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22.冬の練習を糧に、いざセンバツ

PL名物「冬の練習」スタート

年は明けて1994年、PLに入って初めて迎える新年。
どの顔も、「帰省」で英気が養われているようだった。
そしていよいよ、PLの3大名物のひとつ冬の練習」が始まった。
「犬より走らすで!」
この言葉に完全にビビっていたが、気持ちはフル充電されている。なんとかやってやる、という気概が充満していた。
「ちょっとやそっとじゃ、へこたれへんで」
ところが、その練習量は予想を遥かに越えていた
リタイアこそしなかったものの、初日からフラフラになった。翌日はもっとひどく、筋肉痛で足も腰もパリパリに張っている。
一体何をしたらこうなるのかというと、こんな感じである。

毎日走り続けた冬のトレーニング

まず、ランニングメニューだけでもかなりの種類があった。

そして何より問題なのが、質と量だった。
「100mダッシュ17秒以内を20本」
「5周走6分以内5本」
このように、モンスター級のメニューが容赦なく続くのだった。

サーキットメニューは、もっと最悪だった。
腹筋だけでも10種類以上。背筋やスクワット、バービー、腕立て伏せなど、無数のメニューをこなしていかなければならなかった。
気分転換にエアロビクスも取り入れていたが、一瞬の息抜きになるどころか、意外とキツい。
八尾フレンド時代にも冬の練習を経験していたが、比較にならないくらい苦しかった。
「甲子園決まってなかったら、これより全然キツいで」
当時の2年生が、そのようによく言っておられた。
「これよりキツいって、どんなんやねん。死んでしまうわ」
想像しただけで貧血になりそうである。
そんな毎日が続き、僕らは来る日も来る日も犬のように走り続けた

アルプス席に渦巻く応援と嫉妬の心

2月1日、正式にセンバツ出場の発表があった。
僕らは、やっと冬のトレーニングから解放され、野球部らしい練習内容にシフトしていった。
この時期、ちょうどリレハンメルオリンピックが開催され、「原田選手の失敗ジャンプ」や「荻原選手たちのノルディック複合団体金メダル」などの話題で世の中は盛り上がっていたが、僕にはゆっくり観戦できるほどの余裕はなかった。
甲子園のベンチに入りたい
当然そういう気持ちが強かったので、それを目標に設定した。
けれども、秋のメンバーに入れなかった選手が、センバツのメンバーに入れる程、現実は甘くない。
たとえメンバーから外れても、今後その挑戦が必ずプラスになると信じて練習に励んだ。
春休み、センバツが開幕した。僕は、またしてもメンバーから外れた
チームは1回戦、2回戦、3回戦と勝ち進んでいった。
特に2回戦は、1回戦江の川高校を相手に完全試合を達成した金沢高校中野真博投手との対戦で注目を浴びた。
もっともPL先頭打者の大村さん(現千葉ロッテ・サブロー)が、あっさりセンター前ヒットを放ってしまって、「いつランナーが出るか」という観客の興味を削いでしまったのだが……。
僕は、どの試合もアルプス席から懸命に声援を送っていた。
がんばれという気持ちとは裏腹に、プレーしている選手の姿が眩しく、羨ましい気持ちも湧き上がってきた。
降りそそぐ春の陽光の下、精一杯のエールを送る自分と、激しい嫉妬心に包まれている自分が、同居していた。

おじいちゃんの死

センバツ期間中、悲しい出来事があった。
大好きだったおじいちゃんが亡くなったのだ。
慌てて家に帰った。
「幸太、いつ甲子園出れるんや。観にいくからがんばれよ」
そうやって、いつも僕のことを気にかけてくれていたのに、晴れ姿を見てもらえないままのお別れとなってしまった。
「なんでPLが甲子園出てんのに、幸太が出てへんねん」
「甲子園で試合してんのに、なんでおまえがここにおるんや」
親戚からも、そんなことを言われていた。
「メンバーに入られへんかったから……」
そう返答するのが、何より辛く悔しかった。
PLが準決勝で智辯和歌山に負けたのは、その直後のことだった。
優勝したは、PLを破った智辯和歌山だった。

23章につづく

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