泉鏡花の『栃の実』(初出:「新小説」1924(大正13)年8月号)という短編に、板取(虎杖)村から栃の木峠に至る描写があり、当時の風情がよく感じられるので、引用しておきます。ルビは煩雑なので省略します。
朝六橋(麻生津)を夜明けに渡り、九時ごろに武生(府中)に着いた。ここまでは俥(くるま)です。府中は水が美しく、女がきれいだ、という嬉しい描写の後、行く道を思案する場面から。
茶店の縁に腰を掛けて、渋茶を飲みながら評議をした。……春日野の新道一条、勿論不可い。湯の尾峠にかかる山越え、それも覚束ない。ただ道は最も奥で、山は就中深いが、栃木峠から中の河内は越せそうである。
(中略)春日野の新道というのは、現在の国道8号線のルート、湯の尾峠にかかる山越え、というのは湯尾峠を越え、さらに木の芽峠を越えるルートです。
覚えていますか?国鉄廃線跡の暗いトンネル。あの道を東に折れると木の芽峠への古道です。
「気をつけておいでなせえましよ。」……畷は荒れて、洪水に松の並木も倒れた。ただ畔のような街道端まで、福井の車夫は、笠を手にして見送りつつ、われさえ指す方を知らぬ状ながら、式ばかり日にやけた黒い手を挙げて、白雲の前途を指した。
(中略)
たださえ行悩むのに、秋暑しという言葉は、残暑の酷しさより身にこたえる。また汗の目に、野山の赤いまで暑かった。洪水には荒れても、稲葉の色、青菜の影ばかりはあろうと思うのに、あの勝山とは、まるで方角が違うものを、右も左も、泥の乾いた煙草畑で、喘ぐ息さえ舌に辛い。
祖母が縫ってくれた鞄代用の更紗の袋を、斜っかいに掛けたばかり、身は軽いが、そのかわり洋傘の日影も持たぬ。
(中略)このあとに紅葉先生のエピソードがあるが、端折りますね。それにしても煙草畑というのは、驚き。
が、一刻も早く東京へ----唯その憧憬に、山も見ず、雲も見ず、無二無三に道を急いで、忘れもしない、村の名の虎杖に着いた時は、杖という字に縋りたい思がした。----近頃は多く板取と書くのを見る。その頃、藁家の軒札には虎杖村と書いてあった。
ふと、軒に乾した煙草の葉と、蕃椒の間に、山駕籠の煤けたのが一挺掛った藁家を見て、朽縁へどうと掛けた。「小父さんもう歩けない。見なさる通りの書生坊で、相当、お駄賃もあげられないけれど、中の河内まで何とかして駕籠の都合は出来ないでしょうか。」「さればの。」耳にかけた輪数珠を外すと、木綿小紋のちゃんちゃん子、経肩衣とかいって、紋の着いた袖なしを----外は暑いがもう秋だ----もっくりと着込んで、裏納戸の濡縁に胡坐かいて、横背戸に倒れたまま真紅の花の小さくなった、鳳仙花の叢を視めながら、煙管を横銜えにしていた親仁が、一膝ずるりと摺って出て、「一肩遣っても進じょうがの、対手を一つ聞かなくては、のう。」「お願いです、身体もわるし、……実に弱りました。」「待たっせえ、何とかすべい。」お仏壇へ数珠を置くと、えいこらと立って、土間の足半を突掛けた。五十の上だが、しゃんとした足つきで、石道を向うへ切って、樗の花が咲重りつつ、屋根ぐるみ引傾いた、日陰の小屋へ潜るように入った、が、今度は経肩衣を引脱いで、小脇に絞って取って返した。「対手も丁度可かったで。」一人で駕籠を下すのが、腰もしゃんと楽なもので。----相棒の肩も広い、年紀も少し少いのは、早や支度をして、駕籠の荷棒を、えッしと担ぎ、片手に----はじめて視た----絵で知ったほぼ想像のつく大きな蓑虫を提げて出て来たのである。「ああ、御苦労様----松明ですか。」「えい、松明でゃ。」「途中、山路で日が暮れますか。」「何、帰りの支度でゃ、夜嵐で提灯は持たねえもんだで。」中の河内までは、往還六里余と聞く。----駕籠は夜をかけて引返すのである。
(中略)この、駕籠かきが、おそらく私の曽祖父なんだよね。
前棒の親仁が、「この一山の、見さっせえ、残らず栃の木の大木でゃ。皆五抱え、七抱えじゃ。」「森々としたもんでがんしょうが。」と後棒が言を添える。「いかな日にも、はあ、真夏の炎天にも、この森で一度雨の降らぬ事はねえのでの。」清水の雫かつ迫り、藍縞の袷の袖も、森林の陰に墨染して、襟はおのずから寒かった。----「加州家の御先祖が、今の武生の城にござらしった時から、斧入れずでの。どういうものか、はい、御維新前まで、越前の中で、此処一山は、加賀領でござったよ----お前様、なつかしかんべい。」「いや、僕は些とでも早く東京へ行きたいんだよ。」「お若いで、えらい元気じゃの。……はいよ。」「おいよ。」と声を合わせて、道割の小滝を飛んだ。
(中略)長くなるので、次のページへ。→→→トンネルをクリック |
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