11月、松井稼頭央さんが西武ライオンズからドラフト3位で指名を受けた。しかも内野手としてである。
PL学園ではピッチャー以外のポジションについたことがないのに、野手としての才能を見抜くあたりは、さすが西武である。
松井さんは、八尾フレンドと同じ地区のボーイズリーグ、「若江ジャイアンツ」のご出身。地元も僕の隣の校区で近かったこともあり、比較的よく話しかけていただいた。
トレーニングセンターでもよく見かけたが、とにかく筋肉がすごい。惚れ惚れするような肉体美である。
身長は僕とそんなに変わらないが、バスケットボールのリングに手が届くジャンプ力や、バックスクリーンに当ててしまう程の遠投力など、総合的な身体能力は並大抵のレベルではなかった。
松井さんとは、こんな思い出がある。
当時、ボクシング界では、「浪速のジョー」こと辰吉丈一郎が活躍していた。松井さんもファンのひとりとして、彼のテレビ中継があるときは、高ぶる気持ちを1年生で近しかった僕に向かってぶつけてきた。
僕がサンドバッグの代わりになって、松井さんのパンチを受けるわけだが、それがめちゃくちゃ痛い。
もちろん手加減してくださっているのだが、あの筋肉でラッシュをかけられると一溜まりもなかった。
いじめられているわけでなく、かわいがっていただいてのことなので、「痛いです、痛いです」と言葉を連呼しながら、僕は心の内では嬉しがっていた。
帰省直前の12月半ば、3年生が退寮した。
みなさん、大学、社会人、プロへと、それぞれ思いの道に進まれた。
一番多かったのは、東都大学リーグ連盟に所属する大学への進学だった。
「人気の六大、実力の東都」
大学野球界では、俗にそう表現される。その理由のひとつは、入れ替え戦があるため、よりシビアな環境でのプレーを余儀なくされるからだと言われている。
当時の僕は、PLのレギュラーメンバーにも入っていなかったので、正直自分の進路のことは、あまり深く考えていなかった。
それが2年後、この東都大学リーグ連盟に所属する大学に進学できようとは、このときは夢にも思わなかった。
いよいよ待ちに待った帰省の日を迎えた。
「近くて遠い」自宅に帰る僕の足取りは、、急く気持ちを抑えきれず、自然と足早になった。
およそ9ヵ月ぶりの我が家は、勝手知ったる懐かしい面影を残していた。
玄関を開けるだけで、思わず頬がゆるんでしまう。
「ただいま……」
「……おかえり」
久しぶりに会う気恥ずかしさから、お互いそれ以上の言葉が続かない。
単に両親は、やつれてしまった僕を見て、言葉を失っていただけかもしれない。それでも両親は、僕を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……よう頑張ったな。ゆっくりしいや」
母親が、長く重い沈黙を破った。
少したくましくたったつもりだったが、親の前では大いに甘えてしまった。
洗濯も炊事もできるようになったので、母親の負担を減らしてあげようとも思っていたが、結局は何もしてあげられなかった。
もちろん両親は、そんなことを望んでいなかっただろうが……。
何気なく会っていた親戚や友達も、実際再会してみると、不思議なくらい気持ちが落ち着かなかった。
それは、みんな言うことが同じだったからである。
「がんばりや。応援してるで」
予想以上の反響だった。
「そうや! 俺はPLに野球しに行ってんねや。がんばらなあかん」
寮生活を乗り越えたぐらいでは、誰も認めてはくれない。レギュラーで甲子園に出ることこそ、みんなが望むことであり、僕の夢でもあったはずだ。
帰省して、それに気付かされた。心が洗われて、ようやく目が覚めた。
帰省して本当によかった。
年が明けたら、厳しい冬の練習が始まる。長距離に自信がないとか言っていられない。ここからが本当の正念場なのだ。
心の充電が完了し、気分をリフレッシュさせた僕は、意気揚々と再び寮に帰ってきた。
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