全部で12チームしかないので、8チームが1回勝てば準々決勝、残る4チームは初戦がいきなり準々決勝ということになる。
PLの2回戦、つまり準々決勝の相手は敦賀気比だった。
甘いマスクのエース・内藤は、人気・実力ともに折り紙つき。
「内藤く〜ん」
黄色い声援がスタンドから飛び交う。
内藤の武器は、ドロップ気味に落ちる縦のカーブ。すでに駒澤大学への進学が決まっていたようだ。
実はこの内藤とは因果がある。
中学時代、僕は八尾フレンドの選手として、内藤は福井の鯖江ボーイズの選手として、戦ったことがあったのだ。
そのときは八尾フレンドが勝利したが、夏の選手権ベスト4の実績を引っ提げた内藤は、この国体ではそう簡単には勝たせてくれないだろう。
3年越しの再対決となったが、残念ながら僕個人としては内藤を打ち崩すことはできなかった。
そのカーブは、僕が人生で初めて「ボールが消えた」と衝撃をうけたほど、恐るべきウイニングショットだった。
しかし、チームは8点をもぎ取り、見事8対0のシャットアウト勝ちを収めたのである。
準決勝に進んだPL学園――。
対戦相手は、地元の磐城高校だ。
完全なアウェー戦なので、正直やりにくかった。
しかし、僕らには負けられない理由ができていた。
「中村監督に国体優勝の肩書きを!」
誰が言い出したのか、いつの間にかそういう気運が生まれていた。
1970年・1976年と過去2回の国体優勝があったが、指揮者は中村監督ではなかった。
KKコンビの年代や、春夏連覇を果たした1987年も国体には出場していたが、いずれも優勝には届かなかった。
ウワサによると、1985年の国体では、プロを見据えて清原さんは木製のバットを使用していたらしい。
本当かどうか真相は藪の中だが、そのようなエピソードがまことしやかに残っている。
「国体に優勝すれば、中村監督に新たな肩書きができる。ここまで来たら優勝しようや!」
チームが次第にひとつに結束していくのが、ひしひしと肌で感じられた。
こうなったときのPLが強いのは、誰もが自覚していた。
結果は8対3の快勝だった。
遂に僕らは決勝進出を果たしたのである。
国体に来て、心から嬉しかったことがある。
それは、ケガから復帰した諸麦と野球ができたことだ。
夏の予選前の不運なアクシデントによって、彼の甲子園への道は断たれていた。
甲子園の晴れ舞台とまではいかないが、高校最後の国体で、こうして一緒に野球できることが、何よりも幸せだった。
まだ心の傷が癒えていないだろうが、彼自身が最後の最後で公式戦ができる機会がまだ残っていたことを心の底から喜び、いつになく張り切っていた。
小学校時代から気心の知れた最高の友の雄姿を目にしては、何度も胸が熱くなった。
彼との付き合いも早いもので10年目――。
諸麦は青山学院大学への進学が決まっており、共に戦うのもこれが最後だ。
「明日の決勝は最高の思い出を作ろうや!」
どちらともなく肩を寄せ合い、そう固く約束するのであった。
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