「茂木先生と映画」
東京都 8期 氏家
私にとって「映画」というこの言葉で思い起こされるものは、黒沢明やジョン・
フォードの映画ではない。
我が師匠、茂木幹弘先生のことである。
かって茂木先生は文化放送のラジオアナウンサーとして華々しく活躍してい
た。
昭和30年代はテレビよりラジオ全盛の時代であり、今も伝説として語り継がれ
る「君の名は」など代表的なラジオ番組が制作された時代であった。30年代は
映画も全盛をきわめた。この頃、映画音楽を主体に「ユアヒットパレード」という
ラジオ番組が大いに人気をはくしていた。この番組のアナウンサーが茂木先生
であった。日曜日の午前11時、ラジオから流れるこの番組を心待ちにした記憶
が今でも脳裏に焼き付いている。
日本大学に入学し、マンドリンクラブに入部してその年秋の定期演奏会で、く
しくも同じステージに茂木先生があがった。
茂木先生は、特別司会としてゲストの高英男の司会を担当した。私達の伴奏で
高英男が「枯れ葉」を歌いラジオから流れたあの茂木先生の名調子が、生の声
として私の耳に入った。
この時、始めて大学のクラブの凄さを肌で感じた。
大学4年の時、ギターパートから司会に転向し、この年の定期演奏会で今度
は同じマイクで茂木先生とステージで共演することとなった。打ち合わせの時
は、20秒程度の掛け合いの予定であったが、いざ本番となったら茂木先生は
予定より大幅オーバーの4分程度の掛け合いをした。
プロとアマの違いをマザマザと感じさせられた思いが今も残っている。
大学を卒業し社会人となり3年後デザイナーとして独立、しかし仕事も思うよう
に延びなかった28歳の時、地下鉄の丸ノ内線新宿駅で偶然茂木先生と出会っ
た。
「やぁー氏家君」といわれた時の感激は今でも覚えている。自分とは天と地程
の違いのある業界の大御所から声をかけてもらったわけだ。これだけで充分
嬉しかった。この時から25年間の付き合いが始まった。
茂木先生は文化放送退社後、フリーのアナウンサーとして、映画・音楽の評
論家として活躍する一方、雑誌の編集長、日本大学芸術学部の講師など幅広
い分野で活躍した。
そんな折り、茂木先生より声がかかり、映画・ラジオ・音楽の企画会社を作ら
ないかという話があり、自信を取り戻すよい機会と思い「エールプロジュース」
という会社を設立した。
私の仕事は企画・制作・営業と一人ジュウヤクをこなす仕事であったが、弟子
の情けなさ、あまりの薄給に2年で茂木先生の元を去ったが、茂木先生との付
き合いは依然として続き、仕事面は元より公私に渡る付き合いが続いた。特に
私の苦境時代には、席まで用意してくれ精神的に多大な援助をしてくれたこと
に大いに感謝をしている。
映画のなかで何が一番好きかとあるとき茂木先生に聞いてみた。「やはり西
部劇が一番好きだ、仕事がら試写会は毎日のように行くが、西部劇のときは仕
事を忘れてしまう」と楽しそうに話された。映画の話なら一日中しても飽きない
ようであった。
その茂木幹弘も今は無く、時折、もしかしたら茂木先生の声が今もラジオから
流れるのではないかと思い、思わずラジオを見るときがある。
|