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85.野球への思いが再燃

怪我の功名

僕は名古屋を訪問したその足で大阪に帰り、両親や親戚と一緒に海に行った。
海水浴なんて何年ぶりのことだろうか。家族とふれあって、気が休まった。
これぞ、文字どおり「怪我の功名」である。
それに加えて、世間では夏の高校野球の真っ盛り。
久しぶりに優勝が狙える戦力を整えた母校・PL学園の応援に行くことができた。
相手は千葉の八千代松陰で、多田野(現日本ハム)というピッチャーが投げていた。序盤に2点を先制されるも、後半に得意の集中打を浴びせ、6対2で勝利した。
3年前のあの夏、僕らはここで戦った。数々のシーンが頭の中を駆け巡る。
言葉では表現することのできない感情が、僕を支配した。
ずっと夢見た甲子園、夢を叶えた甲子園、永遠の夢、甲子園――。
甲子園にこだまするPLの校歌を聞いているうちに、大学で腐っていた自分が情けなくなってきて、とめどなく涙があふれた。

気分も新たに再出発

心は「曇りのち晴れ――」。
東京に戻る足取りは軽かった。こんな気持ちで帰れるなんて思ってもみなかった。
名古屋へ出発する以前の不安は一掃され、逆にエネルギーをたくさんもらった。
そして、不自由になってみて初めて普通に野球ができる喜びを痛感した。
僕の再出発をあと押しするかのような、充実の「旅」が終わった。
僕は気分を一新して、翌日から練習に参加した。
「いなきち、足は大丈夫なのかよ!?」
みんなも、その回復ぶりに目が点になっていた。
「大丈夫っすよ」
笑顔で答える僕を見ても、まだ疑っているようだ。
なにせ、数日前まで松葉杖をついていた人間なのである。
しかし、なんの支障もなくプレーする僕を見て、みんなが胸をなでおろした。
オープン戦のメンバーに返り咲いたのは、この2日後のことだった。

後輩たちから教わったもの

東京に戻っても、母校・PLの結果は気になるものだ。
グラウンドにラジオを持ち込み、練習の合間にチェックするほど、試合経過にのめり込んでいた。
8月20日の準々決勝は、PL学園VS横浜高校。この組み合わせは、センバツの準決勝でも対戦していて、2対3でPLが敗れていた。
センバツの雪辱を果たしてこいや」
僕は、後輩たちに心の内でエールを送っていた。
このゲームが、球史に残る名勝負となろうとは、そのときには思いもよらなかった。
試合は8回に横浜高校に追いつかれ、延長戦に入った。
延長11回、横浜高校に1点をリードされると、その裏のPLは5番・大西宏明(近大→近鉄→オリックス→現横浜)のレフト前ヒットで、なんとか追いついた
さらに延長16回、再び横浜高校が1点を追加すると、11回以降パーフェクトに抑えられていた松坂に対し、内野安打とエラーで再度同点に持ち込んだ
結局、延長17回表にツーランホームランを浴び、7対9でPLは敗れた。
試合終了後、負けたPLには笑顔勝った横浜高校には涙があったという激戦だった。
僕は、後輩たちから忘れかけていた大きなメッセージをもらったような気持ちに包まれていた。
ちなみに、この80回記念大会を制したのは、やはり横浜高校だった。
準決勝の高知・明徳義塾戦は、残り2イニングで6点差からの大逆転でサヨナラ勝ちし、決勝戦では、松坂大輔京都成章を相手にノーヒットノーランを達成。
1987年のPL学園以来、史上5校目の春夏連覇を成し遂げたのである。

86章につづく

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