センバツの期間中は、地下鉄サリン事件や警視庁長官狙撃事件の話題で、報道はもちきりだった。
阪神大震災の傷もまだ癒えていないというのに、さらなる拠り所のない社会不安が広がりをみせ、世間は騒然としていた。
横山ノックが大阪府知事に当選したのも、ちょうどこの頃だった。
そんなさまざまな喧騒の中、今年も全国からスカウトされた新入生が入寮してきた。
僕らは当然3年生に進級していた。
3年生……それは果てしなく遠い彼方の存在だった。
このPLの門を、桜舞い散る季節にくぐったのは2年前。
夢と希望に胸を膨らませていたのも束の間、刑務所よりも過酷だといわれる毎日がスタート。
当時は、なかなか終わらない1日に絶望し、どれだけの試練を乗り越えれば3年生になれるのかなんて想像もできなかった。
……ここまで来るのに、随分時間がかかったような気がする。
はたして新入生の目には、僕らがどう映っているのだろうか。とても興味深いところだ。
何はともあれ、高校生活最後の1年が始まった。
「悔いが残らないよう、1日1日を大切にしよう」
常にそう心に留めるようになったのは、最上級生になった自覚によるものだった。
春の大会に入った。
僕は試合によって、1番を打ったり、2番を打ったりと、上位打線で起用されることが多くなってきた。
言葉は悪いが、当時の僕は、9番打者はあまり打席が回ってこないし、期待のされ方も薄い、と思い込んでいた。
そんな僕からすれば、打順を上げられたこの起用で、意気に燃えないわけがない。
一般的には、出塁率が高くて足の速い選手が1番を務める。
2番に関しては、ときには自分を犠牲にしてランナーを進めたり、相手の投手に球数を多く投げさせたりと、「つなぐ」役割が求められる。
つまり、どうすれば得点が入り、どうすれば相手が嫌がるかを、常に考えなければならない打順が2番なのである。
そのため、野球をよく知っている選手や、監督から信頼されている選手が2番を任されることが多い。
新チームでケガをしていたとき、腐らずにスコアブックをつけていたことが評価につながったかどうかはわからないが、僕は期待をされているとプラスに解釈した。
それが奏功したのだろう。僕はやりがいを感じながら結果を残し続け、いつしかレギュラーを不動のものにしていった。
前にも述べたように、大阪での春の大会は他府県と異なり、夏のシード権は関係ない。
会場もグラウンドを持っている高校が提供し、準決勝や決勝は日生球場が舞台となっていた。
PL学園では主力の調整や試用、エースの温存などを行い、そんなに重要視はしていない大会だ。
負けるというイメージはなかったが、現実は秋季大会の決勝でも対戦した市岡高校の前に、あっさりと敗退してしまった。
ちなみに、この市岡高校も先のセンバツに出場していて、1回戦で宮崎の日南学園に延長戦で敗れているものの、実力は折り紙つきだ。
同じ大阪の高校として、夏の甲子園に行くためには、避けては通れない関門である。
試合後、僕らは選手だけのミーティングをおこなった。これは異例のことだ。
「ここで負けたのは、神様からのお告げや」
「夏は絶対甲子園に行こう!」
負けたことによって、自分たちを客観的に見つめ直すことができたのは僥倖だった。
各々が意見を発表しながら、夏に向けて気持ちを一つにしていった。
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