程宮田先生は日本大学マンドリンクラブを愛し、心配してくださいました。
しかしOB会主催の創立20周年記念演奏会の時にはこの世にいらっしゃいま
せんでした。OB会として何の恩返しも出来ず、一つも良い思いをさせて上げられ
ず、ご苦労のかけっぱなしでした。残念であり、いつも申し訳なく思っております。
しかし、恩師がいつも言っておられた「努力・ファイト・和」はいつも私たちの心に
残っております。私たちはこれを後輩に引き継いでいきます。
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