各種記録


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☆相次ぐ訃報(2011.9.5)

  昨年から本年にかけて、弘前大学時代以来の先輩諸先生及び元同僚の訃報が相次いて残念でならない。諸先生の葬儀は遠方で行われたこともあり、参列もできず、忸怩たるものがある。ここに失礼を詫び、これまでのご厚誼に感謝したい。

 秋月観暎先生は中国史の専門家で、道教の研究者であり、弘前大学人文学部で学部長をされていたときに、私は教務関係の仕事を手伝った。秋月先生は僧籍を持っておられた研究者である。物に動じない悠々たる態度にはいつも敬服させられた。私は一時期、秋月先生は学長にふさわしいと思っていたのだが、実現できなかった。

 乕尾俊哉先生は弘前大学の学生部長をされており、接触はあったのだが、交流が一層深まったのは大学外での仕事に関わってからであった。乕尾先生は弘前市史の監修者であったので、私が執筆した文章を含めて、近現代編の原稿をすべて読んでもらった。そのように監修者序文に書かれている。もともと日本古代史の研究者である乕尾先生にとって、市史の近現代編の文章を読むのは苦痛だったのではないかと思う。弘前市の飲み屋で学生時代のエピソードを伺ったことがあった。いつも冷静で謹厳な先生であった。

 中澤勝三氏は私より1年若年であったのだが、惜しくも亡くなられた。弘前大学の定年を目前にし、講義もすべて終わった3月に逝去したとのことで、責任感が強い同氏のことと感心した。中澤氏は西洋経済史の研究者であり、何度も研究室を訪問しては議論したことがあった。信念を曲げない人格者であった。なお、中澤氏については、中澤勝三先生をしのぶ会から、『わが人生を生きる』の題名の追悼文集が出された。

 つい先日届いたのが村越潔先生の訃報である。同先生とは青森県史の企画編集委員会で頻繁に顔を合わせていた。また、『青森県の歴史』を共同で執筆した共著者である。村越先生は考古学の専門家で、縄文遺跡の発掘では全国に名が轟いている大家であったが、そのようなことを感じさせない気さくな人柄であった。弘前市の拙宅にほど近いところに住んでおられ、通りすがりに何度もあいさつをした記憶がある。委員会で顔を見ることがなくなってしばらくたったのだが、まさか訃報が届くとは思っていなかった。

 以上の4人の信頼していた研究者を昨年から本年にかけて失ってしまったのだが、このことは自分に残された時間が短くなったということでもある。4人の研究者のうち乕尾先生は弘前大学の後、国立歴史民俗博物館に移られて活躍され、また秋月先生は弘前大学退職後郷里の会津で大学教員として活動された。しかしそうしたことを考慮に入れても、みな研究条件が必ずしも良いとはいえない弘前の地に長年居を定めて根を生やし、研究業績を積み上げられた研究者である。本当に敬服に値する。

 4人の研究者は弘前大学に在籍し、歴史研究を行っていたという共通点はありながらも、所属学部もまちまちで、出身大学や学部も全員異なっていた。皆、つまらないセクショナリズムから自由であった。だから、飲み屋や研究室や道ばたで話をしても面白かった。だいたい、経歴が違いすぎて他人の噂話などはできなかった。共通の知人がほとんどいないからであった。得難い人たちを失ってしまったと思う。