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66.PL学園を卒業

初めての休日の珍道中

中央大学で迎えた初めての休日
僕は柳川の花田と右田、明徳義塾の平田など、西日本出身の友達と行動を共にした。
まだまだ聞きなれない標準語に馴染めず、ちょっとしたストレスを感じていたので、言葉が近い関西や九州方面の仲間とはすぐに打ち解けた。
僕らは、新宿・原宿・上野など、東京観光に出かけることにした。
「特急ばーい」
聞き慣れない博多弁がホームを通過した。なんと福岡の田舎から出てきた柳川高校出身の右田が、人目もはばからず大声で叫んでいるではないか。
乗り換えたら早いのはわかるが、あまりの声のでかさに、思わず他人のふりをしてしまった。
電車の中で容赦なく飛び交う関西弁に白い目を向けられたり、黒い出汁の蕎麦にびっくりしたり、女子高生のスカートの丈の短さに釘付けになったり、最後はみんなでカラオケを歌いすぎて門限を破りそうになったりするなど、初めての外出はとんだ珍道中となった。

ショートの守備練習の機会が増加

3月になり、新しい寮生活にも慣れ始めた頃、キャンプインの日が近づいていた。
僕はショートに回されることが多くなった。
僕の本職はサードだったが、一番好きなポジションはセカンドだ。内野の中でも、ショートはあまり好きではなかった。
4学年からなる大学で、1年生からレギュラーだとかメンバーだとかを意識するのは、まだ早いのかもしれないが、キャンプに参加できる以上、目指す目標は高い方がいい。
そのショートを練習する機会が増えてきたのも、きっと監督の意向があったのだろう。
メンバー入りの近道になるのであれば、どこだって守ってやると、強く思うのであった。

早くもキャンプインに突入

キャンプイン当日。
バスとフェリーで一路高知県へ――。
中央大学は当時、プロ野球のダイエー・ホークスが使用したあとの、高知市営球場でキャンプをはっていたのである。
キャンプに行けるメンバーは限られていたが、1年生のほとんどがこれに参加することになった。
初日から激しいレギュラー争いが繰り広げられた。
このときばかりは、学年なんて関係ない。全員横一線でのスタートなのだ。
午前、午後とみっちり練習して、歩いて宿舎へ帰る。全員で夕食をとり、少し時間をおいて雨天練習場で夜間練習。
散々体をいじめたあと、さらに1年生には洗濯があったので、さすがにキツかった。
辛いのは練習や洗濯だけではない。
グラウンドの周りは杉の木がいっぱいで、容赦なく花粉が飛び交う。
マスクをしながら練習するわけにいかないし、薬を飲んでも眠くなるので、花粉症の僕にはたまらなかった。

PL学園の卒業式

キャンプインから数日後、卒業式のため、地元に帰ることが許された。
高知空港から伊丹空港へ――。
飛行機に乗るのは、高校3年の沖縄遠征以来だろうか。
久しぶりに踏み入れたPL学園――。
仲間と会うのは約3ヶ月ぶりだが、もう何年も会ってないような気がしていた。
   
「久しぶりやのぅ、大学どうよ」
「うちは練習が、めっちゃ長いわ」
「ホンマに今日で終わりやねんな」
「よう3年間も、やってこれたな」
   
色々な話や情報交換をした。やっぱりみんなといると落ち着く。
卒業証書の他に、中村監督から色紙をいただいた。
そこにはこう書かれてあった。
   
球道即人道
人生の財は友なり
   
僕の宝物のひとつだ。
文字どおり、野球を通じて一生涯の友に出会った。
今でも交流が続いているPLの仲間は、これから何年経っても変わらぬ関係でいるだろう。
卒業式はあっという間に過ぎていった。楽しい時間は短いものだ。
別れ際、みんなでこれからの健闘を誓い合った。そして、お互いに感謝の気持ちを伝えた。
3年間、ありがとうな

67章につづく

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