日本大学マンドリンクラブOB会
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長谷川武の音楽雑感 第1〜5号

第5号(2006年9月)

アレンジ考(2)

 私のアレンジに関する考えの一端を述べましたが、そんな生意気なことを言えるように
なったのはつい最近のことで、とにかく無我夢中で五線紙におたまじゃくしを埋める日々
でした。

 アレンジを始めた70年代はまだまだビッグバンドが勢いのあった時代で、テレビの歌
番組もバックはフルバンド。ショーやレビューの音楽も当然フルバンド。歌手のリサイタ
ルもバックはフルバンド。地方へ営業に出かけるにも今ではカラオケでしょうが、当時
は「持ち譜」といってレコーディングした曲をフルバンドにアレンジした譜面を、トランクい
っぱいに詰めての旅でした。《フルバンド=ビッグバンドというのはグレン・ミラー、カウ
ント・ベーシー、ディユーク・エリントンのような形態のバンドで、5本のサックス、4本の
トランペット、4本のトロンボーン、4人のリズムセクション(ピアノ、ギター、ベース、ドラ
ムス)からなるバンドの事です。》

 当然アレンジの仕事もフルバンドアレンジが多かったわけですが、サウンドは聞いた
事があっても管楽器に関してはど素人。幸いH氏、M氏の写譜をしながら勉強させても
らったおかげで、何とかフルバンドの譜面が書けるようになったのでした。
 そう、前回の雑感でアレンジャーにとっての必要な事に、追加させてもらうと、楽器や
声の音域、特性を知ることも大変重要な事になると思います。
 そんなことに関してチョット興味ある話を。

ラヴェルがオーケストラに編曲した「展覧会の絵」の中で、フルートの最低音のCより低
いB♭の音が出てくる箇所があります。ラヴェルといえば管弦楽法の大家。まさかフル
ートの音域を知らなかった訳はなし。今もって疑問は解けないでいます。
ところで実際にどのように演奏するかをあるフルート奏者に聞いたところ、ハガキを筒
状に丸めてその箇所で、フルートに差し込むそうです。管の長さを延長してB♭の音を
作る訳ですね。

 以前は五線紙と2Bの鉛筆でスコアを書いていましたが、最近はほとんど手書きをし
なくなりました。パソコンという便利なツールが進歩してきたため、つい便利な方を選択
してしまいました。なにしろ楽器(パート)ごとの音を聞きながらスコアが書けますし、ス
コアから簡単にパート譜まで作成できるのですから。
 しかし便利な反面、どうも想像力が欠如していくような気もするのです。手書きの頃は
現場で実際に音を出すまでは、どんなサウンドになるか、はらはらドキドキ緊張感があ
りましたが、今はサウンドの完成形に近い状態が見えている訳ですから。
 

第4号(2006年8月)

アレンジ考(1)

  アレンジャー(編曲家)という職業が定着したのは、そんなに昔の事ではないと思い
ます。モーツァルトにしてもベートーベンにしても今で言う編曲を含めた形で作曲してい
た訳で、おそらくはポピュラーソングの流行と平行して編曲という作業が重要視され必
要とされて来たのでしょう。
 昔はスコアを書けなければ作曲家とは言えなかった筈ですが、今はメロディを作るこ
とが出来れば、作曲家として通用する時代になっているようです。

 ここでチョット面白いことに気がつきました。編曲の出来ない作曲家と呼ばれる方々は
大勢存在しますが、作曲の出来ない編曲家は一人もいないという事です。
 例えば歌謡曲の編曲をするとします。作曲家によってはイントロ、メロディ、間奏、エン
ディング、コードネームまできちんと指定して編曲の依頼をしてくる人もいれば、歌部分
のメロ譜のみとか、カセットに無伴奏で歌を吹き込んでくるとか、そんなのはまだ良いほ
うで、曲が出来たからと言っていきなり電話口で歌いだすセンセイもいるほどです。しか
しその方がアレンジャーとしては面白いですネ。イントロや間奏をその曲にあわせて作
曲し自由に料理出来る訳ですから。
 誤解を招いてはいけないので、あえて言いますが私は作曲家より編曲家の方が音楽
的に優れていると言いたい訳ではありません。譜面の読み書きが出来なくても、どうし
てこんなにすばらしい曲が作れるのだろうと思わせるメロディメーカー、ソングライターは
数多く存在するのです。

