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14.中村順司監督の驚異の戦績

PL学園のコーチングスタッフ

当時のPL学園野球部のコーチングスタッフは3人。
中村順司監督(現名古屋商科大学監督)、河野有道コーチ(現PL学園野球部監督)、清水孝悦コーチ、全員がPL学園の卒業生だ。
中村監督は言わずと知れた名監督で、甲子園通算勝利数58勝という大記録を持たれている。
現在、智辯和歌山高校高嶋監督がこの記録に並んだが、明らかに違うところは実働年数だ。
1981年のセンバツ大会から指揮をとり、吉村さん(巨人、現コーチ)、西川さん(法大→元南海)らの活躍でいきなり優勝
つまり、1978年に「逆転のPL」といわれて一世を風靡した、木戸さん(法大→阪神、現コーチ)、西田さん(法大→元広島)のときは、まだ就任前だったのだ。

PL無敵時代の幕開け

中村監督が就任した翌年の1982年の春。再びセンバツ大会に出場したPL学園は、連覇を達成
1983年、「KKコンビ」が初めて甲子園に姿を見せた夏、徳島の池田高校の3季連続優勝の夢を打ち砕き、自身にとって夏初優勝
1984年のセンバツ大会は惜しくも準優勝中村監督が甲子園で初めて負けた瞬間だ。
よくよく計算するまでもないが、決勝で東京の岩倉高校に敗れるまで、実に甲子園での勝率は10割だったということになる。
同年の夏、春のリベンジと夏の連覇に挑んだが、これもまた決勝で茨城の取手二高校に屈し、2季連続の準優勝
桑田さん、清原さんが3年生になった1985年春。春夏連覇確実とまでいわれていたが、準決勝で渡辺智男を擁する高知の伊野商業に不覚をとり敗退
KKコンビが5季連続の甲子園出場を果たした最後の夏、決勝で山口の宇部商業にサヨナラ勝ちで優勝。有終の美を飾った。
桑田さんは戦後最多の甲子園通算20勝を達成。清原さん甲子園で通算13本のホームランをマーク。2度と破られることのない、不滅の大記録だろう。
1986年は、センバツのみ出場。残念ながら、一回戦で静岡の浜松商業に惨敗した。
1987年、遂にそのときは来た。史上4校目の春夏連覇を達成だ。
立浪さん(現中日)、橋本さん(元巨人)、野村さん(元大洋)、片岡さん(同大→元日本ハム→元阪神) 、一つ下の学年では宮本さん(同大→プリンスホテル→現ヤクルト)が活躍。
春は東京の関東一高、夏は茨城の常総学院を下し、PL学園の強さを不動のものにした

「打倒PL」の潮流で苦戦

しかし、ここから暗黒の時代が始まる。
周りの高校もレベルを上げ、「打倒PL」を目標にぶつかってきた。
その間、野々垣さん(元広島)、入来さん(亜大→本田技研→元巨人)、坪井さん(青学大→東芝府中→元阪神→現日本ハム)などの選手を輩出したが、予選での敗退が続き、しばらく甲子園でPLの野球を見ることはなかった。
次に甲子園に姿を見せたのは1992年の春
3年生に今岡さん(東洋大→現阪神)、2年生には松井さん(西武→現ヒューストンアストロズ)がいたが、準々決勝で東海大相模に負けた。
僕が2年生のときの1994年の春は、準決勝で敗退。大村さん(現ロッテのサブロー)、宇高さん(近大→元近鉄)らが活躍するも、智辯和歌山にあと一歩及ばず。
そして1995年は、僕らの年代。この辺りは当事者であるため、書くことが尽きない。別の章で紹介することにする。
1996年は、前川(元近鉄)の時代。他に荒金(現ソフトバンク)や、前田新吾(明大→元中日)がいたが、夏の甲子園で広島の高陽東高校に敗れた。
そして中村監督ご自身、最後の大会となった1998年の春。松坂大輔(西武→ボストンレッドソックス)の横浜高校の前に準決勝で敗退。
勇退を勝利で飾ることはできなかったが、就任から引退までの17年間甲子園に出ること16回。そのうち春3回、夏3回の優勝準優勝も、それぞれ1回ずつという輝かしい記録を残した。
通算成績は58勝10敗。どれだけすごい成績かは、この勝率をみれば一目瞭然であろう。

15章につづく

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