日本大学マンドリンクラブOB会
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茂木幹弘プロフィール

【茂木幹弘】 (司会) 故人

茂木幹弘先生

 1929年6月14日東京生まれ。高校時代にはサッカーの選手だったそうです。
 東京外国語大学 蒙古語科を卒業。英語とモンゴル語に堪能でした。卒業後、
 1954年文化放送にアナウンサーとして入社。「ユア・ヒット・パレード」、「スクリー
 ンファンタジー」、「お好み演芸会」等の音楽番組ディスクジョッキーとして活躍し
 人気を得ました。1967年チーフプロデューサーに転身。「全国歌謡ベストテン」
 等のヒット番組を数多く製作。その後フジテレビ兼務となり、「お出かけ情報」の
 キャスターやショー番組の司会を務めました。
 1974年3月文化放送を退社し、フリーパーソナリティ、ディスクジョッキーとなり、
 「螢雪アワー」、「ゆうせんヒット速報」、「音楽でたづねるアメリカ200年」、「サン
 デー・カフェテラス」等を担当しました。また、月間誌「航空情報」のインタビュワー
 や日本大学 芸術学部・短期大学部の講師として教壇にも立っていました。
 株式会社コミュニケーション文化研究所代表を勤めました。

 《著書》
  『D・J稼業20年〜生きた映画音楽の歴史』1974、『映画音楽を楽しむ本』1976、『素晴
  らしきヒコーキ映画』1977、『放送マンの進路と入社試験問題集』1979、『暦の読み方』
  1979、『通勤電車の中の知恵 毎日の2時間が楽しくなる本』1979、『Newビジネス・マ
  ナー 新入社員専科』1982、『ハイブリッド読書術 録読・音読・視読』1982、『ポップス・
  ヒットパレード 私のおしゃべり放送史』1985、『ザ・FM』1986、『おかあさんの教育学』
  1988、『放送メディアと映画音楽』1988、『情報化社会とヒューマンコミニケーション―実
  践話し方講座』1989、『企画を大ヒットさせる演出の魔術入門 =あなたの仕事(あたま)
  が大変化する本』1990、『新聞・雑誌・TV・本を面白いほど活用する法』1990、『人間関
  係をよくする プラス志向のコミュニケーション』1995、『ビジネス能力検定2級―要点と
  演習』1996。

『D・J稼業20年〜生きた映画音楽の歴史1974年
右手にマイク、左手にリクエスト葉書を持つ茂木先生

茂木幹弘 写真

1974年頃


               1975年頃             1980年頃
          

               1968年頃             1972年頃
          

          1959年頃          1961年頃           1963年頃
     
 

「茂木先生と映画」

                                  東京都 8期 氏家

  私にとって「映画」というこの言葉で思い起こされるものは、黒沢明やジョン・
 フォードの映画ではない。
 我が師匠、茂木幹弘先生のことである。
 かって茂木先生は文化放送のラジオアナウンサーとして華々しく活躍してい
 た。

  昭和30年代はテレビよりラジオ全盛の時代であり、今も伝説として語り継がれ
 る「君の名は」など代表的なラジオ番組が制作された時代であった。30年代は
 映画も全盛をきわめた。この頃、映画音楽を主体に「ユアヒットパレード」という
 ラジオ番組が大いに人気をはくしていた。この番組のアナウンサーが茂木先生
 であった。日曜日の午前11時、ラジオから流れるこの番組を心待ちにした記憶
 が今でも脳裏に焼き付いている。
  日本大学に入学し、マンドリンクラブに入部してその年秋の定期演奏会で、く
 しくも同じステージに茂木先生があがった。
 茂木先生は、特別司会としてゲストの高英男の司会を担当した。私達の伴奏で
 高英男が「枯れ葉」を歌いラジオから流れたあの茂木先生の名調子が、生の声
 として私の耳に入った。
 この時、始めて大学のクラブの凄さを肌で感じた。
  大学4年の時、ギターパートから司会に転向し、この年の定期演奏会で今度
 は同じマイクで茂木先生とステージで共演することとなった。打ち合わせの時
 は、20秒程度の掛け合いの予定であったが、いざ本番となったら茂木先生は
 予定より大幅オーバーの4分程度の掛け合いをした。
 プロとアマの違いをマザマザと感じさせられた思いが今も残っている。

  大学を卒業し社会人となり3年後デザイナーとして独立、しかし仕事も思うよう
 に延びなかった28歳の時、地下鉄の丸ノ内線新宿駅で偶然茂木先生と出会っ
 た。
 「やぁー氏家君」といわれた時の感激は今でも覚えている。自分とは天と地程
 の違いのある業界の大御所から声をかけてもらったわけだ。これだけで充分
 嬉しかった。この時から25年間の付き合いが始まった。
 茂木先生は文化放送退社後、フリーのアナウンサーとして、映画・音楽の評
 論家として活躍する一方、雑誌の編集長、日本大学芸術学部の講師など幅広
 い分野で活躍した。
  そんな折り、茂木先生より声がかかり、映画・ラジオ・音楽の企画会社を作ら
 ないかという話があり、自信を取り戻すよい機会と思い「エールプロジュース」
 という会社を設立した。

  私の仕事は企画・制作・営業と一人ジュウヤクをこなす仕事であったが、弟子
 の情けなさ、あまりの薄給に2年で茂木先生の元を去ったが、茂木先生との付
 き合いは依然として続き、仕事面は元より公私に渡る付き合いが続いた。特に
 私の苦境時代には、席まで用意してくれ精神的に多大な援助をしてくれたこと
 に大いに感謝をしている。

  映画のなかで何が一番好きかとあるとき茂木先生に聞いてみた。「やはり西
 部劇が一番好きだ、仕事がら試写会は毎日のように行くが、西部劇のときは仕
 事を忘れてしまう」と楽しそうに話された。映画の話なら一日中しても飽きない
 ようであった。

  その茂木幹弘も今は無く、時折、もしかしたら茂木先生の声が今もラジオから
 流れるのではないかと思い、思わずラジオを見るときがある。

「茂木先生の十八番」

  茂木先生には第1回定期演奏会から第38回定期演奏会まで数回の欠場はあ
 るものの一番長く日大マンドリンクラブの定演に関わっていただきました。
 その名司会ぶりは、OB・OGの皆さんはよくご存知だと思います。
 いつでもにこやかで、演奏を聴きに来た人達の心を和らげ、また楽しくし、これか
 ら始まる演奏をより引き立ててくれるものでした。

  さてその茂木先生が司会をされる時に必ずと言ってもいいくらい出る名調子が
 あります。

 『大勢の皆さんお越しくださいまして、本当にありがとうございました。(中略)
 ステージを見上げますと今日は大勢の現役の方がいらっしゃいます。そし
 て客席は・・ざっと見ますと、空いた席と通路を除いて、超満員のお客様で
 ございます。本当にうれしく思います。』

 この言葉を聞きたいがために、演奏会に来ていたお客様も多かったそうです。

                     1989年11月18日の創立30周年記念演奏会

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