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43.夏の甲子園へ向けて

甲子園用の特注ユニフォーム

PL学園では、甲子園の出場を決めたときに、新しくユニフォームを作るようになっていた。
甲子園バージョンとでも呼ぶべきか、寸法をはかり、選手に合ったサイズをメーカーに特別発注するのだ。
伝統を引き継いできたユニフォームは、アイボリーをベースに、胸元には「PL GAKUEN」の文字。それを縁取る刺繍が輝きを放つ。
袖を通すだけで身が引き締まる、聖なる戦闘服。このユニフォームを着るために、血の滲むような努力を何度となく繰り返してきたのである。
入学当初は自分のユニフォーム姿など想像できなかった。しかし、今なら堂々と着られる。
偉大な先輩方に肩を並べても引けをとらないくらいのことは、やってきたつもりだ。
「よし、いっちょやったるで!」
誇り高きユニフォームを身にまとうと、新たな決意が芽生えてくる。
その決意が結実するよう、僕は祈りをこめて胸の刺繍を指でなぞっていた。

組み合わせ抽選会での再会

組み合わせ抽選会の日がやってきた。
自分たちの野球をするだけということは頭で理解しているのだが、やはり相手は気になってしまう。
どの高校が甲子園に来るのかも知っておきたい。
センバツ優勝の観音寺中央をはじめ、同準優勝の銚子商、遠征で戦った沖縄水産もいた。
再会を果たした各校の選手たちの表情は、みな自信に満ち溢れている様子だ。
帝京の選手とも面識があったが、驚いたことにメンバーがごっそりと抜けていた。
どうやら春から夏にかけての練習が相当キツかったみたいで、ほとんどの3年生が辞めたらしい。
帝京の前田監督が厳しいのは有名だが、4番もキャプテンも辞めたというこの異常事態の話題は、当時の乏しい僕の経験からではうまく飲み込めなかった。
一方、相変わらず出場するだけで優勝候補に挙げられるPL学園は、各校からの注目の的だった。
はっきり言って、組み合わせ抽選会はお祭りの前座みたいなものだ。
しかし、センバツ1回戦負けの雪辱を晴らそうと奮起している僕らは、会場でも浮かれることなく、常に気を引き締めていた。
抽選の結果、僕らは大会5日目第2試合北海道工業高校との対戦が決まった。

近畿圏のチームも宿泊するルール

1月の阪神淡路大震災から半年――。
平等な条件を整えようということで、近畿圏の高校もホテルや旅館などで寝泊りをしなければならないというルールができていた。
試合がある日も、宿泊施設から出発しなければならない。それまでは可能だった試合直前の調整も、できないようになった。
地の利があった僕らにとって、試合前の調整ができないのは思わぬ逆風である。
しかし一方で、寮生活に慣れている僕らにとっては、寝泊りに関してはお手のもので、その環境の新鮮さを楽しむ余裕すら生まれていた。
PL学園がお世話になったホテルは、大阪の繁華街・ミナミにある「ドゥ・スポーツ・ホテル」。2人部屋と3人部屋があり、僕はエースの前田レフトの出井と同じ部屋だった。
ホテルの方々は、ものすごく感じよく、そしてとても親しく接していただいた。そのときのご厚意に感謝して、卒業してからも度々顔見せに足を運ぶなど、交流が続いた。
こういう些細なところからも、野球を通じて広がっていく奇縁のすばらしさを感じてしまう。

夏の甲子園の開会式

照りつける真夏の太陽、鳴り止まない蝉の声、バスを誘導する笛の音、蔦の木に覆われたマンモス――。
阪神甲子園球場に、球児たちの夏がやってきた。
「……ただいま」
センバツ以来、足を踏み入れる聖地である。
1995年8月7日、第77回全国高等学校野球選手権大会が開幕した。
開会式直前の選手が控える通路では、瞬時にできた球友たちとの記念撮影会
「一生に一度しかない夏の甲子園。思い出をたくさん作ろう」
石川の星稜や、青森山田高校、福井の敦賀気比に、三重高校など、優勝候補のPLのところには嫌でも選手が集まってくる。敵、味方を越えて健闘を誓い合った。
「♪ああ栄冠は君に輝く〜」
入場行進が始まった。憧れの舞台で、全国の代表校が力強い行進を披露する。
「やっぱり夏はええなぁ」
春とは比べものにならないこの感覚は、一体なんなのか。
物心がついたころから、夏休みになると観ていた甲子園。グラウンドで一喜一憂するその姿に、いつしか僕は心を奪われていた。
「これは夢やない。確かに今自分がおるのは、甲子園のグラウンドの中や」
一歩一歩その感触を確かめるように踏みしめた。自然と表情も柔らかくなっていく。
高校球児の最大の目標、深紅の大優勝旗を目指した15日間が、今始まった。

44章につづく

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