パパ・ハイドン
2583
2583 Joseph haydn Composer
31,3,1732 Rohrau - 31,5,1809 Wien
Stippled engravin by Schiavonnetti after Guttenbrunn, 1770
Edition Geisselbrecht 23564 Lubeck Printed in Germany
2003・3・25入手 ピアノ
のカデンツ
東洋書林 『世界音楽文化図鑑』 には、このハイドンの肖像画に
”いささかロマン派がかった肖像。
1791年、成功を収めた最初のイングランド訪問の年にあたる”
という解説がついています。
その本文を参考にしながら、ハイドンの人となりをご紹介しましょう。
ハイドンは早くからオーストリア=ハンガリーの
ニコラウス・エステルハージ候にその職を保証され
生涯、恵まれた環境で活躍した 数少ない音楽家でした。
宮廷のオーケストラや教会の聖歌隊の指導をしながら、
自らの作曲に励みましたが
侯爵の求めもあって、たいへん多忙をきわめていたようです。
バス・ヴィオール(ヴィオラ・ダ・ガンバ)のために
数百にものぼる曲をハイドンが書いたのは
侯爵がこの楽器をたいそうお好きだったからだそうです。
こんなにたくさんの曲を書き残していなかったら
バス・ヴィオール(ヴィオラ・ダ・ガンバ) は
世に知られないまま終わった弦楽器だったにちがいないんですって。
↓ このカードは
直接 ハイドンと関連はないのですが
ウィーン美術史美術館のもので
当時の演奏スタイルや雰囲気が伝わってくる 一枚です。
898
898 Bildnis eines
Violoncellospielers Giocomo Ceruti 1691-nach 1765
Kunsthistorisches Museum Wien, 1991/1103 2000・9・5入手 チェロ
ウィキペディアによると
ヴィオラ・ダ・ガンバ(イタリア語)は 16世紀から18世紀にヨーロッパで用いられた擦弦楽器。
ヴィオール(フランス語)ヴァイオル(英語)ガンベ(ドイツ語)
ヴィオラ・ダ・ガンバとは 脚のヴィオラ という意味で 楽器を脚で支えることに由来する。
ヴァイオリン属に比べ音量が小さいヴィオラ・ダ・ガンバは 劇場や野外の演奏には適さず
もっぱら宮廷や上流市民の家庭における室内楽 および 教会音楽で 用いられた。
とあります。
さて
ハイドンのエステルハージの宮廷での生活は安定していましたし
また優れた宮廷オーケストラを 意のままにできる立場にあったため
古典的交響曲の形式(四楽章形式)や 管弦楽法 をしっかり完成させて
なんとハイドンは、104以上もの交響曲を 作曲しました。
また一方で、弦楽四重奏の先駆者でもありました。
当時 才能あるアマチュアの音楽家が
家庭で気楽に演奏するのにうってつけの室内楽です。
交響曲以上に明るさに満ちていて
そのなかの皇帝賛歌 (ハ長調・作品76−3) は、のちにドイツ国歌になりました。
古典交響曲、弦楽四重奏曲、三重奏曲 (鍵盤楽器・ヴァイオリン・チェロ) はもちろんのこと
ソナタの巨匠としても有名なハイドンですが 晩年は、古い音楽形式にもどって
大きなミサ曲や二つのオラトリオ(天地創造と四季)を作曲しています。
後期のこれらの合唱曲は、ハイドンの最高傑作とされています。
以上
ハイドンの功績を列記いたしましたが
ニコラウス・エステルハージ候の推薦を受け 楽長職についた 1765年は
音楽史の観点で、バロックから古典派へと移り変わった目安になっている年 なのだとか。
さて ハイドンとモーツアルトは どんな関係だったと思われますか?
ハイドンが 楽長職についた1765年は、モーツアルト9歳。
モーツアルトの生涯には 常に活躍していたハイドンの存在があった ことになります。
しかもハイドンは モーツアルト没(1791年)後 さらに15年も長く活躍したんですから。
古典派音楽は
このハイドンが作り モーツアルトによって磨かれ ベートーヴェンが完成した といわれていますが
じつは ハイドンは 古典派音楽の盛期を ずーっと見届けていた人 とも言えます。
さすが パパ・ハイドン ですね。
154
154 Michel Tanelian Joseph Haydn(1732−1809)
Editions Cartes D’Art 1999・9・20入手 楽器
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