 しかし、鼻歌が歌えれば、ソングライターとして通用しますが、どうしてもアレンジャー
にはある程度の音楽的知識が必要なのも事実です。
 では、アレンジャーにどれ程の音楽的知識が必要か?と問われると、はたと考え込ん
でしまいます。勿論音楽に終着点など無く、知識は多い程良いのは分かりきっています。
 まったくの私見ですが、私はアレンジャーにとって一番大切なのは、曲を構成する能
力だと思っています。どんな感じの曲にするか、それが決まればアレンジの90%は出
来たも同じと思うのですが。後10%は、音楽的知識とセンスで五線紙を埋めれば一曲
完成と相成る訳です。
 ですから、作曲と同じように譜面など書けなくても、こうして、あぁしてと曲の完成形を
イメージして伝えることが出来れば、アナタも立派なアレンジャーです。
 私は、正規の音楽教育を受けなかったのが、ある意味コンプレックスとなっています
が、演劇理論をしっかり学んだ(?)事がアレンジャーとしての何らかの糧になっている
ような気もしています。
 

第3号(2006年7月)

アレンジャーへの道

 音楽家というのは、医者や弁護士や教師のように資格が必要な訳でもなく、良くも悪く
もいい加減な職業なのです。ですからアナタも今日からプロの作詞家でも作曲家でも演
奏家にでもなれるのです。必要なのはマー肩書きの入った名刺くらいでしょうか。
そうして見事プロの音楽家になったとします。しかし問題は仕事があるか無いか…そう、
その一点だけなのです。
 コネも無い、才能も実力も無い、金も身長も運も無い。有るのは情熱だけの若かりし
長谷川君は考えました。

 卒業時、決まっていた就職先は入社式に出ただけで、即辞表を書きました。
 少しでも音楽に関係のある所に自分の身を置きたい。
 舞台の制作会社に就職の決まっていた学部同期の友人に頼み込み、無理やりその
会社に就職しました。しかし朝早くから終電がなくなるまで働きずくめの毎日で、気が
つけば社長は大きな仕事の売上金を持ってドロン。わずか半年で失業してしまいまし
た。
 しかし捨てる神あれば拾う神ありで、その会社と縁のある音楽プロダクションで仕事
をすることになったのです。

 プロダクションといっても、弱小プロダクション。薄給もいいところで、すでに子供もい
た身には生活が大変で、制作会社時代に知り合った、日本一のアレンジャーM氏の写
譜工房とやはり日本一の舞台音楽家H氏の下で写譜のアルバイトをはじめました。
(写譜の話もそのうちに書きましょう)
 そんな頃、そのプロダクションの社長を頼って、長崎から歌謡コーラスグループが上
京、事務所を構えることになったのです。
 その事務所で、曲がヒットし始め、発売レコード会社も決まったコーラスグループの
マネージャーとして、新たな仕事が始まりました。
 マネージャーも曲や歌手が売れている間はいい仕事です。おいしい仕事でスケジュ
ールを埋めていけばいいのですから。しかし一旦下降線をたどり始めたらさあ大変。
 事務所の売上も見る見る下降線。とても給料が上がる状況ではないと、フリーで仕
事をすることに決心しました。

 勿論写譜の仕事がメインでアレンジの仕事などあるはずも無かったのですが、たま
たまマネージャー時代からお世話になっていたレコード会社(日本コロムビア)から、
ある日の午後電話がありました。
「明日の正午からのTV番組で使う曲を、写譜してほしい」
 急遽、スコアを取りに赤坂の本社まで出かけてビックリ。スコアが無い…
 無いのも当然、誰も明日使うアレンジをしていなかったのですから。
 担当者は焦ってその場から何人かのアレンジャーへ連絡をとりましたが、全て今日
の明日では無理との返事でした。
 私は考え悩んだ末、「エーイッ駄目で元々」と切り出しました。
 「私でよければ、やりましょうか?」その瞬間プロとしての初仕事が決まったのです。
 番組名は「桂小金治のアフターヌーンショー」曲はレイモンド服部作曲の「エキスポマ
ーチ」。1970年大阪万博の年でした。
 

第2号(2006年6月)

私の履歴書(2)

 そんな訳で芝居の勉強の傍ら?マンドリンクラブに入部したのですが、素晴しき先輩、
同期、後輩に恵まれて楽しく充実した4年間を過ごすことができました。
 中でも宮田俊一郎先生との出会いは私にとって人生の大きな分岐点となりました。
 マンドリンの指導ばかりでなく、音楽に対する先生の情熱に触れるにつけ益々音楽
の虜になっていったのです。

