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63.それぞれの旅立ち

中央大学推薦組みの合同練習

国体を優勝した僕らは、その名を歴史に刻むことができた。
これで、正真正銘の引退を迎えることになり、そろそろ気持ちは大学へシフトしなければならない。
体力を落とさないように、自主トレの毎日を繰り返した。
そんなある日、中央大学から合同練習の案内が来た。翌春に入学する推薦組が集められたのだ。
初めて顔を合わせた選手がほとんどだったが、驚くべきはそのメンバーの球歴だ。
センバツ優勝ピッチャーの観音寺中央・久保。同じくライトの三宅
柳川高校花田右田
東海大相模のクリーンナップ、石垣
桐蔭学園の正捕手、斎藤
水戸商の主砲、大川
北海高校のキャプテン、渡辺
熊本工の4番、佐藤
明徳義塾の内野手、平田
和歌山吉備高校張道
なんと僕を含めた12人中10人が甲子園経験者だったのである。
「これは楽しみやぞ!」
そう思わずにはいられなかった。
まだまだ気分は高校野球から抜け切れてはいなかったが、先にある楽しみに思わず頬が緩んだ。
今度みんなと会えるのは2月1日の入寮の日。その日までお互いがんばろうと、各地へ帰っていくのであった。

PL野球部の多大な功労者

僕が中央大学へ進学する際、多大な尽力をいただいた方がいる。
僕だけではなく、ほとんどの選手がそうだった。
その方とは、以前にも紹介させていただいた井元先生だ。
井元(俊秀)先生は、PL学園の第1期生
東京での受験に合格していながらも、当時の教祖に呼ばれて、PLにやって来られたと聞いたことがある。
卒業されたあとは、学習院大学に進学。投手として東都大学リーグで優勝を果たした。
この学習院大学が東都を制したのは、後にも先にもこの1回だけである。
その後、再び大阪に呼び戻され、PL学園の監督に就任された。
監督を退いたあとは、PL教団の職員として働かれる一方で、各地の少年野球チームを回り、スカウト活動をおこなった。
多くのプロ野球選手を輩出しているPL学園だが、そのほとんどが井元先生によって集められたのだ。
活躍は、これだけでは留まらない。
大学や企業にパイプを作り、自ら集めてきた選手たちを、自らの手で次のステージへ送り届けたのである。
東京六大学や東都リーグをはじめ、関西学生野球リーグ、都市対抗野球の常連企業など、高校を卒業してからも第一線で活躍できる場を選手にあたえてくださった。
今日ではビッグネームになっているPL学園だが、黄金時代以前から支えてこられた努力は、決して真似のできない想像を絶す る苦労があったのだと推測できる。
2001年に教団を退職。現在は青森山田高校の教育顧問をされながら、スカウティングの日々を送られている。

チームメート・福留の進路

紅葉は散り始め、風はしだいに冷たくなっていく。
寮から見下ろすグラウンドからは、後輩たちの声が聞こえてくる。
秋の終わりが近づき、世間ではひとりの男の動向が注目を集めていた――。
この年のプロ野球はヤクルトがオリックスを破り、日本一となって幕を閉めていた。
日本一にはなれなかったが、「がんばろう神戸」のキャッチフレーズのもと、仰木マジックでパ・リーグを制したオリックスの活躍は、阪神大震災の被災者に大きな勇気をあたえていた。
そんなプロ野球界では、ドラフト会議が間近に迫っていた。
PL・福留との交渉権はどの球団が取るか――」
連日のようにマスコミが、そのような記事を書きたてた。
ドラフト前夜、就寝前に福留と話したのを今も覚えている。
   
「トメ、どこ行きたいん?」
巨人中日やな」
「ほな、ほかの球団に指名されたらどないすんねん」
「たぶん行かんやろな。でもわからん」
   
新聞などで報道されている通りの返答である。
社会人野球の日本生命への内定が出ていたので、半分他人事のように話す彼が印象的だった。
   
そして迎えた11月22日、第31回ドラフト会議――。
僕らは学校にいた。
7球団の競合の末、クジを引き当てたのは、近鉄バッファローズ佐々木恭介監督だった。
落胆する彼を前にして、かけてあげられる言葉が見つからなかった。
彼が正式に日本生命への就職を決めたのは、この数日後であった。

3年生だけの紅白戦

12月になった。もうすぐ退寮の日だ。
この3年間、同じ釜の飯を食べてきた仲間と離ればなれになるのは本当に寂しい。
退寮直前のある日、3年生だけで紅白戦をした。
ユニフォームを着るのも、これで最後。
その雄姿をひと目見ようと、「ドゥ・スポーツ・ホテル」の田崎さんと善村さんが駆け付けてくれた。
紅白戦が終わったあと、3年生18人は送り出していただく首脳陣に囲まれ、1枚の写真に収まった。

退寮の日を迎えて

1995年12月15日、遂に退寮の日を迎えた。
これまでの思い出が蘇ってきた。
入寮した日が、まるで昨日のように思える。1年生のときは色々な試練があった。
説教で殴られたこと。学校から走って帰ったこと。何度もくじけそうになったこと。長い1日に途方に暮れたこと。
それでもひとつ屋根の下、同じ釜の飯を食った仲間がいた。みんなで助け合って苦難を乗り越えてきた。
その苦しい体験は、3年生になって実を結んだ
僕らは甲子園に行った。夢を叶えた。国体で優勝することができた。どの高校生よりも長く野球ができた。そして、どんなときも近くに仲間がいた。
青春を過ごした「研志寮」。僕らの汗と涙がここに詰まっている。
僕は使用していたロッカーに、そっと名前を書き入れた。
41期 稲荷 幸太
最後にみんなで肩を叩き合い、労をねぎらった。涙する者もいる。
「今までありがとう」
こうして長い高校生活の幕が下ろされた。
そして、僕らはそれぞれの道へ旅立っていった――。

18名のPL野球部同級生

3年間、共に過ごしてきた仲間をここで紹介したい。

「今まで3年間、苦しいときも辛いときも、みんなで支え合ってここまでこれた。みんながいるからがんばれた。俺にとってかけがえのない、最高の仲間やで。3年間、ホンマにありがとう」

64章につづく

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