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74.ロサンゼルス・キャンプ

年が明けても気持ちは明けず

年は開けて1997年――。
正月早々、テレビではロシア船籍のタンカー「ナホトカ号」が日本海で破断し、流出した大量の重油が日本海沿岸各地に漂着しているというニュースを報じていた。
それも束の間、世の中の興味はすぐに、松田聖子と神田正輝が離婚したという話題に移っていった。
そんな中、いよいよ2年目の大学野球シーズンが始まろうとしていた。
すでに新チーム体制になり、1部復帰を目指して、新たなスタートを切っていた。
気候も昨年のように極端に寒くはないので、トレーニングはしやすかったが、ボールを握れない練習ばかりが続き、ストレスがどんどん蓄積されていった。
野球人にとって、目の前にあるボールを握れないほどの苦痛はない。だから、僕は冬が嫌いなのである。
僕の中の鬱憤は、いつ爆発してもいいような状態となり、精神的にも不安定になっていった。

薄れゆく野球への情熱

2月に入ると、新入部員が入寮してきた。もちろん阿部慎之助もだ。
仕事は彼らに任せられるから、楽にはなった。
しかし、2年生になったからといって、門限を破ることは許されなかったし、自分の部屋を持てるわけでもないので、実質あまり変わらなかった。
自分で自分の実力に見切りをつけたのも、2年生のときだった。
「俺はもう大学で野球を辞める。上で通用するわけがない。だから、できるだけ大学生活を楽しもう――」
野球に対する情熱を、完全に失っていた。
夜は飲み歩き、二日酔いのまま練習に参加した。
この時期の僕は、上級生がやるようなことを平気でやっていた。

ロサンゼルスでのキャンプ

3月のキャンプ。
中央大学では3年に1回、アメリカのロサンゼルスでキャンプをすることになっていた。
1997年が、その当たり年だった。
僕にとって初めての海外
中学生の頃からメジャーリーグや、プロバスケットボールにハマっていた僕は、このキャンプを心待ちにしていた。
実際に現地に着いてみると、驚きの連続だった。
本場の英語を聞くのはもちろん初めてだし、目で見たもの、耳で聞いたものなど、全てが新鮮だった。
中学校の頃に勉強した英語が役に立ったのは幸いだった。
おかげで、ホテルのガードマンと仲良くなれたし、自由時間の買い物などでは、同僚から頼りにされるほどだった。
同じ部屋になった1学年上の先輩も大のアメリカ好きで、毎晩野球の練習のことはそっちのけで、アメリカ談義に花を咲かせていた。
オフの日には、若者向けのファッション通りで有名なメルローズ・アベニューに行ったり、本場のユニバーサルスタジオに行ったりと、すっかり旅情をかきたてられた。

75章につづく

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