相変わらず厳しい寮生活は続き、ついに僕らの代で脱落者が出た。
「全員で甲子園へ!」などと、青春ドラマ的きれいごとをいうつもりはないが、やはりショックな出来事だった。
瞬間的には、内心ライバルが一人減ったと思う面もあったが、そのぶんの「仕事」は容赦なく増えるので、心は一層重くなった。
たとえ気分が沈んでいたとしても、日々のカリキュラムをあくせくこなさなければならず、時間は刻々と過ぎていった。
やがて春の大会が始まり、練習にも緊張感が増してきた。
ウォーミングアップやバッティング練習のときは、リラックスのためにグラウンドに音楽が流れた。しかしそのせいで、入寮から夏場にかけての辛かった時期に流行った曲は、今聴いても当時を想起してしまい胸がぞわぞわと騒ぎだす。
当時流行った「夏の日の1993」は、今でこそカラオケなどで歌うようになったが、まさに一番しんどいときにかかっていた曲なので、つい最近までは聴くだけで心が乱れたものだ。
2軍で戦う私学大会も並行して始まり、憧れのPL学園のユニフォームが、僕の目に眩しく映っていた。何人かの同級生も私学大会のメンバーに選ばれていたから、余計に羨望のまなざしが強かった。
「うらやましいなぁ。いつになったら着れるんやろか。そもそもユニフォームなんか、着させてもらえるんかいな」
私学大会のメンバーに入れないことは、3軍を意味する。
悔しさや焦りは当然あったが、100%野球に打ち込める環境ではなかったので、我慢するしかなかった。
この年の5月15日に、Jリーグが開幕した。
世間ではサッカー人気に火がつき、野球人気に翳りが出始めていると取り沙汰されていた。
そんな風評もどこ吹く風、僕ら野球人はますます野球に夢中になっていくから不思議だ。
さて、春の大会が終わって6月になると、約2週間の強化合宿が始まった。
僕らはグラウンド整備をいつもより長く時間をかけて、ふわふわの土に仕上げた。100本ノックなどでダイビングする機会が多くなるので、ケガ防止の意味で土を柔らかくしなければならないのだ。
練習時間も長くなり、どんどん質も上がっていった。夏に向けて本格始動というわけだ。
強化合宿ではレギュラー陣がしぼられていくため、グラウンドでも寮でも、ピリピリしたムードが続く。説教が一番多いのもこの時期だ。
そして、レギュラーを外されたメンバーは、当然ながらレギュラーのために全面的なサポート態勢に入ることとなる。
たとえ3年生でも、レギュラーを外されれば、率先してバッティングピッチャーを買って出たり、夜間の自主練習でレギュラー陣のために自分のトレーニング時間を犠牲にして協力したりと、精一杯サポートしていた姿が印象的だった。
自己犠牲を率先する3年生の姿を見て、高校生活最後の夏にかける想いがどれだけ大きいかを学んだ。
そして、自問してみた。
「僕は今、チームのために何をすべきなのか? いや、何ができるのか?」
当時の僕には、先輩方が余計なことを考えずに野球に打ち込める環境を作ることと、付き人の世話をきっちりすることぐらいしかできなかった。
微力かもしれないし、野球に直接関係ないかもしれないが、そうしたいという熱く純粋な気持ちにさせられた。
僕の付き人はショートの正レギュラーの阿知波さんという方だった。
愛知県出身、ボーイズリーグの東海チャレンジャーというチームを経て、PLに入学した。1年生からレギュラーメンバーに選ばれ、「立浪2世」と呼ばれていた。甲子園も経験されている。
物静かな方で話す機会はあまりなかったが、とても優しく接していただいた。
自主練習も、僕の膨大な仕事の量を配慮してくださり、ほとんど2年生の付き人の方にお願いされていた。
たまに僕も手伝いをさせていただいたが、全く苦にも負担にもならなかった。
「阿知波さんのためなら何でもする」
心底そう思っていた。
もし阿知波さんが、この拙文を読んでいただけているのなら、改めて伝えたい。
「本当にありがとうございました」
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