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80.3年目のシーズン始動

新年を迎えて

1998年――。
20歳で迎える初めての新年。
家族水入らずで過ごし、心を新たに東京へ戻った。
中央大学に来て丸2年。フレッシュな気持ちはどこかへ消え、どっぷりとぬるま湯につかってしまった。
他の大学はもっと厳しい環境で練習している。高校と変わらない生活をしている大学もある。
そんな彼らに、ふやけた生活を繰り返すだけの僕らが勝てるわけがない。
気持ちを入れ直すにも、1人ではどうすることもできない。
どこかでぬるま湯の体質を変えない限り、このままズルズル行ってしまうと、もうみんなわかっていた。
1998年は、そんな自戒からのスタートだった。

大雪のおかげで覚えた麻雀

1月8日、東京は大雪になった。交通機関が乱れ、帰宅に難渋する人たちで、都内はあふれかえったという。
その雪が道端やグラウンドの日陰にまだ残っている1月15日に、僕は成人の日を迎えた。
2年生は、この日だけは帰省の許可が出る。
年末年始も帰ったことだし、1日だけなら帰阪してもゆっくりとできないので、成人式には参加しなかった。
それどころか、この日も全国各地で大雪が降り、グラウンドがしばらく使えない状況にまで積もりに積もった。
帰らなくて正解である。
当然練習は休みになり、自分の部屋で、覚えたばかりの麻雀を1日中やっていた。
以後この麻雀は、寮内の遊びとして大流行することになる。

部屋替えで慎之助と同部屋に

1月末、また部屋替えが行われた。
それはすなわち、僕らが上級生になったことを意味する。
当面の念願がようやく叶い、やっとの思いでここまで来た。
まもなく新1年生が入寮して、新たな寮生活が始まった。
前にも述べたように、基本的には4年生と2年生、3年生と1年生が同じ部屋となるはずだが、この年は特別に人数が多く、やむなく3人部屋が出るまでに所帯が膨れ上がっていた。
誰が3人部屋になるのか、誰と同じ部屋になるか、どこの部屋にするのかは、ジャンケンで決めていく。
僕はジャンケンに負けて3人部屋になってしまったが、ルームメートは迷わず仲が良かった慎之助を選んだ。
もうひとりは、京都の東山高校から来る杉本。部屋は今までと同じ「309号室」にした。
自分の部屋を持てる喜びは最高潮にまで達し、テレビや冷蔵庫、ミニコンポ、プレイステーションなどを瞬く間に買い揃えた。
僕にはひとつのこだわりがあった。
「自分の部屋を持つときは、真っ赤なじゅうたんにしよう」
そう心に決めていた。
しかし、どこを探してもそれは見つからず、渋々ピンクのじゅうたんで我慢することにした。
なにはともあれ、こうして自分の部屋が出来上がったのである。

みんなの憩いの場「309号室」

「部屋にあるもんは勝手に使ってええからな」
部屋子の2人に、そう伝えた。
練習が終わって部屋に戻るとすぐ、廊下に響き渡るまで音楽をガンガンに鳴らして聴いた。
着替えを済ませて風呂に入れば、そこからは自由な時間。洗濯は付き人にやらせ、パラダイスのような生活に様変わりした。
ハマったばかりの麻雀をするために各部屋を転々としたり、同級生の部屋でテレビゲームをしたり、休みの前の日には部屋でお酒を飲んだりと、好き勝手なことをやっていた。
寮にいる方が居心地がよく、外出もしなくなった。
僕の部屋は、いつしか後輩たちの溜まり場になっていた。
同部屋の先輩が怖かったり、気まずくなったりすると、どうしても楽な空間に行きたがる。
中央大学では、「部屋避け」と呼ばれる行為で禁じられていたが、僕は快くそれを許した。
部屋の扉に「集会所」というステッカーを貼り、「いつでも来ていいよ」と告知した。
ある程度の上下関係は必要だと思うが、度を過ぎるのはよくない。
少なくとも、それなりの高校の野球部でもまれてきた後輩たちに対して、大学に来てまで締めつけるのはよくないと常々思っていた。
ある日、ピンクのじゅうたんがシミになっているのを発見したことがある。
間違いなく後輩たちの仕業とわかったが、それでも僕は怒らなかった。
僕の部屋はみんな仲が良かった。
毎日くだらない会話をしたり、一緒にビデオを観たり、次第に言葉遣いもタメ口になっていく。
就寝のときに電気を消すのは原則部屋長の仕事なのだが、「俺が部屋長だ」と、僕の帰りを待たずに慎之助が毎晩灯りを消していた。
当時の規則からすればあり得ないことが、「309号室」では繰り広げられていたのである。

81章につづく

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