 運よく(悪く)指揮者に任命され(本当はコンマスになりたかった)、指揮をする以上は
自分の編曲した曲も演奏したいと思い、にわか勉強を始めました。
 管弦楽法と芸術学部音楽学科の和声学の教科書を買い込み、徹夜の猛勉強?
 更には和声の勉強にはどうしてもピアノが必要と、飯も食わず酒も飲まず? ピアノ
を買いました。とはいっても高価なピアノなど買える訳もなく、ましてや下宿の部屋にピ
アノを置くスペースも無いので61鍵のエレピアン(コロムビアの真空管式電気ピアノ)
を導入したのでした。

 和声の勉強には便利でしたが、ピアノ演奏はすぐに挫折しました。
 いまだに、譜面は追えても指が追いつかず、コードネームが無いとだめですネー。
 話はそれましたがそんな努力が実って?、春にはミュージカルナンバー、秋の定演
には日本の歌を何曲か編曲して棒を振らせてもらいました。
 厳密にはオリジナルの編曲と言える曲は少なく、ほとんどは気に入った演奏のレコ
ードコピーだったような気がします。

 又、話は飛びますが、JASRAC(日本音楽著作権協会)には作詞、作曲の他に編曲
の登録も出来るのです。作詞、作曲がほとんどフリーパスで受理されるのに対して、
編曲だけは審査委員会があり、ハネられる曲も多いようです。
 というのは、オリジナルのキーを変えたり、演奏楽器を変えただけでは編曲とみなさ
れないからです。
 たとえばシンフォニーを、苦労してマンドリンオーケストラやウインドオーケストラ用に
き換えて演奏しても、編曲とはみなされない訳ですネ。

 自分で1音1音書いた音が演奏され、ましてや大きな拍手を頂いた感動と喜び!
単細胞男を、自分の将来の職業はアレンジャーだと思わせるのに時間はかかり
ませんでした。
 俊一郎先生に相談したこともありましたが「音楽では、なかなか飯は食えないヨ」
とのお言葉通り、女房、子供に苦労を掛けっぱなしの音楽人生を選択してしまっ
たのです。
 

第1号(2006年5月)

私の履歴書(1)

 長谷川武って何者?という訳でまずは簡単な自己紹介です。
一番皆さんに関係のあるところでは、日大マンドリンクラブの8期OBと言う事になって
います。(ということはもう卒業して40年近くになる訳ですネ)

 北海道で生まれ、大学入学までは北の大自然のなかで育ってきました。
生まれた頃、家にはゼンマイ式の蓄音機があり、おもちゃ代わりにSPレコードをかけ
て遊んでいました。小学校に入学したころ、妹がバレエを習い始め、バカな父親が電
蓄とチャイコフスキーの「白鳥の湖」(SP10枚組)を買ってきました。
それが初めて意識してクラシックを聞いた最初だと思います。
多分その頃でしょうか、日曜日になるとNHKラジオの第1放送と第2放送を使ったステ
レオ放送がありました。日曜日毎に隣の家からラジオを借りてきて2台のラジオによる
ステレオ放送の音楽に酔いしれていました。

 思い起こせば良い時代に生まれ育ったものだと思います。戦後の開放感からか、国
中に様々な音楽があふれ出てきた時代でした。クラシックや歌謡曲は勿論ですが、衝
撃的だったのは、どっとなだれ込んできたジャズやアメリカンポップスでした。
親に見つからないよう、そっと枕元にラジオを持ち込み、夜遅くまでスピーカーに耳を
押付けて聞いていたものです。
中学生の頃には、世の中にLPレコードが普及し始めました。よりよい音を求めて、ア
ンプやスピーカーを自作するようになり、オーディオマニアの泥沼へと入り込んでいっ
た訳です。

 大好きな音楽でしたが、自分で演奏するなどとは考えてもみませんでした。家には
小学生の頃から61鍵の足踏みオルガンがありましたが、指導者がいるわけでもな
く、聞き覚えたメロディを1本指で弾いている程度でした。
たまたま高校2年生の時、音楽の先生(ギターの名手でした)の勧めでマンドリンクラ
ブをつくることになり、そこで初めてマンドリンと出会うことになった訳です。

 話は飛びますが、高校では放送部にも所属していました。当時、民間放送連盟主
催の「ラジオ作品コンクール」と言うのがあり、無謀にも仲間を募ってラジオドラマを
作り応募したところ、運よく北海道大会で優勝してしまい、そのドラマが放送されたの
です。

 脚本、演出、音楽?を手掛けたのがマタマタ泥沼への第一歩。「自分の進むべき道
は脚本家だ。」と日大芸術学部・演劇学科への入学と相成った次第です。
 

長谷川武の音楽雑感目次
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